長江中流の断崖の上、その城は立つ。胎内に、大きな悲しみを孕んで、城は立つ。
「蒼天已死(そうてんすでにしす)……已死…」
老皇帝は病床で呟いた。
「もし我が子・禅(ぜん)が扶(たすけ)けるに値しなければ…孔明(こうめい)、君が国を盗れ」
そう言って、彼の人は笑んだ。
香の煙る中、趙雲子龍は泣いていた。
泣きながら、丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつ・りょう)孔明に詰め寄った。
「あの時、何故陛下をお止め下されなんだか!?」
「私が止めておれば、陛下はお留まり下された、と?」
孔明はうつ向いたまま、逆に子龍に問うた。
「当然でしょう! 丞相は陛下が腹心として恃(たの)みした方だ! それがしの言葉は聴かずとも、丞相の言ならばお聴き入れ下された筈!」
孔明は瞼を閉じた。それに押され、泪は溢れ、落ちた。
子龍には孔明の泪の意味が判らなかった。
陛下をお止めしなかった事を今になって悔やんでの泪なのか、或いはもっと別の理由からなのか、判別が付き兼ねた。
「…丞…相……?」
彼が怪訝そうに声をかけると、孔明は唇を震わせた。
「私が…陛下をお止めしようと思わなかった筈が…ないでしょう…? しかし…」
孔明は顔を上げ、瞼を開けた。その視線は鋭く、遠い。
「あの時…陛下は仰せになった。『俺以外の誰が雲長の仇を取れるのか』と。子龍殿、お判りか? 『朕』ではなかった…『俺』と仰せだった…」
はらはらと泪は落ちる。腕に胸に、止めどなく落ちる。
「劉玄徳は大儀を捨て、信義を取られた。漢帝国の四百年より、桃園での一日を取られた…」
「噫(ああ)」
泪で霞む子龍の瞳に、見た事のない、しかし懐かしい情景が浮かんだ。
晴れ渡る青い空、
降りしきる淡桃色の花弁を受けて、
三人の若者は杯を掲げる。
天に誓う、地に誓う
義を貫き、共に生くるを
趙雲子龍の総身から、ふうっと力が抜けていった。
彼の両膝は張りを失い、床に落ちた。
「『義弟(おとうと)達が呼んでいる』と仰せになって後、お隠れになられました…」
倒れ込む子龍の身体を、孔明が支え、言った。
「…不求同年同月同日生、只愿同年同月同日死…。(同年、同月、同日には生まれられなかったが、同年、同月、同日に死ねれば良い)」
諸葛孔明は笑んだ。泣きながら笑んだ。
「この誓いは、私ごときでは崩せない」
章武三年(223年)、季漢皇帝・劉備玄徳、白帝城にて崩ず。
享年六十三。
諡(おくりな)を、昭烈帝(しょうれつてい)という。
−了−