そこは、ミッド公国の首都からムスペル火山の尾根一つ「向こう側」の小さな山間の渓谷のただ中だった。平地は猫の額以下で、そそり立つ壁のごとき山々で周囲を囲まれている。
盆地と呼ぶのもおこがましい小さな土地を取り囲む山肌一面は、段畑で覆われていた。
そのほとんどが開墾されたばかりの物らしく、削り取られた土の若い匂いがする。
一枚一枚の畑は靴底のような狭さだが、つなぎ合わさったそれらは強固なスケールメールを連想させる。
時がたち、実りの季節を迎えれば、その一枚一枚に麦の稔りがたなびくだろう。
エル・クレールは何故か背筋に寒い物を感じた。
細く噴煙を吐き出す火山を背負い、ぎらぎらと光りをはじく黄金の鱗鎧が、彼女の脳裏に浮かんでいた。
二人の旅人が案内された、レオナルド=シィバ老人の隠居所というヤツは、何の変哲もない農家のたたずまいであった。
家具といえるのは、傾いたテーブル一つときしんだ椅子が四脚。装飾のない室内はきわめて清潔で、老いた男やもめの家とは思えない。
継ぎの当たった衣類、使い古しの馬具や革製品が居間の隅に山積みになっているが、これらは恐らく『軍にいる知り合い』とやらから横流しされた、ホムンクルスもどきの材料だろう。
医者であるとか科学者であるとか、そういった人種の家にありがちな「膨大な蔵書」はない。ただ、台所には実験用具とおぼしきものが整然と並んでいる。
ガラスの試験管、煤けた金色の大鍋。棚に並ぶのは、色とりどりの液体や固体が詰まった瓶。
青い炎がゆれる竈の上では、銅の蒸留器から丸底フラスコに、澄んだ茶色の液体が流れ落ちている。
「黄金の錬成にも不老不死の研究にもあきたでの。書物の類はずいぶんと以前にたたき売ったわい。
毛玉牛の皮と年経た木々と煤の水溶液で作られているに過ぎぬが、本というヤツは妙に高値で売買できる。とりあえず、老後に何の不安もないだけの金にはなった」
老人はこともなげに言う。
掃き清められた床の上ではね回る手袋もどきの群れが、不揃いな三つの椅子を引いた。
「とんだ錬金術だな」
腰掛けながら吐き捨てるブライトの嫌みに、老人は、
「全くだ」
否定もせずに、むしろ自嘲の笑みを浮かべた。
「それでも、実験用具はきちんと手入れをなさってますね」
エル・クレールの質問には
「茶を沸かす役には立つわい」
豪快に笑い、蒸留器をやかんのように傾けて、薬臭い紅茶を入れた。
「それで。じいさん、なんで【堕鬼狩り《オーガハンター》】なんぞ探してるんだね? …それとも、『誰に頼まれて』って訊いた方が良いか?」
欠けたカップに入った茶を口に運びながら、ブライトは老人に視線を注いだ。
「口の悪い青二才だのう」
「ブライト=ソードマンだ。そっちはエル・クレール=ノアール」
ブライトは下唇を突き出し、顎でエル・クレールを指した。
エル・クレールはあわててカップから唇を離してシィバに向き直ると、軽く頭を下げた。
「しつけのいい親だったようだが、名付けのセンスは良くないのう。クレールは確かに男にも付けうる名じゃが、本来は娘向きじゃぞ。可憐すぎて、雄々しさに欠けるわい」
シィバ老人は何事か反論しようとしているらしいエル・クレールから視線をそらして続ける。
「…ソードマンよ、何故わしが『誰かに頼まれて』いると勘ぐる?」
「おたくが軍とつながってるッてのが、どうにも気に入らんのでね」
口に運んだお茶は、薬湯そのものらしい苦さだった。ブライトは後頭部を大仰にかきむしった。
「軍隊が嫌い…いや、朝廷そのものの方が嫌い、か?」