襖を開けた途端、甘いような苦いような、あるいはただ単に煙臭いだけのような、紫がかった
真田信幸は
増改築の普請が続く上田城の三の丸に信幸へ割り当てられた仮の屋敷の奧の一室、その中央に置かれた香炉が、もうもうとした
「屋敷の外まで
信幸の声が幾分くぐもっていた。小袖の
「
「私の『婚礼』のことか?」
訊ね返す信幸の声音もまた不機嫌なものであった。
「あい」
人影は返答するのと同時に立ち上がり、部屋を仕切る障子や襖を次々と開けて回った。
薫風が室内に入り、
「散々説明したはずだ。本多殿の息女を私が
「婚姻は……これは徳川殿からの申し出ではあるが、太閤殿下のご意向でもある。仕方がないのだ。お前も武家の生まれゆえ、よく判るだろう?」
時折咳き込みながら、信幸は尚も続ける。
「この先、私は徳川殿の元で働く。
そのために一瞬、閉ざしていた
「
「あい」
返事は彼の足下から返ってきた。
「うっ」
驚いて、思わず後へ飛び退きかけたのだが、そのことを誰にも気付かれたくない。信幸はぐっと腰を落として、足の大きさ半分ほど後ずさるのみで、堪えた。
ずれ下がった爪先の一尺半先に、十六、七歳ほどに
真田信幸の従姉で「元・正室」の
背の高い夫の顔を、頭をほとんど天井に向けたような恰好で見上げた
「卦が悪いので御座いますよ」
吐き出すように言って、一枚の紙切れを掲げ広げた。
かすれた墨の線が、ぐねぐねずるずると紙の中を這い回っている。
「徳川様やら本多様やらの姫様が、若様と殊更相性が悪いというのではありません。むしろ、良い縁組みです。ほれ、この通りに……」
どうやらこの
それにしても、
信幸の爪先が半歩前に出た。
「良縁ならば、何として卦が悪いなどと言い出すのか」
「婚礼をした方角がよろしくありません。日取りもよろしくよろしくありません」
指先が、
「そもそも、真田の頭領たるべき若様が、
「ならばどうせよと?」
信幸の足が更に半歩、
「困りましたことに、今日が一番卦がよいのです。方角はここより
大星明神というのは、上田城のまさに
事に真田家にとっては、かつての主家である武田信玄が、上杉との戦を前にして戦勝を祈願する
上田城の縄張りをこの場所に決めことについても、大星神社がちょうど
「鬼門が
信幸が苦笑するのを、
「笑い事ではございませんよ」
「若様の不幸は真田の不幸。この
口元をへの字に曲げて、
「……奪われようとも、それが吉ならば、それでよいのです。それを勧めるのです……全力で!」
語気を荒げて言いきったものの、その直後に、両の肩がすとんと力無く落ち、背中が丸められた。
「ですから対処の術を模索したというのに……下された妙案は為すに成らぬ代物で」
がっくりとうなだれて、畳の目を数える桂巻の後頭部に、
「成されぬか?」
投げ落とされた信幸の声は、どこか笑いを含んでいる風であった。
「今日のうちに夫婦打ち揃って婚礼の起請文を大星サマに奉納するには、その
下を向いた首が、力無く、しかし大きく左右に振られる。
「それも、そうだな」
俯いた
微笑したまま、信幸はその場にすとんと
「出立するなら、目指すは駿府ではなく大星様だな。これから皆で大星様へ詣ろう」
「はえ?」
思いがけない言葉に驚いて、
部屋の外、小廊下の板張りの上にいる様子のその影は、にこりと笑うと、やはりすとんと座り、頭を下げた。
「本多
「はうあ?」
翌日の真田信幸屋敷の様子というのは、全く奇妙なものあった。
前日、大星神社で神事をすませた信幸は、とって返して上田城内に籠もった。父親の真田昌幸となにやら「
四倍の勢力で攻めてきた徳川方を翻弄し、見事に敗退させた上田城であるが、実のところ完成しているとは言い難かった。
現状の上田城は、極端に言えば砦に毛が生えたような状態であるし、城下の武家屋敷も町屋も整備が足りていない。
今、信幸が割り当てられている屋敷にしてもあくまでも「仮のもの」である。城が完成したなら、おそらく三の丸の東端の大手門の近くか、さもなくば本丸
ひとたび戦になればその二カ所――敵が関東勢ならば東門、北陸関西勢ならば北門――こそが寄せ手が集中する場所になるはずだからだ。
どちらの防備にも息が抜けぬ。
そういった訳で、仮住まいの屋敷はいささか……いや、相当に
信幸も、よもや掴み合いの喧嘩になるようなことはあるまいと思うている。思うてはいるがしかし、稲は武術の心得があるし、
駿府から稲を連れ出して上田へ行く、と決めた時から、信幸は覚悟していた。
その覚悟は、肩すかしにされてしまった。
仲がよいのだ。
二人はそれぞれの
夜になって信幸が屋敷に戻った時には、稲と
いつまでもいつまでも話は止まらない。夜が更けると同じ部屋に床を延べて枕を並べてしゃべり続ける。
寝所に敷かれた布団は二組だけである。
二人の女房が延々と話して止まぬ寝室と、障子一つ隔てた四畳敷の狭い次の間で、信幸は独り、ぽつねんと枕を抱えている。
「さても、『戦』の成り行きを予想するのは難しい。ことに、人間の動きようというものは、解らぬものよな……」
カラカラ、コロコロとした笑い声を聞きながら、信幸はパタリと
「何をあれほど話すことがあるのだろう」
ため息じみた欠伸を一つした信幸は、瞼を閉じたすぐ後には、もう深い眠りの底に落ちていた。
翌朝、朝餉の膳が三つ並んだ。
信幸の碗によそわれた
「若様は胃の
「まるで私に良い所がないように……」
信幸は肩を落としてつぶやくような小声で言った。碗を持ち上げたものの箸を付ける気が起きてこない。
「玉の中には、
稲がふわりと笑いかけるが、信幸はどんよりと曇った顔をして、
「珍しがられてもな……」
ますます小さな声で言う。大きな背中を丸めて、ちらりと
「侍大将が青白い顔で『持病の
そうぴしゃりと決め付けた
信幸は頬を引きつらせた。
「……あるいは戦場で、腹痛に耐えかねてどこか木陰に駆け込んで、しゃがんだ途端に首討たれるのも、恥ずかしいことであるから……。死ぬにしても、
白粥に箸を付けて、もそもそと口に運ぶ。
妙に心細い物言いが、妻達の気に掛からぬはずがない。
「殿様のものの仰りようは、まるで戦場で死ぬるを――美しく死ぬるをお望みになっているようですが……」
稲の声にはあからさまに不安の色が見えた。
「何ぞ?」
何も可にもない。己達が居心地の良くない小部屋に自分を追いやった
「いささか夢見が悪かった」
とだけ言った。
「夢、でございますか?」
「
碗を膳に戻して、信幸は背筋を伸ばした。二人分の「いささか不安げな白い顔」を交互に見やる。
「白い蛇のようなものが首元にまとわりついて言うのだ。
『死ぬるぞ、死ぬるぞ』
だから私は
『この時世に死を恐れる侍がおろうか。私もいずれ戦場で死ぬことは知れている。その覚悟はできている』
そういって蛇を追い払った」
信幸は穏やかに微笑した。稲が不審顔で、
「この時世と仰せですが、九州四国の争いも段落がついたこの時世に、大きな戦が起こりましょうか?」
「さて、太閤殿下が戦を起こすとお決めになれば、どこでも戦が起きるだろう」
稲の面に驚愕と納得が広がった。
小規模な領地を治める国衆や、その国衆達をまとめる大名が行う戦は、自身の領地を守り、あるいは幾分か広げるためのものである。
で、あるから、戦闘も大抵は自領かその周辺で行われる。そして勝者は自領の自治を維持し、敗者はそれを削り取られる。
だが日の本の全土をその手中に納めつつある太閤・豊臣秀吉が起こす戦は、彼に逆らう者を
その戦のため、秀吉の命令を受けた者達は、自分の領地とかけ離れた場所へ出かけていって、戦をすることになる。
そうしなければ、自分もやがて敵にされてしまうのだ。
戦が終われば、秀吉麾下の者達には褒美として「新しい領地」が与えられるだろう。おそらく元々の領地と離れた場所に、だ。
その武士の「地力」の元である旧来の領地との「地縁」を切り離せば、反発する力を削ぐことができる。
「今までとは、戦の形が変わるのだ。望むと望まざるとに関わらず、私はいずれどこかの戦場の露となる。真田でも、上田でも、沼田でもないどこかの別の土地の戦場で、命を散らすことになるであろうよ」
微笑していた信幸の視線が、ふっとさがった。
と。
「何とお気の弱いことを!」
二つの声が、異口同音に鳴り響いた。
驚いて顔を上げた信幸の鼻先に、
「戦場で散るですって!? 冗談はお顔だけになさって下さい。若様の武運長久の祈願は、この
「う……うむ」
信幸は何か返答しようと口を開けたが、言葉が出る前に、今度は稲が
「万一、殿の命を脅かすような敵があったなら、このわたくしが悉く討ち果たして、
「いや、お主を戦場に連れて参る訳には……」
言いかけたが、信幸は黙らざるを得なかった。
二人の妻が互いを押しやりながら一つ方向――つまり信幸の眼前――へと迫る。
思わず身を引いた信幸は、仰向けに倒れそうな上背を、後に突いた手でようよう支えているような恰好となっている。そこへ、
「大丈夫です。御身のお側には、この
二つの声が重なって降って来た。
「お……おう」
信幸は幾度も小刻みに頷き、ようやっとそれだけの声で二人に応えた。
武蔵国
真田伊豆守
桜材の小さな文机を前に、墨を擦り、紙を広げた。
「あやつめ、心配しておるようで、の。わざわざ手紙をよこしおったから、急ぎ書き送ってやらねばならぬ」
ぽつりとつぶやいた。
書状の宛先は、上田城詰めの家老・
『仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、
「他の者には、
『彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候。誠に家の面目外実共に残る所なき仕合わせにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候。先づ上田まで罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候。祝着に候』
署名し、花押を押し、「出浦対馬殿」と宛名を書くと、信之は一度筆を置いた。
「あちらこちらで大名が取りつぶしになっておる昨今、当家は加増となったのだ。めでたいことだ、実にめでたい」
顔を文机から上げ、漫然と振り向いた信之のつぶやく言葉とは裏腹に、その面には喜びの色はなく、幾ばくかの安堵とそれを越える諦めばかりが見て取れた。
「お前達の御陰で、戦で死ぬようなこともなく、この年まで生き抜いたのだから、これから先もつまらぬことで命を縮めてはならぬからなぁ」
信之の目は一所に向けられているが、眼差しはぼんやりとしている。
「しかし、お前達は嘘吐きだ。揃いも揃って、本当に酷い大嘘つきだ」
信之の口元には微笑とも付かない微笑が浮かんでいる。
懐中に収まるほどの小振りな、しかし豪奢な作りの
『清音院殿徳誉円寿大姉』
『大連院殿英誉皓月大禅定尼』
「何が『
信之は暫くの間、返るはずもない妻達の返事を待った後、再び文机に向き直った。
『尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候。様子に於ては心易かるるべく候。以上』
書状に尚書きを入れると、真田信之は手を叩いて小性を呼んだ。
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