卵
興平元年(194年)、徐州・小沛。
確かに立派な家だった。
だが不思議と、豪邸に付き物の閑散さが無い。
かと言って、にぎやかな訳でもない。
大体、この屋敷には人気というものがない。
そもそも、客をもてなすのに婢(はしため)が一人しか出てこないというのが、なんとも妙である。
「それはつまり、私のような“馬の骨”では下の者がまとまらない、という事だろう?」
静かな、小さな宴席の上座で、この家の主は眉一つ動かさずに、客に尋ね返した。
主の白く丸く長い顔は、髭の薄さも手伝って、さながらつるりとした卵の風体だ。
表情に起伏がないところも、ますますその感を高める。
しかし、口元に微かな笑みがあるから、冷淡な印象は受けない。
柔らかな無表情、少ない口数、直截な物言い。
客は、主人・劉備玄徳(りゅう・び げんとく)が相当な偏屈であろう事を予想してはいた。
『しかし、あの顔は…。腹の中が読み取れぬ』
客……麋竺子仲(び・じく しちゅう)……は困惑を面に出さぬよう努めて、応えた。
「有り体に申さば、そのような事ですな」
「子仲殿も大変だな。そんな“馬の骨”を主公(あるじ)にしようというのだから」
劉備のイヤミには、何故か毒気がない。
麋竺は先の徐州牧・陶謙(とう・けん)の幕僚だった。
三日前に薨(こう)じた主君は、今わの際に何故か、客将・劉備を後継者と指名した。
「陶徐州様のご遺言ですから」
「仕方がない、かね?」
劉備がニッと笑んだ。
「……いかにも」
釣られて麋竺も笑んだ。笑みながら、肺腑の奥にため息を押し込んだ。
『厄介な御仁だ。当たり前のように、他人を己の手の内に引き込まれる』
劉備は笑いながら続ける。
「馬の骨に良家の娘を嫁がせて箔を付けるのは良くある策だ。しかし、貴君の『己の妹を』というのは……また思いきった策だな」
笑んだ口から溢れるのは、なんとも砕けた口調だった。
だが、彼の目元には笑みがない。……少なくとも、麋竺にはそう見える。
「使君(しくん)が御正室を亡くされたと聞いての事ですが。……我が妹ではご不満ですか?」
劉備は視線を麋竺から外し、己の傍らをチラと見た。
そこには婢が控えている。
歳の頃十八・九。美人とは言い難いが、愛敬のある顔をした、よく働きそうな女だった。
主の眼差しに、女は慌てて杯を満たした。
劉備は杯を口に運ばなかった。それを掲げたまま、空いている方の手を、自身の大きな耳たぶに伸ばした。
瞼を閉じている所から推するに、何か考えているようだ。
暫くして、彼はボソと言った。
「国を安んじたいのなら、実績がある者に与えれば良かろうに。……寿春に袁公路が居る。四代三公の家柄に徐州を譲れば良いものを」
「あの傲慢な男に、ですか?」
袁家は四代に渡って国家の重臣たる『大尉・司徒・司空』の、いわゆる『三公』を排出した、当代随一の権勢家だった。
現当主の袁術公路(えん・じゅつ こうろ)は人望厚く、配下には良臣が多い。
だが彼はその人望が「家柄から高まった」物である事を忘れ、「自身の人間性に因る」と取り違えていた。
故に、時折わがままな振る舞いをする、との風聞もある。
麋竺が目を丸くしたのはその為だった。
「昨日、元龍殿もそう言っていたな。文挙殿に到っては『あんなものは墓の中の骸だ』と」
劉備が事も無げに言うので、麋竺の目はさらに丸くなる。
陳登元龍(ちん・とう げんりょう)は済北国の相を務める陳珪漢瑜(ちん・けい かんゆ)の息子。
北海国の相たる孔融文挙(こう・ゆう ぶんきょ)は孔子から数えて二十代目という儒家。
共々、徐州では推しも推されぬ『大人(たいじん)』である。
「あのお二人の薦めすらも、お断りに?」
麋竺の驚嘆に、劉備は応えなかった。
彼は目を閉じたまま、逆に麋竺に訊ねた。
「子仲殿は元々商人だったそうだな?」
「はぁ。麋家は五代遡ってなお商いをしておりますが」
麋竺はいぶかし気に、それでも答えるだけは答えた。
「私も昔、商いをしていた」
「左様で……」
初耳だった。
麋竺は、劉備の閉ざされた目をじっとみつめた。
「麋家には到底及ばない、ほんの小商いだったがね。それでも家族を養う事はできた。だからよく知っているつもりだ。商人は利の無い事には関わらない、ということをな」
劉備はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「子仲殿、私を州牧に持ち上げて何の利がある?」
穏やかな視線と静かな言葉が麋竺を貫いた。
一拍の間が、重く流れた。
劉備は、低く言った。
「俺は大店の入り婿には向かんぞ」
眼光が一転した。
今までの穏やかさが掻き消えていた。
その鋭さに刺されて、麋竺は息を飲んだ。
『読まれた』
彼は、そして彼の同僚達は、劉備をただの傭兵隊長だと見ていた。
無学な武偏者に過ぎないと思い込んでいた。
所が、違った。
劉備は陶謙の遺臣達の目論見を見抜いている。……田舎者に良家の子女を充てがって恩を売り、お飾り殿様を仕立て上げ、州政を思うままに牛耳る目論見を……。
『見誤った。とんだ食わせ者だ』
麋竺の総身から脂汗が滲んだ。
上目遣いに劉備を見上げる。
彼は再び目を閉じていた。
そうして、静かに言う。
「それに、なぁ……」
劉備は一息に杯を干した。
「私には女房を二人も養うだけの甲斐性がない」
澄んだ笑い声が、狭い室内に響いた。
「は?」
麋竺が言葉を失い、ぽかんとだらしなく口を開けているその眼前で、劉備は傍らの婢を抱き寄せた。
「こいつはな、甘美淑(かん・びしゅく)といって、古くから当家に仕え、母の世話をしてくれていた。母はこれかお気に入りで、後添えにしろ、とうるさく言う」
頬と耳とを真っ赤に染めた美淑のうれしそうな困惑顔の横で、劉備は笑っている。
三度開かれた目の中にあるのは、楽しそうな、嬉しそうな、澄んだ笑みだ。
その笑みで、麋竺の脂汗は一気に引いた。
そして彼も笑った。心の底から笑った。
「それでは婢がいなくなり、御母堂のお世話にお困りになるはず。我が妹を侍女になさいませ。それから州牧には、やはり使君に成っていただきたい。……いや、あなたでなければ、劉玄徳でなければなりません」
麋竺は大商いの予感に浮かれていた。
何が生まれるか判らない、巨大な卵を仕入れた……そんな気がしていた。
〈了〉
蛇足用語注
「牧」……軍事権を持つ州知事。「刺史」……軍権を持たない州知事。(古代は「刺史」であったものが、霊帝のころ「牧」と改称され、権限が拡大された。だったら「刺史」を廃止すりゃいいのに……)
「使君」……刺史に対する尊称。この時、玄ちゃん(ヲイ!)一応、豫州(よしゅう)刺史だったので。
「相」……領地に住まない皇族に代わって、領国を管理する役職。ようするに「お代官様」。
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