小懸 ―真田源三郎の休日―




 私たちの一族郎党は四月の半ばに厩橋を出ました。
 父があらかじめ滝川一益様に申し出て(というか、むしろ「手を回して」とでも言い表した方が良い気がするのですが)、皆で一旦は砥石まで戻り、その後各々が行くべき場所へ向かう許しを得ておりましたので、我々は列をなして砥石へ向かういました。
 山の麓では暑いほどの陽気でしたが、高い尾根にはまだ雪が残っております。山肌をひんやりとした風が吹き下ろしてくれば、寒ささえ感じました。
 上州街道を鳥居とりい峠を越えて進み、真田郷を経てたどり着いた砥石といしの城は、小さな、しかし堅牢な山城でした。
 東太郎山の尾根先の峯の伝いに四つの曲輪があり、これを合わせて砥石城と呼び習わしています。
 細かく言えば、尾根の一段低い所を開いた場所が本城、そこから北側の出曲輪を枡形ますがた城、南西の山端には米山こめやま城、そして、南の一番高い場所にあるのが砥石城となります。
「相変わらず退屈な城よな」
 砥石の矢沢の大叔父が六十の老顔を綻ばせて言いました。
 天文庚戌(十九年)と言いますから、武田滅亡の天正壬午(十年)からさかのぼること三十と二年程昔、頼綱よりつな大叔父は信濃衆の一人としてこの城においででした。……村上義清殿の旗下として、武田と対峙していたのです。
 この頃、武田は、信府の小笠原氏を攻め落とし、南信濃から中信濃を手中に収め、その勢いのまま北信濃まで手に入れようとなさっておいででした。
 これに立ちはだかったのが、村上義清殿でした。
 実を申しますと、その前年に義清殿は上田原という地で信玄公を打ち破っています。
 この戦について語り出すと大変長くなりますので、ここでは詳しい話は出来ません。ただ「武田は散々に負けた」とだけ申しておきます。
 ですから砥石城攻めは、謙信公にとって意趣返しのためにも勝たねばならない戦もありました。
 私の曾祖父・真田幸隆ゆきたかはこの頃にはすでに謙信公の旗下に有りましたが、一族の内にはまだ武田に帰順していない者も多くいたのです。
 その筆頭が矢沢の大叔父殿でした。
 大叔父は祖父の直ぐ下の弟でしたが、ある小規模な戦闘に甲冑も着ずに飛びだして行き、敵方を殲滅させたといった(剰りにも無茶な)武勇を、諏訪神氏の流れを汲む矢沢頼昌殿が気に入り、養嗣子にと望まれたため、真田の本家と別れて信濃に残ったのだそうです。
 砥石での戦でも大叔父は「めざましい戦果」を上げられ、その「甲斐」もあって、武田は千余の人死にを出すほどの壊滅的な被害を被りました。
 かくて武田信玄は同じ相手に二度負けて、這々の体で逃げ出す結果となったのです。
「砥石とも戸石とも書くが、どちらにしても切り立ったこの岩場を良くも言い表しておる」
 頼綱大叔父は崖から身を乗り出して山裾を覗き込み、
「この山の所為であの時の戦は退屈きわまりない物となったのだ。武田の兵がこの山肌に貼り付いて登ろうとする所へ、岩の一つ二つ蹴り落としてやれば事済んだからの。まあ、つまらぬ戦であったよ。何分にも城が守るに良すぎて、我が武勇が発揮できなんだ。さても残念なことだ」
 大叔父殿は、カラカラと笑いました。一歩下がった場所に立っていた我が父は、苦笑いして、
「挙げ句に叔父御が勇躍しておったなら、今の我らは此度とは違う算段を立てねばならなんだろうな」
 ここで『今の我は無い』と言わないのが父らしいところです。父としてみれば、例えどんな状況に陥ったとしても、真田の家は残っているのが当たり前のことなのでしょう。
 武田相手に二度も大勝した村上義清殿ですが、その一年後にはこの城を負われました。
 真田幸隆の調略によって、です。
 祖父は砥石城の中にあった一族縁者に内応させて城を乗っ取ったのです。
 どのような調略が有ったのか、私は知りません。
 父によれば、祖父はその話を三男であった父には直接口伝することがなかったというのです。それ故父は、何も教えてやることができぬ、と言います。
 あるいは話を伝え聞いていたやもしれぬ父の兄たち、すなわち信綱のぶつな伯父、昌輝まさてる伯父も、私が十になる前に長篠の戦で討ち死にしています。
 調略された側でもある頼綱大叔父に聞けば委細が判りそうなものですが、
「なに、ちぃと兄者にそそのかされての。まあ、いくらか味方につくものを集めて、あとは少し戦らしいことをしたまでのことだわい」
 程度にしか話してくれぬのです。
 大叔父が「戦らしいこと」と言うと、それが文字通りの小規模な戦闘だとは思えないのが不可思議ではあります。
 経緯はともあれ、祖父は砥石城を奪い取りました。そしてその褒美として信玄公は、砥石城をそのまま祖父に与えたのです。
 以降祖父はここを居城としました。あるいは本城と考えたのでしょう。
 後年、真田の庄に新たに作った館ではなく、ここの山城で最期を迎えたのは、恐らくそんな理由からだと、私には思えるのです。
 我が父・昌幸はここで生まれ、七つで証人(人質)として甲府へ送られるまで暮らしました。
 父にとってはここが故郷そのものなのです。だからこの度も、どうしてもここへ戻ってきたかった。
 新たな主に仕えるに当たって、初心のある場所に戻りたかった。
 父は私などに心中を悟らせてはくれませんが、私が父のような生い立ちであれば、恐らくそうしたでしょう。
 ところで、「父のように」ではなく、私として生まれ育った今の私は、父のように「生まれ育った所」に戻りたいとは思っていません。
 甲府は懐かしい場所です。帰りたいと思うこともあります。ですが今、あの場所からやり直したい、とは思えません。
 全く我ながら不思議なものです。

 砥石の城櫓に立てば、南には上田平を、北東には真田の郷を一望できます。南東の方角に目を転ずれば、北佐久の土地を眺めることも出来ます。
 西を流れる神川かんがわが南に進んで千曲川ちくまがわと合流している様子が見えます。
 私が四方を見回していると、
「手狭、であろう」
 背後から声をかけたのは、父でした。
「兵も馬も武器も兵糧も水も、止め置ける領が少ない。山城はそこが不便だ。源三郎は、いかが思うか?」
 父は私の顔ではなく、眼下に広がる景色を遠く眺めておりました。
「私は不便というよりは、この城は位置が悪いと思います」
 私は父の、色黒で皺の深い、年相応以上に老けた顔を見ました。栗の渋皮が石塊になったような、固い顔つきをしています。
「そうか?」
「上田の平には近く、塩田の平が遠う御座います。あるいは、真田の庄に近く、川中島には遠い。沼田はまだしも、甲州、振り返って信府、さらに申しませば諏訪、木曽、あるいは、京の都には遠い遠い」
 私が地名を言うごとに、父の顔が歪んでゆきました。頬の辺りがひくひくと攣れ、奥歯でギリギリと音をたてています。そして、目尻がじわじわと下がってゆくのです。
 京の都、の辺りになると、父は堪えきれずに、弾けるように息を吐き出して、山が崩れるのではないかと言うくらい、大きく大きく笑いました。
 腹を抱えてひとしきり笑い終えると、また渋皮顔に戻って、
「さても、源三郎は強欲よ」
「はて、私はただ『遠い』と申したまでです」
 私は空惚けて答えました。その土地が欲しいなどとは……例え淡い憧れのような思いはあったにせよ……一言も発していないのです。
 父は渋皮顔のまま、
「儂もなにがどう強欲とは言っておらぬぞ」
 口元だけ僅かに微笑させました。

 私と弟の源二郎、そして頼綱大叔父は、着いた翌日にはそれぞれ、岩櫃、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。
 於照は、滝川様が厩橋の御屋敷を整備している都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。恐らくは、於照を手放したくない父の「手回し」があったためでしょう。
 岩櫃の城には立派な作りの館がありました。と言うのも、父はここに武田勝頼公をお迎えする腹積もりでいたためです。結局、勝頼様は御自害あそばしてしまいましたので、岩櫃の真新しい居館は、暫くは主のない状態でした。

 私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことです。
 信濃巫しなのみこであるとか、ノノウなどと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月もちづき千代女ちよめ殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねてきました。
 巫女言っても、ノノウ達は特定の社寺に属しているわけではありません。ノノウはご神体を携えて各地を遊歴して、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷をしたり、あるいは死者や神仏の口寄せをしたりするのです。
 田楽を舞い、傀儡くぐつを操って芸能をしてみせたりと、旅芸人に近い者達もいます。中には神仏に仕えるのではなく、男衆に一夜限りで仕えるような事をする者達もおりました。
 千代女殿は四十歳を少し過ぎた、白髪の多い、ふくよかなご婦人です。
 元は武田信玄公の外甥でもある望月盛時もりとき殿の奥方でしたが、盛時殿が八幡原の戦いでお亡くなりになって後、信玄公から「甲斐信濃二国巫女頭領」の任を与えられ、信濃小県禰津ねづ村でノノウの修練場を営んでおいでです。
 千代女殿の巫女道修練場には常時二〜三百の女衆が居り、巫女道の修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟を失った若い娘御でした。
 私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。
 まだ十にも満たない童女から、三十に近いとおぼしき者まで、様々年頃の女がいました。
 女衆は、神社の巫女のような一重と袴といった出で立ちではなく、それぞれに様々な柄の、丈の短い小袖を着ております。
 足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、妙に艶めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、
「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」
 うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。
 千代女殿が気恥ずかしげに
「修行の足りない者ばかりで」
 と頭を下げると、流石に娘達は神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。
「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。若い娘の笑顔は、男の心を開かせる。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。……今私も危うく余分なことを言いそうになった」
 私が言いますと、千代女殿は誇らしげに笑われました。
 甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がそのの妻となったのは、千代女殿自身の忍びの術が、すこぶる巧みであったためだと聞き及びます。
 その千代女殿の教えが、加持祈祷、呪術、薬石医術、神に捧げ人を惹き付ける歌舞音曲といった、巫女としての技術知識に留まる筈がありません。
 己が身を守るための武術を学び、並の男共と渡り合っても生き残れるほどの腕前となった者もおります。
 他の歩き巫女のように、夜に男の閨房けいぼうに入る者もおりますが、その房中術と言えば、ただ男を喜ばせる(そして小銭やその夜の食事を手に入れる)ためだけのものではありません。彼女らのそれは、男共を籠絡し、操り、情報を引き出すための術です。


「武藤の若様の……いえ、今は真田の若様であられましたな」
 千代女殿は丸い顔を綻ばせました。
 私が(というか、父が)武藤姓を名乗っていたのは、天正乙亥の長篠の戦の後までです。もう七年も前から真田姓に戻っているのですが、千代女殿にとっては私は何時までも武藤喜兵衛の所の坊やなのでしょう。
「真田の若様の本心を聞き出す機会を逸したとあれば、残念なことでありまする。若様も殿様も、真田の皆様は皆、中々に腹の奥底を見せてくださいませぬ故」
 千代女殿は元々細い眼をさらに針のように細なさいました。
 私は苦笑いして、
「父は元より、私も不誠実ですか?」
「さても……。腹の扉の開閉を己の一存で決め、誠実と不誠実の両方を使いこなすのが、今の世では良い侍ということでありましょう。若様はお父上に似て、良い侍であると言うことで御座いまするよ」
「それが信濃巫女の頭領が降されたご神託とあれば、有難く受けましょう」
 私は土地神の社殿に詣でるとき以上に深く頭を下げました。
「『神託』はまだ他にも御座いまする」
「それは父も聞いた『お告げ』ですか?」
 私が訪ねますと、千代女殿はこくりと頷かれました。
「真田の殿様は、武田の大殿様亡き後、身の置き所に不自由しておりました我らノノウを庇護してくださるとの事で御座います由に。殿様の求めがありますれば、我らは何時でも神懸かり、言葉をお告げいたしまする」
 遠回しな物言いでした。
 千代女殿とその配下のノノウ達が、我が父の命を受けて、「草(忍者)」働きをしてくれている――ということをそのまま言うのは、例え真田の城の中であっても、まだ憚られるのです。それほど真田の「今の立場」は不安定なのです。
 先ほどの私の質問も、正しくは『父も』ではなく『父から』であり、『お告げ』ではなく『指図・命令』を意味していました。
 千代女殿は笑顔を崩さずに、
「禰津村から優れた者を選んで連れて参りました。後は各地に散っております特に腕の良い者達にも繋ぎを付けております。合わせれば百に少し足りない程の人数になりましょうか。……とまれ、連れてきた内の十ほどは、砥石の殿様のご要請にて、砥石のあたりを中心にして歩き働く事になっております」
「では残りの衆は何処へ向かわれましょう?」
「さて、近いところでは善光寺あたり、甲府、沼田、小田原の方ですね。私は草津のお湯にでも浸かろうかと思っておりますよ」
「遠いところでは?」
「諏訪のお社に『御札』を取りに参った者もおりますし、脚を伸ばして木曽の御岳様、岐阜の伊奈波いなば神社、伊勢の神宮へ『祈願』に向かった者もおりますよ。何分にも、あのあたりの『御札』は『法力』が強うございますから……。出来ますれば、北野の天満さまや厳島の本宮、讃岐の琴平、宇佐の八幡さま辺りまで行きたいものです」
 即ち、ノノウ達はすでに、関東から信濃、そして岐阜美濃に進入し、京の都や芸州、四国、九州あたりにまでその「網」を広げようとしている、ということを意味します。
 父は砥石の山頂に座したまま、上杉殿の情勢、北条氏の情勢、関東に残られている滝川様の動き、南信濃の国人の動向、そして織田様の事を知ることが出来るのです。さらには山陰山陽、南海四国、西海九州まで見て通そうとしています。
 あの時「砥石の城は京に遠い」と言っただけの私のことを強欲者と笑った父ですが、なんの私よりもずっと欲深いのです。
 私は貪婪どんらんな父が無性に羨ましくなりました。父が得る事柄を私も知りたいと、猛烈に感じました。
 私は千代女殿に
「この辺りにも信心深い者が居るので、幾人かこちらを回って貰いたいのですが」
 と、遠回しに私にも情報網の一角を握らせて欲しいと頼んでみました。
「もちろん、元より幾人かこの郷を回らせるつもりでございますれば。それから一人は若様の武運長久を祈祷をする役目に、このお屋形に留めおけという『神託』が、高いところから降りました故」
 千代女殿は手を捧げ挙げ、天を仰ぎました。
「なるほど『神様』は何でもお見通し、と言う訳ですか」
 砥石の城の『神様真田昌幸』には到底敵わない――願いが通じたというのに、この時私は少々口惜しく思ったものです。

 岩櫃の城に残ることになったノノウは、年の頃十二、三ほどの娘でした。
 旅から旅の歩き巫女の割りには色が白く、目玉のくりくりとした、子供のような顔の娘です。
 千代女殿と他のノノウ達がそれぞれに出掛けた後、娘は
「わたしは千代女様の秘蔵っ子、垂氷つらら、と申します。若様にはよろしくお見知りおき下さいませ」。
 などと臆面無く申しました。
 
 少々勝ち気な所のある娘ではありますが、確かに『千代女殿配下の巫女』としての技量は優れていたのです。
 祈祷であるとか、医術薬草に関わる事柄であるとかについての知識や技量があるのは、ノノウとして当然のことです。
 それがなければ人に「只のノノウではない」と見透かされ、怪しまれてしまいます。それでは「草」としての働きは到底できません。
 尤も、もっぱら男衆の相手をすることに専念するノノウもおり、そう言う「役目」の者であれば、本来の巫女としての技量を持たない事も有り得るます。ただ、垂氷には其方の「役目」は与えられていない様子でした。
 とは云っても、それは、色町の女衆のような白粉臭さや酒臭さが感じられないといった程度の、私から見たらそうではなさそうだ、という感覚でしかありません。
 確かめようにも、年若い娘子に
「お前は巫娼ふしょうか?」
 と聞くわけにはゆかないでしょう。それに聞いたとして、そしてそれに答えが返ってきたとして、気恥ずかしくなるのは多分私の方です。
 何れにせよ、巫女の仕事の為に必要な事柄のことで優れている事には、感心はしますが驚く必要はないとおもわれます。当たり前のことなのですから。
 私が驚いたことの第一は、垂氷が読み書きが達者なことでした。それも仮名文字ばかりではなく、漢文の読み書きが出来るのです。
 武家や公家娘であれば、仮名文を読み書きすることは出来ましょう。
 それでも、女衆で、それも若い娘で、乎己止点をことてんのない白文を読み下せる者は、武家の中にもそうはいないものです。
 私がそのことに感心しますと、垂氷はけろりとした顔で、
「漢字が読み書きできませんと、『御札』を『頂戴』したときに、その『有難味』が判りませんし、『祝詞の中身』を諳んじることも、それから新しく『御札』作ることを出来ませんでしょう?」
 と申しました。
 つまり「密書や他人の書簡を覗き見て覚え、その内容を主人に伝えたり、時として贋手紙を作るような工作をする為に必要なことだ」と言いたいのでしょう。
「源氏の君の物語を書いた紫式部でさえ、漢文に達者であることを隠していたといいます。読めないフリ、書けないフリをするのが、また骨の折れることなのでございますよ」
 垂氷は己の肩を叩く真似をして、戯けて見せました。小さき山城だとは言えど、一応は岩櫃いわびつ城代である私の前で、実にけろりんかんとこういった振る舞いをしてみせる辺りは、剛胆と言うより他ありません。
「利口者が莫迦者のふりをするのは大変だろうな」
 私がからかい気味に、しかし本心感嘆しますと、垂氷は、
「わたしなどより若様の方が余程にお疲れで御座いましょう」
 などと言って、にこりと笑ったものです。
 しかし黒目がちな目の奥には、探るような光がありました。いえ、あるような気がしたに過ぎないのかもしれませんが……。
 その時の私には、垂氷が私が仕えるに値する男なのかを見極めようとしているのではないか、と思えました。
 品定めされるというのは、あまり気分の良いモノではありません。
 かといって、そういった小心な不機嫌を察されるのもまた面白くありません。
「ああ、疲れる、疲れる。莫迦が利口のふりをしようと努めると、頭が凝って仕方がない」
 私は阿呆のようにケラケラと笑いました。
 垂氷は不可解そうな顔つきで、私を眺めていました。むしろ嗤ってくれた方が幾分か気楽だったのですが、この娘は妙なところで真面目なところがあったのです。
 そんな垂氷のことで私がもう一つ驚いたのは、その脚の丈夫さ、速さでした。
 厩橋の城下で「巡礼」している仲間のノノウと繋ぎ(連絡)を取らねばならなくなった時のことです。
 本来なら特に脚自慢のノノウが繋ぎ専門に仕事をするのですが、その日は頃合い悪く繋ぎ役が皆出払っておりました。
 そこで垂氷がその役を買って出たのです。
 垂氷は岩櫃から厩橋までの、途中険しい山道もある十里以上の道程を、まだそれほど日の長くない季節だったというのに、明るい内に苦もなく往復してのけました。それは徒歩軍《かちいくさ》にも劣らない健脚ぶりでした。
「脚が頑丈なのは当たり前です。何分にもわたしはノノウ。歩くのが商売の歩き巫女の端くれで御座いますよ」
 垂氷は、少々自慢げに申しました。漢字の読み書きの時もいくらかは自負が感じられましたが、脚自慢はそれ以上でした。余程に己の健脚が誇りなのでありしょう。
「歩く仕事が一番好きで御座いますよ」
 垂氷は厩橋のノノウからの繋ぎの書状と、もう一つ別の書状を差し出しました。
 繋ぎの書状は薄い紙を折り畳んで結封けっぷしたものでしたが、もう一方は折紙を切封にした書簡でした。
 細い筆による柔らかい筆致で書かれた宛先の文字は「真源三どの」となっておりました。私宛の物であることは間違いありません。
 差出人の名は「慶」一文字でした。
「私が読んでも良いものかね?」
 結封の方を指して、私が訪ねますと、
「読んでいけない物は、別にして砥石へ送って御座います」
「成る程、それはそうだろう」
 腹の奥にチリチリとしたものを感じました。父に対するくだらない嫉妬です。
「それよりも……」
 そう申した垂氷の目の奥に、幽かな嗤いが見えた気がしましたので、
「それよりも?」
 と重ねるように尋ねました。その声音には、いくらか険があったかもしれません。
「そちらの立派な文の方です。それは厩橋に反故紙ほごし漉返すきかえしを商いにしている者から……」
「もしや、紙座の萬屋のことか?」
「あい」
 反故紙というのは、書き損じや使い古しの紙のことです。
 紙は高価な物ですから、書き損じたぐらいで捨ててしまえば、それは金を捨てるのと同じ事でしょう。古い紙を水に浸してほぐし、出来るだけ墨を抜き、もう一度紙に漉き直せば、それだけ無駄が省けるというものです。
 そういった漉返紙すきかえしがみは、どれ程丁寧に叩いても元の書類の墨が残っているため、薄い鼠色になります。このため薄墨紙などとも呼ばれます。
「あそこは薄墨紙ばかり扱っている訳ではない。三椏紙みつまたがみ楮紙こうぞがみも、麻紙あさがみも、雁皮紙がんぴがみだって扱っている」
 甲州、というよりは、武田信玄公の領していた土地では、信玄公の御意向により、製紙産業に力を入れておりました。
 元より高価な紙を、国外の産地より取り寄せていては、運ぶ手間賃がかさみ、益々値が上がります。それ故信玄公は、領内で三椏や楮といった紙の元となる木々を植えさせ、紙座を置いて、紙の生産を奨励したのです。
「さようですか。わたしどもなどは、安い紙しか使いませんので、てっきりそうなのだとばかり」
 確かに「草の者」が密書に厚手の奉書ほうしょ紙を使うことは少ないでしょう。贋手紙を仕立てるのならば、話は別となりましょうが。
「ともかく、その文は件の紙屋さんからあずかってきたのですが」
 垂氷はニコリというか、ニタリというか、何とも言い様のない笑みを満面に浮かべ、
「何処の娘ごからの付文ですか?」
 紙座の筆頭である萬屋は、元を辿れば信濃者だと称しており、そのため私たちが上州にいた頃から懇意にしておりました。
 何分、我が父は表に裏に、諸方へ様々な文を発するのが『好き』なものですから、紙屋と仲が良くなるのは必然であったとも言えます。
 武田が滅び、甲斐に織田様がお入りになって以降も、萬屋は商いを許されて、滝川様の御屋敷にも出入りしています。
 ですから、萬屋が厩橋にいる真田に縁のある者達からの様々な『文』や『届け物』を――表向きにして良い物もそうでない物も含めて――預かり、使いを立てて届けて寄越すことは、有り得ることです。
 もし万一、本当に私宛に付文つけぶみを寄越そうという女性にょしょうがいたとしたなら、萬屋に頼むのが一番確実なのは確かです。
 しかし残念なことに、そう言った女性は居りません。
「男だよ、この手紙の主は」
 私が苦笑いして言いますと、垂氷の目の奥の嗤いが、艶笑じみたものに……あくまでも私が見たところなのですが……変わりました。
「まあ、そちらの方で」
 垂氷はその笑いを隠しもせずに、顔の上に広げました。
「お前は何を考えている」
 と、口に出して問いましたが、実際の所おおよそのところは判っておりました。
 垂氷はあの文を付文と信じて疑っていないのです。例え、差出人が男であっても、です。
「若様は、おなごが嫌いなのかしら、と」
 にこりと、実に面白げに、垂氷が笑って見せました。
 私はすこしばかり中っ腹になりましたので、狭量にも何も答えずにおりますと
「若様は、若様ご自身がどうこう言うのは別として、殿方から好かれる方なのですよ。つまり、男好きのする良い男」
 恐らく褒めてくれているのでしょう。後にすれば、そう思えます。しかし、その時にはそうは思われませんでした。
「あまりうれしくないな。殊更お前に言われると、何故か面白くない」
 わたしは件の文を、我ながら態とらしく横に避け、結封を開きました。
 厩橋の曲輪の内に大層立派な「人質屋敷」が建てられたこと、わけても立派な一棟は、どうやら我が妹於照の住まいに当てられるらしいということ。滝川様が軍馬の補給に苦労しておられること。駿河を知行することとなった徳川殿が盛んに街道筋の整備をしていること。そして、小田原の北条殿の動きがなにやら活発であること……大体そのようなことが細かい鏡文字で書き連ねられておりました。
 大方は予想通りの事でした。私は文を手焙りの熾火の上に置きました。
 立ち上がった小さな炎が、北条勢の動きに見えました。
 北条殿はこの度の「武田討伐」では一時的に徳川様の旗下に入り――武田方であった我らから見れば口惜しい事この上ない――存分の働きを成されたのですが、織田様からの恩賞は殆ど無かったと言います。
 織田様はあるいは北条殿との「同盟関係の維持」こそが、恩賞であるとお考えなのでかもしれません。
 ですが北条殿にしてみれば、それは目に見える結果ではありません。このために、ご家中には織田様に恨みを抱いている者が多くいる様子でした。
 今北条殿が半ば公然と軍備を整えているのは、あるいは織田様の本隊が離れた甲州・上州を狙ってのことかもしれません。
 炎は、あっと言う間に小さな紙を蹂躙し尽くしました。しかしやがて自らも衰え、一条の煙を以外には何の痕跡も残さず、掻き消えました。
「寒いな」
 私は独り呟きました。誰かに対して呼びかけたわけではありません。それが判っているのか、いないのか、垂氷は何も答えませんでした。
 私は火鉢の中の熾火が静かに揺らめくのを、しばらくの間眺めておりました。
 私がじっとしておられましたのは、僅かな時であったと思います。なにやら腹の奥の方で何者かが蠢いている気がして、長くじっとしていることが出来なかったのです。
 私は徐ろに、あの切封の文に手を伸ばしました。
 文を開きながら、そっと、何気なく、垂氷の顔を覗き見ますと、何を期待しているのやら知れませんが、黒目がちな瞳に好奇の輝きがありました。
 私は開いた文に目を落としました。
 筆跡は、見ようによっては女手にも思えるほど細いものでした。垂氷が女性からの文と思いこんだのも、仕方のないことです。
 これを、前田利益という身の丈六尺豊かな偉丈夫が書いたとは、あの方をまるで知らない者や、知っていても語り合った事のない者であれば、到底信じられないでしょう。それほどに柔らかで繊細な筆運びでした。
 私がもし、宋兵衛……いえ、慶次郎殿に一面識も無ければ、遭ったこともない女性からの文かと思って浮かれ舞っていたかも知れません。
 遭って、語って、一勝負したからこそ、私にはあの方の繊細さが知れたのです。
 細いながらも骨太な筆運びの墨跡からは、腐れ止めに使われている龍脳りゅうのうの香りがしました。
 本当に質の良い骨董品の墨は膠がこなれており、文字が滲むと、筆を運んだ軌跡である芯が美しく強く浮かび上がってきます。
 無論、美しい文字を書くためには、書き手にもそれだけの素養が必要ではあります。
「よい古墨を使っておられる」
 これも誰かに聞いて欲しくて言った言葉ではありません。感心が胸の内から口へとあふれて出たのです。
 さて、肝心の文面ではありますが、表向きは他愛のないものでした。
 曰く――。
 厩橋の紙座で品はよいが店主が頑固に過ぎる萬屋というのを見付けた。
 萬屋の面構えを見ていたら、まるで似ていないのに貴公を思い出した。
 戯れに、
「お主は信濃者だろう?」
 と尋ねてみたなら、果たしてその通りであった。
 聞けば、貴公と萬屋は古馴染みであると言うではないか。これを奇遇と言わずして何と言うのだ。
 今、萬屋の座敷を借りて、この手紙をしたためている。
 特に何かを知らせてやろうとか、何かを聞きだそうとか言うのではない。大体友へ文を出すのに、用事がいる必要はないだろう。
 時に、滝川左近将監はこのところ漸く珠光小茄子の事を口にしなくなったが、今度は儂の顔を見る度に、
「なぜあの時に鉄兵衛にここへ残るようにと口添えしてくれなかったのか」
 と嫌みたらしく言ってくるようになった。
 しぶとい年寄りの面倒を見るのは大層疲れるものだ。さても、貴公の父親も大変な男に見込まれたものだ。可哀相でならない。
 そんなわけで、伯父貴があまりに五月蠅いので、儂は顔を合わせまいと思うて、この頃は出来るだけ外出をすることにしている。
 先の戦で馬を乗り潰してしまったので、その代わりを得たいというのを言い訳にして、馬狩りを口実に出歩いている。
 この辺りの山野では良い野生馬が群れなしているのを良く見受ける。流石に武田騎馬軍を育んだ土地柄といえよう。
 鞍や馬銜の痕が見えるものもいるが、飼われていたものが逃げ出したのか、あるいは攻め手に奪われぬように態と逃がしたのか。
 儂の胸には、悪賢い馬丁がこの土地から去る時に、自ら馬囲いを壊して行った、という景色が思い浮かんでくる。その、我が夢想の中の馬丁の顔立ちが、貴公や貴公の父親の面構えに似て見えるのが可笑しくてならない。
 先日、ある野生馬の群れにそれは見事な青毛を見た。気性が激しく、中々捕まえることが出来ないが、手に入れるための苦労も、手に入れられるものが良ければ良い程、また楽しいものだ。
 あの馬ならば、岩櫃の崖でも苦もなく登るだろう。
 奴を手に入れたなら、遠駆けついでにそちらへ行く事に決めた。良い酒か、うまい茶の飲める碗、それから良い飼葉をたんと用意して頂きたい。
 云々――。
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小懸 ―真田源三郎の休日―」<<真武外伝<<時代小説分室

 信府
松本。当時「信濃国の国府」であったため、それを略して「信府」と呼んだ。
 八幡原の戦い
永禄四年(1561年)の第四次川中島合戦
 十里
約40km。1里≒39.3km

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