その三 献帝 他。
トップページで「三國皇帝プロフィール」とタイトルコールしたのだが、ふと、曹操は皇帝ではないと言う事に気付いた。
タイトル変えればええのやけど……。あかん、思いつかへんわ。(アホやな)
んぢゃぁ、後漢の断末魔を飾る歴代の皇帝陛下たちの紹介でもしましょうか。
これなら「皇帝プロフィール」のタイトルに符合してるぞ。(をいをい)
さて、後漢のラストエンペラーと言えば、献帝、御本名を劉協と言います。
献帝は霊帝こと劉宏の第二皇子でした。第一皇子は劉弁で、通称「少帝」。
……でも彼は董卓に帝位を廃されてから殺されてるから、正確には「廃帝」と呼ぶべきなのではなかろうか?
ま、それはさておき。
この二人の皇子様のことは、三國志を知っている方々には常識でしょう。
この弁皇子と協皇子の跡継ぎ争いから三國志は始まると言ってもいいのだから。
でも、争ってたのはそれぞれの取り巻き連中で、当人同士ぢゃなかったんだよね。それに、当人達がが仲が悪かった、てぇ話は聞いた事がないな。
さて、話は霊帝の前の前の前の帝、冲帝の頃まで遡ります。
冲帝は僅か2歳で即位、3歳で崩御されてしまいました。
当然、皇子はいませんから、従兄弟の質帝が7歳で即位。
実に聡明な御方だったのですが、賢すぎて傀儡(かいらい)にできないと判断されて、8歳で外戚に毒殺されてしまうのだ。
質帝にも皇子が居ないのは当然。
そこで毒殺犯人は質帝の曾祖父の弟の孫を引っ張ってきて帝位に就ける。(さあ、ここら辺から家系図がややこしくなるぞ)
これが桓帝。
この帝(みかど)、割と頭が良くって、先代を殺害した外戚をこのまま残しといたら自分も危ないってんで、宦官(かんがん)を炊きつけて外戚廃絶に成功。
所が今度は宦官が横行するハメになる。しかも、桓帝陛下は男子に恵まれずに御逝去。
そこで桓帝の母親が、自分の旦那の兄貴の孫を、ド田舎から連れてきて御輿に乗せた。
いきなり都会に放り込まれ、更に最高権力を与えられ、舞上がっちゃった男……これすなわち霊帝、時に12歳。
つまり霊帝は、桓帝の外戚が 自分達の操り人形にするために据えた、バリバリの御飾り皇帝だったワケ。
ふぅ、長い説明だった……。
え? 結局、何が言いたいのかって?
つまり献帝は由緒正しい、筋金入りの傀儡だったってことさ。(コラコラ)
一つの王朝は、長く続きすぎると 内側から腐って崩壊する。
やっぱり国家のアタマは世襲制で決めてはいけないのだろうなあ。
だからって、無理矢理「禅譲」迫っちゃダメだぜ。
ね、曹丕クン、司馬炎クン。(よし、落ちがついたぞ)