「駄目だろうかなぁ」
鬢の白い、細身で骨太な侍が言う。
「駄目ですよ」
紫の衣を着た、壮年の尼僧が答える。
川風が、心地よい。
千曲川(ちくまがわ)の岸辺、緋毛氈(ひもうせん)の上だった。
「折戟セツゲキ、沙スナに沈みて、鉄未だ銷ショウぜず。自ずから磨洗を将モって、前朝を認む……」
老いた、だが矍鑠(かくしゃく)たる侍が、川上を見据えて吟ずる。
「駄目です。杜牧の『赤壁』など引っぱり出してきても」
品の良い尼僧が、茶を点てながら言う。
「この間な、鏃(やじり)を拾ったのだよ……此処で」
六十を過ぎても隠居の許しをもらえない「戦国大名」が、青磁の茶碗を手にした。
「自ずから磨洗を将って、永禄(えいろく)を認む……で、ございますか?」
夫を二度も失い、一人娘の嫁ぎ先を頼って来た、京の都きっての才女が微笑んだ。
「うむ、だからなぁお通どの……」
「駄目ですよ」
小野お通は静かに、厳しく、応えた。
初夏、四月。寛永(かんえい)六年(一六二九)、松代。
此処は川中島である。永禄四年(一五六一)に、武田信玄と上杉謙信が大戦をした場所だ。
そこに、小さな茶席が設えられた。
……天下は、太平だった。
「駄目……であろうかなぁ、右近」
老大名は、すねた子供のような目で、控えていた家臣に訊ねる。
「なりません」
にべもない。
鈴木右近は十八年上の主君をたしなめた。
結局、真田信之の「計画」は、誰の賛同をも得られない形となった。
広く意見を求めれば同意する者は多いだろう。しかし推し薦めようとする者は、まず居まい。
「良いと思うのだがなぁ」
茶を飲み干した信之は、千曲川の流れに目を転じた。
「この辺りに碑を建てるのだ。別段、良い石を使うわけではない。むしろ、山から切り出した、素朴な物がよい。そこに我が父の名を刻む。……武田の先陣での闘い振りを讃える文を、ちょっと添えて。父の名が川上を向くようにして据える……」
信之の耳には、小さな石碑に川風の当たる音が聞こえていた。
「良い景色になりましょうね」
お通がにこりと笑った。
「お通どの!」
信之の頬がにわかに赤らみ、直後その赤みが引いた。
「ですが、駄目です」
お通は首を横に振った。
真田信之の父は、真田信繁の父でもある。
すなわち、徳川家に最後まで逆らった、豊臣の将・真田幸村の父である。
そしてそれは、徳川の軍勢を二度も壊走させ、豊臣秀吉をして「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言わしめた、真田昌幸その人なのである。
「ああ、そう言えば殿は早うに隠居なさりたいと仰せでしたな」
鈴木右近がぽんと手を打った。そして、
「大殿の碑、お建てなさいませ。間違いなく藩政からは退くことができますぞ」
飄々とした悪戯な笑顔を、主君に向けた。
いかに徳川の忠臣・信之が敬愛する父とは言え、そして、徳川の世とは関わりなき戦の記念とは言え、領内に真田昌幸の碑を建てようものなら、真田松代藩は改易間違いない。
「解った、解った。諦める、諦める」
信之はがっくりと肩を落とした。
そうしてもう一度川を眺めた。
溯ったその先に、上田の城と、真田の庄がある。
【終】