その三 孫権。
呉の開祖、大帝こと孫権。
字は仲謀。
孫堅パパの次男、孫策兄さんの上の弟。
江東の碧眼児。或いは、紫髯の鼠輩。
金髪美形で胴長短足。
自称「孫武(孫子の兵法書の著者…と言われている人物)の末孫」だが、ハッキリ言って眉唾もの。
劉備が「中山靖王の末裔」と言ってるのと同じレベルの信頼度(これも史家として見ると、の話)。
11歳(数え年)で父に死なれ、その8年後には兄が早世し、わずか19歳(これも数え年)で東呉の主と成らざるを得なくなる。
しかし父兄が残して逝った良臣を、手足のごとくこき使い…あ、いや、使いこなし、呉を大国に育て上げて行った。
めでたしめでたし。
…あ、終わっちゃった……。え、嘘、うそ、ウソですよ。
ちゃぁんと書きます。
(何しろ「蜀ファン」なので、呉に関しては疎いの。許して)
ええっとぉ…
西暦208年、曹魏100万(実数80万弱)の侵攻を受けた折、保守派の文官達の降伏論を退け、周瑜・魯粛を用いて交戦。
わずか5万の兵力で赤壁でこれを打ち破る。
…これがいわゆる「赤壁の戦い」だ。
が、調子に乗って荊州を攻め取ろうとした時には、劉備がこれを占拠した後。
そこで美貌の妹をダシにして、政略結婚で劉備から荊州を「取り戻そう」としするも、敢えなく失敗。
こーなったら玄徳よりも先に益州を取ったる! と出兵するが、大都督・周瑜の不慮の死(犯人=孔明)によって挫折。
それでも劉備が益州を手中にすると、魯粛と孔明の話し合いで荊州の1/2を「返して」もらう。えらいぞ魯粛♪(私情を挟むなよ…)
しかし孫権は“半分こ”では満足できない。
劉備が漢中王に成ったのを見計らって、同盟を破棄。
更に魏と結んで「傲慢な」関羽を挟撃。
呂蒙・陸遜の活躍により、これを生け捕り、息子の関平と共に斬首。
こうして荊州の残り半分を「取り戻し」た。
義弟を殺された劉備は怒り心頭。
その矛先を魏に向けるために、孫権は関羽の首を曹操に献上した。(この「塩漬けの生首」が曹操の寿命を縮めるのね♪)
ところが、60を越えた劉備はまさに「老いの一徹」。家臣が止めるのも聞き入れずに、強引に呉へ向けて遠征。
これは劉備のポカと陸遜の軍功により、夷陵で撃破できた。
こうして229年、孫権は自ら帝位に就き、ここに三國鼎立が成る。
だから、赤壁合戦で終わっちゃっている「アニメ『横山光輝 三国志』」は、厳密には「三國志」じゃない、と。バンダイ、続きを作れ!(私憤を捨てろってば…)
……と、ここまでは割と順調な(?)半生を送った孫権だがこの後が悪い。
長男・孫登の死後、次男・孫和を太子に立てるが、孫権は三男で魯王の孫覇を溺愛し、跡継ぎにしようとした。
そのため国内は皇太子派と魯王派に二分され、派閥抗争が起こる。
丞相の陸遜が 、
「一度立てた太子を軽々しく廃するべきではない」
と再三上奏したが、これを聞き入れず、哀れ陸遜は流罪にされちゃう。
結局、この派閥抗争が呉を内側からむしばみ、国力の低下の原因となったワケ。
孫権自身は70歳で天寿を全うする。
長生きしたのは自分では何もしなかったからかな?
…なんて事は、ファンが怖いから、言い切れないわ…。(それ、逃げろッ!)