芝居小屋の客席の方向から、楽屋の通用口を通り抜けて、不安げなざわめきが漏れ聞こえてくる。
ちらりと通用口を見た彼は、空いた手でそちらを指し示し
「ちょいとお願いだ、プリマドンナ。あっちから『お客さん』が入ってきそうなんだが、百数える間だけ引き留めてくれないか?」
シルヴィーの返事を聞く前に、ブライトはエル・クレールを担いだまま駆け出した。天幕の、出入り口用のスリットが入っている方向ではなく、太い杭《ぺグ》でピンと張られた「壁」の側に向かっている。
肩の上で足掻いていたエル・クレールが、暴れるのを止めた。
腐臭がする。鼻ではなく、脳そのものがそれを嗅ぎ取っている。赤黒く、息苦しい威圧感が足下にまとわりつき、背中を這い上ってくる。
元凶は蝸牛のようにゆっくりと移動している、とエル・クレールには感じられた。
「死者の、気配……」
呟いた。ブライトの足が止まった。
「コイツではなく?」
上着の中に拳を突っ込む。薄暗闇の中、指と指との僅かな隙間から、ほの赤い光がにじみ出るのを見たエル・クレールは、首を否定の形に振った。
「このあたりに、他のが湧いて出たか?」
古びた上着が小さくうなずいた。
「二つ……二つの気配が一つに繋がっている」
「今日はなんて厄日だ」
ブライトは担いでいた「荷物」を放り投げた。
「若様!?」
小さく悲鳴を上げるシルヴィーの眼前に、上着を引き被ったままのエル・クレールが蜻蛉を切って着地した。
「どっちだ?」
舞台の方向を睨みながら、ブライトが問う。エル・クレールは彼の上着を出口に向かって投げつけた。
上着は帆布に当たると同時に、切り裂かれて落ちた。
シルヴィーが悲鳴を上げた。転げるようにエル・クレールの背後に隠れる。
「ヒトの一張羅《イッチョウラ》を駄目にてくれるとは、ホントにこの姫若様はどうしようもないお方だよ。罰として、助けてやらねぇから気ぃ入れて片付けろ」
言いつつ、ブライトは裂けた上着とは、まるで逆の方向を見やっていた。
舞台の方角から、物の壊れる大きな音が聞こえる。怒声、悲鳴、恫喝が混じったそれは、ただならぬ事態を知らせていた。
ちらりと「出口」の側を見た。
銀色に光る刃物が、テントの布地を縦横にに切り裂いた。人間一人が通れるほどの穴からぬっと現れたのは、
「勅使の腰巾着」
ヨハネス=グラーヴがイーヴァンと呼んだ若者だった。
充血により赤く澱んだ眼球が落ち尽きなく動く様子や、眉間から鼻の頭にかけて不快と興奮の縦皺を刻んだ顔立ちは、常軌を逸していると言えなくはない。だが彼は、肉食獣がアルコールを飲んだような口臭をまき散らし、肩を大きく上下させ、呼吸をしている。
『クレールはコイツのどこに屍体の臭いを嗅ぎ取ったってンだ?』
疑念はあった。だが、今朝から彼女は生ける屍を見極める感覚がひどく乱れている。
真鬼《オーガ》か人鬼《グール》か、あるいは別な「生きていない物」の気配を感じ取ったのは間違いないだろう。ただし、暗闇で目隠しされているに等しい不確実な「視覚」が捕らえたものだ。
『近くにいるとすれば、むしろ向こうの方が、怪しい』
ブライトの目玉は舞台の方角に戻った。
ほとんど同時に、イーヴァンが吠えた。
「斬るっ! ヨハンナ様の心を動かす者は、皆斬るっ!」
長大な剣が風を切った。エル・クレールが身構えている場所から三歩離れた床面に重い鋼の切っ先がめり込んだ。
貧相な床材の破片と細かな土埃が、猛烈な勢いで飛び散った。乾いた大地の微細な破片が朦気なって立ちこめる。エル・クレールの視界はふ