桃花抄 − 【1】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/20 update
 
 季漢の章武元年(西暦221年)、漢の第二十九代皇帝・劉備玄徳(りゅう・び げんとく)、呉討伐の軍を起こす。
 
「御身をお労り下さいませ!」
「羽(う)が討たれ、飛(ひ)も死んだ! その仇を討つ事こそ、朕(ちん)の身の労りぞ!!」
 齢六十を超えた皇帝が怒号を発された。
 ここ数年、帝の眉に怒気が溢れた事などなかった…と言うよりは、元々陛下は度量広い御方で、私情を露(あらわ)にされぬ御気質であられたから、その激しい御怒り振り自体に近習の者達は驚き、口を閉ざした。
 
 …後漢の建安二十四年(219年)、前将軍・関羽雲長(かん・う うんちょう)、呉魏の挟撃に遭い、子・関平(かん・へい)と共に刑死…
 …季漢の章武元年(221年)、車騎将軍・張飛翼徳(ちょう・ひ よくとく)、配下の張達(ちょう・たつ)及び范彊(はん・きょう)らにより謀殺さる…
 
「私憤をお捨て下さりませ!」
 忠臣が一人、口を開いた。
 帝は鋭い視線をその者…鎮軍将軍・趙雲子龍(ちょう・うん しりょう)に注がれた。
「私憤…だと? 羽の仇討ちは、朕の私事だと申すか!?」
 子龍は帝の御前に進み出で、膝を突き、訴えた。
「その通りに御座りまする! 今、漢は国土を魏呉に削られ、南方の異民族は未だ陛下の御威光を知らず、国は…国はまだ治まってはおりませぬ! 巴蜀は守るに安く攻めるに難い天府之地(てんふのち)。今は伐って出るよりも、守り固めるが肝要! 更に、陛下が討つべきは呉にあらず。呉に漢との手切れをそそのかした魏こそ、雲長殿の真の仇敵に御座りましょう!」
「…黙れ…」
 帝の御唇が微かに動いた。が、子龍は続けた。
「曹魏の目論見が、お判りになりませぬか? 漢・呉を仲違いさせて戦を呼び、互いが互いの国力を削るを傍観し、兵力の浪費を待ち、双方の国力を削ぎ……自らは労せずに二国を手中にせんという企てを…!!」
「黙れ! 言うな!!」
 子龍の唇は止まった。
 驚きのあまり硬直したのだ。
 帝の御側に仕えて二十有余年、子龍はその大喝を受けた事など只の一度とてなかった。
 いや、今帝の御前に立つ臣の内に、帝の怒声を浴びた事のある者が在ろうか。
「俺以外の誰が雲長の仇を取れると言うのだっ!!」
 『劉備玄徳』が叫んだ。
 その声量が、そのまま『彼』の決意の堅さを現していた。
 白金の鎧を鳴らし、群臣の波を分けて、帝は往く。無謀な戦場へ向けて往く。
 その戦袍(ひたたれ)を追い、御前に立ち塞がり、子龍はなおも喰い下がった。
「このような無意味な戦いに、雲は従軍し兼ねまする!!」
 絶叫だった。子龍は熱い眼差しで帝のご尊顔をみつめた。
『こう申し上げれば、思い留まって下さる筈だ』
 帝の御前に仁王立ちし、子龍は確信していた。
『戦は兵数優劣の決まるものではなく、兵を率いる武将の能力で決まるもの。関羽・張飛の二将軍亡き今の我が軍に、この趙雲と並ぶ武将は居ないというのは、自惚れなどではない。優れた将がおらねば戦には成らない。歴戦の帝にそれが判らぬ筈がない。勝ち目のない戦をなさるような御仁ではない』
 が、帝は彼を押し退け、仰せになった。
「ならば、来るな」
と。
 
 陛下は臣の言を良く聴く方であった。
 臣の心中を良く察する方であった。
 臆病な程に慎重で、腰の重い方であった。
 民を愛し、国を想う方であった。
 
 その御方の中で、今、何かが崩れ始めていた。
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まろやか連載小説 1.41

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