殿様



二、沼田城奥の書院にて。

 本丸御殿の「奧の書院」は城主のいわば私邸である。
 その一番奥まった所、若い彼岸桜が葉を落とした枝が寒そうに微風に揺れる庭に面した一室に入り、部屋の中央まで進んだあたりで、信幸は糸の切れた傀儡くぐつのようにすとんと座り込んだ。
 二呼吸ばかり遅れて部屋に入った妻女のいなが、夫の背中がぐらりと揺れるのを見て、
「あ」
 と、小さく悲鳴を発した。

 大柄で筋骨隆とした体つきの真田信幸だが、じつのところ、厄介な宿しゅくに悩まされている。
 当人曰く「生まれつき」だという胃の腑の痛みは、気苦労がかさむと折々に頭をもたげてくる。
 それに加えて、八年ほど前、唐入りに備えて滞陣していたぜんから大坂へ戻ってきた時に始めて発症した「おこり」である。
 信幸は悪寒と高熱とに苦しみ抜いた。ところが三日も過ぎると、それこそ「瘧が落ちたように」症状が消えてしまった。
 一度は安堵し、この病の事を忘れかけていたころ、唐突に震えが襲ってきた。
 以来数回、前触れのない発熱とけいれんに、信幸も家族達も悩まされ、恐れている。
 稲は血の気を失った。だが自ら戦の前線に立つことをいやわない烈女である。絹裂くような悲鳴を上げて立ちすくむようなことはない。
 飛びついて支えようとした。しかし、間に合わない。
 横様に倒れる信幸の頭が床に落ちる直前、頃合いの高さの柔らかげな「何か」が、落下地点に先回りして滑り込んだ。
「あ」
 稲の口から、今度は小さな驚愕の声が漏れた。
 柔らかげなものは、人の腿である。稲は腿の「持ち主」の顔を見て、
あねさま……?」
 安堵の声を発し、気が抜けたようにその場に座り込んだ。
 二人の女性の、突き合わされた膝頭の真ん中に、真田信幸の頭がごろりと転がっている形となった。
 信幸は薄目を明けた。視線の先に、古く見知った顔が見える。
 どう見ても三十前のとしざかりである。だが実のところ、信幸よりも二つばかりとしかさだ。
 信幸の父の長兄のちゃくじょだった。つまりは従姉ということになるが、それと同時に妻女でもあった。十年余前までは正室であったが、今は側室の扱いとなっている。
 後から嫁いで、今は正室とされている稲が「小松殿」と呼ばれるのに対して、「松尾殿」と呼ばれている。
 松尾というのは、真田家の先祖伝来の地である信濃真田の郷にある地名であり、古い城の名であり、彼女の故郷の土地の名である。
 もっともその呼称で呼ぶのは信幸以外の者達だ。信幸のみは彼女を
垂氷つらら
 と呼んだ。

「大坂から無事戻ったか?」
 優しげな信幸の声だったが、奥深い所に僅かながらある種の「不快」が混じっている。あるいは「不可解の念」と言うべきであろうか。
 真田信幸の家族のうち、垂氷つららは大坂屋敷に住まわっていた。正妻の稲は、子供達と共に本領である沼田に置かれていた。この地の経営の一端を担うためであった。
 関ヶ原で戦が起きる直前、在坂していた諸将の妻子の多くが、大阪城内に入れられた。
 戦に巻き込まれぬよう保護するのため――と言えば聞こえはよいが、詰まる所、石田治部少輔三成方に証人に獲られたのである。
 この時、真田昌幸の妻・きょうぜんと、信幸の弟・信繁の妻であるも城内に「保護」された。信幸の大坂屋敷にいた垂氷つららも同様である。
 もっとも真田家の場合、石田三成の義弟に昌幸の娘の――つまりは信幸達にとっては妹の――きくが嫁いでいるし、信繁の妻は大谷刑部少輔吉継の娘であった。また、昌幸・信繁の二将は、比較的早い段階で石田方に味方することを表明していたのであるから、真田の縁者を大坂城へ入れたことは、真に「保護」の目的であったのかもしれない。
「大坂暮らしも、途中からは針の筵でございましたよ。若様が内府様にお味方すると、大坂の方々に知れてから――」
 垂氷つららは大げさにため息を吐いて見せた。
「途中?」
 稲が小首をかしげた。信幸もいぶかしそうに垂氷つららのへの字に曲がった口元を見ている。
「大殿様は、若様がアチラへ行ってしまったことを、途中まではナイショになさっていたご様子ですよ。於菊サマのハナシでは、治部様は若様のことを『しゅう殿は今まで戦に負けたことがない』と、それはそれは大変に頼りになさっていたとか。……かえって、大殿様よりもご期待をなさってたのかもしれませんね」
 信幸は胃の腑にちくりとした痛みを覚えた。
「私が内府様にお味方しておらねば、母上も子供達も、家臣達も領民達も、当然お前も、みな無事では済まなかったのだぞ」
 吐き出すように行った信幸だったが、心中に浮かぶ『言い訳めいている』という自責が、ますます胃の腑を痛ませる。
 垂氷つららはけろりんかんとした顔で、
「判っておりますよ。叔母上様も『源三郎はよくやった』とお褒めになっておいででした。それから、また胃の腑が痛むとイケナイからと……」
 なにやら袂を探り、なにやら白い物を取り出した。細長い紙である。その端をぺろりと舐めたかと思うと、
「はいっ」
 ぺちり、と信幸の額に貼り付けた。
 白い紙に墨跡が薄く透けて見える。信幸は両方の眼球を鼻柱に向けて寄せ、読んだ。
「白山大権現」
 小さく声に出した途端、信幸の脳裏に、尖った白く雪を頂いた故郷の山が浮かんだ。
やま神社に詣でたのか?」
「ついでですから」
 垂氷つららがにんまりと笑うのと同時に、稲がぷっと吹き出した。

 大坂に「保護」されていた人々は、石田方の敗北を知ると、徳川方によるらんぼうどり、つまり強奪や暴行を恐れて、それぞれ脱出を計った。
 真田家の者達も同様だった。一人も残さずに脱出することができたのは、大坂詰めの家老・河原右京介うきょうのすけ綱家の尽力の賜物だ。徳川方であった信幸も、彼らが無事に故郷へ帰れるように手配をしたのは当然のことである。
 彼らが向かった先は、上田であった。そこが真田家の本領であったからだ。同時に、石田方に付いた真田昌幸・信繁が仮に蟄居させられている場所である。
 大坂方から戻った者達は、昌幸・信繁の正式な処罰が決まるまで、そこに留め置かれることになった。
 ただし、やはり城内ではない。住み慣れた屋敷でもない。城下の寺社に仮寓している。
 垂氷つららが上田を出て沼田に来ることが許されたのは、彼女が信幸の室であるからに他ならない。
 ところで、大坂から上田を経由して沼田に来る街道筋には、真田の郷の氏神である山家神社はない。
 四阿山山頂を本宮とする山家神社は、真田の郷の奥まったところに鎮座する。険しい山道の奥にあり、ついでにひょいと寄れる場所などではないのだ。
 だから普通に見たなら、垂氷つららはわざわざ出向いたことになる。しかし彼女は冗談や軽口でそう言った訳ではなかった。
 垂氷つららは健脚だった。並はずれて頑丈で、しかも速い脚力を持っている。上田の城から太郎山の裏へ回って、山中の神社で守り札を授かってくる程度のは、並の者であれば酷い遠回りであっても、彼女にとっては寄り道でもなんでもないのだろう。
「小松の姫様はお笑いになりますけど、これはわたしの役目でもありますから。つまりは、これも若様の武運長久を祈願する、その一環でございますよ」
 垂氷つららは誇り高げに自慢げに、胸を反り返すように張った。

 しかしすぐに背が僅かに丸くなった。黒目がちな目をしばたかせて、小首をかしげて、稲の顔を見ている。
 信幸が白山権現の札の端からちらりとうかがい見ると、稲が少しばかり怒ったような、僅かばかり悲しげな眼で、垂氷つららにらんでいた。
「姐様。今日限りにて、殿様のことをとお呼びになるのを、お止め頂けますか?」
「はえ?」
 瞬きが速くなる。首の角度が深くなる。
 稲が背筋を伸ばした。まっすぐに垂氷の顔を見据えて、
ちちうえ様にはながのちっきょをして頂くことに決まりました」
 一息に、断定的に、言った。
「大殿様が、つまりはご隠居なさる?」
 垂氷は下を見た。膝の上に、額に白山権現のお札を貼り付けた夫の顔がある。
 信幸は僅かに顔を背けた。
「父上と源次郎に……生きていてもらうためのことだ」
 胃が差し込むようにギリギリと痛む。
「生きて……」
 垂氷つららの顔が凍り付いた。

 彼女の父親は彼女がまだ十ばかりのころに死んでいる。討ち死にだった。
 近従の者達がしゅきゅうを敵方に渡すまいと奮戦した結果、【それ】は彼自身が着ていた陣羽織に包まれて、持ち帰られた。
 垂氷つららの脳裏に焼き付いている父の姿は、まさしく【それ】である。血塗られ、傷み、朽ちかけた【それ】である。

「ですから姐様……これより先、殿様は大殿です。若殿と申せば、仙千代せんちよ殿のことになりましょう」
 稲は言葉を一つ一つ句切って、些か苦しげに言った。
 仙千代は信幸の嫡男である。稲の手元に置かれ、正室である彼女が養育しているが、生みの親は垂氷つららであった。
 垂氷つららは何か言いたげに開けた口を、すぐに引き結んだ。細めた瞼の隙間から、信幸を睨むように見ている。
 信幸の目は、垂氷つららを見ていなかった。視線は稲の方に向けられている。不機嫌な目の色だった。
「助右衛門をそそのかしたのは、やはりその方か?」
「唆した、とは?」
 顔を垂氷つららに向けたまま、稲は問い返した。
「私を……父上を差し置いて殿呼ばわりにするようにと、アレに命じたのは、お前か?」
 首が横に振られた。
「では、誰の悪知恵だ?」
「存じ上げません。強いて申すならば、皆の考えでございましょう」
「皆、だと?」
「真田の御家を思う、皆々の考えです」
「それを、私と垂氷つららにも強いるのか?」
「強いる……?」
 稲の目が丸く見開かれた。瞳が信幸と垂氷つららの顔の間を泳ぐように動き廻る。垂氷つららの目玉も泳いでいる。信幸と稲と、どこか知れぬ中空とを、泳ぎ回っている。
 やがて、視線が一つに定まった。
 二人の妻が、二揃いの膝頭の間に乗った、一人の夫の顔をじっと見ている。
 信幸は彼をのぞき込む二つの顔を――白山権現の御札の下から――交互に見た。
「私は、大殿などと呼ばれるほどの器量はないぞ」
 苦く笑ってみせる。嘘笑いであることは明白だった。

「ええ、最初から御座いませんね」
 唇を尖らせて言ったのは、垂氷だった。
「そもそも、わたしと婚礼をしたその時から、若様はなのですよ。源五郎の叔父上の大殿様は、つまるところ若様のです」
「あ……」
 信幸と稲が同時に驚嘆した。
 垂氷つららの言は、せいこくたものであった。
 信幸が、真田家の当主であった真田げん左衛門尉さえもんのじょう信綱の嫡女である垂氷つららと、十歳に成るや成らずで婚姻したのは、その頃は養子に入った武藤家の跡目を継いでいた昌幸が、真田の家督を相続する正当性を主張するための処置であると言えた。
「だのにちっとも若様は当主らしくない……ちっとも当主らしくなってくださらない」
 垂氷つららの思う「真田の当主らしい人物像」は、おそらく彼女の父のような、武勇に優れ、先陣を切って戦場を駆ける者であろう。そして父とは違って、戦場から無事に帰還して、妻子をほうようする男のことであろう。
「ですからわたしは若様とお呼びしてるんです。最初から、今も、これからも、若様が真田の当主と呼ぶに相応しい方になるまで、ずっと!」
 言葉の最後は、ほとんど叫び声のようになっていた。
「よろしいですね、小松の姫様。私は若様を若様と呼びますから。よろしいですね」
 信幸の胸板を小振りなげんこつで叩きながら、垂氷つららは稲を睨んだ。白目と鼻の頭が赤い。頬が濡れている。
 垂氷つららと稲と信幸が、ほとんど同時にはなみずをすすった。


 雲間から差した日が、障子に一つの影を映し出した。
「若」
と言いさして、慌てて、
「……殿
 と言い直した声は、出浦盛清のものであった。
「なにごとか?」
 主君の声を聞いて、盛清はそっと障子を開けた。
 部屋の真ん中で、額に白山権現の札を貼り付けた大殿様が、二人の恋女房を両手に従え、背筋を伸ばして端座していた。

《終》
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