龍蝨―りゅうのしらみ―
この物語はフィクションです。
従って、登場する人物・団体・地名などは、歴史上のそれらとは別物と思ってご覧下さいますよう、お願い申し上げます。
第5話 源五郎
カラカラと笑い合った後、源次郎は小首をかしげて、
「それにしても、
室賀
《
むろが
》
殿は、
執
《
しつ
》
拗
《
よう
》
というか、何というか……妙に源五兄上に
執
《
しゅう
》
着
《
ちゃく
》
があるように見受けられましたが?」
「うむ……」
雲母
《
きらら
》
の上で燃えることもせず、芳香を発している小さな黒い粒を、源五郎は愛おしげに見つめている。
ややあって、唐突に、
「室賀の家の
輩
《
はい
》
行
《
こう
》
の
仮
《
け
》
名
《
みょう
》
には、決まり事があるらしい」
源五郎が
呟
《
つぶや
》
くがごとく言った。
元来、輩行というのは「その一族のうちで同世代の者」といった意味であったそうな。つまり兄弟、範囲を広げて
従兄弟
《
いとこ
》
あたりまでの親族のことをいう。
その輩行のなかでの序列を表すのが
輩
《
はい
》
行
《
こうの
》
仮
《
け
》
名
《
みょう
》
である。長男に太郎、次男に二郎あるいは次郎、三男に三郎……と名付ける
それ
《
・・
》
だ。
そしてこの
輩
《
はい
》
行
《
こう
》
名
《
めい
》
は、功を立てて主君から
受
《
ず
》
領
《
りょう
》
名
《
めい
》
――
なんとかの
《
・・・・・
》
守
《
かみ
》
であるとか、
なんの
《
・・・
》
兵衛
《
ひょうえ
》
であるとか、
なに
《
・・
》
右衛門
《
うえもん
》
であるとか――を授かるまで、本名を呼ぶのを
忌避
《
きひ
》
する通称名として用いられた。
これは、本名はその人間の霊そのものであり、その名を呼ぶことでその人物を支配することが出来る、という一種の信仰に基づいた風習だ。他人を本名で呼んで良いのは親や主君のみであり、そうでない者がむやみに本名で呼ぶことは無礼の極みである、と考えられていた。
兎も角、輩行は本来順番を表すのが目的であるのだが、皆が皆が輩行の順に数字を振っただけの名付けをすれば、どうしても同名の者が増えてしまう。一族が増えれば、誰かの長男、誰かの次男は、それこそ
鼠
《
ねずみ
》
算
《
ざん
》
に増えるのだ。
時代が下がり、どこの長男・次男を区別する必要が生じると、輩行名に一文字二文字を足した命名が増えてゆく。
「例えれば……海野本家は輩行に『小』を付けるのが習わしだ。
小太郎
《
・・・
》
、
小次郎
《
・・・
》
、
小三郎
《
・・・
》
といった具合だ」
源五郎は指を折りながら、
誰のもの
《
・・・・
》
でもない
《
・・・・
》
人の名
《
・・・
》
を言い上げる。
「我らの父上は元々が海野の分家の真田の更に分家の出ゆえに、はじめは
次
《
じ
》
郎
《
ろう
》
三
《
さぶ
》
郎
《
ろう
》
を名乗った。長じて
源
《
げん
》
太
《
た
》
左
《
さ
》
衛
《
え
》
門
《
もん
》
を称したのは、このときは海野の本家も真田のそれも、武運拙く滅びたものと思ってのことで、ならば生き残ったおのれを
源
《
みなもと
》
として真田を復興させようと、おのれ自身に誓ったから、らしい」
「私も源太兄上より、そのように
伺
《
うかが
》
っております」
ここで源次郎が口にした「源太」は、無論父のことでは無く、長兄の源太郎、受領名・源太左衛門尉の方のことである。
「そして自分の
倅
《
せがれ
》
の輩行には『源』や『徳』の文字を乗せた。長男は源太郎、次男は徳次郎」
「さようで」
源五郎の言葉に、源次郎は一々
頷
《
うなず
》
き、相槌を打って聞く。
「ところが、だ」
大きく息を吐くと、源五郎は、
「俺とお前、我らが二人が生まれた時、順序で言えば三郎に四郎であるはずが、親父殿は『
四
《
し
》
は
死
《
し
》
に繋がる』などと面倒なことを言い出したと聞いた」
呆れかえった口ぶりでいった。目は笑っている。
真田幸綱は、
『
死
《
し
》
など真っ二つに断ち切ってしまえ』
と言って、四男を源
次
《
・
》
郎にしてしまった。
それだけで済ましてしまえばまだ良いものを、
『分けた
二
《
に
》
が余った。
勿
《
もっ
》
体
《
たい
》
ない故、この
荷
《
に
》
はお前が背負え』
とばかりに、
「順序立てれば
源
《
げん
》
三
《
ざぶ
》
郎
《
ろう
》
であるはずのこの俺の名前に、余った二を足し込んで、源
五
《
・
》
郎にしてしまった」
「兄上に余分を背負わせ、なにやら申し訳ない心持ちです」
源五郎と源次郎は鼻面を合わせて、互いの苦笑いを見た。
「それでな……。兵部が
下の弟
《
・・・
》
とやらの名を源七郎と言っていたところから察するに、室賀家は輩行の頭に『源』を付けるらしい。これは俺の勝手な想像だが、
清
《
せい
》
和
《
わ
》
源
《
げん
》
氏
《
じ
》
の流れだから、かな」
室賀家に限らぬ。真田家も清和源氏
海野
《
うんの
》
氏を自称している。
「なるほど……それが、どういう?」
「だからな、兵部の二人下の弟は
源七郎
《
・・・
》
というそうな」
「はぁ……?」
「その二人上の兄であったなら――きちんと順序立てて、決まり通りに名付けられたならば、のことだが――兵部のそれは、七から二つ引いて
源五郎
《
・・・
》
というのが順当だということになるだろう?」
「……あっ。では、兄上と同じ……」
「まあ、あやつは最初に会った時……確か、俺たちよりも二、三年ほど後に証人として送られてきたと思ったが……まだ
十歳
《
とお
》
ばかりの
小
《
こ
》
童
《
わっぱ
》
であるくせに、早々と親の
受
《
ず
》
領
《
りょう
》
名
《
めい
》
を引き継いで兵部と名乗っていた。その前に
何
《
なん
》
と名乗っていたのかなど、聞きもしないし、聞く必要も無いことだ。だから俺は、あやつの前名がなんであったのか、本当のことは知りもしないし、知る必要も無い」
源五郎はニタリと笑った。源次郎が色めきだって、
「いや、きっとそうです。間違いない。だから兄上を……」
「鏡に映った
自分
《
おのれ
》
のように思っていたのかも知れない」
親兄弟と引き離された源五郎。孤独に耐える源五郎。功を立てる源五郎。褒美を貰う源五郎。人の妬みを買う源五郎。主君に愛される源五郎。
自分もかくありたい、いやありたくない。自分であれば良いのに、いや自分でなくて良かった。
羨ましく、妬ましく、うれしく、悔しい。
「似ても似つかぬ鏡映しだ」
源五郎は、立てきられた戸障子の、その向こう側に去って行った男の背中を幻視していた。
やがて、
「ま、よくは解らぬが、な」
ぽつりと言って、薄く笑った。
「……で、だ」
一度、大きく息を着いた源五郎は、
面
《
おもて
》
から笑顔を全く消し去り、弟の顔をじっと見た。
「何事か、あったのか?」
薄い笑みは、源次郎の顔に移行した。
「源太兄上の所から使いが来ました」
「ほう?」
焦
《
きな
》
臭
《
くさ
》
気に首をかしげる源五郎に、源次郎は懐から取り出した紙切れを示した。
「お屋形様からのお許しは、もう頂戴して参りました」
結び文にしてあったらしい小さな紙片一杯に、勢いよく、力強く、しかしおそろしく薄い墨で書かれいる文字が、ただ二つ。
火急
源五郎がその文字を見終えたとみるや、源次郎は火箸を取り、火桶の灰の上の
雲母
《
きらら
》
の薄片を、乗せられている
薫
《
たき
》
物
《
もの
》
諸共持ち上げた。空いた灰の上に紙片を落とす。
紙片は見る見る茶色く変じ、更に黒変し、崩れ、消えた。
「源太兄上も大概だが、源次よ、おまえも
性急
《
せっかち
》
だな」
言い終らぬうちに立ち上がる源五郎の、その言葉が終わるまえに源次郎も立ち上がっていた。
「源五兄上には及びもつかぬ事で」
躑躅ヶ崎館内人質屋敷の、真田兄弟の居室には、もはや、甘く焦げ臭い香りだけが残されるのみであった。
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