いにしえの【世界】 − 朝ぼらけ 【17】

無造作に置く。
 使い込まれた火口箱には磨り減って消えかけた焼き印が押されていた。
 若い村役人は、その文様がハーン皇帝の徽章《おしるし》であることに気付かなかった。正確に言うと、知らなかったのだ。彼が物心ついた頃にはハーン最後の皇帝は「都落ち」していたのだから仕方がない。
 だが、もう一つの金属盤に刻まれている、二匹の鬣《たてがみ》のある蛇が絡み合う文様の「貴さ」は彼にもすぐにわかった。
 生唾を飲み込む役人に一瞥をくれると、ブライトは火口箱から燧石《フリント》と黄鉄鉱《パイライト》を取り出し、火口炭を燻《くすぶ》らせた。火種はすぐに蝋燭に移され、小さな炎となった。
 その動作の間、ブライトは口をへの字に曲げていた。しかし目には笑みがある。
 若い村役人は痙攣に似た瞬きをした。ブライトの言わんとしていること、やらんとしていることが理解できていない。
 きょとんとした顔で己を見上げる役人の鼻先に、ブライトは手を差し出した。
「ペンとインクと封蝋」
「あ……」
 ようやく理解した様子だった。
 村役人は携えてきた筆記具を彼に手渡しすと、自身が書きまとめた書類の最後の一葉を卓上に広げた。
 書類の制作者の署名、彼の直接の上役の署名、村長の署名が、紙の上方三分の一に、押し込められるようにして並んでいた。
 残り三分の二の空間に、所見と署名を記載せよということだ。
「用意のいいことだ」
 ブライトは使い古しの鵞ペンをインク壺に漬けると、卓上の用紙を極端に斜めに置き直した。
 強い筆圧で押し潰されたペン先が、起伏が少ないく平べったい続け字を、右肩上がりに記してゆく。
 書き上げられたのは僅か二行。
『関係者の証言を一言一句間違えることなく記したものと認むるものなり。
 なお、この地に訪れし“彼の者”はしかるべき場所にしかるべき如く在るなり。』
 一行目は兎も角、次の行が何を意味する言葉であるのか、若い役人には理解できなかった。小首をかしげて書き手の手元をじっと見つめる。
「これかい?」
 ペンをほ放り出すと、ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。
 もしこの場にエル・クレール=ノアールがいたなら、すぐさま、この笑顔が彼の感情から自然と湧き出たものではなく、物事を有利に進めるための狡猾ですらある作り笑いであると見抜いただろう。
 蝋燭の炎の上に禿びた封蝋の先端をかざしつつ、ブライトは空いた手で卓上の銀色の円盤……すなわち「双龍のタリスマン」などと呼ばれるものに手を伸ばした。
 絡み合う龍が描かれた表面も、いくつかの赤く丸い小さな石の象眼された裏面も、その細工は豪華で美しい。ブライトはそれらの文様を全く見ていなかった。
 銀色の円盤を親指と中指でつまみ上げ、人差し指で分厚い外周に刻まれた文字の凹凸を弾くようにして転がし、指の腹で文字を読んでいる。
「その御託の意味なンざ、この俺だって知るものか。聞くところによりゃぁ、解る人には解る決まり文句みたいなもンだそうだ。例えばウチの姫若様や、お宅のゴ領主サマぐらいにゴ身分が高い方だけが、こいつをゴ理解なさるってものさ。俺達のような下々の者にゃ、関係のないことなンだろうよ」
 厭味と卑下と慇懃無礼を練り混ぜたブライトの言葉に、村役人は素直な感嘆を返した。
「そういうものですか」
 大きく何度もうなづいている。
「上つ方々の考えることなんてもなぁ、下っ端には到底理解できないものさ。くだらないといやぁ、とことんくだらないこったがね」
 ブライトは鼻先で笑った。彼の言う「上つ方々」に向けた嘲笑だった。同時に、素直さも


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