小懸 ―真田源三郎の休日―
予てより再三に渡り申し上げてまいりましたが、この物語はフィクションです。
従って、登場する人物・団体・地名などは、歴史上のそれらとは別物と思ってご覧下さいますよう、お願い申し上げます。
十一
二つの声から「三九郎殿」と呼ばれたその若武者は、忙しく首を上下に振って、二つの声の主の顔を見比べました。
降ってきた声……すなわち前田慶次郎殿のいる上方を見た時の顔は、確かに恐れてはいるようでありましたが、なんと申しましょうか……そちらから叱られるのは致し方ないという諦観じみたものが混じっておりました。
ところが、目の前の声の主、つまるところ我が妹の於照の方を見た時と申せば、恐れ慄いた上に、驚愕を塗りこんだような、見ているこちらがかえって吃驚するほど、真っ白な顔色をしておいでたのです。
このときの於照と申しませば、頭から湯気を噴き出さんばかりの勢いで、煤で汚れた頬を紅潮させておりました。
かつてないことです。
何分にも、この我父お気に入りの末娘は、父親が何より大事に、さながら手中の珠のように大切に育て上げた箱入りでありました。
我が妹ながら、賢く、おとなしく、引っ込み思案で、なにより目上の者には従順な、いわば「これ以上ない良い姫」でありました。
それが激しく立腹して、耳割くような大声を上げたのです。
そのさまを例えて申しますれば、さながら竈の中の熾火のようでありました。
触れたが途端に、己の意思とは無関係に手を引っ込めてしまう、熱い熱い炭火です。
件の三九郎殿――すなわち、滝川三九郎一積殿も、大慌てで、私めがけて打ち下ろしたあの大刀を引っ込めました。
若武者はオロオロとしながら於照の様子をうかがいました。さすれば、於照めは、自分よりも大柄なその鎧武者をキッとにらみつけますと、
「敵と味方の区別もつかぬ御身でありますれば、此度の戦も、たいそう危ういものでございましょう。情けのうございます。例え
妾
《
あたくし
》
が御身の御武運を祈ったところで、御手前の御命は無いものとお思い召されませ!」
大喝といってよいでしょう。怒鳴られる当人ではないはずの私でさえも、肝が縮み上がる思いがいたしました。
「いや、これは主が身を守りたいとの一心でしたことであって……」
ようやく小さく反論せんとする三九郎殿でありましたが、
「問答御無用にございまする」
於照はピシャリと言い切りますと、ぷいと顔を背けました。
その、下唇を突き出した、可愛げな顔を私の方へ向けますと、
「
大兄
《
おおあに
》
様、大事なお勤めの途中に、女子供の相手をなさる余裕もございませぬでありましょうが、
妾
《
あたくし
》
が喜んでおりますことを、どうかお許しくださいませ。まこと、ここまで参りまする間に、寿命が十年は縮む思いでございました。こうして家族の顔を見ることができて、心が晴れました」
泣笑しながら申しました。
その後ろで、三九郎殿が顔を紙のように白くして、
「兄様……照殿の兄上殿……」
聞こえるか、聞こえぬかというような小さな声で呟きつつ、上目遣いで、少々恨めしげに私の顔を見ておりました。
そこへ、
「何だ、もう婿になった気でおいでか!」
頭の上からカラカラと笑う声が振って参りました。
滝川三九郎殿が顔を上げました。白かった顔色が、見る間に赤く変わってゆきます。
「違うぞ宗兵衛、断じて違うからな! 我はただ、於照殿の兄上、と言ったまでだ」
その言葉が終わらぬうちに、今度は、樹の枝木の葉が激しく触れる音が振って参りました。
振り向きますと、私の背後の地面の上で、黒鹿毛の馬の四足の足元にもうもうとした砂塵が巻き上がっているのが見えました。
ドスンという、重い物が――つまり、肥馬一頭と武者一人が――高みから飛び降りて着地した音が聞こえたは、その後であったような気が致します。
前田慶次郎殿はさも楽しげな顔で、
「左様で御座るよ、三九郎殿。主は件の茶会の折には厩橋にご不在であったから、その顔をご承知ないのも致し方なかろう。これが噂の真田源三郎信幸殿じゃ。ご無礼の無いようになされませい」
馬上から私の背を平手で殴るように叩くのです。私は咳き込みそうになるのをこらえながら、
『何が噂か』
と心中で独り言ちりました。
良きにつけ悪しきにつけ、私のことを言ったものであれば、その噂とやらの出処は慶次郎殿ご当人より他にありません。
「滝川の方々に妙なことを吹きこまれては困ります」
私は本心そう思い、そのまま口に出しました。聞かれて困るとは小指の先ほども思っておりませんでした。
慶次郎殿は不遜にも顎で三九郎殿を指し示すと、
「案ずるな。アレの
祖父様
《
ジイサマ
》
が主の父親のことをことさら大仰に、面白可笑しく触れ回るよりは、よほどに真っ当なことを言ってやっておるよ」
「よほどに真っ当に、ことさら大仰に、面白可笑しく、ですか?」
私は覚えず笑っておりました。滝川左近将監一益殿が真田昌幸のことをご周囲に言い散らかしておられるさまも、前田慶次郎利卓殿が不肖私のことを過分な物言いで言い触らしておられるさまも、悲しいかな可笑しいかな、ありありと想像できました。
「うむ、そのとおりに、な」
思った通りの答えが返って参りました。
しかしながら、そうおっしゃって大笑なさるであろうという予想は、当たりませんでした。
フと眼を針のように細くして、
「織田上総介様御生涯で、上方も関東も真っ暗闇だ。多少は明るい話をせねばならん」
その場にいた者共すべてが息を飲み込みました。
ようやく血の気が戻っていた三九郎殿の顔色が、また青白く変じてしまいました。
いえ、顔色を返事させたのは三九郎殿ばかりではありません。
上州からやって来た百姓に化けた人々の顔色も、信州から百姓に化けてやってきた我々の顔色も、その色の濃さに多少の違いはあっても、押し並べて皆、青くなったのです。
そうでありましょう?
慶次郎殿が漏らした「そのこと」は、まだ信濃衆には知らされていない事実です。無論、真田家の者は「知らない事」になっている話です。
なぜ知らないのか。
滝川左近将監一益が「明かさぬ」と、お手勢の内にのみ「秘匿する」と決めたことだからです。
手元に置きたいと願ってやまぬらしい、真田『
鉄兵衛
《
かねべえ
》
』昌幸にすらも明かそうとなさらない、秘密中の秘密でありました。
それを、よりによって一族衆である前田利卓が、漏らした。
これは左近将監様のご指示があってのことか、あるいは前田宗兵衛利貞の独断か。
薄く閉ざされた瞼の隙間からは、その奥の眼の色を垣間見ることすら出来ず、いまこの大兵の武将が今何を考えているのかを推し量ることがかないません。
私にわかったことといえば、慶次郎殿がわざわざ目を閉じてまで、心中を察せられることを避けているのだ、ということばかりです。
私は慶次郎殿に正対し、じっとそのお顔を見つめました。
彫りの深い、色艶の良い、しかし旅塵がうっすらとまとわりついた、微かに疲労の見えるお顔でありました。
「それで……慶次郎殿はどうなさるのですか?」
「『儂』がどうするか、だと?」
そう尋ね返す慶次郎殿の目に、困惑の色が浮かんでいるように思われました。
それも、疑念や懐疑ではない困惑です。わずかに喜色が混じっているようにも見受けられました。
「今の儂がどう動くかを、今の儂が決められようはずもない。儂は滝川一益の家来だからな……今のところは」
三度言った「今」という言葉は、その全てが、他の言葉よりも強い音として、私の耳に突き刺さりました。
薄目の奥の目の玉をわずかに動かすと、慶次郎殿は視線を私から外したのです。細い視線の先には、滝川三九郎一積殿がおいででした。
私はその視線を追いませんでした。変わらず慶次郎殿の目を見、視線が合わぬのを知りつつ、問いました。
「今のところ、でございますか?」
努めて穏やかに申したつもりでしたが、少しばかり……ササクレ程度のものではありましたが……棘のようなものがあったやも知れません。
慶次郎殿はその棘さえも愛おし気に、うっすらと微笑して、
「ああ、今のところ、な」
しかし、視線を私に戻すことはありませんでした。
私は己の肩越しに、ちらりと滝川一積殿の様子を窺い見ました。
面頬の口の隙間から見える紫色に変じた唇が、ヒクリ、ヒクリ、と痙攣をしています。
何か言いたいのに、言葉にならぬ。それがもどかしく、苦しくて堪らぬのでありましょう。
喘ぐように、
「宗兵衛……貴様……」
と声を漏らすのが精一杯といったところでありました。おそらく続くのであろう、
「よもや裏切るつもりではあるまいな!?」
という、憤りと不安と否定を願う懇願の言葉が出てきません。
「世の中、何が起こるかわかりませぬ故」
前田慶次郎殿の瞼が、大きく開きました。眼は澄み渡っており、邪心のようなものは針の先ほどもありません。
「三九郎殿の祖父殿が儂を必要となさる限り、儂は付き従いますよ。ただ、儂を『いらぬ者』とおおせなら、儂は喜んで出てゆく。ま、結局それがしがどう動くかは、彦右衛門の伯父御がどう動くかによって決まるということですよ」
「爺様が宗兵衛を手放すはずがないではないか」
三九郎殿が吐く安堵の息の音は誰の耳にもはっきりと聞き取れたことでしょう。慶次郎殿の眼の色が、わずかに曇りました。
確かに、滝川一益が戦を続ける限り、天下一の槍使い前田利卓を手放すことはありえません。
しかし、戦うことをやめてしまったならどうでありましょうか。
例えば、偉大な主人・織田信長を失ったことによって、己が戦う意義をなくしてしまったなら――。
滝川一益という武将が、六十という歳相応に老けこんで、どこぞの山中か、あるいは寺社のような静かな場所に引きこもったなら。
その時、この大柄な槍使いは……前田慶次郎という武人は、人も通わぬ静かな隠れ家に留まり続けることができるでしょうか。
戦いが絶え滅びてしまった世であるならば、問題はありません。わざわざ自分で火種を起こし、焚き付け、煽るような人ではありません。――むしろ、それ故に「一国の主」には向かないとも云えますが――。
ともかく、世が太平であるならば、この教溢るる方は、歌を謡い、舞を舞い、茶を点て、書を読み、詩作に耽る暮らしを不満なく送られるに違いはありません。
しかし、太平の世など、夢の夢の絵空事でありました。
誰かが誰かと槍を合わせている。
馬が走り、鉄砲が火を吹いている。
幾万の命が燃え、そして消えてゆく。
その中で、この仁がじっと座っていることなど、果たしてできましょうか。
外には戦がある。
硝煙が臭い、鬨の声が聞こえたなら、この方はきっと、嬉々として槍を掻い込み、あの黒鹿毛の胴を蹴り、背後を一瞥することもなく、矢のように飛び出してゆくことでしょう。
前田利卓は戦いができる場所に居続けることを願っている。
戦がしたいと願っている。
私は何やら背中に嘘寒いものを感じました。
「それでは、上州に戻られるのですね」
その時、そこに戦があったのです。慶次郎殿はニカリ、と笑われました。さながら、隣家に遊びに出かける子供のような笑顔でした。
「滝川一益には信濃で戦をするつもりが無いからな。……これは儂が請け負うぞ」
黒鹿毛がゆっくりと歩み始めました。私の横を通り過ぎ、三九郎殿の眼前で止まりました。
「馬上より失礼。さあて若様、おうちに帰りましょうかね」
慶次郎殿の大きな手が、滝川三九郎一積殿の襟首に伸びたかと思うと、その消して小さくはないお体がふわりと宙に浮きました。
「嫌だぞ、宗兵衛! 俺は照殿をお父上のところまで送る!」
三九郎殿は駄々子の如く手足を打ち振るいましたが、その程度のことで慶次郎殿が手を離すことなく、また馬も歩みを止めることがありません。
「どのお父上ですか?」
からかうような口ぶりでありました。襟首から吊り下げられた三九郎殿が口をへの字に曲げて、
「照殿のお父上だ。真田安房殿は、つまりは俺のお父上でもある」
すこぶる真面目に答えを返すのを聞くと、慶次郎殿は馬上からチラリとこちらへ顔をお向けになりました。
申し訳なさ気な苦笑いをしておいででした。私も苦笑いで返しました。
傍らの於照は、両の袖で顔を覆うようにして、
「
妾
《
あたくし
》
は、存じ上げません!」
などと申しましたが、夕日よりも赤く変じた耳の先までは隠しきれぬものでありました。
慶次郎殿はカラカラと乾いた声でお笑いになりました。
「先方からは半ばお断りのごときお返事を頂戴して、そのうえお相手の姫君からはあのように呆れられておるというのに、うちの若君のしつこいことといったら! まったく
祖父
《
じじ
》
殿によく似ておいでだ」
三九郎殿のお体は、馬の鼻先を上州に向けた馬の背に載せられています。
「しつこくて何が悪かろうか! しつこいからこそ、爺様は、亡き御屋形様よりお預かりしたこの関東を守り通そうというのだ! そのために、於照殿には暫時戦火の及ばぬ場所へ退いてもらうという事であろうが」
こちらへ振り返った三九朗殿の顔には、決死の覚悟が浮いておりました。
泣き出しそうな赤い目を一度固く閉じ、また、握り締める音が聞こえてきそうなほど、手綱を強く握りしめました。
馬腹を軽く蹴ると、馬は小さく足を前へ出しました。
上州へ、上州へ。
「暫時だ、暫時! 誠に僅かな間のことだ」
強情な若武者はこちらへ背を向けたまま、叫びながら峠を下ってゆきました。
於照の、顔を覆う両の袖の下から、
「殿方は皆、嘘吐きです」
小さくつぶやく声がしました。
私は何も言ってやれませんでした。見るのも辛くて堪りません。
弱虫の私は顔を上げて、歩き出さずにいるもう一人の強情そうな武者を見ました。
前田利卓という老練な武将は、
「うちの左近将監は、上州の中だけで抑えこむ算段でいるようだが、そう簡単には行かないだろうな」
他人事のように仰り、ふわっと微笑まれました。
「わが父には、どのように伝えればよろしいですか?」
私の問いに対して、
「御屋形様後生害のことかね?」
慶次郎殿は少々意地悪そうな眼差しをされました。私は思い切って、申しました。
「いえ、北條殿との戦のことです」
つまり、織田信長の死のことなど、我らは疾う知っている、と暗に打ち明けたのです。
慶次郎殿はわずかにも慌てることなどありませんでした。慶次郎殿も真田が影でコソコソと何やら動き回っていることなど、おそらくは承知だったのでしょう。
それはつまり、滝川一益様もある程度はご存知であったに違いないということであるのですが、
「そういうことは、伯父御が考えることであるし、それなりの考えがあればそれなりの使者を走らせるだろう。どちらにせよ、儂のすることではないな」
と慶次郎殿が仰せになったということは、滝川様は知っていて黙認、あるいは黙殺し続けるという判断をなさっておられるのでありましょう。
「では、慶次郎殿のなさることといえば?」
「なぁに、儂は戦しかできぬでな。儂はただ、目の前にいる敵を倒す。それだけしかできぬ、不器用者さ」
その言葉には、湿っぽさは微塵もありませんが、それでも何やら悲しげではありました。
「目の前の敵が、友であっても……倒されますか?」
私は心中恐る恐る、しかしそれを出来るだけ表に出さぬようにして、そっと訊ねました。
「ああ、倒すよ」
前田利卓は冷たく低く言いました。ギラリとした鍛鉄の塊が、音もなく風を切ります。
「敵になるのかね?」
繰り出された槍の穂先は私の鼻先を指し、その三寸先でピタリと止まっています。
「そういうことは、真田昌幸が考えることでしょうし、考えがあればそれなりの使者をよこすでしょう。どちらにしても、私が決めることではありません」
「だろうな」
槍先が私の眼前からすぅっと消えました。
尖った恐怖の代わりに、私の胸に満ちたのは、高らかな笑い声でした。腹の底から溢れ出た呼気で天地が割れるような哄笑でありました。
一頻り笑うと、前田慶次郎利卓は、ふっと息を吸い込み、真っ直ぐな眼差しで私を見つめました。
「ま、そういう時が来たなら、互いに正々堂々とな」
「はい」
私はなぜか笑んでおりました。真剣勝負の、命のやり取りをする約定を交わしているというのに、なぜか嬉しく思えたのです。
恐ろしいことです。実に、恐ろしい。
「では、又な」
そう短く言い残して、前田慶次郎は峠を下って行かれました。
戦の只中へ、悠然と進んで行ったのです。
「なんとも恐ろしいお人だな」
いつの間にやら崖上から降りてきたものか、禰津幸直が私の背で、ポツリとこぼしました。
「そうだな。敵には回したくない」
私は本心そう思っておりました。そして同時に、あの黒鹿毛に向かって馬を突き進める自分の姿を、憧れに似た妄想に心震わせていたのです。
そして、私たちも峠を下って行きました。上野へ背を向けて、血の匂いのしない方向へ……。
その先の話は、又別の折にいたしましょう。
滝川の方々と北條の方々が如何様に戦い、そして滝川一益が如何様に落ちてゆかれたか……粗方のことは、あなたもご存知でありましょうから――。
はて、解らぬ事が一つと仰せですか?
厩橋の事、と……?
ああ、私が命じて於照を助け出しに向かった者たちのことですか。
出浦対馬のような種類の男からすれば、
「負けぬ戦での無駄足踏みなどは、むしろ喜ばしきこと」
といった具合で、
「まあ、それでも何もせぬというのはつまらぬものですから、ついでの事に、他の信濃衆がお預けになった証人の皆様と、ちょっとした遊山をいたしましたよ。行き先は、無論信濃でございますが」
などと、やはりしれっとした顔で申したものです。
垂氷
《
つらら
》
が
三ヶ月
《
みつき
》
ばかり口も聞いてくれなかったというのも、言わずもがなのことでありましょう。
まあ、つまり、そういうような次第だったのですよ。
終わり
【
前
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