第零章 【「漢(かん)」という国】

 現在、我々は中国から来た文字、あるいは中国で使われている文字を、「漢字」と呼んでいる。
 中華人民共和国で小数民族と呼ばれない人々の大半は、自身を「漢民族」と称している。
 四千年とも五千年ともいわれる中国の歴史上には、幾度も「漢」を国号とする国家が登場する。
 その頻繁さは、「漢民族の国であるから」と言い切れるほど単純ではない。
 現に、「漢民族」から迫害を受け続けた小数民族・匈奴(きょうど)の王が「漢王」を名乗った事がある。彼は「漢帝国の復興」を旗印にレジスタンス活動を行い、ついには「漢の皇帝」に納まった。
 「漢」とは、それ程までに理想的……いや、幻想的な国だった。
 
 「理想国家・漢」は、紀元前二○○年、日本がまだ「弥生」という統一国家を持てぬ時代であった頃、誕生する。
 「漢中(かんちゅう)」という土地に封じられていた劉邦(りゅう・ほう)、諡(おくりな)を高祖(こうそ)、という小役人上がりが、ライバル項羽(こう・う)を打ち倒して興した国……帝都を西の都・長安に定めたため「西漢」と呼ばれている国……がそれである。
 劉邦自身には政治的な能力も戦略的な膂力もなかった。ただ、有能な家臣達を使いこなす能力を、彼は持っていた。
 人を引きよせる魅力が、彼からは溢れていた。
 人を魅きつける力を「徳」と呼ぶらしい。
 この点で劉邦は、まさしく「有徳の人」であった。……彼の人徳は時として敵将までにもおよび、それによって彼自身の命を幾度も救う程の影響を与えた。……
 創立者・劉邦の徳の故「漢」は「徳の国」の代名詞となった。
 後続達はこのイメージに憧れ、「漢」を興したのだ。
 残念な……というか、当然のというか……ことに彼ら自身の「徳」は棚に上がりっぱなしであった。大半が自滅の道に至るのは必然と言える。
 さて、西漢は別称を「前漢」ともいう。四百年続いた劉氏の帝国の前半二百余年部分であるからだ。
 これに対して、後半の二百年弱を「後漢」と呼ぶ。都を長安よりも東側にある洛陽においたことから「東漢」とも呼ばれている。
 四百年を西東前後に二分するのは「新(しん)」という王朝だ。
 西漢十四代目劉嬰(りゅう・えい)の摂政であった王莽(おう・もう)が、「高祖の霊から国を譲られた」と称して帝位に就いたものである。
 この時漢帝国は……王莽の用意周到な根回しがあったとはいえ……じつにあっさりと滅亡している。それはこの国が、劉邦という一本の大樹の足元に広がる潅木の茂みのような国であったからだ。
 先にも触れたが、劉邦の家臣達は彼の人徳に魅かれて彼の元に集っていた。
 だが劉邦本人が死に、さらに長い年月が過ぎると、彼の「人徳」も次第に神通力を失っていった。
 結果、その頃の漢帝国は形式ばかりで中身の充実しない、虚ろな洞を抱えた老木のような国家になっていた。
 王莽はそんな「根腐れを起こした巨木」に寄生して咲いた徒花(あだばな)だった。
 で、あるから、「新」はわずか十五年間の命運で消え失た。……親木が枯れ果てれば、寄生植物もまた枯れるというのが自然の法則というものである。
 そして、枯死した樹木は若木にとって恰好の苗床であるというのも、自然の摂理だ。
 その若木の名を劉秀(りゅう・しゅう)という。
 彼もある意味で「有徳の人」であった。
 劉秀は高祖・劉邦から数えて九代目の子孫であるが、王族として爵位をもっている訳ではなかった。
 彼は、枝別れを重ねて膨大に増えてしまった遠い親族の一つ……近所の者が無責任に「世が世なら天子様」と噂するような、単に代々劉という姓を名乗っているだけの家……の、それも三男坊だった。
 その三男坊が後世に「光武帝(こうぶてい)」と諡される身と成りえたのは、彼が力の均衡した豪族連中を取りまとめる能力を持っていたからだ。
 西漢を「劉邦という巨木」になぞらえるなら、東漢は「劉秀というやや太い木を中心に何百もの雑木が寄せ集まって成り立つ森」のような国家と言える。
 しかも劉秀はその森の中で、ほんの頭一つ抜きん出ていたに過ぎない。……他の木が成長して劉家を抑え込む可能性を、東漢帝国は最初から孕(はら)んでいた訳である。
 幸いにして、劉家は百五十年間「頭一つ」の状態を維持し続けた。
 宿り木と苔と菌類にまとわりつかれ、他の木々からはじわじわと圧迫を受ける、瀕死の状態ではあったが……。
 こうして、東漢帝国は生きながら「豊かな土壌」と化していった。
 豊壌の土地にはいく本もの若木が芽吹き、それぞれに天を指して伸び始める。
 かつて劉秀がそうであったように……。
【この章、了】