その一 劉備。
 蜀漢(個人的には「季漢」と呼びたい)初代皇帝 劉備
 字は玄徳
 三國志演義前半の主役、正史三國志のわき役。
 天下一の大ぼら吹き。または三国一の大梟雄。
 その容姿は魁偉…両腕が長くて膝に届き、耳はハイパー福耳で肩に届き、横目で自分の耳が見えるほど視野が広く……って「魁偉」ぢゃなくて「怪異」だぜ……。

 西暦161年、河北【たく】郡の田舎村の生まれで、自称「中山靖王・劉勝の末孫」。
 ……ちなみに劉勝殿には、名前の分かっているだけで120人の男の子がおられたそうな。名前の分かっていない男の子がまだいるとして、そのうえおよそ同数の女の子がいたとして……。
 玄徳が本当に劉勝の末孫かどうか、ハッキリしない、というのが、結論。
 そうだとも、そうぢゃないとも言いきれないな。史家(嘘を吐くな〔笑〕)としての立場をとると。
 ま、本人は堅くそう信じていただろうし、私もそう信じている。……だって、季漢の臣だもの♪

 祖父は地方役人を勤めていたが、父は玄徳の成人以前に死亡。
 母を守って生きねばならなかった少年劉備は、草履や蓆を売って糊口を凌いでいた。
 この前歴を、後々曹操孫権あたりが、やれ「下賎の出よ」だの「蓆売りの犬よ」だの馬鹿にするのね……かわいそ。
 しかし15歳の時に叔父の援助を受けて都会の学校に遊学に行った事から見ても、彼は只の平民ではなかったのだろう。

 西暦184年、黄巾の乱が起きると、近所の若い衆およそ400人を引き連れて旗揚げ。
 この時の若い衆の中に、関羽張飛なんて剛の者が混じってたりする。なんてラッキーな御方だろう。(あ、簡雍も居たな)
 黄巾討伐ではそれなりに戦功を上げ、それなりの官職を貰うものの、気に入らない巡察官をぶん殴って出奔。……この乱暴者!
 それからは……。
 学問の上での兄弟子・公孫【さん(王賛)】
 徐州の好々爺・陶謙
 裏切り魔王・呂布
 人材フェチ・曹操。
 天下一のぼんぼん・袁紹
 荊州のお人好し・劉表
と、やたら年上から気に入られまくる。
 斯くして、裏切り、裏切られ、信じ、信じられて、諸勢力の間を渡り歩く事となる。
 ……これを梟雄と言わずして何と言う!
 え、節操なし? ごもっとも。

 その後、悲劇の軍師・徐庶元直の薦めで、ハッタリ大魔王・諸葛亮孔明を拝み倒して幕下に加え、孫権をだまくらかして荊州に居座り、南郡四州の弱小君主を破り、荊州返還を迫る魯粛を演技力(嘘泣き)でかわし、ナルシス周瑜孔明の罵声で殺し、龐統士元を酒で誘い込み(嘘)、同族(演義では「義理の従弟」)の劉璋を蹴落として蜀を奪い取り、孔明&許靖等にそそのかされて帝位に就き、意地を通して呉に戦を仕掛けて、散々に負けて逃げ返り、下痢になって亡くなられた。(ひでぇ言いようだ……)
 享年63(数え年)。……合掌。

 劉備自身は、はっきり言って、武勇も知略も乏しい。(曹操サマ曰く「知恵はあるが、思いつくのが遅い」。誉めているのか、けなしているのか……)
 しかし彼は部下の才を見抜き、使うのが上手かった。
 また家臣を愛する心が強かった。
 それ故、家臣に愛され、多くの人々が彼の元に集った。
 彼はそれを全ての飲み込んだ。
 劉備玄徳とは、何でも取り込める「底なしの器」だったのだ。
 正史・三國志の著者「陳寿」老師も、
「思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった(日文訳・井波律子先生。ちくま学芸文庫より引用)」
と仰せだ。

 ちなみに「演義」では二刀流と言う設定。
 ……これそこの君、邪な事、考えないようにね♪(……激しく自己嫌悪)
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