その二 曹操。
魏の太祖、武帝と追諡された曹操。字は孟徳。
演義の悪役、正史の主役。
紅蓮の猛将、情熱の詩人。
乱世の奸雄、治世の能臣。
曹家は前漢から続く名家であったが、曹操の祖父・曹騰(そう・とう)は宦官であった為、養子を迎えた。
裴松之(はい・しょうし)が正史に付けた注に因れば、この養子・曹嵩は夏侯氏の出身。
これを信用すると、夏侯惇・夏侯淵は曹操の従弟と言う事になる。
曹仁・曹洪も従弟であるから、初期曹操陣営の強さは、血縁という団結力が基となっていたのだろう。
若い頃の曹操は学問を好み、学校では主席を張っていた。
師の留守に教壇に立つこともあったという。
また、孫子の兵法書に独自の注釈を付けたりもしていた。…現在「孫子」として伝わっている書物は、彼が注を付けた、彼の選書である。
…ここまで読んで「おお、孟ちゃんってば、まぢめな好青年!」と、思った貴方、サッカリンより甘い。
彼は「成績優秀な不良少年」だったのだ。
仮病・ハッタリは当たり前。
悪友・袁紹と組んで、近所の名家から花嫁をかっさらうなんて犯罪を犯している。
その犯罪者が20歳で「郎(皇帝の警護官)」に推挙され、更には洛陽北部尉… つまり首都北部を管轄する警察長官になったってぇから 乱世は怖い。
ちなみに彼をこの職に取り立てた人物は司馬防とされている。
後に魏から国を強奪…ぢゃなかった禅譲された、晋の開祖・司馬炎の曾祖父、つまりあの司馬懿のパパだった…と言うのは運命の悪戯か、はた又歴史の守護者の成せる業か。
さても、部尉時代の曹操は、小悪人どもから「鬼」と恐れられるほどに、厳格な取締をしていた。
時の権勢者にも媚びずにズバズバ取り締まるので、逆に高官から煙たがれ、帝都から遠ざけられて、田舎の県令にされてしまう。
県令ってのは、位は部尉より上ってことになってます。部尉が「警察署長」なら、県令は「市長(司法も行政もひっくるめた、地方長官)」だものね。
でも、都から遠ざけられる…ってのはやっぱ「左遷」でしょう。
これが彼を卑屈な男にしてしまったに違いない、と私は思うんです。
漢朝中枢の腐り具合を知ってしまった、という事が。
黄巾の乱の時は騎都尉に任じられ功を上げる。
その後、典軍校尉となった曹操は、董卓の暗殺に失敗。
旧友袁紹を担ぎ上げ、反董卓軍を結成するも、結局董卓を倒す事ができずに、この史上最大規模のクーデター軍は解散。
しかし彼は、このどさくさに将兵を集め、自軍営の強化にいそしむ。…転んでも只では起きないお方だ。
更に焼け野原にされた洛陽で、膝っ小僧抱えてメソメソしてた献帝陛下をとっ捕まえて祭り上げ、自身が築いた都「許」に遷都する事に成功する。
ここから曹操の「運」は急上昇。
悪友・袁紹とは縁が切れた。(自分で殺ったんやんか…)
一寸兵を動かしただけでで劉【ソウ(王宗)】は降伏して荊州は手に入る。(その後、赤壁でどないな目におうたっけか…)
西涼の馬騰は勝手にコケる。(馬超には逃げられたね…)
漢中の新興宗教の教祖様は、あっさりと寝返ってくれる。 (後で漢中は劉備に取られな)
と、まあ、良い事づくめ♪(をいをい!)
最後は左慈にからかわれ(演義版)、関羽の亡霊に取り憑かれて(これも演義)、数え66歳で死亡。
でも魏王になれたし、息子は漢から国を奪え…いや、譲られたんだし、良かったぢゃないの。