嘘女房
- この物語はフィクションです。
- 従って、登場する人物・団体・地名などは、歴史上のそれらとは別物と思ってご覧下さいますよう、お願い申し上げます。
一
襖を開けた途端、甘いような苦いような、あるいはただ単に煙臭いだけのような、紫がかった烟が吹き出てきた。
真田信幸は咽せ込んだ。大げさな、幾分芝居じみた咳払いをしてみせる。
増改築の普請が続く上田城の三の丸に信幸へ割り当てられた仮の屋敷の奧の一室、その中央に置かれた香炉が、もうもうとした烟の発生源だった。その前に、人影が一つある。
「屋敷の外までけぶっている」
信幸の声が幾分くぐもっていた。小袖の袂を口元に当てて烟を吸い込まぬようにしている。
「卦が悪い」
烟の中の人影が不機嫌な声で言った。
「私の『婚礼』のことか?」
訊ね返す信幸の声音もまた不機嫌なものであった。
「あい」
人影は返答するのと同時に立ち上がり、部屋を仕切る障子や襖を次々と開けて回った。
薫風が室内に入り、烟が流れ出て行く。
「散々説明したはずだ。本多殿の息女を私が娶るのは、この真田の家を守るために仕方のないことだ。頼むから聞き分けてくれ。私にはお前と離縁するつもりはないのだから」
烟の中を動き回るその人影を目で追いながら、信幸は切々と語る。人影は返事も相づちも返してよこさぬが、信幸は語り続ける。
「婚姻は……これは徳川殿からの申し出ではあるが、太閤殿下のご意向でもある。仕方がないのだ。お前も武家の生まれゆえ、よく判るだろう?」
時折咳き込みながら、信幸は尚も続ける。
「この先、私は徳川殿の元で働く。駿府と京と大坂と、それから沼田と上田とを行ったり来たり、グルグルと回ることになる。父上は上洛せねばならぬし、源次郎は大坂に詰めることになる。だからお前に、上田と真田の『家』の事を頼みたい。そのことはお前でなければできぬのだ……お前は真田家の……」
烟が目に沁みる。話しながら、目頭目尻をぬぐう。
そのために一瞬、閉ざしていた瞼を開いた時、追っていた人影が視界から消え失せていた。
「垂氷!?」
狼狽えたように辺りを見回し、信幸はその人影の名を呼んだ。
「あい」
返事は彼の足下から返ってきた。
「うっ」
驚いて、思わず後へ飛び退きかけたのだが、そのことを誰にも気付かれたくない。信幸はぐっと腰を落として、足の大きさ半分ほど後ずさるのみで、堪えた。
ずれ下がった爪先の一尺半先に、十六、七歳ほどに見える女性が一人、ちょこんと端座している。
真田信幸の従姉で「元・正室」の垂氷の、地味な小袖に短裳袴をつけて頭は桂包という出で立ちは、侍の妻女というよりも農婦か桂女のようであった。
背の高い夫の顔を、頭をほとんど天井に向けたような恰好で見上げた垂氷は、落胆というか不安というか不満というか、ともかく苦り切った表情の白い顔をしている。
「卦が悪いので御座いますよ」
吐き出すように言って、一枚の紙切れを掲げ広げた。
かすれた墨の線が、ぐねぐねずるずると紙の中を這い回っている。
「徳川様やら本多様やらの姫様が、若様と殊更相性が悪いというのではありません。むしろ、良い縁組みです。ほれ、この通りに……」
どうやらこの蚯蚓の散歩のような墨跡は、垂氷が得た神託を記した物である、と、言うことのようだ。
それにしても、垂氷の言いぶりは、いささか――いやかなり口惜しげであった。
信幸の爪先が半歩前に出た。
「良縁ならば、何として卦が悪いなどと言い出すのか」
垂氷は綺麗に爪を切った右の食指で、広げた紙を叩くように、墨跡の一点を指し示した。
「婚礼をした方角がよろしくありません。日取りもよろしくよろしくありません」
指先が、蚯蚓の足跡をたどって進む。
「そもそも、真田の頭領たるべき若様が、他人様の御城下で婚礼をすると言うことが間違っている。己の氏神の前で起請するのが正しい。おわかりになりましょうか?」
「ならばどうせよと?」
信幸の足が更に半歩、垂氷の膝先に近づく。
垂氷の指は、「神託」の最後の直前まで移動し、止まった。
「困りましたことに、今日が一番卦がよいのです。方角はここより艮の方……ちょうど大星明神のあたりが恵方となりましょう」
大星明神というのは、上田城のまさに艮、すなわち東北の方角にある神社であった。祭神の建御名方命は風神・水神・狩猟神・農神、そしてなにより軍神であるから、ことさら侍達の信仰が深い。
事に真田家にとっては、かつての主家である武田信玄が、上杉との戦を前にして戦勝を祈願する祈誓文を捧げたことがあるというので、篤く信心し、厚く保護している。
上田城の縄張りをこの場所に決めことについても、大星神社がちょうど艮の方角に位置し、鬼門避けに最適であったという理由が、ない訳ではない。
「鬼門が恵方か」
信幸が苦笑するのを、
「笑い事ではございませんよ」
垂氷は背筋をしゃんと伸ばし、天を仰ぐようにして、夫の顔を見据えた。
「若様の不幸は真田の不幸。この垂氷めは、若様の武運長久を祈願し、若様の幸運、引いては真田の幸運を守るのがお役目でございます。そのためには、若様が他の女に獲られようとも……」
口元をへの字に曲げて、口吻を尖らせた垂氷の顔は、夫よりも二つ三つほど年上とはとても思えぬほどに幼げだった。大きく息を吐いて、
「……奪われようとも、それが吉ならば、それでよいのです。それを勧めるのです……全力で!」
語気を荒げて言いきったものの、その直後に、両の肩がすとんと力無く落ち、背中が丸められた。
「ですから対処の術を模索したというのに……下された妙案は為すに成らぬ代物で」
がっくりとうなだれて、畳の目を数える桂巻の後頭部に、
「成されぬか?」
投げ落とされた信幸の声は、どこか笑いを含んでいる風であった。
「今日のうちに夫婦打ち揃って婚礼の起請文を大星サマに奉納するには、その何とやらサマのオ姫サマもこの場にご出来いただかないとなりません。でも、お呼びしたくても、駿府のお城からここまでを今日中にとは、健脚なわたしの足でも到底無理な道程です。ましてや、オ姫サマを連れて帰ってくるなど、とてもとても」
下を向いた首が、力無く、しかし大きく左右に振られる。
「それも、そうだな」
俯いた垂氷からは見えぬ信幸の顔には、なんと笑みがあった。悪戯な小童が、幼馴染みを小馬鹿にしている、そんな笑みである。
微笑したまま、信幸はその場にすとんと胡座した。高い背を曲げて、うなだれている垂氷の顔を下からのぞき込む。
「出立するなら、目指すは駿府ではなく大星様だな。これから皆で大星様へ詣ろう」
「はえ?」
思いがけない言葉に驚いて、奇矯な声を上げながら顔をもたげた垂氷は、自分の正面に座った夫の肩越しに、一つの見知らぬ影を見いだした。
部屋の外、小廊下の板張りの上にいる様子のその影は、にこりと笑うと、やはりすとんと座り、頭を下げた。
「本多何とやらの娘、稲と申します。よしなに」
「はうあ?」
垂氷は声にならぬ声を上げながら、年若い正室とその夫の、二つの笑顔を代わる代わるに見た。