【眞田井戸で遭いましょう】セルフノベライズ計画
―眞田井戸移動機構篇―


この物語は当然フィクションです。
This is a work of fiction.

 【序】

――このじやうには、ふるほりぬきがあつたので、さなばれていうめいである――

――のぶゆきまへちゝきよじやうであつたときには、このしろは、うへほくはうらうやまふもとにあるくうざううしぶせじまはなあらじやうなどとりでに、ぬけあながあつて、てきうへじやうかこんでもいうほかかうつうしてゐたといふことである――
「【日本伝説叢書・信濃の巻】藤沢衛彦・編 日本伝説叢書刊行会・刊(大正六年)」より


 深さ約十六.五m、直径約二mのこの古井戸は、調査が成された現在では、横穴も抜け穴もない普通の・・・古い掘り抜き井戸であることが判っている。

 そう、今はただの、在り来りの、何の変哲も無い、古井戸である。

 しかし、それが掘り抜かれたあの時代にもそうであった、と果たして言い切れるものであろうか。



 【一】

 その日、真田昌幸は上田城本丸書院にあった。
 幸か不幸か、長子で上州沼田城主である源三郎信幸も上田にいた。

 上田城総構えの内に作られた海野のまちが焼失したのは、先の徳川との戦、世に言う第一次上田合戦において、のことである。
 焼失の原因は、『徳川勢を城下におびき寄せて退路を断ち、火を放って殲滅する』という火計にあった。これを考え、命じたのは昌幸であり、実際に火を放ったのは実働部隊長だった信幸だ。

「つまり、お前が実行犯・・・だからな」
 昌幸は仏頂面を倅に向けて、その膝先に幾通もの書状を投げた。
 町衆に代替えの土地を与えて町を再建するにあたって、町衆から寄せられた訴状と、町割りの計画書と、それを通達する指示書の下書き・・・である。
「はぁ!?」
 倅が疑念の声を叫ぶのは当然のことだ。彼はちちおやの命令通りに行動したに過ぎない。
「なに、大体は片が付いている。お前を訴人の前に立たせて、まくし立てる立てる彼の者のつばきを存分に浴びろ、という無体を言うのではないから、まぁ安心しろ」
 そうはいいながら、昌幸はあまり機嫌のいい顔をしていない。
『また面倒なことを私に押しつけようとなさっているな』
 ともかくこの真田昌幸という男は、ある意味で酷く「無精」なのである。自分が面白いと感じたこと以外は、敢えてやりたがらない。
 その性格は「領国経営をする殿様」という職業には向いていないといってよかろう。それでいて「領国経営をする殿様」の能力は十二分にある。実に困ったものである。

 膝先の書類を一枚一枚拾い上げ、重ね整えながら、信幸は、胃の腑に刺すような痛みを覚えている。
 確かに下書きの書類を見る限り、ややこしい訴え事も判決は下されており、訴人も納得をしていることになっている。
「その辺のヤツは、今、ゆうひつが清書している。書き上がり次第、つしが持ってくるだろう」
 うつむいて文書を整頓する信幸の脳裏に、一つの柔和そうな狸顔が浮かんだ。
 重臣・いでうらつしまのかみは、つい先頃、主君から昌の一字のへんを受けて、名乗りを「もりきよ」から「まさすけ」に変えたばかりだ。

 ところで偏諱とは何かということを説明し出すと、漢字の多い文章がだらだら続くことになって、ただでさえ少ない読者様の離脱率が高くなるゆえ、ここには書かぬ。知りたい方はググって頂きたし。

「そこにな、いんを突いて、おうを据えないといかぬ訳だ」
 領主の印判ハンコ花押サインがなければ、それは正式書類にはならず、命令は効力を発しない。それがお役所仕事というものである。
「と、いうことで、後は頼んだ」
 昌幸の声は、視線を落としていた信幸のすぐ前・・・からではなく、かなり遠くから聞こえた。
 信幸が慌てて顔を上げる。
 見えたのは、板の間に空の敷物と脇息。
 その向こうの、床の間の板壁にかかった「白山大権現」の軸が揺れている。
逃げた!
 立ち上がった信幸の背後で、大量の書類を抱えてやってきた狸面の家老が、苦笑いをしていた。

 どんでん返し・・・・・・の隠し扉の向こうで響く優秀な嫡男の泣声を聞きながら、昌幸は狭い通路を進み抜け、ほんまるやかたから脱出した。
 行き先は、上田城本丸唯一の井戸である。
 上田城は川辺の崖の上にあり、用水は崖下の尼が淵に流れ込む川の水――その川を城のおおそとぼりにするために、昌幸は相当な苦心苦労をして川の流れを付け替える大治水工事をやった訳だが――を引き込んでまかなっている。
 しかしその井戸からは、そういった川の水とはやや違った清水が湧き出てきていた。
 川の水の、その源流にある水源の清水は強清水だった。現代風に言うなら、硬度の高いミネラルウォーターである。
 しかしあま水を集めて流れる内に、その硬さは薄まる。
 だがこの井戸の水は硬い。そのまま呑むには硬きに過ぎ、飲食に用いる場合は一度湧かす必要があった。
 理由はわからぬ。強清水の水脈がここまで(付け替えた川の流れを潜り超えて)続いているのかも知れない。
 不思議なことだが、昌幸に言わせれば、これは、
「山々の神であるはくさんごんげんの霊水そのもの」
 だそうな。

 掘り下げた井戸の壁面は、城の北方にそびえる太郎山から切り出した石を組んで固めてある。
 太郎山はしゅげんどうぎょうじゃ達が修行地としている場所だ。
 その南面に「指さしゴーロ」と呼ぶ草木の生えない岩場があった。巨人・デイダラボッチがよろめいて転びかけ、この山の山腹に手指を突いて堪えた、その手の跡だという言い伝えがある。
 その岩場は、奇妙な石を産する。
 人の手は何ら加えぬのに、太さ一尺程の六角の柱の形をしている。
 土地の者はそれを天狗岩と呼ぶ。
 この自然な石柱は、掘り出された形のまま、神社仏閣の門柱や鳥居、常夜灯の石灯籠の脚といったものの材として用いられる。
 井戸の石組みも、その天狗岩で作られている。

 井戸端に着くと、昌幸は辺りを見回した。近くの馬小屋や米蔵の内にじんはあるが、井戸の周りの空間に人の目はない。
 昌幸の口元に笑みが浮かんだ。石組みのづつに手をかけ、中をのぞき込む。

 そのとき・・・・不思議な・・・ことが・・・起こった・・・・

 修験者が集う場所の、巨神にまつわる伝説の地から産する、天狗の名を冠した不可思議な石に囲まれた、白山権現の霊水に、不可思議な力がないはずがない。
 不思議な力がないはずのない場所で、不思議なことが起こらないはずがない。

 深く考えてはいけない。そのとき・・・・不思議な・・・ことが・・・起こった・・・・のだ。

 深い井戸の底が輝いた。六角形の天狗岩を薄く切って揃え、敷石として敷き詰めたその床が、まばゆい光を発している。
 昌幸はその光に向かって、
うん町、たかいちやしろ
 と言葉をかけた。
 そして、井戸に飛び込んだのである。




 【二】

 うん宿じゅくしらとりじんじゃから分社せしめたという高市神社は、海野の市のまもりである。祭神はおおくにぬしことしろぬしの親子であるが、これは俗に言うだいこくさま寿さまのことで、つまりは商業神であるから、市の守り神としては大変に適当(※いい加減という意味ではない)で有ると言えよう。
 普段は無人であるその小さな社の裏手、至極小ぶりな井戸の中から、一本の腕が出た。
 腕は二本に増え、その間から頭が出た。
 真田昌幸である。
 井戸の中から這い出でると、城内のあの井戸に飛び込む直前にそうしたように、辺りを見回す。
 人気は無い。
 にんまりと笑うと、昌幸は小躍りするような足取りで市へと向かった。

 海野町は、東西におよそ一町一〇〇メートルの道筋に町割りが成されている。東から北国街道とつながり、その西の端は上田城のおうもん。街道は北上すること再び一町余。西へ折れて、城の大外堀である矢出沢川の外側を善光寺平へと進む。要するに上田の宿駅でもあった。
 海野町の名が示すとおり、北国街道を遡って上田の隣の宿場である海野宿から町人・百姓を呼び寄せて作らせている町だ。
 海野は真田家の衰退した本家の本拠地である。城下にその名を冠した町を整備することによって、自分の家と勢力域に箔を付けよう、という昌幸の下心が透けて見える。……考えすぎだと思うが。

 ともかく、海野町の市で商売をするのは海野宿出身の者が主な訳だが、僅かに甲州や上州の出の者も含まれている。
 真田昌幸は元々甲斐の武田信玄のちょうしんだった。若い頃はおくきんじゅろくにんしゅうというJr.めいた一団グループに所属し、キレのある動きと歌唱力の低さに定評のある足軽大将バックダンサーとして信玄の傍近くに仕えていた。
 信玄の死後、色々あって(徳川家康から金を引き出して)信州上田に城を建てることになった訳だが、そのときに甲州や上州における昌幸の領地に棲み暮らしていた人々も、少なからず従ってきた。
 甲州屋やら、富士屋、あるいはこうずけ屋、といった屋号の店は、あるいはそういった移住者が開いたものかもしれない。

 昌幸が跳躍スキップしながら向かったのは、雪糕アイスという小店であった。店先に小麦の焦げる甘い匂いが漂い、人だかりが出来ている。
 この店の名物は小麦粉の焼き饅頭・・・・だ。小麦粉に甘味と卵を加えた生地を、丸いくぼみを切った銅板の型に流し込み、中にずきあん蛋漿餡カスタードクリームを入れ込んで、筒状に焼き上げる。
 その形が駿河の今川氏の家紋【丸に引両】に似ていると誰かがこじつけて「今川焼き」と呼んだり、円筒の形が太鼓のようだというので「太鼓饅頭」、むしろ車の車輪だと言う者がいて「車輪餅」、いや黄金の大判じゃと「大判焼き」、焼いた饅頭ゆえ「おやき・・・」でよかろう、なににせよありがたいものに「御座候ござそうろう」などと、皆々勝手な呼び方をしているが、店の方では、味が自慢の「じまんやき・・・・・」と名付けている。
 元来が年寄り夫婦が営む茶店であって、先の戦の前は一膳飯なども饗していたのだが、近頃はこの焼き饅頭の人気があまりに高まりすぎて手が足りなくなり、飯も茶も出せなくなってしまった。
 今は若い衆を幾人も雇い入れ、日が昇ってから暮れるまで、日がなに饅頭を焼き続けている。

 店の若い衆と客とのやりとりが、また実に見事であった。
 客は店先で若い衆に饅頭の入り用な個数を告げて代金を払い、すぐに脇によける。そして、待つ。
 別な客がまた若い衆に数を告げて銭を払い、よける。
 その後にまた別な客が数を告げ、支払いをして、よける。
 店の中ではひたすらに饅頭が焼かれ、客に告げられた数を各々取りよけて、きょうに包む。
 饅頭の数が多くて経木に包みきれぬ時は、朱で富士の山を描いた厚紙を小箱に仕立てたものに入れる。
 そうして、店先の若い衆が、
「へーい、小豆あんこいくつ、蛋漿カスタードいくつの客殿やーい!」
 と呼ばわると、よけていた注文主が包みを受け取って帰って行く。
 これを、誰が率いるとも指示するともなく、整然と繰り返しているから、全く見物である。
「鉄砲の三段打ちのようじゃ」
 この様を見る度に、昌幸は感嘆の声を上げる。

 さて、昌幸はただ感嘆したいがために、わざわざ城から脱走・・して町中に来る訳ではない。
 信州上田三万八千石の殿様は、茶店の行列の最後尾に行儀良く並ぶために来ているのである。
 そう。一つびたせん一文のじまんやき・・・・・を買う、そのために、不思議な井戸の不思議な途を起動・・させるのだ。

 先頭の客が、個数を告げて代金を払い脇によける。列が縮まり、待っている客が一歩前へ進む。昌幸も一歩ずつ、じりじりと進む。
 一歩進む毎に、饅頭の焼ける香気が強くなる。
 やがて昌幸の前に一人の客もいなくなった。注文取りの若い衆が、昌幸の顔を見て相好を崩す。
「へい、旦那様。いつもありがとうございます」
 愛想良く言うや、店内へ振りかえって、
小豆あんこ六つに蛋漿かすたーど六つぅ」
 注文も訊かずに職人へ指示オーダーを入れたものだ。
 昌幸は破顔して、鐚銭四文=えいらくせん一文の歩合レートで換算した三文に、
「先だっての分、を……な」
 と、どうやら手元不如意のさいふをわすれたおりにツケで買ったらしい分を合わせて、六文の永楽銭を払い、列から横によけた。
 甲州から出てきた、今は隠居と呼ばれている老店主はともかく、後から雇い入れられた若い衆が、この壮年の侍・・・・の正体をどれ程まで深く知っているものだろうか。あるいは身分も名前も全く知らぬだろう。城主だなとどは思いもしていないに違いない。
 それでいて、若い衆はこの客・・・の好みも注文数も把握している。僅かな代金をツケにすることも許している。
 常客の上客リピーターなのである。
 つまり、昌幸はそれだけ足繁くこの店に焼き饅頭を買いに来ているということに他ならない。
 ――あの不思議の井戸のみちを使って。

 やがて真田昌幸は、焼きたてほかほかのじまんやき・・・・・を十個ぎっしり詰めた「朱で富士の山を描いた厚紙の小箱」と、残り二つをふんわり包んだ経木とを、しっかりと、ぬくぬくと抱きかかえて、高市神社へ駆け戻り、小さな井戸の水底に向かって、
「上田城、本丸」
 と声をかけるや、その中へ飛び込んだのだった。




 【三】

 深い井戸の底が輝いた。六角形の天狗岩を薄く切って揃え、敷石として敷き詰めたその床が、まばゆい光を発している。
 光の中に真田昌幸はいた。当たり前な顔で何気なく井戸から出る。
 腹の中では好物を前にした小童の顔でにやついて・・・・・いるが、それをおくびにも出さず、渋っ面で辺りを見るともなく見渡している。
 そして何かを見つけた。後ろ手にじまんやき・・・・・の箱を隠す。
 甘い、よい香りを伴って井戸端に現れたのは、一人の女性であった。
 本丸館の北方、山側か河側かと言えば山の手に住まうていることからやまのて殿どのと呼ばれている、真田昌幸の正室である。
 中近世の女性の常として、後世に残された記録から本名を見いだすことが出来ないため、その本名には諸説があるのだが、ここでは仮に、且つ勝手に、ふじの名で呼ぶことにする。
 
「殿様、どちらへ?」
 にこり、と微笑む。
 むすめ一人、むすこ二人を上げた四捨五入で四十歳アラフォーとは思えぬ美魔女ぶりであった。
 一瞬、昌幸が言葉に詰まった。
「うむ……。城下に、その……兵糧・・を求めに……な」
 努めて平静を保ち、昌幸が言う。
 鬼謀の策士、ひょうきょうの者も、このそうこうの妻に頭が上がらぬ。
 於藤は微笑を崩さず、しかし目を細く、眼光を鋭くして、夫を見つめた。昌幸が背中に回している両の手が、僅かに動いたことを見逃さない。
蛋漿かすたーどは、あたくしに賜りませね♡」
 その語尾には、間違いなくハートマークが付いていた。
 総て見抜かれている。
 昌幸の眉尻と両の肩が、力なく落ちた。
「……はい」
 そう答え、かのじまんやき・・・・・の箱を差し出すより他に、何も打つ手はないではないか。
ばば様と、くにと、ちゃんと、いなちゃんと、あやちゃんと、あたくしで、あわせて六つ♡」
 指折り数えるのは、昌幸の生母、長女、姪っ子、長男の正室に、次男の室、そして妻、すなわち「真田の女たち」の員数だ。これから於藤の部屋で、じまんやき・・・・・を茶菓子にした小さな女子会・・・が開かれることは、想像に難くない。

 小豆餡あんこじまんやき・・・・・六つが、経木に包まれて昌幸の手に戻された。
「そうそう。源三郎と対馬殿が、書院で泣いておりましたよ」
 クスリと笑うと、於藤は静かに女子会会場・・・・・へ向かっていった。
 その背中に、   
「うん。解っとる」
 聞こえぬ程に小さな声で答えた昌幸は、更に小さな声で、
「三人で小豆餡を二つずつ、か」
 呟くと、本丸館へ向かった。

《終》
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