桃花抄
 
 季漢の章武元年(西暦221年)、漢の第二十九代皇帝・劉備玄徳(りゅう・び げんとく)、呉討伐の軍を起こす。
 
「御身をお労り下さいませ!」
「羽(う)が討たれ、飛(ひ)も死んだ! その仇を討つ事こそ、朕(ちん)の身の労りぞ!!」
 齢六十を超えた皇帝が怒号を発された。
 ここ数年、帝の眉に怒気が溢れた事などなかった…と言うよりは、元々陛下は度量広い御方で、私情を露(あらわ)にされぬ御気質であられたから、その激しい御怒り振り自体に近習の者達は驚き、口を閉ざした。
 
 …後漢の建安二十四年(219年)、前将軍・関羽雲長(かん・う うんちょう)、呉魏の挟撃に遭い、子・関平(かん・へい)と共に刑死…
 …季漢の章武元年(221年)、車騎将軍・張飛翼徳(ちょう・ひ よくとく)、配下の張達(ちょう・たつ)及び范彊(はん・きょう)らにより謀殺さる…
 
「私憤をお捨て下さりませ!」
 忠臣が一人、口を開いた。
 帝は鋭い視線をその者…鎮軍将軍・趙雲子龍(ちょう・うん しりょう)に注がれた。
「私憤…だと? 羽の仇討ちは、朕の私事だと申すか!?」
 子龍は帝の御前に進み出で、膝を突き、訴えた。
「その通りに御座りまする! 今、漢は国土を魏呉に削られ、南方の異民族は未だ陛下の御威光を知らず、国は…国はまだ治まってはおりませぬ! 巴蜀は守るに安く攻めるに難い天府之地(てんふのち)。今は伐って出るよりも、守り固めるが肝要! 更に、陛下が討つべきは呉にあらず。呉に漢との手切れをそそのかした魏こそ、雲長殿の真の仇敵に御座りましょう!」
「…黙れ…」
 帝の御唇が微かに動いた。が、子龍は続けた。
「曹魏の目論見が、お判りになりませぬか? 漢・呉を仲違いさせて戦を呼び、互いが互いの国力を削るを傍観し、兵力の浪費を待ち、双方の国力を削ぎ……自らは労せずに二国を手中にせんという企てを…!!」
「黙れ! 言うな!!」
 子龍の唇は止まった。
 驚きのあまり硬直したのだ。
 帝の御側に仕えて二十有余年、子龍はその大喝を受けた事など只の一度とてなかった。
 いや、今帝の御前に立つ臣の内に、帝の怒声を浴びた事のある者が在ろうか。
「俺以外の誰が雲長の仇を取れると言うのだっ!!」
 『劉備玄徳』が叫んだ。
 その声量が、そのまま『彼』の決意の堅さを現していた。
 白金の鎧を鳴らし、群臣の波を分けて、帝は往く。無謀な戦場へ向けて往く。
 その戦袍(ひたたれ)を追い、御前に立ち塞がり、子龍はなおも喰い下がった。
「このような無意味な戦いに、雲は従軍し兼ねまする!!」
 絶叫だった。子龍は熱い眼差しで帝のご尊顔をみつめた。
『こう申し上げれば、思い留まって下さる筈だ』
 帝の御前に仁王立ちし、子龍は確信していた。
『戦は兵数優劣の決まるものではなく、兵を率いる武将の能力で決まるもの。関羽・張飛の二将軍亡き今の我が軍に、この趙雲と並ぶ武将は居ないというのは、自惚れなどではない。優れた将がおらねば戦には成らない。歴戦の帝にそれが判らぬ筈がない。勝ち目のない戦をなさるような御仁ではない』
 が、帝は彼を押し退け、仰せになった。
「ならば、来るな」
と。
 
 陛下は臣の言を良く聴く方であった。
 臣の心中を良く察する方であった。
 臆病な程に慎重で、腰の重い方であった。
 民を愛し、国を想う方であった。
 
 その御方の中で、今、何かが崩れ始めていた。



 長江中流の断崖の上、その城は立つ。胎内に、大きな悲しみを孕んで、城は立つ。
 
「蒼天已死(そうてんすでにしす)……已死…」
 老皇帝は病床で呟いた。
「もし我が子・禅(ぜん)が扶(たすけ)けるに値しなければ…孔明(こうめい)、君が国を盗れ」
 そう言って、彼の人は笑んだ。
 
 香の煙る中、趙雲子龍は泣いていた。
 泣きながら、丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつ・りょう)孔明に詰め寄った。
「あの時、何故陛下をお止め下されなんだか!?」
「私が止めておれば、陛下はお留まり下された、と?」
 孔明はうつ向いたまま、逆に子龍に問うた。
「当然でしょう! 丞相は陛下が腹心として恃(たの)みした方だ! それがしの言葉は聴かずとも、丞相の言ならばお聴き入れ下された筈!」
 孔明は瞼を閉じた。それに押され、泪は溢れ、落ちた。
 子龍には孔明の泪の意味が判らなかった。
 陛下をお止めしなかった事を今になって悔やんでの泪なのか、或いはもっと別の理由からなのか、判別が付き兼ねた。
「…丞…相……?」
 彼が怪訝そうに声をかけると、孔明は唇を震わせた。
「私が…陛下をお止めしようと思わなかった筈が…ないでしょう…? しかし…」
 孔明は顔を上げ、瞼を開けた。その視線は鋭く、遠い。
「あの時…陛下は仰せになった。『俺以外の誰が雲長の仇を取れるのか』と。子龍殿、お判りか? 『朕』ではなかった…『俺』と仰せだった…」
 はらはらと泪は落ちる。腕に胸に、止めどなく落ちる。
「劉玄徳は大儀を捨て、信義を取られた。漢帝国の四百年より、桃園での一日を取られた…」
「噫(ああ)」
 泪で霞む子龍の瞳に、見た事のない、しかし懐かしい情景が浮かんだ。
 
     晴れ渡る青い空、
     降りしきる淡桃色の花弁を受けて、
     三人の若者は杯を掲げる。
     天に誓う、地に誓う
     義を貫き、共に生くるを
 
 趙雲子龍の総身から、ふうっと力が抜けていった。
 彼の両膝は張りを失い、床に落ちた。
「『義弟(おとうと)達が呼んでいる』と仰せになって後、お隠れになられました…」
 倒れ込む子龍の身体を、孔明が支え、言った。
「…不求同年同月同日生、只愿同年同月同日死…。(同年、同月、同日には生まれられなかったが、同年、同月、同日に死ねれば良い)」
 諸葛孔明は笑んだ。泣きながら笑んだ。
「この誓いは、私ごときでは崩せない」
 
 章武三年(223年)、季漢皇帝・劉備玄徳、白帝城にて崩ず。
 享年六十三。
 諡(おくりな)を、昭烈帝(しょうれつてい)という。
−了−


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