小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【7】 BACK | INDEX | NEXT 2014/09/26 update |
果たして、急使はやって来たのです。 エラの張った四角い顔の真ん中に、小振りな目鼻と大きな口をギュッと一塊に放り投げたようなその顔は、よく見知ったものでありました。 譜代の家臣です。しかし普段であれば、早馬に乗せられて使い走りをするような男ではありません。それはつまり、それほど重要な使いであるという意味でありました。 丸山土佐守は私の出で立ちを見るなり、 「ああ、間に合うた!」 と、叫んだものです。その声は掠れきっていましたが、声音からは本心安堵しているのが良く判りました。 土佐は馬から滑り降りると、よろめきながら私の足元に膝をついて、 「若におかれましては、暫しご自重を……」 荒く激しく息を吐きながら申しました。土佐は誰からの言伝であるとは申しませんでした。しかし、父の命であることは明白です。 「何故動くなと仰せか!?」 私は、肩で息を吐く丸山土佐を怒鳴りつけました。 土佐に当たっても仕方のないことであるのは重々承知の上です。それに私は押さえた口調で言ったつもりでした。しかし口から出たのは、憤りや怒りや落胆に塗れた、怒声の様なものだったのです。言った自分が驚くほどの、酷い声でした。 土佐は声もなく、喘ぎながら、ただ頭を左右に振りました。 それから幾度も生唾を飲み込んで、漸く呼吸を整えてから、 「木曽の弁丸様の件については、最初から『そのつもり』で矢沢三十郎様を付けてある、と。また沼田のことは矢沢右馬助様に任せる、と」 父がどれ程矢沢父子を信頼していたか、これで判るというものです。事実、あの親子はその信頼に足る人物でありました。 私は口惜しくてなりませんでした。矢沢親子は父から信じられ、大任を預けられたというのに、 「では父上は、この源三郎には何も任せられぬと仰せか?」 拗ねた子供の言い振りでした。いえ、確かにあの頃の私は小僧若造に他なりませんでしたが、恥ずかしながら本人は一端の武将のつもりだったのです。 私は身を乗り出しておりました。独活の大木の上半身が、土佐の縮こまった体の上に差し出されている様を傍から見たならば、さながら壊れた傘のようであったことでしょう。 土佐は草臥れた顔をぐいと持ち上げました。細い眼をカッと開いて、口を真一文字に引き締めております。 私は思わず身を引き起こしました。丸山土佐の顔の後に、真田昌幸の渋皮を張ったような顔が浮いて見えたのです。 身構える私を見据え、土佐は大きく呼吸をしました。四角い顔の真ん中で、小鼻が大きく膨らみました。 「厩橋のことは一番承知の筈、と」 言い終えると、土佐の小鼻はしゅるしゅると縮んでゆきました。 確かに私は厩橋の地理に明るうございました。あそこは私が育った場所です。 私は、武藤喜兵衛が武田家を裏切らない証として差し出した嫡男ですから。 正直を申せば、あの頃の私は、地理と言えばあのあたりのこと知らないも同然でした。 それはともかくも、武田が滅し、甲州・上州・信濃が織田の支配下となってからの厩橋の城内にも、信濃衆が差し出した証人(人質)が留め置かれていました。当然、当家から出されていた証人もおります。 「於照か……」 背筋に震えが来ました。 父は「於照を取り戻せ」と言っている――。 私はそう判断しました。 差し出した証人を戻すということは、すなわち、父は織田家を見限る決心をした、ということです。 私は肺臓の息を総て出し尽くしました。そうせねば胸の動悸が治まらぬ気がしたのです。 総てを吐き出し、吐き出した以上の気を吸い込みました。 「暫しの自重との事であるが、どれ程の時を慎めと仰せだったか?」 心の臓は踊るのを止めませんでしたが、それでも私は、精一杯落ち着いたふりをして申しました。 丸山土佐守は小さな目玉を見開いて、 「矢沢右馬助様のご采配を確かめつつ」 「成る程、大叔父殿からの指示を待て……ではないのだな?」 「左様で」 土佐の口元に、僅かな笑みが浮かびました。 私自身も笑っていた気がします。 父が、ここから先は己自身で考えよ、と言っている――。そのことが恐ろしくてなりませんでした。 日が暮れ、夜が更けました。 こうなりますと、夜になったからと云って眠れるものではありません。恥ずかしい話ではありますが、私は小具足姿のままで、引き伸べられた布団の上に古座して、悶々と夜明けを待っていました。 沼田の方からの知らせが来たのは、子の三つを過ぎた辺りだったでありましょうか。 垂氷《つらら》はげっそりと疲れ果てた顔をしておりました。 「やっぱり沼田のお爺さんは、鬼でございますよ」 半べそをかきながら申したのは、大凡次のようなことです。 歩き巫女の垂氷と山がつの五助が、沼田に矢沢頼綱を訪ねると、折悪しく滝川儀太夫益重様がご同席でありました。 儀太夫様は甚だ顔色悪く、大きな体を縮こまらせておいでだったそうです。 五助は恐縮しきった風に額を地面にすりつけて、 「矢沢の殿様に有難い御札を頂戴できると聞いて、まくろけぇしてやって参りましやした。どうかオラをすけてやってくださいませ」 と申すのを聞いた滝川儀太夫様が、 「御札、とな?」 と、何故か垂氷に向かってお訊ねになりました。 垂氷は五助同様ひれ伏したまま、 「せんどな、この五助のおっしゃんのとこの一等上の倅が急におっ死んでまいまして、かぁやんがそれはもう泣いて泣いて、とうとう寝付いて起きらんねくなっちまいまして。あんまりおやげねぇんで、オラとが神様にお伺いたてましたら、ぞうさもねぇ、矢沢のお殿様には諏訪の御社宮司《ミジャグジ》様の神様がへぇっておられるから、お殿様から御札を頂ければ、たちまち治るでごわしょうと仰せになられました。そいで、矢沢のお殿様をさがねたら、こちらにおいでるというので、まくろけぇして参りましたでございます。オラとの神様の言うことに間違いはごぜません。殿様、一枚こさえてくださいませ」 そう言って、しわくちゃになった「神籤」を差し出しました。 神籤は薄汚れた紙切れで、確かに何か書かれているのですが、それはミミズをどっぷり墨に浸して、それを紙の上に放って這い回らせた跡にしか見えないものでした。 「また酷い神託よな」 矢沢の大叔父は眉間に皺を寄せてミミズを睨み付け、それを儀太夫殿にも示して見せました。 恐らくわざわざそうして見せたのでしょう。つまり、矢沢頼綱は滝川様に対して何も隠しておらず、真田家は織田家に対して二心を抱いていないということを、ごく自然な行いでわかっていただくために、です。 儀太夫殿は紙切れと大叔父の顔をチラチラと見比べると、 「それでご老体、この娘は何と申した?」 垂氷めは、内心「しめた」と小躍りしたと申します。わざわざ酷く訛ってみせて、ただの田舎娘と思われようと策を練ってやったことが、まんまと図に当たったと云うのです。 大叔父殿はからからと笑って、 「過日このノノウが神降ろしをしたところ、五助爺さんの女房の病は、諏訪大社の建御名方神に祈願して護符を頂けばたちまちに治るいう神託が下ったとのことでござる」 「成る程事情は解った。ではその先だ。それがしには、この娘めがご老体を神の化身のように申したと聞こえたぞ?」 「そのことでござるか。なに、当家は諏訪の神《ジン》氏の末でござりますれば、信濃巫女の内には、当家を頼って来る者も希に居るのでござるよ……何分にも、諏訪の大宮までは遠うございますれば、な」 「そうか、ご老体は諏訪神氏か……」 滝川儀太夫様は細い息を絞るように吐き出されました。この時ちらりと顔を上げた垂氷には、儀太夫様が、 「困り果て、精根尽きて、祈祷を頼みに来た水飲み百姓の顔をしていおいでる」 ように見えたそうです。ですから儀太夫様が矢沢の大叔父に向かって、 「では儂もご老体にご祈祷を願おうか……」 と力なく仰せになったのを見ても、何の不思議も感じなかったというのです。 すると大叔父は喜色満面、 「ではそれがしが護符を書き付ける間、そこのノノウに神楽舞をさせましょう。それ娘、舞え! すぐに舞え、ここで舞え!」 大いに笑ったのです。 「怒る鬼より笑う鬼の方が恐ろしゅうございます」 垂氷は力なく申しました。 「たっぷり二時辰《とき》、休み無しに神楽舞をさせられました。謡いもわたしがやるのですよ、舞いながら! その上……」 矢沢頼綱大叔父は、垂氷が舞い謡う間に数十枚の「護符」を書き上げました。 内、一枚は五助に授け、一枚は滝川儀太夫様に献じ、残りを束にして、 「これを、城下に住まう諏訪大社の氏子に配って歩け」 垂氷に持たせたのです。 「そう言われれば、『これこそ草やノノウが待ち望むような密書の類に違いない』と思いますでしょう? ところが、でございますよ!!」 垂氷は紙切れを一枚差し出しました。 質のよい真っ白な細長い紙でした。上半分に、四字絶句のような文字の列が書かれております。 業盡有情《ごうじんのうじょう》 雖放未生《はなつといえどもいきず》 故宿人身《ゆえにじんしんにやどりて》 同証佛果《おなじくぶっかをしょうせよ》 「鹿食之免、か。確かにお諏訪様の御札だな」 腑に落ちる、というのはこのことです。大叔父は時に狩猟もするであろう山がつに「諏訪明神の御札」と乞われて、それに相応しい御札をくれてやったのです。 何の間違いもありません。しかし垂氷にはこの真っ当な御札が気にくわなかった様子です。 「ええ、本当に本当の御札でございますよ。透かしてみても、水に浸してみても、火にかざしてみても、細かい端々まで目を皿にして眺め回しても、なんのお指図も書かれていないのですよ!」 今にも泣きそうな声音で申しました。 そもそも鹿食之免と申しますのは、諏訪大社が猟師を始めとする氏子達に出す形式的な「狩猟許可書」です。 殺生を禁ずる仏教の教えに従えば、獣を狩ってそれを食することは大罪にほかならない。しかし、飢餓の冬などには獣を喰わねば人が死んでしまう。そこで、獣を捕らえ喰うことに、 「前世の因縁で宿業の尽きた獣たちは、今放してやっても生きながらえない。それ故、人間の身に宿す、つまり食べてやることによって、人と同化させ、人として成仏させてやるのだ」 と理由を付けて、神仏の名において正しいこととして許しをあたえる。 それが鹿食之免です。 神罰仏罰を恐れ、来世の幸福を願いながら、現世で生きることもまた願う、そんな人々の心に、僅かな安堵を与えるための方便が、この文言なのです。 私は大叔父が贋とはいえ護符を書くに当たってこの文言を選んだことに、妙に納得したものです。 私たち武家の者は、多くの敵兵を殺し、あるいは兵ではない人々からも血を流させ、それを「国家安寧のためやむなし」などと称して生きているのです。 私は泣きそうになりました。 矢沢頼綱が件の文言の下に、墨跡黒々とした力強い筆捌きで、 「祈願 家内安全」 などと書き加えていたものですから、なおさらです。 私は洟をすすり、目頭に水気を溜め、それが溢れぬように天井を仰ぎました。 これを見て垂氷は、 「ああ、若様がわたしの為に泣いてくださった」 などと申したものでした。 私は否定する気持ちが起きませんでした。涙を堪えながら、別のことを考えていたからです。 「それで、残りの『護符』は他のノノウや草の者達に配って歩いたのだな?」 洟をすすり上げ、訊ねますと、 「はい、やれと言われれば、やらねばなりませんから……」 垂氷もグズグズと洟をすすりつつ、 「居場所が分かっていて、近場に居る者に直接渡して、少々遠い者にも回してくれるように頼みました。あ、紙屋の萬屋さんにも届けるように手配しましたよ」 少々自慢げに申しました。 「ああ、萬屋に繋ぎを付ければ、関東にいる信濃者の殆どに繋ぎが付くのと同じ事だな」 「気が利きますでしょう?」 「ああ、礼を言う」 私は瞼を閉じました。水溜まりが堪えきれず溢れ、ひとしずくが耳朶の方へ流れ落ちました。 「若様?」 垂氷は少々驚いたような声を上げました。 「大叔父殿は、家内安全を祈願すると書いた。……願うと云うことは、今は安全ではないと云うことだ。そうであろう?」 「え……? あっ、はい」 垂氷の声には濃い不安の色がありました。 「事は、逼迫しておるよ」 私は持ち上げていた顔を元の正面向きへ戻しました。目は明けていたのですが、垂氷の顔も、部屋の壁も、見えた覚えがありません。 別の、遠い、幻か現か判らぬ、深い闇のようなモノ、あるいは赤い炎の様なモノが見えていた気がします。 水無月の十三、四日頃の事だったでしょうか。 上州大泉の辺りをまわっているノノウからの繋ぎがありました。 砥石の父宛の密書でしたが、岩櫃を通るからには、私にも目を通す権というものがありましょう。 小泉城主・富岡六郎四郎秀長殿宛の手紙の写しでございました。 手紙の差出人は、滝川左近将監一益様です。 富岡殿からの問い合わせに対する返書のようでした。 おそらくは富岡殿が京都であった「異変」の「噂」を聞いて、その真偽を確かめようとなされていたのでしょう。 あいや、何故当家がそのようなものを手に入れられたか、などということは申されますな。 もう遠い昔のことにございますれば……経緯はともかく、我らは「何故か」その中身を覗き見ることが出来た、と云うだけのことでございます。 返書の中身と申しますのは、 「無別条之由候」 といったものであったと記憶しております。 私は文を畳み、砥石行きのノノウに渡しました。 「別条なし、か」 この時点では、滝川様は織田様の死を秘匿なさるおつもりだということが知れました。 危うい策としか言い様がありません。これほど大きな秘密を、長く隠し通せるはずありましょうか。 少なくとも我ら真田は真実を知っております。知らぬふりをしておりましたが、知ってしまっているのです。 我らのような小勢が知っていることを、強大な北条方が知らぬはずはないでしょう。 木曽の方で大変な騒ぎが起きていたのですから、なおのことです。 騒ぎの端緒は、木曽福島城の木曾義昌殿に届いた一通の書状でした。 差出人は「海津城主」森武蔵守長可殿です。 織田信長の勢力下にあった海津城……すなわち松代城は、重臣・森武蔵殿の所領とされておりました。 書状の内容は、 『京の変事のため、当方は美濃国金山へ戻ることと相成りました。つきましては、明日そちらにて一晩宿営を願いたく……云々』 と云うような物だったと聞きます。 東信濃では我ら信濃衆が滝川一益様にお味方するという形となっておりましたので、どうやら治まっておりましたが、北信濃では各地で一揆勢による反乱が起き、領地運営も「大変」であったようです。 北は越後の上杉様と直接境を接していたわけですから、なおのことです。 それ故、森武蔵殿は織田信長横死の報を受け、運営の難しい新しい領地を放棄することに決めたのでございましょう。 書状を受け取った木曾義昌殿は 「合い判った、と武蔵守殿にお伝えくだされ。くれぐれも、宜しゅうにお伝えくだされよ」 そう申しつけて使者を帰すと、ご家来衆を呼び集めました。呼び集められた者の中には、質として預けられていた我が弟・源二郎と、従兄叔父の矢沢三十郎頼康も含まれております。 多くの者共がいるというのに、場は水を打ったように静まりかえっていました。その中で木曾殿は落ち着いた声音で仰せになったそうです。 「聞いたとおりだ。明晩『鬼』が来る」 この「鬼」と申しますのは、森武蔵守殿のことです。森殿はその剽悍苛烈な、あるいは残酷無慈悲な闘い振りから、「鬼武蔵」と呼ばれておいででした。 森殿は、出会う敵は総て切り倒すのが信条の方でした。 一軍を預けられたなら、その軍を文字通りに「率いて」戦われます。つまり、自分が先頭に立って敵陣に切り込み、部下の誰よりも多くの首級を上げる大将であられたのです。 あの方の戦には作戦も何もありません。どのような方法であっても、相手を「全滅」させればよい、とお考えだったのでしょう。 立ちはだかる者は敵であれば当然切り伏せ、敵でなくても打ち倒して進む。ただそれだけのことです。 相手を壊走させ、追撃し、撫で斬りにして殲滅する。あるいは、逃げる人々の背に矢と鉄砲の雨を降らせる。動くもの総てを動かぬようにする。 その苛烈振りを畏れた在郷の国人は質をしました。ただ、自ら進んで証人を出した者はほとんどいなかったようですが……。 ともかく、質の数は数千に上り、その人数を、決して大きいとは云えぬ海津城内に押し込めていた、と伝え聞きます。 そこまでせねば、領国内を治めることが出来なかったのでしょう。それほどに北信濃の国人衆は森殿を……織田信長公を嫌っていたと云えます。 「さて鬼めは、その人々を総て引き連れて城を出たそうな。人々は鬼めの本隊の回りを取り囲むように並ばされた。これでは国人衆も滅多に手を出せぬ」 木曾義昌殿があくまで静かに仰せになると、諸将は歯軋りをしたそうです。誰も言葉を発しませんでした。 「鬼めは、人々は信府を過ぎた辺りで、解放した……亡骸にして、な」 場がざわつくのも当然でありましょう。 かつて武田の配下であった頃、木曾殿も武田に証人を出しておりました。齢七十のご母堂、十三歳の御嫡男・千太郎殿、そして十七歳の岩姫殿は、木曾殿が織田方に恭順したと知れたその時に、新府で処刑されたのです。 「北信濃の人々の悲しみはいかばかりか。証人に出した肉親を殺される辛さ、苦しさは、儂も良く知っている。……皆の者、儂は『鬼』を退治せんと思う」 どよめきが起きたと云います。木曾義昌殿の意見には皆同意しているのですが、伝え聞く「鬼武蔵」の恐ろしさが、ご一同に不安を抱かせたものでしょう。 「我らは深志よりの退却より間もなく、兵も疲弊しておりますれば……」 不安を声に出す者も居ったようです。 義昌殿はご一同の顔を見渡すと、 「遠山右衛門佐友忠殿、久々利三河守頼興殿、小里助右衛門光明殿、斎藤玄蕃助利堯殿……東美濃の御歴々も『鬼』がお嫌いだそうな」 名が上られたのは、元々森武蔵野守殿の家臣であったり同僚であったりした方々でした。そう云った縁の深い筈の方々にも森殿は酷く畏れられ、憎まれていた、と云うことです。 それが事実か否か、私には判りません。しかし、義昌殿の言葉を聞いた方々は、そう思ったことでしょう。 「儂は『鬼』の為に大事な家臣、領民を失いたくはない。良いか、明日この城へ来るのは人に非ず。彼の者は『鬼』である。鬼を退治するのに、人とするような堂々たる戦を、兵力を使う戦をする必要はあろうか。使うのは、ココじゃ」 義昌殿はご自身のこめかみ当たりを指し示しました。 人々は理解しました。つまり、森長可殿を騙し討ちにするのだ、ということをです。 陣立てが行われました。 ですが当たり前の戦のように「城を守るため城の外に敷く」布陣ではありません。 門の内側、濠の内側、壁の内側、屋敷の内側に、少数の兵を配置する布陣です。 城の中に居る者が決して外へは出られないようにする構えでした。総てを城の中で済ませる為の準備であったのです。 兵の実際の配置は翌日に行われることとなっていました。 当然のことです。 日本武尊の熊襲討伐の例を上げるまでもなく、奇襲を掛ける相手には充分油断をしてもらわねばなりません。当の「鬼」が入ってきた直後に城内の異様さに気付いてしまっては元も子もあったものではないでしょう。 ことに、彼の「鬼」は武勇の御方です。企みがばれてしまったなら、包囲網を易々と突き破って逃げられるか、あるいは城ごと落とされるということも無いとは言い切れません。 運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「鬼」が、怒りの侭に改めて攻め寄せてくることが考えられます。 失敗は許されません。 策は綿密に練られ、準備は万端に整えられました。 明日「鬼」が到着したなら、歓迎する素振りで迎え入れ、饗応している間に精鋭の兵を配備し、油断に乗じて「退治」する。 明日、総てを為す――。 その夜は、流石の木曾伊予守義昌殿も寝付けなかったと見えます。 大事を明日に控えた夜に、大鼾をかいて眠ることが出来る者はそうはいないことでしょう。私などは戦になるかならぬか判らぬ頃から、寝付きが悪くなるくらいです。 深夜、義昌殿は灯明の消された真っ暗闇の中、独り広間に座しておられたと云います。 私にはこの時の義昌殿のお心の内を推し量ることができません。されど、家名を守るためであれば、卑怯者の誹りを受けかねない策を講じ、実行せねばならない家長の、高揚したような口惜しいような、落ち着かない心持ちは、少しばかりは判るつもりです。 只独り何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を聞かれた筈です。 何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は生温い。何かが激しくぶつかり合うような、叩き壊されるような轟音です。 部屋が、いえ城そのものが鳴動したことでしょう。 「何事だ!」 大声を上げるのと殆ど同時に、小者が一人明かりも持たずに広間へ駆け込み、 「一大事にございます! 鬼が……森武蔵守様が、只今ご到着でっ」 小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、 「それはどういう意味だ?」 というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。 悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声を纏って、彼の方は現れました。 「伊予殿、久しいな!」 暗闇を割って、十六の面が浮き出た……あるいはそのように見えたやも知れません。 手燭のか細い明かりが顎の下から白い顔を照らしていたのです。炎が揺れ、影が揺れ、その方ご自身も肩を揺して、義昌殿に近寄られました。 「お……に……武蔵、どの……?」 ------ 【注記】 ※ 子の三つ ▲ 深夜零時三十分前後 ※ 五助爺さんと垂氷のセリフ(東信濃訛)の標準語訳 ▲ 「矢沢の殿様に有難い御札を頂戴できると聞いて、大急ぎで(慌てふためいて)やって参りましました。どうか私を助けてやってくださいませ」 「先日、この五助おじさんのところの一番上の倅が急に死んでしまったので、お母さん(奥さん)がそれはもう泣いて泣いて、とうとう寝込んで起きることが出来なくなってしまいまして。あまりに可哀相なので、私の所で神様にお伺いたてましたら、簡単なことだ、矢沢のお殿様には諏訪の御社宮司様の神様が入っておられるから、お殿様から御札を頂ければ、たちまち治るでしょう、と仰せになられました。そこで、矢沢のお殿様を探したら、こちらにいらっしゃるというので、慌てて参りましたのでございます。私の神様の言うことに間違いはございません。殿様、一枚拵えて(作って)ださいませ」 ※ 二時辰 ▲ 凡そ四時間 ※ 十六の面 ▲ 能面の一種。若い武将の顔立ちを表したもの。十六中将とも。 美貌の若武者を演じる際に用いる面で、女面のように上品な顔立ちをしている。 源平一ノ谷の合戦で源氏方の武将・熊谷(くまがい)直実(なおざね)に討たれ没した平家の公達・平(たいらの)敦盛(あつもり)一六歳の姿を写した面であるため、十六と呼ばれる。 ------ |
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