いにしえの【世界】 − 夢 【2】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
「これは、夢だ」 公女クレール・ハーンは「自分の寝室」の小さなベッドの上で確信していた。 春の終わりの、穏やかな朝だった。 大きな窓から陽の光が天蓋のレースを透かして、編み模様の形で彼女の頬の上に影を落とす。 薄い絹の寝間着も、柔らかな羽根枕も、軽い肌掛けも、確かに「日頃使い慣れたもの」だった。吸い込む空気に古い書物のような甘い香りがするのもまたしかり。 「でも、違う」 姫君はベッドから飛び降りた。素足のまま硬い絨毯の上を駆け、ドアを開け放ち、廊下に出る。 隣室は侍女侍従たちの控えの間だ。ドアノブに手をかけ、引く。 開かれた空間は薄暗く、静かだった。 公女は身震いした。 瞼を固く閉ざすと、頭を振る。たった今見た冷え切った闇を脳漿から追い出したい。 細い自身の身体を抱きしめ、後ずさる。 大きく一息つくと眼を開き、しかし己が身体は固く抱いたまま、彼女は再び駆け出した。 大理石の床に素足の触れるひたひたという音が彼女の耳に聞こえた。 それ以外には、人の声も、衣擦れもの音も、日々の営みの気配も、空気の揺れさえも聞こえない。 しかし頭の奥では、侍女達の田舎娘らしい笑い声や、生真面目な侍従たちの挨拶、そして家臣達の声が、懐かしさを帯びて響いている。 公女は今一度頭を振った。 「違う。コレは夢。コレは幻。見えない、聞こえない。違う……違う」 頭の奥の声をかき消す為、彼女はつぶやき続け、ひたすらに駆けた。 いつしか彼女の無意識の足は、彼女を大広間へと運んでいた。 山奥の小城の「大広間」は、国会議事堂と謁見室とダンスホールを兼ねた、小さく地味な空間だった。 部屋の南側は一面が窓だ。 大きな窓は小振りな木枠で細かく仕切られ、その几帳面な四角の総てに板ガラスがはめ込まれている。 職人が丁寧に作ったガラスの板の表面には、味わい深い歪みがある。そこを通り抜ける日差しは柔らかく揺れ、室内はまぶしいほどに明るい。 クレール姫は広間をぐるりと見渡した。 窓の向かい、北側の壁には、大きな肖像画が掲げられている。 都と帝位を追われた「大公」と、その年若い妻。 幸せを顔料に描かれたに違いない、暖かく荘厳で美しい絵画だった。 だが、公女の瞳に映る在りし日の両親の姿は、霧の彼方にあるがごとく霞んでいた。 肖像画が発するまばゆい輝きに、彼女は暖かさを感じられない。むしろ底冷えのする冷たさが、彼女の身を覆う。 「恐ろしい」 歯の根が合わない。震えをこらえようと、紫色の唇を噛む。 頬に熱いものが流れるのを感じ、彼女は顔を伏せた。 赤い絨毯の上の白く頼りない足先が、その部分だけやけに現実味を帯びて存在している。 クレールは桜色の爪をじっと見つめた。それ以外の空間がゆっくりと闇の中に消えてゆく。 その闇から、猛烈な腐敗臭が立ち上った。 悪臭は、破れた皮膚と溶けた肉をまとった無数の骸から発せられていた。 闇から生じ、蛆とぼろ布に覆われたその死骸達は、下手な人形遣いに操られているがごとく不自然に蠢いている。 腐敗ガスを呼吸し、腐汁を滴らせながら、それらはクレール姫の足下に群がり来る。 身の毛のよだつ様、とはこのことであろう。事実、クレールは震えていた。 「コレは、夢だ。質の悪い、嫌な夢」 つぶやく彼女は、恐怖していなかった。 震えていた青紫の唇に、ほんのりと赤みが差す。 「嫌な夢。夢の中でまで、こいつ等の相手をしなければならないなどとは」 頬には幽かな笑みが浮かび、翡翠色の瞳が輝く。 己を抱いていた腕を解き放つと、彼女は天を仰ぎ、唱えた。 「我が愛する正義の士よ。赫き力となりて我を護りたまえ」 赤い光りが彼女を包んだ。光りは彼女の両手の中で一条の帯となり、やがて一筋の刃に変じた。 「【正義《ラ・ジュスティス》】!」 言い放つと同時に、クレールはその赤い剣を振るった。刃は空気を斬るような軽さで、動く死体を切り裂く。 赤い光りの筋が通り抜けた跡には、動かない死骸が横たわっていた。 クレールは肩を揺らして息を吐き、視線を周囲に巡らせる。 眼差しは、何もない、誰もいない大広間の、ある一点で止まった。 東の壁際。一段高い床の上。シンプルで威厳のある一脚の椅子。 そこに一人の男が掛けていた。 いや、それを「男」と呼んでよいものだろうか。 こめかみの当たりから二本の角が生じ、房のある長い尾をかぎ爪のある指で弄び、淀んだ赤い視線をこちらに投げ、尖った牙を口角から覗かせて笑うものを、例えそれ以外は人と変らぬ姿をしているからとて、「男」と呼べるだろうか。 クレールは「それ」をにらみ付けた。すると「それ」が 「そう怖い顔をするものではないよ」 妙に澄んだ声で言う。 優しげな若い男のといった声音は、逆に疳《かん》に触る。 クレールは赤い剣を握りしめると、ゆっくりと「それ」に近づいた。 「退きなさい。そこは我が父の座。獣が座るなど以ての外!」 「獣か」 蔑みとも自嘲とも取れる鼻笑いに、クレールの憤慨は益々強まる。 「本当に、嫌な夢」 吐き捨てるように言う彼女に、「それ」は満面の笑みを向けた。 「これは夢かね?」 「夢以外の何であろうや」 クレールは剣を振り上げた。 しかし「それ」は眉一つ動かさなかった。そして重ねて訊ねる。 「何故そう言い切る?」 意表をつかれた。クレールの身体は剣を振りかざした形で停止した。 「クレール、君はコレを夢と断ずることができるかね? 跡形もなく倒壊したはずの『我が家』を、その中で動き回る死体を、目の前にいる見知らぬ者を、それと会話する自分自身を、君は夢と言い切ることができるのかね?」 柔らかな綿で胸元を押さえつけられる感触がした。息はできるが、苦しい。 「コレは夢だ。夢でなければ、私が私として……お前達『鬼共』《グールやオーガ》を屠る者『エル・クレール』として、最早存在しないこの場所に立っている筈がない」 絞り出された返答に、質問者は満足そうな笑顔を返す。 「模範解答だ。まったくお前の頭蓋の中には、美しい脳味噌が詰まっているに違いない」 口ぶりは、まるきり優秀な生徒を褒める教師の様だ。弟子達に真理を説く哲学者か僧侶のごとく、「それ」の赤く濁った目が笑う。 「だがね、賢いクレール……。夢を見ている君は現実であろうよ。すなわち、こうしてここで我と問答している君は現実する。そしてそのことを、君のココは理解している」 黒光りのする尖ったかぎ爪がクレールの眉間を指した。 「同時に、君は恐れている。ここにある己を認めれば、目の前に見えるものの存在も認めなければならないかと」 尖った爪の先が、彼女の眉間から離れた。切っ先は彼女の顔の上、皮膚のすれすれを浮遊し、ゆっくりと下降する。 「さらに、君は望んでいる。夢幻《ゆめまぼろし》》の中の『鬼』が存在することを認めれば、存在しないものに抱いていた恐怖から逃れられるやもしれぬ。 『逃れられぬものよりは斬って捨てられるものの方が良い』と。 故に君の方寸《こころ》は、我が現実のものであることを望んでいる」 指先がクレールの胸、丁度心臓の上で止まった。 「賢いクレール、君は我を望んでいるのだよ。君自身の理性が人でないと蔑むものを、君自身の心は存在して欲しいと願って見つめている」 反論ができない。奥歯がギリギリと鳴った。 「我が君を欲して君の元に現れたように、君も我が君の元に現れることを欲している。我々は、相思相愛だ」 ニタリ、と「それ」は笑んだ。 クレールの不快感は頂点に達した。 しかし彼女の身体は、頭の先からつま先まで何かに覆われてでもいるかのようで、思うとおりに動かすことができない。 クレールは歯噛みした。 「腕を振り下ろすことができれば、私の【正義《ラ・ジュスティス》】でコレを斬ることができるのに」 押さえつける何かを、彼女は渾身の力を持ってはね除けた。 すると意外なほどあっさりと、体を覆う不快感が一息に晴れたのだ。 白鳥の羽ばたきのごとく、クレールは腕を振り上げる。 鬼神の形相を向けられた「それ」の唇は、相変わらず笑っていた。が、目元には酷く寂しげな色が浮かんでいる。 「それほど怖い顔をしてまで拒絶せずとも良かろうに」 さながら求愛を断られた優男だ。だが「それ」は気弱な男と違って落胆することを知らなかった。 黒い影がクレールの視界の隅で動いた。 素早い動作は、蛇が獲物を捕らえるさまに似ていた。 しかしそれは毒牙ではなく五本のかぎ爪を持っていた。 太く節くれ立った指が、剣を振り下ろさんとしていた細い手首に絡み付く。大きな掌が攻撃の力を総て押さえ込む。 慌てて腕を引いて逃れようとした。しかし「それ」は、それすらも許さない。むしろ彼女の腕を己の方へ引いた。 腕が引かれれば、当然身体も頭も「それ」の腕の中に引き寄せられる。勝ち誇る眼差しが、クレールの眼前に突き出された。 「放しなさい!」 逃れようと暴れるものの、力が及ばない。彼女は苦もなく組み伏せられた。 クレールの身体は「それ」の体で覆い尽くされた。筋張って硬い肉の重みが、彼女の自由を完全に奪う。 鼻先に「それ」の顔がある。 泥水色の髪、毛虫の眉、枯れ草色の瞳、楔のように尖った鼻筋、錆鎌の刃に似た唇。 それらが整然と、そして美しく並んだ顔が。 クレールは顔を背けた。 すると「それ」は彼女の耳につぶやいた。 「夜が明ける。残念なことだ」 深い落胆を吐き出す「それ」の体から僅かながら力が抜けた。それはその身そのもので作りだしていた戒めが弛むことを意味した。 クレールは両の足を突き上げた。不意を突かれた「それ」の肉体が、大きく跳ばされる。 大柄な男の身体が床に叩き付けられ、ドサリ、と鈍い音を立てた。 カビ臭くほこりっぽい空気が、ゆらゆらと揺れている。 朝日がまぶしい。 エル・クレール=ノアールは子犬のように頭を振った。白髪と見まごうプラチナの髪がさらさらと揺れる。 翡翠色の瞳を覆う瞼は少しばかり腫れ、取り囲む白目は充血していた。彼女は利き手の甲で眼の当たりをこすり、無理矢理の瞼を持ち上げる。背伸びをすると、安っぽいベッドがギシギシと悲鳴を上げた。 その足下の、艶のない板床の上に、黒みを帯びた黄茶色の頭髪が、丸まった針鼠の格好で転がっている。 頭は太い首で幅の広い肩に繋がり、その下に広い背中があり、がっしりとした足腰がある。 彼女の旅の道連れは、脂汗をかきながら臍の下を押さえ、うつ伏してうずくまっていた。 「全く、寝相の悪いオヒメサマだ」 ブライト=ソードマンは床とキスをした格好のまま、口惜しそうに喘いだ。 エル・クレールはあくびとため息で呼吸すると、不自然に空いた夜着の胸元を綴じ合わせる。 「どうりで夢見が悪かった訳です」 「俺サマはただ、お前さんがあんまり寝苦しそうだったから、襟元を開けば息がしやすいだろうと、親切をしてやったンだぞ」 言い訳したブライトだったが、床から顔を引きはがして見た、彼が相棒と呼ぶ「男の身形をした娘」の目元の痙攣が、どう身贔屓して見ても寝起き故の不機嫌から来るものではなさそうなことを悟り、慌てて話題を変えた。 「時に、この宿は飯が出ないそうだ。朝飯は外で喰うことになるんだが、どうやら近くに飯屋は一つしかねぇときてる」 精一杯に清々しく、しかし引きつった笑顔を向けると、エル・クレールのこめかみから痙攣が消えた。 「ではとりあえず一度この部屋から出て頂けますでしょうか? 着替えをしますので」 彼女の表情からは、怒りであるとか、怪しみであるとかいう負の感情は読みとれない。 ブライトは安堵し、つい、軽口混じりの本心を口にした。 「下着の着付けを手伝わせて欲しいんだがね」 「ご親切、痛み入ります」 意外なことにエル・クレールは破顔した。ただし、その笑みは水晶の仮面のごとく、硬く冷たい。 「ただ思いますに、今度はおそらく床に倒れ込むだけでは済まないでしょうけれども。そう、確かこの部屋は三階で、窓の外は石畳だったと記憶していますが、これは私の憶え違いでしょうか」 ブライトは黄檗色の瞳を見開いた。 彼の相棒は冗談を言うことを苦手としている。口にしたことの大半は実行しないと気が済まない質だ。 彼は慌てて部屋から飛び出していった。 |
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