真田大石(旧版)
一
元和八年(一六二二年)十月の事である。
信州上田藩主・真田伊豆守信之(さなだ・いずのかみ・のぶゆき)は、幕府より松代は海津城への改封を命じられた。
突然の下知が、上田城内に動揺の荒波を広げたのは当然のことだった。
「納得ができませぬ」
古参の臣・出浦対馬守守清(いでうら・つしまのかみ・もりきよ)が、主君の前であからさまに不満を言った。
既に海津城へ移転の準備は八分通り済み、ここ南櫓を始め、城内はすっかり片付いているのに、だ。
「ぼやくな守清。松代は彼の川中島を有する北国の要地。そこを守れとの御命だ。それに上田は三万八千石、諸領を足しても六万余。松代十万石への改封は栄転ではないか」
格子窓から城下を眺めていた真田信之は、目差しを家臣へと移し、諭した。
しかし守清の不満は収まらない。語気を荒げて言う。
「殿が故郷の上田に戻られて、まだ四年に満ちません。関ヶ原の後にお取り壊しにされた城の立て直しも、近頃やっと着工したばかりです。それに上田城は大殿が……亡き昌幸公が殿に残された形見ではありませんか! 上様には、殿に親の形見を捨てろ、と仰せなのですか?」
「親父殿の形見だからこそ、捨てよと仰せなのだ……。上様はわしに二心のない事など重々御承知であられよう。だが、他の者はどうだ? わしの父が真田昌幸であり、弟が真田幸村であることを知っている者達は、わしをどう思っていよう」
信之の眉が曇った。
関ヶ原合戦以後に徳川の旗下に入った武家は「外様」と呼ばれている。
幕府は「支配力を強化する為」と言う大義名分の下、外様大名の取り潰しや領地替えを大々的に行った。
真田家の改封も、そんな「外様潰し」の一環なのだ。
徳川に仕えて三十余年の信之は、一応は譜代であるものの、並みの外様以上に危険視されている。
彼の姓が「真田」である、というのが、その理由である。
豊臣方最後の猛者・真田幸村の実兄である、と言うことが、だ。
信之自身の赤心は、全く無視されている。
彼の住まう上田城も又、白眼視されていた。
南は尼ヶ淵(千曲川の分流)の断崖、北と西とは濠割、東方は入り組んだ城下町で堅められた上田城。
この小さな平城が、徳川にとっては鬼門に等しいのだ。
徳川は二度も上田城に負けた、のだから。
一度目の敗戦は、天正十三年(一五八五)閏八月。
徳川家康公が、上杉と結託した真田昌幸を討伐せんとした時。
そして二度目は、慶長五年(一六○○)九月。
関ヶ原参戦のため徳川秀忠公が中山道を進軍し、「行きがけの駄賃」とばかりに真田昌幸・信繁(幸村)父子を討とうとした時。
二度とも「上田城に攻め寄せる多勢の徳川」が「上田城に篭もった無勢の真田」に大敗している。
徳川の天敵・真田の嫡流と、徳川の鬼門・上田。この二つを一つ所に置いては危険……。
これが幕臣達の考えであり、今回の改封の「真意」であった。
「『故郷だ』『父の形見だ』などというのは言い訳にもならぬ。第一、この改封は上様直々の御命だ。従わねば謀反と取られ、真田家は忽ち取り潰しぞ」
そう言って信之は無理に笑顔を作った。
取り潰しなどと脅かされては、黙るしかない。守清が唇を曲げて憮然としていると、信之は苦笑いを真の笑顔に変えてこう言った。
「ま、形見分けはしてもらうつもりだがな。……来い、守清」
主君は家臣の袖を引いて南櫓を降った。
二人の居た南櫓は、向かいに在る北櫓と対になっており、城の正面玄関である大門の門柱の役を成していた。
信之は大門の犬潜りを抜けた所で立ち止まると、北櫓の方へ向き直り、目の前
の石垣を指して満面の笑みを浮かべた。
「これを松代まで持って行くぞ」
守清は、主の指の先を見て、息を飲んだ。
彼の視線と主君の指先の交点には、幅も高さも人の背丈を悠に越える大石があるのだ。
石垣を……いや、北櫓そのものを支える、巨大な一枚岩が。
彼は目を見開き、口をぽかりと開け、大石を凝視た。彼は暫く、鯉か鮒のように目を瞬かせたり口を開閉させたりしていたが、やがて上吊った声を絞り出した。
「この石は大殿が上田城を建てた時、太郎山(上田盆地の北方の山)から切り出した……」
「そうだ。親父殿が苦心して切り出したこの大石、親父殿の形見として、この信之が貰い受ける。親父殿が山から城まで運べたのだ。わしは上田から松代まで運んでみせよう」
齢五十六の老君主が、子供のような笑顔を浮かべた。
初め、守清は反対しようと考えた。が、いつの間にか彼もこの「形見分け」に賛同していた。
信之が
「わしから見ればこの大石は、上田城と、小県の地と、何よりも親父殿の化身の様な物。わしは親父殿に松代まで御同行願うつもりだ」
と、付け足したからだ。
「かしこまりました。直ちに石工と人夫を集め、大石を運び出しましょうぞ」
守清も主同様に満面の笑みを浮かべた。
二
その日の内に、出浦対馬の手配によって人夫が集められた。人夫達は石垣の周囲に足場を組み、崩壊を防ぐための支柱を立てると、大岩に綱を掛けた。
信之や重臣達の見守る中、人夫達は慎重に、力強く、綱を引いた。
……が、石は動かなかった。
大石と石垣とのすき間に丸太を差し込んで、「てこ」の要領で石を浮き上がらせようと試みもした。しかし丸太が折れはしても、石はびくとも動かない。
機転を利かせた馬奉行が、厩から軍馬を十数頭引いて来た。太い縄で大石と繋いで引かせようと言うのだ。四半刻の後、馬奉行は馬の背にちぎれた綱を乗せて、厩へと逆戻りした。
油を流し込めば滑り出すだろう、と誰かが言った。試してみたが、三日ほど灯火なしで暮らさねばならなくなっただけで、大した成果は得られなかった。
作業は日暮れまで続けられた。しかし、何をやっても、巨大な石は頑として動かなかった。
動かない石を見ながら信之はぽつりと呟いた。
「やれやれ、頑固な御仁よの」
「は?」
守清が仰ぎ見ると、信之は悲しげに、大石を凝視ていた。
『この眼差し、かつて何処ぞで見たような……』
主君の横顔に、守清は二十二年の昔を……関ヶ原合戦で西軍(豊臣方)に加勢した真田昌幸・信繁(幸村)が九度山に流された、あの冬の事を……思い出した。
父弟は謀反人である。徳川の家臣である信之が二人を見送る事は、公には許されなかった。
物陰に隠れて、山道を行く父弟の背を眺める事しか、彼にはできなかった。
去って行く偉大な父と、従い行く父に認められた弟、そして二人に取り残された自分……。信之は寂しさの中に、羨望を溶かし込んだ、悲しげな眼差しを二人に向けていた。
そして彼は、誰に言うとでもなく呟いた。
「俺一人、置いて行かれるのか……」
その時、旧主の背に注いでいた視線と、今大石に注がれている視線は、まるで同じ物だ。
『御主君は何故はあの眼差しを、石ごときに向けるのか?』
守清が怪訝顔でのぞき込むと、主君の頬はわずかに紅潮した。
『さようですか、親父殿。この地を離れたくないと仰せなのですね。弁丸(幸村の幼名)共々、上田の地を死守すると。松代へはそれがし独りで行けと。……それがしはまた、置いてゆかれるのですね』
微笑む主君の瞳に熱いものが光ったのを、守清は確かに見た。
それから三百七十余年。
上田城跡公園に復元された大門脇の石垣に、その大石……真田石……は居る。
「彼ら」は今なお静かに上田・小県の地を守っている。
【了】
※読者諸兄へ
この物語はフィクションゆえ、寛大な読者のみなさまにおかれては、なにとぞ重箱の角をつつかないようにお願いしたい。
- 上田城修復(再建)の許可は、真田信之公が上田藩主だった間は降りなかった。
藩主は藩主屋形(通称「御屋敷」。現在は跡地に長野県上田高等学校が建つ)に暮らし、政もそこで行われていた。
- 1622年(元和八年)信之公が松代へ移られた後、1626年(寛永三年)に上田へ入城された仙石忠政公の代になってようやく幕府から許可を得、再建を開始。
ところが二年後の1628年(寛永五年)に忠政公は死去。
後を継いだ仙石政俊公、更にその後の仙石政明公の頃は藩政が行き詰まりを見せており、城の再建どころではなかった模様。
本丸の三棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)ができた辺り(一説に櫓は全部で七つだったも)で再建を断念。
- 仙石家が出石に移封となると、1706年(宝永三年)に松平忠周(忠徳)公が城主となり、以降明治維新まで松平家が城主となる。
しかし松平家の治世でも上田城を「本格的な城」にする普請は行われないまま、廃藩置県にいたる。