雨は
本丸御殿の表書院は人であふれかえっている。障壁を取り払った廊下にも人々が目白押しに座っていた。その廊下からもこぼれ出た者達は、中庭に
冷たく濡れた空気が重い。
誰も言葉を発しない。
上段の間に座する大柄な城主も、その傍らに座る
諸々が纏う肩衣は、木綿であったり麻であったり、あるいは
だがその違いにもかかわらず、色はおおよそ蒼い。
空の青、山の青、森の青、河の青。
その合間合間に、時折土のような赤や黄が混じる。
沼田城は侍の海だった。
暗い
皆よく知っている顔だ。
ここに五層の天守が建つ前から見知っている顔。大坂の屋敷で見た顔。そして、上田城にあった顔。
おびえたような、悔しげな、安堵したような、嬉しげな、顔、顔、顔。
一月ほど前に敵であった顔がある。その時自分の傍らにいた顔がある。
真田伊豆守信幸はその顔々を、皆、知っている。
「さても――」
息を吐き出した信幸の、頬に浮かんだ幽かな笑みは、浮かんだと見るやたちまちに深い海の底へ沈み込むように消えた。
「此度のことで、皆々には苦労をかけた。非道い仕打ちを被った者もおろう。済まぬ事をしたと思っている」
凪の海がざわめいた。
あの時――真田信幸が徳川方に付くと決めたその瞬間、石田方に付くと決めた父・真田安房守昌幸と、弟・真田左衛門佐信繁の支配下にあった
主君共の『勝手な』判断の為に、彼らの内には親兄弟、縁戚、顔なじみ、あるいは親しき友の間柄で、敵と味方に引き裂かれた者達が多くいた。
沼田に残された昌幸方の
ほとんど同時に、沼田に縁戚がいる上田の庄の人々も、上田城に呼び寄せられたという。
そして双方の幾人かが「処罰」を受けた。
敵味方に分かれた殿様達は、敵味方に分かれた家臣達を、裏切り者として処さねばならなかった。
敵なのだ。
昔見知った者でも、深く信頼する者でも、強く愛する者でも、敵となってしまったのだ。
それ以外に理由はない。
信幸は彼の大切な家臣達の顔を見回した。
どれほどの時であったか、やがて、両の手を畳の上に付いた。
「この通りだ。許してくれまいか」
言葉は苦しげに絞り出された。深く深く下げた頭は、小さくゆらゆらと揺れている。
「若殿!」
「殿!」
侍達が口々に主君を呼んだ。
信幸はその声の一つ一つを聞き取ろうとしている。下げた頭の中で、その声の主一人一人の顔を思い浮かべようとしている。
己を『若』と呼ぶのは、上田城や京都・大坂の真田安房守屋敷にいた者達であろう。彼らの殿様は安房守昌幸であり、源三郎信幸はその若様に他ならない。
他方、『殿』と呼ぶ声は、沼田城や江戸屋敷に仕える侍達のものだ。真田信幸が沼田城主となった時から、彼らにとって殿様という言葉は伊豆守信幸以外を指さなくなっている。彼らにとって昌幸は、『大殿』と呼ぶ存在であった。
信幸は頭を上げようとしない。胃のあたりに疼痛を覚えていたが、動こうとしない理由はそればかりではない。
聞こえる声と、思い浮かぶ顔を、すりあわせることが辛い。誰が上田侍で、誰が沼田侍かが解ってしまえば、その解ってしまった者達の背後に、彼らが『殿』と呼び『大殿』と呼ぶ者の顔が思い浮かんでしまう。
敵となり、敗れ、去って行く者の顔が、思い出されてしまう。
真田信幸は動けない。
家臣達の主君を呼ぶ声から、徐々に力が失せてゆく。不安のさざなみが、表書院に白い飛沫をたててざわめいている。
やがてまた、誰も言葉を発しなくなった。
真田信幸は動かない。
閉じた瞼の中で眼球だけを左右に振っている。右に左に、目玉と頭が小さく揺れる。
右手に、彼の正室がいる。小松殿・稲姫がどのような
幾分か、驚いたような顔はしているだろう。仮にも三万石の殿様が、自分がしたことに関して家臣達に対してわびを入れ、頭を下げたまま身じろぎもしないのだ。普通にはあり得ない。
だから、驚いてはいるだろうが、かといって、不安がってはいないことだろう。
左手に家老の出浦対馬守盛清がいる。
この男は、信幸の父である昌幸と同年代だ。昌幸に対して臣下の礼を取って幕下に加わったものだが、もとは同じ信濃の国人衆であり、どちらかと言えば盟友の間柄である。
しかしその容貌ときたら、背丈は小柄だし、面構えは狸そのもので、お世辞にも立派とは言えない。
そしてその貧相にさえ見える体には、それに見合わぬ大きな剛胆が収まっている。
だから彼も、自分の
信幸の筆頭家老の大熊
徳川内大臣家康が徹底破壊を厳命した上田城には、諏訪因幡守頼水・大井石見守政成・伴野対馬守貞吉らが勤番している。年明けて雪が溶けるのを待って破却が始まる。
城主の座を追われた真田昌幸・信繁の父子が、まだ形の残っている本丸屋形に住まうことは当然許されない。彼らは今、上田城三の丸の古屋敷と呼ぶ屋敷で蟄居謹慎している。
大熊はそこに赴き、『大殿』昌幸に仕えながら
入れ替わりに、信幸は上田に「籠城」していた家臣のほとんどを沼田に呼び寄せてしまった。
もちろん、
もっとも信幸はあの戦が起こる前に内府から上田小県領安堵の確約を貰っているのであるから、この約束を盾にして、家臣達の処遇に関して憚ることはないと、強弁を張ることもできた。
それを信幸はしなかった。
今家臣達を前に垂れていると同じほどに深く平伏して、わざわざ許可を貰った。
こうして、京大坂、上田の
「申し上げます」
広い表書院の端の方から声が上がった。信幸の耳に聞き馴染んだ声だった。
古くから自分に仕えている家臣が、意見を述べようとしているのだ。信幸は頭を上げざるを得なくなった。
ゆっくりと頭を上げ、その声がした方を見た。書院と廊下の堺のあたりで、
幸直は信幸の
確かに身分は高いとはいえぬ。しかし低い訳ではない。他ならぬ出浦家老に直属して働いているのだ。今この場で、あれほどの「末席」に座る必要はない。
何か企んでいるに違いない――。
信幸の目が、この無二の友の頭頂部の青々とそり上げた
「申せ」
静かな声で呼びかけると、幸直の頭が僅かに上がった。四角い額の下の細い目の中に、小さな光が見える。
「この度、
渇いた喉からようやく絞り出したような痛々しい声で、一言一言、言葉を句切りながら幸直は言ったが、言い終えぬ内に、再び頭を床にこすりつけた。そのまま、凍り付いたように動かない。
信幸の眼光が鋭くなった。同時に瞼が細く閉じられたから、誰も彼の瞳から、怒りを帯びた驚愕を読みとることはできなかっただろう。
座は水を打ったように静まりかえった。が、それはほんの一瞬のことであった。
「申し上げます」
この声は信幸の左手の極近いあたりから聞こえた。
「……申せ」
静かに怒気を帯びた声音で、信幸が促す。
家老・出浦対馬が、胡座の膝脇の床に両拳を突て頭を下げた。
「助右衛門めが申すまでもなく、今より前も、これより後も、我ら家臣一同、
出浦盛清の頭が僅かに持ち上がった。
眼差しが常ならぬ鋭さを帯びている。強弓から放たれた矢のような視線に、満座の士の顔の一つ一つが射抜かれたようであった。
何か重い蓋で波頭を押さえつけられ、無理矢理に凪にされていた水面が、
表書院の中でも、廊下でも、中庭でも、侍達は小さくせわしなく身動きをしている。両隣の同僚を顔を見合わせ、居住まいを正したかと思うと、
不規則な波が、城内を静かに荒らしている。
どれほどの時も流れていない。盛清はほとんど言葉と言葉の間に時を置かずに、満座に向けて、
「
鋭く、短く、断定的に問うた。
途端、不規則であった人々の細波が、一つの大きなうねりとなった。
「相違御座いませぬ!」
無数の声がした。叫ぶようであり、
「我ら一同、
怒号のようであり、熱狂のようであった。
しかしその声は、一つにまとまることがなかった。
同じ言葉が、違う間で、あちらこちらから飛び出し、信幸の眼前でぶつかり合う。
声は
信幸はそれを、じっと聞いていた。
やがて、瞼がゆっくりと開きはじめた。
薄く明けた目で見る沼田城は、やはり侍の海だった。
暗い
皆よく知っている顔だ。
「殿!」
「大殿!」
目をこらさねばそうと解らないほどに薄い微笑が、信幸の頬に浮かんだ。直後、
「一同、静まれ」
低く鋭い声が、荒波を砕いた。
侍達は押し黙った。主君の次の言葉を待った。
真田信幸は再び深く頭を下げた。かと思うと、すぐに上体を起こし、
「
一言鋭く言い放つと、すっと立ち上がった。
「はっ!」
満座が平伏するのを見届け、信幸は表書院を後にした。
本丸御殿の「奧の書院」は城主のいわば私邸である。
その一番奥まった所、若い彼岸桜が葉を落とした枝が寒そうに微風に揺れる庭に面した一室に入り、部屋の中央まで進んだあたりで、信幸は糸の切れた
二呼吸ばかり遅れて部屋に入った妻女の
「あ」
と、小さく悲鳴を発した。
大柄で筋骨隆とした体つきの真田信幸だが、じつのところ、厄介な
当人曰く「生まれつき」だという胃の腑の痛みは、気苦労がかさむと折々に頭をもたげてくる。
それに加えて、八年ほど前、唐入りに備えて滞陣していた
信幸は悪寒と高熱とに苦しみ抜いた。ところが三日も過ぎると、それこそ「瘧が落ちたように」症状が消えてしまった。
一度は安堵し、この病の事を忘れかけていたころ、唐突に震えが襲ってきた。
以来数回、前触れのない発熱と
稲は血の気を失った。だが自ら戦の前線に立つことを
飛びついて支えようとした。しかし、間に合わない。
横様に倒れる信幸の頭が床に落ちる直前、頃合いの高さの柔らかげな「何か」が、落下地点に先回りして滑り込んだ。
「あ」
稲の口から、今度は小さな驚愕の声が漏れた。
柔らかげなものは、人の腿である。稲は腿の「持ち主」の顔を見て、
「
安堵の声を発し、気が抜けたようにその場に座り込んだ。
二人の女性の、突き合わされた膝頭の真ん中に、真田信幸の頭がごろりと転がっている形となった。
信幸は薄目を明けた。視線の先に、古く見知った顔が見える。
どう見ても三十前の
信幸の父の長兄の
後から嫁いで、今は正室とされている稲が「小松殿」と呼ばれるのに対して、「松尾殿」と呼ばれている。
松尾というのは、真田家の先祖伝来の地である信濃真田の郷にある地名であり、古い城の名であり、彼女の故郷の土地の名である。
もっともその呼称で呼ぶのは信幸以外の者達だ。信幸のみは彼女を
「
と呼んだ。
「大坂から無事戻ったか?」
優しげな信幸の声だったが、奥深い所に僅かながらある種の「不快」が混じっている。あるいは「不可解の念」と言うべきであろうか。
真田信幸の家族のうち、
関ヶ原で戦が起きる直前、在坂していた諸将の妻子の多くが、大阪城内に入れられた。
戦に巻き込まれぬよう保護するのため――と言えば聞こえはよいが、詰まる所、石田治部少輔三成方に証人に獲られたのである。
この時、真田昌幸の妻・
もっとも真田家の場合、石田三成の義弟に昌幸の娘の――つまりは信幸達にとっては妹の――
「大坂暮らしも、途中からは針の筵でございましたよ。若様が内府様にお味方すると、大坂の方々に知れてから――」
「途中?」
稲が小首をかしげた。信幸もいぶかしそうに
「大殿様は、若様がアチラへ行ってしまったことを、途中まではナイショになさっていたご様子ですよ。於菊サマのハナシでは、治部様は若様のことを『
信幸は胃の腑にちくりとした痛みを覚えた。
「私が内府様にお味方しておらねば、母上も子供達も、家臣達も領民達も、当然お前も、みな無事では済まなかったのだぞ」
吐き出すように行った信幸だったが、心中に浮かぶ『言い訳めいている』という自責が、ますます胃の腑を痛ませる。
「判っておりますよ。叔母上様も『源三郎はよくやった』とお褒めになっておいででした。それから、また胃の腑が痛むとイケナイからと……」
なにやら袂を探り、なにやら白い物を取り出した。細長い紙である。その端をぺろりと舐めたかと思うと、
「はいっ」
ぺちり、と信幸の額に貼り付けた。
白い紙に墨跡が薄く透けて見える。信幸は両方の眼球を鼻柱に向けて寄せ、読んだ。
「白山大権現」
小さく声に出した途端、信幸の脳裏に、尖った白く雪を頂いた故郷の山が浮かんだ。
「
「ついでですから」
大坂に「保護」されていた人々は、石田方の敗北を知ると、徳川方による
真田家の者達も同様だった。一人も残さずに脱出することができたのは、大坂詰めの家老・河原
彼らが向かった先は、上田であった。そこが真田家の本領であったからだ。同時に、石田方に付いた真田昌幸・信繁が仮に蟄居させられている場所である。
大坂方から戻った者達は、昌幸・信繁の正式な処罰が決まるまで、そこに留め置かれることになった。
ただし、やはり城内ではない。住み慣れた屋敷でもない。城下の寺社に仮寓している。
ところで、大坂から上田を経由して沼田に来る街道筋には、真田の郷の氏神である山家神社はない。
四阿山山頂を本宮とする山家神社は、真田の郷の奥まったところに鎮座する。険しい山道の奥にあり、ついでにひょいと寄れる場所などではないのだ。
だから普通に見たなら、
「小松の姫様はお笑いになりますけど、これはわたしの役目でもありますから。つまりは、これも若様の武運長久を祈願する、その一環でございますよ」
しかしすぐに背が僅かに丸くなった。黒目がちな目をしばたかせて、小首をかしげて、稲の顔を見ている。
信幸が白山権現の札の端からちらりと
「姐様。今日限りにて、殿様のことを
「はえ?」
瞬きが速くなる。首の角度が深くなる。
稲が背筋を伸ばした。まっすぐに垂氷の顔を見据えて、
「
一息に、断定的に、言った。
「大殿様が、つまりはご隠居なさる?」
垂氷は下を見た。膝の上に、額に白山権現のお札を貼り付けた夫の顔がある。
信幸は僅かに顔を背けた。
「父上と源次郎に……生きていてもらうためのことだ」
胃が差し込むようにギリギリと痛む。
「生きて……」
彼女の父親は彼女がまだ十ばかりのころに死んでいる。討ち死にだった。
近従の者達が
「ですから姐様……これより先、殿様は大殿です。若殿と申せば、
稲は言葉を一つ一つ句切って、些か苦しげに言った。
仙千代は信幸の嫡男である。稲の手元に置かれ、正室である彼女が養育しているが、生みの親は
信幸の目は、
「助右衛門を
「唆した、とは?」
顔を
「私を……父上を差し置いて
首が横に振られた。
「では、誰の悪知恵だ?」
「存じ上げません。強いて申すならば、皆の考えでございましょう」
「皆、だと?」
「真田の御家を思う、皆々の考えです」
「それを、私と
「強いる……?」
稲の目が丸く見開かれた。瞳が信幸と
やがて、視線が一つに定まった。
二人の妻が、二揃いの膝頭の間に乗った、一人の夫の顔をじっと見ている。
信幸は彼をのぞき込む二つの顔を――白山権現の御札の下から――交互に見た。
「私は、大殿などと呼ばれるほどの器量はないぞ」
苦く笑ってみせる。嘘笑いであることは明白だった。
「ええ、最初から御座いませんね」
唇を尖らせて言ったのは、垂氷だった。
「そもそも、わたしと婚礼をしたその時から、若様は
「あ……」
信幸と稲が同時に驚嘆した。
信幸が、真田家の当主であった真田
「だのにちっとも若様は当主らしくない……ちっとも当主らしくなってくださらない」
「ですからわたしは若様とお呼びしてるんです。最初から、今も、これからも、若様が真田の当主と呼ぶに相応しい方になるまで、ずっと!」
言葉の最後は、ほとんど叫び声のようになっていた。
「よろしいですね、小松の姫様。私は若様を若様と呼びますから。よろしいですね」
信幸の胸板を小振りなげんこつで叩きながら、
雲間から差した日が、障子に一つの影を映し出した。
「若」
と言いさして、慌てて、
「……
と言い直した声は、出浦盛清のものであった。
「なにごとか?」
主君の声を聞いて、盛清はそっと障子を開けた。
部屋の真ん中で、額に白山権現の札を貼り付けた大殿様が、二人の恋女房を両手に従え、背筋を伸ばして端座していた。
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