土屋庄三郎は邸を出てブラブラ
「花を見るにはどっちがよかろう、
鍛冶小路の辻まで来ると庄三郎は足を止めたが、「いっそ神明の
こう呟くと南へ折れ、曽根の邸の裾を廻わった。
しかし、実際はどこへ行こうとも、またどこへ行かずとも、花はいくらでも見られるのであった。月に向かって夢見るような大輪の白い
「花を踏んで等しく惜しむ少年の春。
小声で朗詠を吟じながら、境内まで来た庄三郎は、静かに社殿の前へ行き、合掌して
「お館の隆盛、身の安泰、武運長久、文運長久」
こう祈って顔を上げて見ると、社殿の縁先
おおかた参詣の人でもあろう。――こう思って気にも止めず、庄三郎は足を返した。
と、うしろから呼ぶものがある。
「もし、お若いお侍様、どうぞちょっとお待ちくださいまし」
――それは
で、庄三郎は振り返った。
「老人、何か用事かな?」
庄三郎は訊いて見た。
「
おずおずとして老人は云う。
「おお、お前は布売りか。いかさま紅い布を持っておるの」
「よい布でございます。どうぞお買いくださいまし」
「よい布か悪い布か、そういうことは俺には解らぬ」庄三郎は微笑したが、「俺はこれでも男だからな」
「お案じなさるには及びませぬ。布は上等でございます」
老人は
「そうか、それではそういうことにしよう、よろしい布は上等だ。しかし、俺には用はないよ」
云いすてて庄三郎は歩き出した。
しかし布売りの老人は、そのまま断念しようとはせず、行手へ廻わってまた云うのであった。
「布をお買いくださいまし」
「見せろ!」
と庄三郎は我折れたように、とうとうこう云って手を出した。
「なるほど。むうう。
渡された布を月影に
「はい美い色でございます。そこがその布の値打ちのところで……」さもこそとばかりに老人は云った。
「若い
「はいさようでございます」
「ここら辺にはお邸も多い。若い女子も沢山いる。お邸方の
「今日も昨日も
「どなたの
「皆様、
「なに恐らしい?」と不思議そうに、「はて何が恐いのか?」
「そのお色気でございます」
「色気と云っても、紅いだけではないか」
「人間の血で染めたような、燃え立つばかりの紅い色が、恐らしいそうでございます」
「アッハッハッハッ、馬鹿な事を。さすがは女子、臆病なものだな」
もう一度布を差し上げて、月の光に照らして見たが、庄三郎は思わず
と、
「お侍様、あなたまでが……」
「何!」
と庄三郎は振り返る。
「
「
と一喝したが「これ、この
「
「それ持ってけ!」
と抛り出した。チリンと鳴る金の音。
こういうことのあったのは永禄元年のことであるが、この夜買った
しかし
武田家において土屋といえば非常に立派な家柄であって、無論甲陽二十四将の一人、代々武功の士を出したが、
後年勝頼が四方に敗れ小山田信茂には裏切られ、天目山で自尽した時、諸将ほとんど離散した中に、惣蔵一人
それはともかく土屋家なるものは、武田家にありては由緒ある名家で、一族の数も多かったが、信玄時代では惣蔵昌恒が、土屋宗家の当主であった。そうして「神州纐纈城」なるこの物語の主人公土屋庄三郎昌春は実に惣蔵の
そうして庄三郎は孤児であった。
庄三郎本年二十歳。十六年前四歳の頃に、父母と別れてしまったのである。と云って父母は死んだのではない。
庄三郎の父は庄八郎と云って惣蔵のすぐの弟であったが、武勇にかけては一族の中でも並ぶもののない武士であって、有名な
天文五年十一月、武田信虎八千を率い信濃海口城を襲ったが城の大将平賀源心よく防いで容易に
「殿、なんとなされましたな?」心配そうに訊いたものである。
「
「雪が深うございますからな」顔を見い見い庄八郎は云う。
「雪が深い? それがどうした! 冬になれば雪も降るよ。降った雪なら積りもしようさ。莫迦な話だ」と益々不機嫌だ。
「寒さが厳しゅうございますからな」庄八郎はまた云った。顔を見い見い云うのである。
「何を申すか。つまらない事を」
晴信はギロリと庄八郎を
「敵とて人間でございます。やはり寒うございましょうよ」
この言葉には意味がある。で、晴信は黙っていた。
「甲州勢退くと見るや、城兵一時に安心し、凍えた身肌を暖めんものと
「わかった!」
と不意に晴信は庄八郎の言葉を
それから父の前へ出た。
「
「この大雪には城兵といえども、門をひらいて追っては来まい。追い
しかし晴信は動じようともせず「殿いたしとうございます」とただ繰り返すばかりであった。
で、許されて陣中へ帰ると、すぐに晴信は庄八郎を呼んだ。ここで密談が行われる。それからの事は頼山陽が、
以二兵三百一殿。後二大軍一数里。止舎。親警二其兵一曰。勿レ釈レ甲。勿レ卸レ鞍。食レ於レ馬而後食。五更即発。唯吾所レ嚮是視。兵皆窃嗤レ是曰。風雪如レ此。何為警。五更。晴信即発。還向二海口一。与二三百騎一冒レ雪馳。昧爽抵レ城。源心已散二遣其兵一。独与二百人一留守。晴信分レ兵為レ三。自以二一隊一入レ城。二隊揚二幟城外一。応レ之。城兵不レ測二其衆寡一。不レ戦而潰。乃斬二源心一。以二其首一帰献。一軍大驚。云々。
これは驚くのが当然である。しかしてこの計を献じたのも、敵将源心を討ち取ったのも皆土屋庄八郎であった。その後晴信は父を
さすが寅歳の産れだけに信虎は豪勇の性格であり、その性格が役立って、甲斐国内の豪族ども、すなわち
そこへ起こったのが家督問題で、
驚いたのは老臣どもで憤慨したのは晴信である。そうして妙策を献じたのは土屋庄八郎昌猛であった。
「殿、ご心配には及びませぬ。今川をお頼みなさいまし」
当時今川義元と云えば駿遠参の大管領で
「なるほど、これはよい
庄八郎の手を取って押し戴いたということである。信虎は間もなく
土屋庄八郎昌猛はこれほど勝れた人物であったが家庭的には不幸の人で、
主水は兄の庄八郎やまた長兄の惣蔵が武勇一図の人間であるのと大いに趣きを異にしてきわめて
甲州一の宮浅間神社に
いはと山緑も深き榊葉 をさしてぞ祈る君が代のため
君を祈る賀茂の社 のゆふたすきかけて幾代か我も仕へん
うきものを寝覚の床の曙 に涙ほしあへぬ鳥の声かな
君を祈る賀茂の
うきものを寝覚の床の
これらの和歌でも想像されるように、主水は
息苦しい恋の三角関係! それが五年間続いたのであった。そうして庄三郎の四つの時、突然主水の姿が消えた。ややあってお妙が行衛不明となり続いて庄八郎が身を隠した。
庄三郎はよく云った。
「……ね、俺はこう思うのだ。俺の両親は
土屋庄三郎昌春は、翌朝早く眼を
「うむ、夢ではなかったか」
呟きながら起き上がると、紅巾を持って縁へ出た。顔を出したばかりの朝の陽が夢見山の頂きからお館の屋根を輝かせ、庭の木立の隙を潜り泉水へ落ちる
「はてな」
と云って首を捻った。
それからさらに改めて、打ち返し打ち返し眺めたが、
「見えぬ!」
と不思議そうに呟いた。で、じっと考え込む。
その時、サラサラと音を立てて
「若様、お早うございます」と掃く手を止めて挨拶した。
「おお甚兵衛か。早起きだな」庄三郎は挨拶を返しそのままじっと考え込んだ。
花を踏み踏み幾十羽の小鳥が庭の木立で啼いている。声を涸らした
「甚兵衛」
と不意に庄三郎は呼んだ。「まあちょっとここへ来い」
「はい、ご用でございますかな」
「何んと
云いながら紅巾を差し出した。
「や、これはこれはお綺麗お綺麗。眼が覚めるようでござりますなあ。どこでお
「うん、少しく訳があって、計らず手に入れた紅巾だが、これ甚兵衛よく見てくれ。そこらに文字が書いてないかな?」
「は?」と甚兵衛は訊き返す。「あの、文字とおっしゃいますと?」
「この
「へへえ、さようでございますかな。どれそれではもう一度」
こう云いながら甚兵衛は繰り返し布を調べて見たが、文字は愚か傷さえもない。
「今年私は六十五。眼も駄目になりましょうよ。何んにも見えませんでございます」
「ふうん、お前にも見えないかな」
「はい、そうして若様には?」
「実は俺にも見えないのだ」
「さてはお
「しかし昨夜はよく見えた」
「それは本当でございますかな」
「俺は思わず顫えたものだ」
「何んと書かれてございましたな」
「月の光に黒々と、
「謹製? ははあ、謹製とな? ――それから何んとありましたな?」
「『土屋庄八郎昌猛』と、こう鮮かに書いてあったぞ!」
「うむ、まるで玉虫のようだ」
庄三郎はこう思いながら、その気味の悪い紅巾に次第に愛着を覚えるようになった。
「とにかく一度でも俺の眼に父上の御名の現れた
こうも思って紅巾を肌身放さず持つ事にした。
やがて桜が散り山吹が散った。
甲斐の盆地の夏景色は、何んともいえず
ある夜、信玄は十数人の家来と、中
第一の寵臣高坂弾正、兵法知りの山本道鬼、勇武絶倫の馬場、山県、弟信繁、子息義信、伊那の郡代四郎勝頼、土屋惣蔵は云うまでもなく、特別をもって庄三郎も軍議の
名に負う永禄元年と云えば、上杉謙信を相手とし、信州
「庄三郎」
と、信玄は、深味のある声でふと呼んだ。
「はっ」と云って手を仕える。
「そなたの父を思い出すぞよ」太い眉を動かしたが、「庄八郎は勇士であったぞ。また思料にも富んでいた。思案に余った折々は、俺はいつも思い出すぞよ」
「有難いお言葉に存じます」
「そなたも父に
「努めてはおりますなれど……」
「不肖の子と云われるなよ」
「恐れ入ってございます」
「浮世の事、一切力だ! 力を養わずばなるまいぞ」
「お言葉有難く存じます」
「よいよい」
と云って信玄は、素絹の袖を左右に張ると、トンと軍扇を膝に突いた。
再び軍議に入ったのである。
衆人の前で父の事をこうあからさまに褒められて、庄三郎は嬉しくもありまた晴れがましくも思われたかポッと顔を上気させ、恍惚とした眼使いで地図の面を無心に見た。と、その地図の真中へ、ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリと、上の方から血が
「あっ」と口の中で叫びながら再び地図へ眼をやると、依然として落ちて来る血の
「む」と思わず
血でなくてそれは紅巾であった。
庄三郎は顔色を変え素早く懐中へ手を入れたがあるべき筈の紅巾がない。
庄三郎は場所柄を忘れ思わずすっくと立ち上がった。一度に座中の視線が向く。はっと気が付いて坐ろうとすると、あたかも庄三郎を
厳重に
その廊下を焔のようにまた紅の鳥のように
吾を忘れて庄三郎は紅巾の後を追ったのである。
人は城人は石垣人は濠情 は味方あだは敵なり
これは信玄の歌であるが、どうやら代作ではなさそうである。芸術として見る時は目鼻のつかない
東曲輪の大きさは、二十四間に六十間で、三つのうちで最も小さく、中曲輪は信玄の居所、築山泉水
館を
曲輪を抜け
その侍こそ庄三郎で、飛行する紅巾に誘われ、何処とも知れず走るのであった。
闇の夜にもかかわらず、庄三郎の鼻先から一間余の空間をちょうど燃えている焔のように、
しかしそれでもようやくのことで彼は紅巾を引っ掴んだ。
「さあ捕らまえたぞ!」と嬉しそうに、狂人のように笑ったとたん、グラグラと眼が廻わった。そのまま庄三郎は気を失い、闇の中に倒れたのである。
「もし、お若いお侍様!」
こういう呼び声が聞えたので庄三郎は眼を開けた。
陽がカンカンと当たっている。青々とした高原が
「あっ」と驚いて起き上がった時、
「どうなさいましたお侍様」と、優しく尋ねる声がした。見ると老人が立っている。
「老人」と庄三郎はまず云った。「ここはいったい何んという所だ?」
「富士の裾野でございます」老人の答えは平凡である。
「富士の裾野は解っている。その他には名はないかな?」
「三道の辻と申します」
「三道の辻? 妙な地名だな」
「ここに辻がございます。路が三本分れております」
「いかにも三本路がある」
「東へ行けば富士のお山、西へ
「いや人界とは面白い。それでは他は魔界かな」
庄三郎は笑いながら云った。
「はい、魔界でございますとも」
老人の言葉は真面目である。
庄三郎が驚いて思わずその眼を見張った
パッパッパッパッ……
チャンチャンチャンチャンと金具を響かせ二三十騎の騎馬武者がどうやらこっちへ来るらしい。にわかに老人は
「さあ大変だ。隠れなければならない。こっちへこっちへ」
と云いながら庄三郎の袖を引き
「これ何をする。どうするのだ」
「
と老人は眼で叱り、「
と
チャンチャンチャンチャンと互いに触れ合う
遠寄せかそれとも武者押しか? 何者がどこへ行くのであろう? ――不審に思いながら庄三郎は老人の側へ
野の
老人は側で顫えていた。そうして右手を指差した。そっち――から騎馬武士は来るらしい。砂煙が
「はてな?」と思う暇もなく蹄の音は駈け抜けようとしたが、とたんに砂煙の壁をもれてニュッと馬の顔が現われた。それから馬の尻尾があらわれ
それもほんの一瞬間で、武士の姿は砂煙に包まれ、そのまま
ホチヨカケタカ! ホトトトトと、
富士は
「白雲もいゆきはばかり」と
しかし、老人も庄三郎も富士に心を曳かれようとはせず、今は聞こえない蹄の音が遠く消え去ったその方角へ眼と耳とを働かせていた。
長い間二人は黙っていた。
と、庄三郎が呟いた。「血紅色の経帷子!」
それから
「同じ色だ! ちっとも違わない!」
「人狩りに行かれたのだ! 人狩りにな!」
呻くような声で老人は云った。
「あいつらいったい何者かな?」
庄三郎は声を掛けた。
「
「なに水城? どこにあるのか?」
「
「なるほど、そうして人狩りとは?」
「人狩りは人狩りでございますよ……。ああ恐ろしい恐ろしい! うかうかそんな事云おうものならそれこそこっちの命があぶない。さあお
老いたる
その様子があわただしくいかにも恐怖に充ちていたので庄三郎も気味悪くなった。
「ともかく甲府へ帰ることにしよう」
――で、庄三郎は歩き出した。
庄三郎は足を早め裾野をさして下って行った。
上るに苦しく下るには
庄三郎は足を早め裾野をさして下って行く。
彼の歩いているその辺はどうやら富士も五合目らしく、その証拠には木という木がほとんど地面へ
庄三郎は走るように下る。
と眼の下に森林があたかも行手を
四方カラリと吹き払われ空の蒼さや雲の
庄三郎の汗に
「どれ
甲府の城下へ着いたのはその翌日の夕方であったが
一夜のうちに富士のお山の五合目あたりまで行くということは、この時代としてはあり得べからざることで、驚く方が当然であった。
「恐らく神隠しに会ったのであろう」「いや天狗に
しばらく館への出仕も止め家にばかり
土用の明けた翌日からいつも武田家では
今年は七月の八日というのがちょうどその日に当っていた。
新羅三郎義光以来連綿と続いて来た武田家である。その間およそ五百年。珍器も集まろうというものだ。
中曲輪三分の一が曝涼の
楯無しの鎧。日の丸の旗。諏訪神号の旗。孫子の旗。渡唐天神像。不動像(信玄自身を刻んだもの)。朱地に黒く武田菱を三つ染め出した本陣の旗。先祖代々の古文と古書。二尺六寸国長の刀。二尺五寸景光の刀。五寸五分倫光の短刀。三日月正宗。郷義弘。国次の刀。左文字の刀。信虎使用虎の朱印。……信玄軍陣の守本尊刀八毘沙門と勝軍地蔵も宝物の中に加えられていた。手沢の茶椀同じく茶釜。武田家系図。諸祈願文。紺地金泥の法華経と
十日に渡った曝涼も十八日にめでたく終え家中一同館の中で信玄から酒肴を賜わった。
「遠慮は禁物だ。十分に飲め、そうして大いに酔うがいい」
こう云いながら信玄は自分も朱塗りの大盃で葡萄の酒をあおるのである。
ここは
「快川長老どうなされた。一向酒を参らぬの。……給仕の者お注ぎ致せ」
信玄の言葉に「はっ」と
「さあさあ山盛りに注いでおくれ。散ります散ります。おっと結構」
いつも
「ところで土屋庄三郎殿、面白いことがあったそうだの。一夜で富士の五合目まで行かれたという噂だが。……」
「はい。参りましてございます」
「富士は
「神のお誘導きでございましょうか? 悪魔の
「私をお山へ誘導きましたのは、神でも仏でもございませぬ。紅巾なのでございます」
「その噂なら聞いておる」長老は優しく微笑したが、「その紅巾お持ちかな?」
「肌身放さず持っております」
「ちょっと見せてはくださるまいか」
「いと易いことでございます」
庄三郎は懐中からスルリと紅巾を引き出した。
いわゆる、戦国式臨済僧であった。
紅巾を受け取り膝の上へ載せじっと見ていた長老はにわかにその眼を
紅巾が座中に現われた時から、宴に
不意に長老は顔を上げ、
「殿」
と信玄を呼びかけた。
「殿には学問を好ませられ、多くの書物もご覧のことゆえ、宇治拾遺物語などは
「さよう……」
と信玄は
「それが何んとか致したかな?」
「宇治拾遺物語の百六十七節に『慈覚大師
「纐纈城の物語? おお、あれなら覚えておるよ」
「恐ろしい物語でございましたな?」
「さよう無残な物語であったな」
「山間に
快川長老はこう云いながら、膝の上の紅巾を手に取り上げた、そうして高く頭上へ捧げた。
と、部屋内の
ここで物語は一変する。富士の裾野へ移らなければならない。
古来富士山の美については多くの墨客騒人が競って絵に描き詩歌に作ったが、しかし誰一人その富士山の物騒な方面を説いたものはない。
戦国時代の富士ときてはかなり物騒なものであった。至る所に猛獣毒蛇
そうしてこの頃の富士山は全然休火山とも云えなかった。時々焔を吹き出した。四時煙りを上げていた。
天応元年七月六日。富士山下二雨灰一、灰之所レ及、木葉凋落 。
延暦十九年六月六日。富士山顛 自焼。
延暦二十一年正月八日。昼夜炬燎 、砂礫 如二霰者 一。
貞観六年五月二十五日。大火山其勢甚熾 。
寛平七年十一月。神火埋二水海一。
長保元年三月七日。富士山焚 。
長元五年十二月十六日。富士山焚。
永保三年二月二十八日。富士山焼燃焉。
永正八年。富士山鎌岩焚。
宝永四年十一月二十三日。富士山東偏炎上、砂灰を吹出し、関東諸国の田園皆埋没す。
以上記した十個の記録が、歴史あって以来富士に関する最も有名の爆発であるが、尚西教史による時は、慶長十二年富士焚とあり、また甲信譜による時は、享禄以降元亀天正まで富士不断に煙りを揚ぐと、こうはっきり記されてある。享禄以降天正までと云えばいわゆる戦国の真っ最中で武田信玄の全盛期である。延暦十九年六月六日。富士
延暦二十一年正月八日。昼夜
貞観六年五月二十五日。大火山其勢甚
寛平七年十一月。神火埋二水海一。
長保元年三月七日。富士山
長元五年十二月十六日。富士山焚。
永保三年二月二十八日。富士山焼燃焉。
永正八年。富士山鎌岩焚。
宝永四年十一月二十三日。富士山東偏炎上、砂灰を吹出し、関東諸国の田園皆埋没す。
富士の裾野、鍵手ヶ原のこんもりとした森の中に一宇の屋敷が立っていた。
昔はさこそと思われる書院造りの屋台ではあるが、風雨年月に
越後国、春日山の城主、上杉謙信の旧家臣、直江
今、廃園に佇みながら若い男女が話している。蔵人の娘松虫と、松虫にとって従兄にあたる直江主水氏康とである。
「……どんなにお待ちしたでしょう。ようこそおいでくださいました。……けれどすぐにお
「……伯父様はどこにおられます? お姿が見えないではございませぬか。お目にかかってご挨拶を申し上げたいと存じます」主水は静かにこう云った。まだ旅装さえ脱いでいない。
「はい父でございますか。父は先ほど家を出て林の方へ参りましたが、おっつけ帰ってまいりましょう。しばらくお待ちくださいますよう。……どうぞお上がりくださいまし。
「それでは父のおります方へ、
「どうぞお願い申します」
「こうおいでなさりませ」
松虫は主水の先に立って雑木林へ分け入った。
ちょうど砂金でも振り蒔いたような夕陽の光が木々の隙から
「おお」と思わず主水は云った。そうしてそのまま立ち止まった。
富士の裾野の林の奥から読経の合唱が聞こえるのである! これは驚くのが当然であろう。
しかしその声はやがて止んだ。後はしんと静かである。
「恐れることはございませぬ。不幸な人達なのでございます。……
で、二人は歩き出した。間もなく林の底へ来た。四方は灌木や茨の壁で隙間もなく囲まれている。
「……向こうへ行くことは出来ませぬ。ここが境いでございます。……間もなく父も参りましょう。ここでお待ちくださいまし」
云いながら松虫は草を敷いてそのままそこへ坐り込んだ。主水も側へ坐った。永い夏の日も暮れたと見えて夕陽が名残りなく消えてしまった。林は闇に包まれた。二人はじっと坐っている。
その時眼前の藪地から
彼らの列は足音も立てずやがて藪地へ消えてしまった。
間もなく彼らの立ち去った方から読経の
夜は沈々と更けまさり林の中はざわめいた。夜風が梢を渡ったのである。
「何んという不思議な所だろう? 彼らはいったい何者だろう?」
思わず主水は呟いた。
「可哀そうな病人でございます。
「それにしてもこのような林の中で、しかもこのような闇の夜に何をしているのでございましょう?」
主水は不思議そうに訊くのであった。
「富士のお山のご神体
ここに俗に
今日も陶器師は
陶器師は大きな
春去夏来新樹辺、緑陰深処此留連、尋常性癖耽二閑談一、不レ愛二黄鶯一聞二杜鵑一
その時一人の旅人が――武者修行風の若い武士が、
と、ヌッと鎌首を上げ、陶器師は呼び止めた。
「
「何?」と武士は振り返る。ポンと陶器師は竈の蓋を物も云わずに持ち上げた。とたんににょきり現われたのは、素焼きの陶器であらばこそ蒸し焼きにした人間である。
「肋、一本、置いてきなせえ!」
陶器師はまた云った。金を置けという謎である。
「ははあさては貴様だな」若い武士は驚きもせず、パッと編笠をかなぐり捨てると、つかつかと竈の方へ近寄った。
「富士の裾野に陶器師と云う賊のいることは聞いていた。ははあさては貴様だな」
「おおさ俺が陶器師さ。ところでお前さんは何者だね?」
「ご覧の通りの旅侍さ」
「ちっとばかり骨がありそうだね」
「アッハッハッハッ、そう見えるかな」
「容易に金は置いてはゆくまい」
「お手の筋だ。さてそれから?」
「手数をかけたそのあげく、竈の中で往生かね」
「お前がか? それともこの俺がか?」
「こりゃ面白え、いい度胸だ。……ひとつ
「いと易いことだ。宣ってやろう。武田の家臣土屋庄三郎だ」
「武田の家臣で土屋庄三郎? なるほど」
と云ったが
「では俺も改めて
――また肋を持って来る。これはもちろん
「うん、お前が陶器師か。名だけは
庄三郎も驚かない。「肋は愚か指一本爪一片もやることはならぬ」
で、クルリと
「南無三、笑った。あの笑いだな」庄三郎は膝を敷きピタリと大地へ
「武田の家臣で土屋庄三郎? 待てよ」
と云うと陶器師はにわかに何か考え込んだ。
庄三郎は油断をしない。刀の柄へ手を掛けながら相手の様子を
ある日のこと、信玄公が「噂によれば北条内記、三合目陶器師と名を偽り裾野に住むということであるが、まことに人物経済上惜しみても余りある事ではある。とは云えきゃつは血吸鬼、剣に淫する一種の
「評判に違わぬ無双の
陶器師は眼をつむり
静かに陶器師は眼を開けた。
「
「いかにも」と庄三郎は頷いた。「その惣蔵には
「ははあ」と陶器師はそれを聞くと一層言葉を改めたが、「しからばご貴殿のお父上というは庄八郎殿ではござらぬかな?」
「さよう」と云ったが庄三郎ちょっと言葉を云い渋った。
「こいつ何を云い出すことか。油断はならぬ」と思ったからである。
「おおさようでござったか」陶器師は軽く
「土屋庄三郎昌春と申す」
「まずまずここへお坐りなされ」
こう云うと敷いていた
断るも卑怯と思ったので庄三郎は座についた。二人しばらく無言である。
また陶器師は眼を閉じた。じっと思案に更けっている。
庄三郎はその様子を
「はてな」と思わざるを得なかった。悪逆無慈悲の殺人鬼、その陶器師の面上に何んとも云えない寂しいもの――愛する主人を失った
庄三郎の心持ちはそれを見ると
この時、陶器師は眼をあけた。
「この物騒な富士の裾野を、お見受けすれば一人旅、どちらへおいでなされるな?」
「さよう、
「なに本栖の湖へ? ふうむ、そうして何んのご用で?」
「人を尋ねて参るのでござる」
「人を尋ねて? なるほどな。……何人をお尋ねなされるな?」
「父母と叔父を」と庄三郎は隠そうともせず打ち明けた。
「それはご無用になさるがよい」
「それはまた何故でござるかな?」
「本栖の湖は魔界でござる」
「それは
「恐ろしい
「その水城へ参るのでござるよ」庄三郎は平然と云った。
「水城へ参る? 殺されにかな?」
「いやいや父と逢うために」
「さようなお方はおりませぬ」
「おるかおらぬか確かめにともかくも参る考えでござる」
「仮面の城主がおるばかりじゃ」陶器師は云い切ったが、
「武道の
「さよう、いささか」
と云ったとたん、陶器師は立ち上がった、立った時にはもうその手に
陶器師は大上段。フフフフフフ、と陰性の中音、絶えず笑いを響かせながら、分を盗み寸を奪い、ジリジリと爪先で寄って来る。
しかし土屋庄三郎も、塚原
と、陶器師の眉の辺、ピリピリと
わずかに位置が変わったばかり、突かれもせず切られもせず、二人はピッタリ構えている。
「待たれい!」
と陶器師は声を掛けた。構えたままで、後へ退がり、
「あぶない、あぶない」
と呟きながら陶器師は火箸を取り上げた。「恐ろしいものは剣ばかりではない。こういう不意打ちこそ恐るべし」
薪を摘んで竈へくべそれから初めて振り返った。
「天晴れの腕前。まずは安心。……」軽く意味深く微笑したが、
「拙者と太刀を合わせたもの貴殿以外には一人もござらぬ。大概一太刀でやっつけ申した。……まずともかくここへおいでなされ」
庄三郎はこの時まで構えの姿勢を
云われるままに元の円座へ庄三郎は座を組んだが、ややしばらくは物を云わない。
「それほどのお腕前ある以上はどこへ参られても大丈夫でござる。本栖の湖へ参る途中も幾多の
こう云った陶器師の声の中には人情的の響きがあった。好意と危惧とが籠っていた。
しかし庄三郎は黙っていた。云う必要がないからであろう。とは云え甲府の城下を去り、ここ裾野へ来るについては来るだけの
二人は黙って顔を見合わせている。
涼しい風が吹き込んで来た。竈から焔がヒラヒラとなぐれ先刻の蝶が
「さては拙者を
と云いながら、陶器師はまたも眼をとじたが、
「貴殿は父母をお尋ねになり魔界へ踏込み行かれようとなさる。それに反してこの拙者は、求めるものを求めかね、物に狂い心を取り外し、一日といえども人の血を見ねば
突然太刀を
云うとそのままくったりと坐り竈の
「何を求めておられますな?」
庄三郎は静かに訊いた。
「『不義』と『裏切り』この二つこそ拙者の求めるものでござるよ」
「捕えた暁にはどうなさるな?」
「一刀両断! 刃の
「この浮世には不義も裏切りもいくらもあるのではござらぬかな」庄三郎は冷やかに訊く。
「直接この身に
陶器師の言葉も冷やかであった。それから静かに手を振った。
「用はござらぬ。お通りなされ。今日も日が暮れる。富士が曇って来た。どれ一休み」
と云ったかと思うと竈の前へゴロリと寝た。と、その顔に浮かんだのは見るも悲痛の苦悶であり、寂しい寂しい懺悔であった。
庄三郎は呟いた。
「主君の言葉に偽りはない。血吸鬼! 殺人狂!」
庄三郎は立ち上がった。それから裾野を横切った。間もなく姿は
夕陽が華やかに野を照らした。富士が
その時サーッと風の音がした。しかしそれは風ではない。
「オ――イ!」
と一人の武士が呼ぶ。
「北条内記殿! 陶器師殿!」もう一人の武士が続いて呼んだ。
「オ――イ!」と陶器師は答えたが、刀を掴むと飛び起きて、身を
「今日の獲物、いざお受け取り!」
声と一緒に一人の武士は鞍壺に
「
「姦夫、覚えたか、天罰
それから例の陰性中音、フフフと笑ったものである。
武士はひらりと馬から下りた。タラタラと繰り出す数丈の白絹。切り口に
「いざ、お次!」ともう一人の武士は、これも
「姦婦!」
と陶器師は声を掛けた。それからブルッと
くるりと陶器師は
竈の前へ膝を突くとそのままぐったりと横になった。大小を左の小脇に抱え、堅く眼をとじて動こうともしない。眠ろうとしているのであろう。
と、浮かんで来る懺悔の表情。時々眼をあけて空を睨むのは容易に眠られないためでもあろう。
やがて宵闇が忍び寄って来た。星がキラキラと空で輝き、藪や曠野や林の中から鵜烏の啼く声が聞こえて来た。竈の口では青い火が鬼火のように燃えている。
この頃、土屋庄三郎は裾野を分けて歩いていた。
彼が甲府を抜け出して、再び裾野へやって来たのには、次のような事情があるのであった。
それは虫払いの夜であった。
紅巾を見ると快川長老は、
「これは纐纈だ」とこう云った。
「私は若い頃
こう云って長老は改めて打ち返し打ち返し眺めたが、
「色も艶も
「は? 織り方とおっしゃいますと」
「この紅巾は日本織りだ。決して
するとこの時信玄公が、
「長老、長老」と声を掛けた。「その纐纈が日本織りとすると、どう解釈したらよかろうな?」
「勝手な空想が許されますなら愚僧にはこのように考えられまする。この世を怨み憤る者が、どこか深山幽谷に隠れ、唐の故事をそっくりそのまま纐纈城を造り設け、そこで悪行を
「うむ」と信玄は頷いた。「油売り松並荘九郎がともかくも美濃を平定し斎藤道三と
「長老」と庄三郎は熱心に、「
「いやいや私が話すまでもない。宇治拾遺物語をご覧なされ」
それで庄三郎は邸へ帰ると宇治拾遺物語を取り出した。
「慈覚大師纐纈城に入り給ふ事」
「うむ、これだな」と頷きながら庄三郎は読んで行った。
「昔、慈覚大師仏法を習ひ伝へんとて、唐土へ渡り給ひておはしける程に、会昌年中に、唐の武宗、仏法を亡して、堂塔を
読んでしまうと庄三郎は深い疑いに落ちて行った。
「
こう考えて来て庄三郎はいても立ってもいられなかった。
「行こう行こう本栖湖へ!」
庄三郎は決心した。その夜ひそかに旅装を調え、誰にも告げず
庄三郎は歩いて行く。
いつ道に迷ったものか、行っても行っても本栖湖へは出ない。星の光で道を求め
その時、遥か行手にあたって、
「さては人家があると見える。陶器師などというような悪人の住家でなければよいが」
近付くままによく見れば、こんもりとした森に囲まれ書院造りの屋敷があった。まだ戸を閉めぬ窓を通して火影が闇へ射している。
庄三郎は立ち寄ったが何気なく窓から覗いて見た。
一人の若い侍が美しい娘を前に据えて何やら話しているらしい。庄三郎は安心した。悪人達でないことは二人の男女の人柄でも知れる。
庄三郎は改めて今宵の宿を無心しようと玄関の方へ廻わって行った。
その翌朝のことである。
直江主水氏康と娘松虫に送られて、土屋庄三郎昌春は
「いつまでお見送り願っても容易に名残りは尽きませぬ。どうぞお引き取りくださいますよう」
こう云って庄三郎が立ち止まったのは一里余りも来た頃であった。
「いよいよお別れでございますかな」
主水も云って立ち止まった。
「ご無事においでなさりませ」
松虫も云って立ち止まった。
「昨夜以来のご歓待なんとお礼を申してよいやら」改めて庄三郎は礼を云う。
「一樹の蔭一河の流れ、袖振り合うも
こう云って松虫は微笑したが、その
「貴殿は武田方拙者は上杉。敵味方と別れてはいても今はお互いに放浪の身の上。同じ屋敷に一夜明かし、様々物語り致しましたこと、よい思い出となりましょう」主水はこう云って微笑したがやはり寂しい微笑であった。「拙者は柔弱。武道は未熟。わけても病気の身の上でござれば、いつ死ぬやら計られず。今日別れていつ逢うやら心細くも思われまする。……ただ一夜の
「拙者とても同じ事」庄三郎もしんみりと、「お二人の厚いお志、永久忘れは致しませぬ。昨日の昼頃、陶器師という恐ろしい賊に
次第に靄が晴れて来た。カラリと裾野が見渡される。
やがて別れの時が来た。
「さらば」「おさらば」と声を掛け、庄三郎は麓を指し、二人の者は屋敷の方へ露を分けて帰って行った。
庄三郎は元気よくスタスタ裾野を下へ下る。
「あの二人は余りに寂しい。悪い運命に逢わねばよいが」庄三郎は歩きながら、主水と松虫の身の上を思いやらざるを得なかった。
「日本の文学古典には驚くばかり精通し若いに似合わぬ学者ではあるが、武術に至っては農夫にも劣り、槍にも太刀にも用がないとは、この乱れた戦国の世にはどうにも向かない
などと思いもするのであった。
陽は次第に高く上り、やがて昼となり午後となった。その時またも道に迷い、あらぬ方面へ来たことに庄三郎は気が付いた。
「困った事だ」と呟いて野の上へ思わず突っ立ったが、しかし
「自然の城砦とはこの事であろう」
庄三郎は感にたえ岩壁の方へ寄って行ったが根もとに立って眺めればいよいよ高く思われる。
「この内側は野であろうか? それとも岩続きの山であろうか?」
こんなことを思いながらしばらく佇んで見上げていたが、足も大分
「どれ一休み」
と云いながらトンと岩壁へ背をもたせかけた。
とたんに岩がグルリと廻わり庄三郎はもんどりうって岩の内側へ投げ込まれた。ハッと驚いて起き上がった時には
「
「岩に開き戸があったと見える。うかうかそれへさわったと見える。で戸が開いてまた閉じた拍子に自分は内へ閉じ込められたのだ。……そうするとここはどこだろう?」
両手を左右へ延ばして見た。冷い岩が指にさわる。
「どうやら自分は岩に作られた洞穴の中にいるらしい」
ともかくもこれだけは見当がついた。
「どれ、戸口を調べて見よう」庄三郎は立ち上がり両手で岩を探りながら戸口と思われる方角へそろそろと足を運んで行った。間もかく岩へ
「駄目だ」と云って考え込む。それからまたもそろそろと反対の側へ
「これは洞穴ではないらしい。どうやらこれは道らしい」
こういう考えの浮かんだのは十間余りも行った頃であった。庄三郎は元気づいた。十分足もとへ気を付けながらズンズン先へ歩いて行った。こうしてまたも十間余り。……すると遥かの行手から蒼然たる微光が射して来た。
「有難い。さては野へ出るな」
庄三郎は飛ぶように光の射す方へ走って行った。
次第に光は鮮かになる。
こうしてとうとう庄三郎は、夕暮れの光草に流れる美しい谷間へ出ることが出来た。
余りの嬉しさに庄三郎は物を云うことさえ出来なかった。ただ
桃源、
要するに素直なその斜面が一時岩壁で
そうして谷はその一方では
その新世界の谷国はどうやら非常に広いらしい。それは広いというよりもむしろ長いと云うべきであろうか、とにかく一方は岩壁に添い、そして他方では富士に添って先拡がりに長く長くどこまでも続いているらしい。
「眠い」
と庄三郎は呟いた。空気は甘く、花の香りは高く、木から
「眠い」と庄三郎はまた云った。そうしてゴロリと草へ寝た。と、遠くから
「どこかにお寺があると見える」
……すると、今度は大勢の男女が、声を合わせて歌うような幽幻な歌声が聞こえて来た。
「誰か大勢で歌っている」庄三郎は眠りながら夢の中で呟いた。
「ここはいったいどこだろう?」
ゴ――ンとまた鐘の音が虚空を渡って聞こえて来る。それにつづいて合唱の声が海の潮の騒ぐように、
ここはいったいどこだろう?
富士教団神秘境!
土屋右衛門はご前へ出ると恐る恐る言上した。
「土屋庄三郎事一昨夜家出致しましてござります」
「何?」
と信玄は頬をふくらませた。驚いた時の癖である。ただし滅多には驚かない。「庄三郎が家出したと? ふうむ、さようか。困った奴だ」
「困った馬鹿者にござります」
「理由は何かな? 家出した理由は?」
「それが一向解りませんので」
「何か不平でもあったのかな?」
「決して決してさような事は」
「で、見当は付いているのか?」
「は? 見当と
「逃げて行った見当よ」
「いえ、それが、どうも一向……」
「一向付いていないのか、お前も少し
「赤面の至りにござります」
右衛門は額の汗を
信玄の顔は大きかった。そうしてひどく
顔が大きく肥えているように信玄の体も肥えていた。
さすがは名家威厳はある。それも鬱々たる威厳であって、こう黙って考えていると陰々として凄いほどである。
「右衛門、追手は出したろうな?」
ややあって信玄はこう訊いた。
「四方八方手を分かち、追手を出しましてござります」
「俺からもすぐに追手を出そう」
「は、なにとぞよろしいように」
「国の
「は、なにとぞよろしいように」
「俺は愚痴を云う人間ではない」暗然として信玄は云った。
「がそれにしても庄三郎は何故黙って他国したのだろう。この甲州の掟として、無断に国土を離れた者は草を分けても
「大馬鹿者にござります」
「大馬鹿者では済まないから困る。……庄三郎の父の庄八郎には俺は恩を受けている。庄三郎は俺にとっては可愛い大事な家来なのだ。他国させるのはいかにも残念、まして捕えて殺すのは情において忍びないが、この信玄の作った掟をこの信玄が破ることは出来ない。何んとそうではあるまいかな?」
「御意の通りにございます」
「もし許しておく時は、他国する者が増すであろう。他国したものは
「恐ろしいことにござります」
「そこで俺は涙を
「なにとぞ掟通りに遊ばすよう」
「しかし俺は悲しいのだ」
また信玄は暗然とした。
「甚太郎!」
と信玄は声を掛けた。
「はっ」
と云って
「そち追手に向かうよう」
信玄は厳然と命を下した。
「心得ましてござります」
十四歳の少年武士、
「これよりすぐに打ち立つよう」
「かしこまってござります」
「去年の五月、
「かしこまってござります」
一礼すると甚太郎は、スルスルとご前を辷り出たのである。
その日夕景、高坂邸から一人の
変装した高坂甚太郎である。
それは可愛い鳥刺であった。頭には頭巾を冠っている。頭巾の色は
色白で円顔で、鼻高く唇薄く
戦国時代の武士としてはむしろ小さかったが、クリクリと肥えていてさわらば物を刎ね返しそうである。弾力に富んでいるのであった。
お館の西側をグルリと廻わり跡部大炊の邸へ出、それを北へドンドン行くと突き当たったところに小山田邸、ここが
「さて、どっちへ行ったものかな」
甚太郎はしばらく考えたが、「こんな時には、棹占い、それがいい」
ポンポンと黐棹を
「おや、東南へ転びやがった。……東南といえば富士の方角、よしよしそれじゃ富士へ行こう」
きわめて簡単なものである。長い黐棹を肩に担ぎ、
いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
ハアほいのホイ
当時鳥はいぬかや大鳥は
ハアほいのホイ
「へ、それにしてもとんだ身の上を。身を変えての追手役、召し捕る相手は俺の従兄、古い物語にでもありそうだ。それにしても信玄公、内の親玉は皮肉だね。去年の五月、端午の節句、楯無しの鎧を盗んだような、あの素晴らしい機智をもって召し捕って参れと云うのだからな。信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど堪えたと見える。……チイチイどこかで啼いていやあがる。おや畜生山鳩だな」
見れば眼の前の大
「へ、こいつはお
狙いも付けずヒューと投げた。繁った枝葉を巧みに縫い棹はあたかも
「
獲物袋へグイと押し込み、
「……いざ鳥刺が参って候。鳥はいぬかや大鳥は、……信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど驚いたと見える」
去年と云うから弘治三年、端午の節句の夜であったが、家例によって楯無しを飾り、信玄は酒宴を催した。
その時信玄は楯無しについて一場の物語を物語った。
「寛正六年のことである。三代の祖先信昌公には、板垣三郎、下山五郎、この二人を先陣として叛臣跡部景家を夕狩沢にお
「あらたかな鎧にござります」家臣一同敬って申した。しかるに誰やら笑う者がある。声のする方を
「これ甚太郎、何が
「私さわりましてござります。……幾度も幾度も手を触れました。しかし神罰下りませぬと見え、この通り無事にござります」
「子供の癖に大胆千万、今に神罰が下ろうぞ」
すると甚太郎はクスクスと笑い、
「もしお許しさえ出ましたなら、楯無しを盗んでお目にかけます」
「楯無しを盗む? これは面白い。よし許す、盗んで見ろ」
「かしこまってござります」
で、甚太郎はご前を辷りそのまま姿を消してしまった。
「甚太郎めに何が出来る」信玄は侍臣を顧りみてニヤニヤ苦笑を洩らしたが、間もなく彼の心からはそんな約束をしたことも甚太郎のことも忘れられてしまった。
ところが武田家の家例として楯無しの鎧はその夜の中に――しかも深夜
で、
「どうも
で、じっと隙かして見たが灯火のない宝蔵の内はいわゆる
信玄は心には掛かったけれど「
さて、その翌朝のことであるが、
「高坂甚太郎の
「何んだ?」と信玄は
「昨夜甚太郎私に向かいこのようなことを申しました。――明朝宝蔵を開きますよう。楯無しの鎧は甚太郎めが盗み取りましてござりますと……」
「あっ」信玄は皆まで聞かず驚きの声を
扉を開けるのももどかしく宝蔵の中へ踏ん込んで見ると、外光を受けて仄かに明るい蔵の奥所の
「殿!」と甚太郎は声を掛けた。「種ヶ島の強薬、鎧櫃にぶっ放しましたら楯無しは
「さりとはさりとは呆れた奴! どこからはいった? どうしてはいった?」
「私から見ますればお館などは、それこそ隙だらけでございますよ。ケ、ケ、ケ、ケ」
と笑い出したが、それは尋常の笑いではなく、すなわち変態性慾者かないしは先天的犯罪人が、時あって洩らす残忍の笑いで、さすが豪勇の信玄も
「信玄公の坊主頭、あの時はよっぽど驚いたと見える」
鍛冶屋街道を富士の方へ、甚太郎はスタスタ歩きながら、思い出し笑いをするのであった。
「何がこの世で面白いかと云って、盗人に
日はもういつかとっぷりと暮れて道芝には露がしっとりと下りた。
「が、それにしてもこの俺が盗みをするということをまだちっとも気が付かないとは、何んと云う間抜けな奴らだろう。……さすがに
甚太郎はスタスタ歩いて行く。
特に信玄から授けられた武田家の割符を持っているので、甲州の地は
「ああもう歩くのが厭になった」さすがの甚太郎も嘆息して、思わず谿底へ立ち止まったが、いつまで立ってもいられないので勇を鼓して進んで行くと、やがて谿は行き尽くし鬱蒼たる森林へ現われた。すなわち今日の
「まず有難い」と云いながら、甚太郎は流れる汗を拭い木の根へ腰を下ろした時、丈なす
「地獄で仏という奴だな。……道でも尋ねることにしよう」
喜んで声を掛けようとしたが、何に驚いたか、「おや」と云うと、楓の木蔭へ身を隠した。
うち重なった葉蔭から、眼ばかり出して覗いていると次第に人影は近付いて来る。近付くままによく見ると、宗匠頭巾に
「何んて物凄い面だろう。ううむ、まるで幽霊のようだ」楓の蔭で甚太郎はこう思わずも呟いたが、まことにその男の容貌には一種異様なものがあった。
鼻高く眼長く、唇薄くその色赤く、眉は秀でて一文字に引かれ、まさしく美男には相違なかったが、それは
「……今日も斬った。三人をな。ハ、ハ、ハ、ハ、三人をな。……斬っても斬っても斬り足りない。俺はいったいどうすればいいのだ。斬っても斬っても斬り足りない。……待てよ」
と云うと立ち止まった。そうして
「ははあ人間が隠れているな」
こういうと共に血の色がスーと顔へ上って来た。水晶のように
「出ろ小僧!」と叫んだものである。
「どうもいけねえ。眼付かったらしい」甚太郎は
「お武家様、今日は」三白眼でニヤリと笑う。
「うん、鳥刺か。……どこへ行く」云いながらジリリと一足進んだ。甚太郎は一足退がったが、
「へい、富士へ参ります」
「ここは裾野だ。何しに来た」また一足ジリリと進む。甚太郎も一足退がり、
「鳥を刺しに参りやした」
「富士のお山には鳥は少ない。貴様、鳥刺は新参だな」
「仰せの通り新参で。……
「そんなに恐いか、俺の顔は?」
「活きている人とは見えませんねえ。おっといけねえ。寄っちゃいけねえ」
「鳥刺!」と武士はまた進み、「ここをどこだと思っているな?」
「富士の裾野でございましょうが」
「本栖湖の岸だ。青木原だ」
「へへえさようでございますかな」
「ふん」と武士は
「へい、何んにも聞いていません」
「本栖湖に
「へえ、さようでございますかな」
「お前のような若い男を水城の人達は欲しがっている」
「へえ、さようでございますかな」
「若い男には血が多いからな」
「へえさようでございますとも」
「
「へ?」と甚太郎は訊き返した。
「恐らく色も鮮かであろう」
「へ?」と甚太郎はまた訊いた。
「貴様、死ぬのは恐くはないかな?」
「死ぬのは真っ平でございますよ」
「しかし所詮遁がれることは出来ぬ」
「なあに滅多に死ぬものですかい」
「いやいや所詮殺されねばならぬ」
「誰が私を殺すので?」
「水城の人達が殺すだろう」
「へえ、そうですかい、水城の人達がね」
「そうでなければ俺が殺す」
刀の柄へ手を掛けた。
「そうはいかねえ」
と云いながら、甚太郎は
「ううむ」
と武士は眼を見張った。「おお貴様、槍が出来るな」
「あたりめえよ!」と甚太郎、またその気味の悪い三白眼を
「おお、お
「武田の家来で人を尋ねる? いったい誰を尋ねるのだ?」気味の悪い武士は静かに聞いた。
「尋ねる相手は俺の従兄だ」
「心当たりがある。名は何んと云う?」
「名かえ、土屋庄三郎だ」
「ははあ、そうか、あの男か」
「それじゃお前さん知っていなさるか?」
甚太郎は眼を丸くした。
「うん知っている。
「いつ?」と甚太郎は一歩進んだ。
「数日前に。ある所で」
「そうしてどっちへ行きやした」
「本栖の湖へ行くと云っていた」
「有難え!」と甚太郎は、それまで構えていた黐棹を、ひょいと肩へ担いだが、間一髪の際を狙って武士は抜き打ちに斬り込んで来た。
熔岩の上へ突っ立ったのである。
「
武士は白歯を覗かせてニッとばかりに笑ったが
「これは学んだ槍ではない。自己流の
と一つ気合を掛け、パッと槍先を
「来やアがれ!」と云うと甚太郎、黐棹をしごいて突き出した。それが右眼へ矢のように飛ぶ。またポンと払い上げる。と、しごいて左眼へ来る。タッタッと後へ引き下がり、武士は構えざるを得なかった。
「おい、お侍、どうする気だよ。何とか早く形を付けてくれ。俺は本栖湖へ行かなけりゃならねえ」岩の上から甚太郎は
「ゆっくりしろ」と、笑いながら、武士は岩へ腰をかけた。
「
「おお本栖湖は絶壁の背後か。うん、よしきた、飛び下りて見せる」
甚太郎は黐棹を肩へ担ぐと
「小僧、そこから飛び下りる気か」武士は驚いて声をかけた。
「下は岩組、飛び下りたが最後、貴様の五体は砕けるぞ」
「いざ鳥刺が参って候……」甚太郎は鼻唄をうたい出したが、
「侍、それじゃまた逢おう!」
「あ、
と叫んだ時には、甚太郎の姿は消えていた。
「無分別な奴だ」と
「可哀そうに死んだであろう」
呟いたとたんに谿底から歌唄う声が聞こえて来た。
「……鳥はいぬかや大鳥は……」
「や?」と武士は眼を見張った。「きゃつ怪我さえしなかったと見える」
「……ハアほいのホイ……」
歌声はだんだん遠ざかる。
「むう、まるで猿のような奴だ」
「いざ鳥刺が参って候……」
もう遠くへ行ったらしい。よく歌声が聞き取れない。
しばらく武士は
「いかさま凄い顔である」呻くがように武士は云った。「これでは人も恐れる筈だ。むう、我ながら浅ましい」
ピタリと刀を鞘に納めると、
岩を下って歩き出す。今までの精気は跡形もなく、顔の血の気は名残りなく消え、足の運びさえ
今日の里数をもってすれば、本栖村から人穴村まではおよそ三里十町もあろうか、村には戸数三十戸あまり、富士登山の道もあり、夏は相当
「将軍家(源頼家)駿河国富士の狩倉に渡御す。彼の山麓にまた大谷あり、之を人穴と名づく、其所を
以上は源家衰頽時代、建仁三年の出来事であるが、戦国時代にも人穴は、ほとんどそれと変りがなく、深い穴であったらしい。
ところで今日も存在する入り口に近い一条の横穴――富士講中の
打ち見たところ二十八九、容姿端麗の美婦であったが、身には純白の行衣を着、仄かに灯された獣油の
しかし作られるその仮面こそは、尋常一様の仮面ではなく、世にも奇怪な物であり、そうして面作師月子という女も、富士の裾野に巣食うところの
と、戸を叩く音がする。
「どなた?」
と月子は声を掛けた。
「俺だ俺だ。声でも解ろう」
月子はちょっと考えたが、
「解りました」と静かに云うと、戸の側へ行って
「しばらくであったなあ」と云いながら、よろめくようにはいって来たのは、他ならぬ強盗
「月子殿相変らず美しいの」
こう言いながら
「何をおっしゃるやら、来る早々。……」月子は笑いもしなかった。自分も円座へ坐ったが相手の顔をじっと見る。
陶器師はまぶしそうに、「見てはいけない。見てはいけない。お前に見られると身が縮む。……そう人の顔を見るものではない」
「厭なお顔に成られましたな。……これでは参らずにはおられますまい」
「……で、俺は今日来たのだ」
「あなたのお顔を見ておりますと、プーンと血の香が致しますよ」
「日に一人はきっと斬ったからな」陶器師は
「商売はどうだな? 繁昌であろうな?」
「お蔭様でまず繁昌」月子の声は冷静である。
「本業の方か? 副業の方か?」
「副業の方でございます」
「世間には馬鹿が多いと見える」
「はい、そういうあなた様も」
「俺か?」と陶器師は顔を曇らせ、「俺は余儀ない必要からだ」
「余儀ない必要からでございますとも」女面作師は初めて笑い、
「お気の毒でございますな」
「憐れんで貰う必要はない!」陶器師は不機嫌である。
「まだお逢いになれませんか?」
「見当も付かない! 見当もな!」
「恐らく裾野にはおられないのでしょう」
「いや裾野にはきっといる。それだけは見当が付いている」陶器師はキッパリと云った。
「可哀そうな人達でございますこと。……」
ふと寂しそうに云ったものである。
「何?」と陶器師は聞き咎めた。「可哀そうだと? きゃつらがか?」
「あなたのような恐ろしいお方に付け狙われるお二人様が」
「伴源之丞と園女がか? ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、何が可哀そうだ! 姦夫姦婦めが何が可哀そうだ! 気の毒なはこの俺よ! あったら武士も
「あなたもお可哀そうでございますよ」
「憐れんで貰う必要はない。もっとも……」と云うと
「もっとも憐れんでくれるなら。……」ひょいと月子の手を握った。
「おお憐れんでくれるなら、この心を憐れんでくれ! 燃えている心だ!
しかし月子は微動さえしない。冷たくそうして静かである。
「
「お放しなさりませ。睨みましょうか」
「止せ!」と云うと陶器師は捉まえていた女の手を放した。
「睨まれるのはまだ早い。俺はもっと正気でいたい」陶器師はガックリ
「弱いお方でございますこと」
「弱い?」とグイと顔を上げ、「この陶器師を弱くするのは
「弱いお方でございますこと」
「うん、弱いとも。俺は弱者だ!」またガックリ項垂れた。肩を細く刻むのである。
と
トコトコ、トコトコと聞こえているのは、岩から流れ落ちる清水であったが、洞窟の隅に石を畳んで、井戸のように湛えられてある。そこへ映る灯の光などは別して神秘的なものであった。
サク、サク、サクと鑿の音は、
「月子殿」と歎願するように、「
「
「おいで遊ばせ」
とクルリと背を向け、一つの入口の垂れ布を、上へ上げると身を斜に、消えるがようにはいって行った。やおら陶器師も立ち上がったが、
「恐ろしいことだ」と呟くと岩壁へ躰を持たせかけた。
「……正の自分を見るということは、何んという恐ろしいことだろう」
内から月子の呼ぶ声がする。
「おいで遊ばせ。……どうなされました?」
「行かずばなるまい。行って見よう。自分の醜い宿命を真正面から見るということも、自分のような
「どうなされました。おいで遊ばせ」
「今、参る」
と陶器師は金襴の垂れ布をつと開いた。
眼の前に
「ご覧あそばせ」
と一つの箱を、月子は棚から取り下した。
「…………」無言で受け取った陶器師は、またそこで
「どれ
「それには及ばぬ」
と云った時、ハタハタ、ハタハタと羽音がした。
「
「なるほど」
と云うと蓋を取る。
「あなたのお顔でございます」
「そうだ。昔の俺の顔だ!」
じっと覗き込んだ箱の中に、一個の
陶器師は見詰めている。食い入るように見詰めている。タラタラと額から汗が落ちる。歯の間から呻き声が短く鋭く洩れて出る。
ハタハタ、ハタハタと
「月子殿」と陶器師は云った。「何んと恐ろしい顔ではないか」
「恐ろしいお顔でございます」
「何んと厭らしい顔ではないか」
「厭らしいお顔でございます」
「これでは女房も裏切る筈だ」
「では
「当然と思う。当然と思うぞ」
「ではお怨みなさいますな」
「あくまでも怨む。活かしてはおかぬ!」
「それでは筋が立ちませぬ」
「氷い間のこの憎念、一朝一夕には消し難い!」
陶器師の声は
月子はあたかも教えるように、「それでは
「解脱? 解脱? カ、カ、カ」
「そうした果てにどうなさります?」
「そうした果てにか? そうした果てにか? やはり人を殺すのよ」
「救われないお方。救われないお方」
「しかし俺よりもっともっと悪虐な人間がこの世にいる!」
「それはどなたでございましょう?」
「纐纈城の城主よ!」
「仮面の悪魔! 悪病の持ち主! あれは人間とは云われません」
「……俺も最後にはあそこへ行こう。そうして毒血を絞られよう」
「いいえ」と月子は
しかし陶器師は返辞をしない。
「俺はまた人を斬りたくなった!」
「月子殿!」と隣りの部屋から呼ぶ。「お神水をくだされ。顔を直してくだされ」
月子は棚の前に立っている。そうして彼女は
「ああ
轟々轟々と大河の音が、横穴の奥から聞こえて来る。
「あの大河を
「月子殿」と隣室で呼ぶ。「お神水をくだされ。顔を直してくだされ」
「あの男も可哀そうだ。憐れんでいい男なのだ。……あれは本当の悪人ではない。まだ本当の悪人とは云えない」
「顔を直してくだされ。お神水をくだされ。どうぞ私を眠らせてくだされ」だんだん声が弱々しくなる。
「本当の悪人と云う者はあるいはこの世にはないのかも知れない。……
隣室からは
「纐纈城の城主の顔を、一度でもいいから見たいものだ……」
大河の音と欷歔の声と飛び巡る蝙蝠の羽音とが相
「……この心願、この執着、これはもう
燭台の灯火が大きく揺れ、壁上の
日本における造顔術の発端、それは神代だと云われている。
「……是に於て其妹
これは神代史の一節であるが、八人の雷神のその一人、頭の方に宿っていた大雷こそ日本における造顔術の元祖なのであった。すなわち腹に宿っていた黒雷は腹一切の神(今日で云う内科医)であり、
死んで腐った
大雷の
「朝鮮国より、玉六十八枚、金銀装横刀一
とあるのは、この間の消息を伝えたのである。
その後出雲氏は蘇我氏に出入し多くの
こうして戦国となったのである。
富士の人穴の窟の中に、その造顔師がただ一人、
月子は静かに垂れ幕をかかげ、前部屋へ姿を現わした。
陶器師は頭を
ここは造顔手術室である。
獣油の
「おいでなさりませ陶器師様」優しく月子は声を掛けた。
間もなく陶器師ははいって来よう。そうして手術は行われよう。その手術こそこの物語でも、最も興味ある場面なのである。しかし
いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
鳥はいぬかや大鳥は
見れば、甚太郎がそこにいる。そこと云うのは湖岸なので、水漫々たる湖が眼路遥かに開けている。
「ハアほいのホイ……」
穏かな初秋の大気の中へ融け込んでしまいそうな声である。唄ってしまうと甚太郎は、何んの屈託もなさそうにキョロッとした眼をとほんと据えて、まじまじと
「考えて見りゃこの湖水、どうも少し
蒼々と晴れた空高く、一羽の鷹が翼を揮い、湖水を越えて翔けて行く。行手に当って山がある。王岳は千六百尺、
これら山々の裾野原が四方八方から集まって来て、それが一つに寄り合った所に本栖湖が湛えているのであった。
東西一里、南北一里二町、これが本栖湖の大きさである。
富士ハ湖地高燥、本栖湖ニ至テ最高ク、湖面不断ニ光ヲ発シ、水
しかしそれより不思議なのは、今も甚太郎が怪しんだように、湖水の真ん中と思われる辺から漠々たる
今、その朦気を押し分けて一隻の帆船が現われた。
それはきわめて古風な船で且つ見慣れない形である。帆が無数に釣ってあるがいずれも横に並んでいる。そうしてその色は血のように赤い。人が三人乗っていたがいずれも
船が進むに従って、群がり飛んでいた水鳥が、ムラムラと
岸を離れる二
「子供子供何をしておる?」甚太郎へ声を掛けた。
「へ、畜生、馬鹿にしてらあ」
甚太郎は憤慨した。「ひとを子供だって云やあがる。そんな奴とは
で甚太郎は返辞をしない。
「子供子供どこへ行くつもりだ? 子供子供、何故返辞をしない?」
「子供子供子供子供、二百遍でも云うがいい。俺は返辞をしねえばかりさ」
甚太郎はゴロリと寝た。草の上へ腹這いになり、両
不思議に思ったか船中では、何かヒソヒソ話し合っていたが代って一人船首へ出ると、
「鳥刺殿、鳥刺殿」
言葉を改めて呼んだものである。
するとムックリと甚太郎は鎌首を立てて延び上ったが、
「鳥刺は俺だ。何か用かな?」
「アッハハハハこれは現金! いや面白い鳥刺殿だ。……何んと鳥は捕れましたかな?」
「捕ろうと思えばいくらも捕れる。ここらの鳥は馬鹿だからな」
「で、沢山捕れましたかな?」
「ところが一羽も捕らないのさ。捕った端から逃がしてやったのさ」
「それでは商売になりますまいが?」
「俺の商売は他にある」
「ははあ、さようでございますかな!」
「人を
「どなたを発見けておられますな?」
「俺にとっちゃ従兄にあたる……」
「やはり身分は鳥刺殿で?」
「違う!」
と甚太郎は横を向いた。「こう見えてもこの俺だって根からの鳥刺じゃねえんだぜ」
「それはさようでございましょうとも」
「俺の従兄は侍だ」
「お侍様でございますかな」
「年は二十歳、
「それは好男子でございましょうとも」
「この本栖湖へ来た筈だ」
「ははあ、本栖湖へ? この本柄湖へ?」
「どうだ、お前達逢わなかったかな?」
三人の船頭は顔を集め何やらヒソヒソ話し出した。しんと
「ああいい天気だ。秋に違えねえ」
眼を細め眉を垂れ、甚太郎は無念無想、ぼんやり湖面を眺めやった。
水に沈み水に浮き、パッと飛び立ち
と、船頭が声をかけた。――
「鳥刺殿、鳥刺殿」
「オーイ」と甚太郎は顔を上げる。
「ハイ、逢いましてござりますよ」
「おお逢ったか? そのお侍に?」
「ハイ、逢いましてござります」
「で、どこで見掛けたな?」
「ちょうどそこでございます。その岸の辺でございます」
「そうしてどこへ行ったかな?」
「湖を渡って向こう岸へ」
「それじゃ俺も行かずばなるまい」
「船にお乗りなさりませ」
「おおその船へ乗せてくれるか」
「お安いご用でございます」
ギーと船が寄って来る。
甚太郎はムックリ起き上がり、ヒラリと岸から船へ飛んだ。船は大きく一つ揺れたが、そのままツツーと帆を上げると、グルリ
見る見るうちに姿小さく、
高坂甚太郎を乗せたまま赤い帆の小船は
振り返って見ると富士の山は、
「行くな行くな、帰って来い。そっちには危険が待っているぞ」こう云ってでもいるようである。微風に揺れる裾野の花は、虹を天から持って来たようだ。船が進むにしたがって、その虹の色は
船はずんずん
その水蒸気の壁の厚さは幾らあるとも知れなかった。白一色の
赤い帆の船はひた
右に曲がり左に曲がり、時にはグルリと後返りをし、
と、
厚い水蒸気の白壁も、やがて次第に薄れて来た。仄かながらも蒼い水が霧の底から窺われる。船の速力は徐々に緩み、張り切った赤帆が
船は階段へ横付けになった。
一人の
纐纈城の構内へこうしてとうとう入り込んだのである。永禄元年七月二十日、正午時刻のことである。
纐纈城では捕虜のことを「大事な
ある日、それは甚太郎が、纐纈城へ入り込んでから、約十日ほど経った日の、大変輝かしい午後のことであったが、広い広い纐纈城の
尼は吠えるように叫び出した。雷のような声である。
「……先祖を
キリキリ、キリキリと音を立て、轆轤は廻転する。
「ああ、そうか。あの尼さんか。いよいよあの人も殺されると見える」一つの窓から眼を覗かせ廊下を見ていた若者は、こう云ってちょっと溜息をした。
「まあ気の毒に半
「いい気味だ。神罰だ。もっとピシピシ撲られるがいい!」突然
「そうともそうとも、その通りだ。きゃつみっしり撲られるがいい。神道ばかりか孔孟の教えをも、あの女は
威圧するような
「……おお神道は宗教ではない。憐れむべき清潔法だ。孔孟の教えは経済だ。共に人心を導くに足りぬ! 因果経よ、
キリキリキリと
あちこちの窓からは無数の眼が、あるいは嘲けり、あるいは憐れみ、あるいは怒り、あるいは
「可哀そうな尼さんだな」――「
「何故そんな目に遭わされるのだろう?」――「お説教をした罰だとよ。――あの尼さんは自分から好んでこのお城へ来たんだそうだ。仏陀の力でここの人達を罪から救おうと
「救って貰う必要はない。俺達は大変幸福なんだからな」
「そうとも俺達は幸福だよ。
「俺は今年で四年になる」
「俺は今年で七年になる」
「そうかと思うと信念という坊主は、来たその日に殺されたっけ」――「あれは後生が悪かったからさ」――「運の悪い人間なのだよ」
「
「そうともそうとも、その通りだ」
「安逸なる者よ寝床から起きよ。飽食の女よ口を洗え。慈悲に
尼はまたもや叫び出した。
「また何か怒鳴り出したよ」――「でも尼としては
「纐纈城を逃げ出せよ。
ピシッ、と
キリキリキリキリと車が軋り、尼は
「
薄暗い廊下の空間へ革の鞭が渦を巻いた。と、ピシッと音がした。
「撲るがいい。打つがいい。
革の鞭は幾度も幾度も灰色の空間で渦を巻いた。そのつど劇しい音がした。ピシッ、ピシッ、ピシッ、ピシッと。……ギギ、――ギギ、――ギギ、――ギギ――と、轆轤車は廻転する。
「おお可哀そうに。おお恐ろしい。肩からあんなに血が出ているよ。紫色に
「何んてあの尼は美しいんだろう? ほんとにあの尼は美しい。あんなに鞭で撲られているのに」――もう一つの窓から若者の声で、こう云っているのが聞こえて来た。「血が紐のように流れている。その血の色の綺麗なことは。股と云わず、肩と云わず、胸も腕も顔までもあんなに目茶苦茶に傷付いているのに、どうしてあんなに美しいんだろう?」
「真理を叫んでいるからだ!」――どこからともなく叫んだ者がある。
「本当のことを云っているからだ!」またこう叫ぶ声がした。誰が叫んだのかわからない。とは云えもちろんどこかの部屋の賓客の一人には相違ない。
「自分を犠牲にしているからだ!」こう叫ぶ声も聞こえて来た。
「
「撲れ撲れ撲りつけろ!」
「美しい! 美しい! 美しい!」
「穢い女
「撲れ! 撲れ! 撲って[#「撲って」は底本では「僕って」]やれ!」
「美しい! 美しい! 美しい!」
窓々から
「……纐纈城を遁がれ出よ。……おお、せめて精神的にでも!」
鞭の音が聞こえて来る。そうして車の軋り音も。
「……物慾の上に超越せよ。……飢餓同盟。……禁慾同盟。慈悲に縋れよ。……仏陀の慈悲に……」――しかしやがてその声も遠く離れて聞こえなくなり、長い広い廊下には再び寂寥が立ち返って来た。窓々の顔も内へ引っ込み、呟く声さえ聞こえなくなった。
部屋は大変静かであった。
露台が海へ突き出ている。潮風が部屋の中へ吹き込んで来る。深紅の壁掛けが裾を
部屋は城主の居間である。
部屋の中央、海に向かって、纐纈城主が腰かけている。纐纈布で作られた
顔は海の方へ向いている。しかし本然の顔ではない。鉛色をした
月が空に懸かっている。
部屋には一基の燭台もない。光と云えば月光ばかりだ。
鉛色をした仮面の奥から、城主の声が聞こえて来た。無表情の声である。仮面のように無表情である。無表情の声の冷酷さ! しかし多くは説明しまい。
「
誰かに話しかけているらしい。するとすぐに返辞がした。
「いいえ睡くはございません。ちっとも睡くはございません。不思議なことに今夜は
声の主は女であった。若い美しい女であった。わざと月光の射さない隅へ、躰を寄せて腰かけていたので、今まで姿が見えなかったのである。
「睡くはない? おおそうか。が、すぐ睡くなるだろう。……だが今夜はお前の様子は、ひどく
「どうぞお許しくださいまし。もうもうそのような恐ろしいことは、どうぞおっしゃらないでくださいまし。聞くのも辛うございます。……
女はスラリと立ち上がった。
「帰ってはいけない。帰ってはいけない。睡くはないと云ったではないか。……そうだ、そうやって立ちながら、
「妾はごめんを
「許してくれ。悪かった。乱暴な言葉を使ったのは、いかにも
女は静かに腰をかけた。
「手をお見せ、お前の手を。……白くて柔くて
女は全身を顫わせた。そうして何か云おうとした。
「まあよい、まあよい、何も云うな。気にさわったら許してくれ。俺は時々変なことを云う。これは常識がないからだろう。いやいやこれは病気だからだ。……お前は俺をどう思うかな?」
「どう思うとおっしゃいますと?」
「俺を可愛いと思うかな? それとも憎いと思うかな?」
「申上げるまでもございません。可愛いお方でございます」
「俺が可愛い? ほんとかな? 俺のどこが可愛いな?」嘲けるような声である。
突然城主は手を延ばした。両手を前へ突き出した。二本の白木の棒とでも云おうか、腕からかけて指の先まで白布で隙間なく巻き立ててある。悪病のために
「ああ、この手も可愛いかな? いつも付けている中将の
云い云い顔を突き出した。仮面の色は鉛色である。それは白が古びたからで、一抹黄味を帯びている。薄い茫々とした八字眉、眉の下の淋し気な皺、少し垂れた魚形の眼、眼の真ん中に瞳があり、そこに穴が
「
「
「はい、さようでございます」
「いやいや今夜は憎い筈だ。何んと水泡よ、そうではあるまいかな?」
城主は肩の辺で笑ったものである。
「そうおっしゃれば今夜に限って、あなた様が憎く思われます。いつにない乱暴な言葉で物をおっしゃるからでございます」
「そうではあるまい。そんな筈はない。他の意味で憎い筈だ。ああお前は
「はい。……いいえ。……マア城主様!」
「いいえだと? ご城主様だと? いやいやお前はあの男と
「あなたのおっしゃるあの男とは、どなたのことでございます?」
「日頃お前と仲のよい、そのため俺には気に食わない、小姓頭の式部のことだ」
「おお式部様! 衣川式部様!」
「あの男は美しい。姦夫のように美しい。絹のようなあいつの眼は、あらゆる女の着物を通して乳の下ばかりを眺めている。
「いいえいいえ違います。
「おお、お前は大嫌いか。フ、フ、フ、フ、本当かな? しかし女と云うものは嘘をよく吐きたがるものだ。自分の一番好きな物を一番嫌いだと云いさえする。そのくせ一番嫌いな物と、ともすれば隠れて遊びたがる。……が、嫌いなら嫌いでもいい。やがて自然と解る時が来よう」
「
戸を開けると廊下である。廊下は真っ直ぐに延びている。どっちを見ても人気がない。
城主の後から水泡が行く。恐怖で躰が自由にならない。今にも
一つの部屋の前へ来た。仮面の城主が戸にさわった。と戸が内側へ音もなく開き、
「水泡よ、箏を弾くがいい。そうして
城主は立ったまま命令した。「さあ早く箏を弾け!」
女は黙って顫えている。突然床へ突っ伏した。
「何も顫えることはない。ただちょっと弾くばかりだ」――城主は箏を取り出した。女の前へ押しやったが、「ただちょっと弾くばかりだ。さあ早く弾くがいい」
水泡はソッと顔を上げた。その眼は狂人のように血走っている。
「弾くのでございますね、あの歌を。……」
云いながら絃に指を触れた。ジーン、と、云う寂しい音がする。
「後夜の鐘の鳴る頃だ。いつもあの男の来る頃だ。……さあ弾くがいい。弾き次ぐがいい」
「ここは地獄だ! 神様はいない。呼んでも叫んでも助かりっこはない」
女は口の中で呟いた。寂しい音を次々に立て、箏の曲を弾き澄ます。
「……おお、それは序の曲だな」仮面の城主は冷やかに、「この序の曲を弾く頃には、いつもあの男は部屋の外の、花園の辺りに来ている筈だ。で、今夜も来ているだろう。……」
箏の調べは一変した。嘆くがような音を立てる。
「……この調べを弾く頃には、いつもあの男は隣りの部屋の、窓の下に立っている筈だ。だから今夜もあの男は、窓の下に立っていよう」
調べはさらに一変し、
「……
箏の調べは絶えるがように次第次第に低くなった。
「さあそれが最後の調べだ。男はこの時窓を越え、あの隣り部屋へ入り込んでいる筈だ。そうだ、お前の寝部屋へな!」
この時、正面の寝部屋から、断末魔の悲鳴が聞こえて来た。
水泡は箏の手を止める。
「おっ」と水泡は声を上げた。立ち上がろうとするのではあるが足が云うことを聞かないらしい。膝と両手で這い寄るや、ひしと死骸を抱き締めた。
「草色の水干を着ている筈だ」城主は無表情に冷やかに、「胸に罌粟の花を差している筈だ。それはお前の恋人だ」
「式部様! 式部様!」水泡は夢中で呼ばわった。
「お前の弾く音に誘われて、可哀そうな男はやって来たのだ。手を下したのは万兵衛だ。殺させたのはこの
水泡はやにわに飛び上がった。城主目掛けて掴みかかる。その手が城主へ触れたとたん、城主の冠っている中将の
忽然悲鳴が鳴り渡った。ヒーッという悲鳴である。水泡の口から出たのである。水泡は両手で眼を
「万兵衛」と城主は無表情の声で、「二つの死骸を運ぶがいい。地下の工場へ持って行け。こいつらの血で染め上げた布で、俺の
ボーンと鐘が鳴り出した。すなわち後夜の鐘である。
この夜、城内の一郭では、尼が
「……火で焼くがいい、鞭で撲るがいい、
火の手がドッと燃え上がり、全く
「ふざけちゃいけねえ、ふざけちゃいけねえ」例の三白眼を光らせながら高坂甚太郎は怒鳴るのであった。「それじゃ約束が違うじゃねえか。うん、それじゃ約束が違う! どうしてくれるんだよ。どうしてくれるんだよ」
「へえ、約束が違いますかな。しかしどうも私としては、何んともご挨拶が出来ませんのでな」
絹糸のような軟い調子で相手の若者は
纐纈城の一室である。
「ああ違うとも、
「まあまあご辛抱なさりませ」
「うんにゃ、出来ねえ、これ以上はな! おい早く何んとかしてくれ」
「で、どうすればよろしいので?」
「俺の従兄に逢わせてくれ」
「何んというお方でございましたな?」
「土屋庄三郎昌春だ」
「ははあ土屋様? 庄三郎様で?」
「うん、そうだ。早く逢わせろ」
「はてね、城内におりますかしら」
「いる筈だ。いる筈だとも、そう云って俺を連れて来たんだからな」
「で、誰が申しましたかな?」
「船頭どもだ。三人のな。赤い
「そうしていつ頃でございますな」
「十日
「どこでお逢いになりましたな?」
「よく色々訊くじゃないか。……本栖湖の岸だよ。本栖湖のな」
「で、本栖湖はどっち側で?」
「ええ
しかし若者は相も変らず絹糸のような軟い調子でニヤリニヤリと笑うのである。
「まあまあご辛抱なさりませ。ご辛抱が
「当城も糞もあるものか。へん
甚太郎は毒舌を揮い出した。「どうでも逢わせてくれねえならこの城から出してくれ」
「どうもそれが出来ませんので」
「ナニ出来ねえ? 何故出来ねえ?」
「あなたここは纐纈城なので」
「纐纈城がどうしたんだよ」
「ここはあなた纐纈城なので」
「だからよ、それがどうしたって云うんだ」
「捕えたら決して放しません」
「ところが俺は出て見せる」
「それは無謀でございます」
「きっと俺は抜け出して見せる」
「城の外は湖なので」
「船があろう。船がある筈だ」
「船を奪うことは出来ますまい」
「ところが俺は盗んで見せる。盗みにかけたら天才だからな」
「よしんば船は盗んだにしても、湖水の防備は破れますまい」
「ナニ防備? 防備とは何だ?」
「天に
「天も冲するもあるものか。変な形容詞を使やアがって。あんな濛気ぐらい突破して見せる」
「それがあなた不可能なので」
「いや可能だ。可能にして見せる」
「はいこれまでも幾人となく可能だ可能だと申されましてな、実行された方もございますが」
「どうした、みんな成功したろう」
「ところがあなた、その反対なので」
「ふん、そいつら揃いも揃って皆んな馬鹿だったに違いない」
「お利口な方達でございました」
「利口なら成功した筈だ」
「ちとそのお利口過ぎましてな」
「過ぎたるは尚及ばざるが如しだ。やっぱりそいつら馬鹿だったのだ」
「ちとその勇気があり過ぎましたので」
「どんな
「一人のお方は船を盗みうまく湖上へ漕ぎ出しました。ところがそれから八日目に船だけ帰って参りました。吹き戻されたのでございますな」
「で、
「いえいたことはいましたが、骨と皮ばかりに痩せこけた上、冷え切っていたのでございますよ」
「ふうん、どうして死んだんだろう?」
「
「餓死とは少し変じゃないか」
「何んの変なことがございましょう。濛気から外へ出ることが出来ず、八日の間飲まず食わず
「他の奴らはどうしたんだい?」
「似たり寄ったりの運命でしてな」
「では皆んな餓死か?」
「一人のお方は気死致しました」
「ナニ気死だって? 気死とは何んだ?」甚太郎はちょっと眼を
「つまり気絶をしたまま死んでしまったのでございますな。恐らく何か恐ろしいものでもご覧になったのでございましょうよ」
「でやっぱり濛気の中でか?」
「幸か不幸かそのお方は船を盗むことが出来ませんでした。で城内を
「いったい地下室には何があるのだ?」
「さあ何がありますかな」
絹糸のような軟い
「とんと私は存じませぬので」
「嘘を云え! そんな筈はない! 城に住んでいる人間が城の案内を知らないなんて、そんな間違った事はねえ。知っている筈だ。云ったり云ったり」
「いえそこはそれ管轄
「へえとんだ相伴役さ。人
「おっといけません、いけません。どうもあなたは乱暴ですねえ。まだほんの子供衆だのに二言目には腕力と出る。そのまた腕力が強いと来ている。相伴頭穴水小四郎にとり確かに苦手でございますな」
「あたりめえだ。云うまでもねえ。ただの子供とは小柄が異う。見損なっちゃいけねえぜ。……おいそれはそうとお前の眼には、あれが何んと見えるかな?」
云いながら甚太郎は手を上げて部屋の壁を指差した。秘蔵の
「へい、黐棹でございましょうが」
「ただ黐棹としか見えないかな」
「他に見ようはありませんな」
「俺が持つと槍になる」甚太郎は味噌を上げ出した。「嘘と思うなら見るがいい」
ツカツカ壁際へ近寄るとヒョイと黐棹をひっ掴んだ。部屋の中央へツツ――と出ると、小四郎へ向けてピタリと付け、ヒュッ――、ヒュッ――と
一歩一歩小四郎は、前へ前へと歩いて行く。渦巻きは
やがて穂先の渦巻きは次第次第に縮まって来た。それにつれて小四郎は後へ後へと押し戻される。胸がキューッと締め付けられ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッと
「やい野郎、恐れ入ったか!」
「鳥だ鳥だ大きな鳥だ! 手前を大きな鳥と見立て、黐棹槍の高坂流、
喚きながら詰め寄せる。小四郎は全身汗に濡れ、額から、タラタラ滴を落とし、上吊った眼を凝然と見据え、両手をダラリと両脇へ垂らし、後へ後へと引き下がる。
「どうだ云うか、それとも厭か! 地下室には全体何があるんだ? え、おい、大将、何んとか云いねえ! 云うのが厭なら突き殺すぜ! うん一突きに突き殺して見せる。冗談だと思うと間違うぞ。
と一声気合を掛けると、手繰り気味に握っていた棹を、
「ケ、ケ、ケ、ケ、野郎どうだ! 金城鉄壁物かはと云う槍の手並みをご
云われて小四郎振り返って見ると、
「何んとでござるなご相伴衆、拙者が持てばこの棹、正しく手槍となりましょうがな、ケ、ケ、ケ、ケ、
棹を手もとへ引き寄せると、グルリ返して
小四郎はハッハッと大息を吐き、ぐたぐたと床の上へ膝を突いた。十里の道を歩いたところでこうは
「申しますとも。申しますとも」彼はようやくこれだけ云った。
「うん云うか。いい心掛けだ」
「で、何から申しましょう」
「地下室の秘密だ。他に何がある」
「さてその地下室でございますがな。……恐ろしい所でございます」
「第一、地下室は大きいのか?」
「はい大きゅうございます」
「いったいそこには何があるんだ?」
「はい工場がございます」
「ナニ工場? どんな工場だ?」
「それがあなた、大変なので」
「ふん、
「工場は
「では端から云うがいい」
「まず最初は水車場で」
「何んだ詰らねえ水車小屋か」甚太郎は少からず
「それが何が大変なのだ!」
「それがあなた、なかなかもって尋常な水車ではございません」
「へん、何んだか解るものか」
「纐纈城中一切のものの原動力なのでございます」
「誰がそんな事を本当にするものか」
「信じる信じないは別問題で。ただ私はありのままを申し上げたまででございます」
「城中一切の原動力? 随分大きく出やがったな。……しかしどうも
「例の
「ふうん、それじゃあの濛気は人工で作っているのかい?」
「水車の
「では水車は大きいのかい?」
「
「直径十間? ふうんなるほどな。そうさちっとばかり大きいな。もちろん水車は一つだろうな?」
「いいえ、二十はございましょう」
「ナニ、二十? 本当かな?」
「城は方形でございます。その一面に五つずつ仕掛けてあるそうでございます」
「水車はどうして
「湖水の水を落とし込みましてな」
「湖水の水を落とし込むって? いったい水車はどの辺にあるんだ?」
「深い深い湖水の底のそのまた底だそうでございます」
「それはそうなくてはならない筈だ」
「水の落ち込む勢いで濛気が立つそうでございます」
「偉い勢いで落ち込むんだな」
「偉い勢いで落ち込みますので」
「その他に地下室には何があるんだい?」
「真っ暗な工場がございます」
「そこには何があるんだい?」
「いつも呻いている無数の滑車と、いつも噛み合っている無数の歯車と、そうしていつも走り廻わっている数百本の
「いったい何んだいその部屋は?」
「真っ暗な工場でございますよ。……しかし時々青い火花が、パッパッパッパッと飛び交うそうで。……闇と呻き声と青い火花と! そういう工場なのでございます。……つまり動力を配分する工場で」
「で、その他には何があるな?」
「
「おおそうか。こいつは気に入った」
「チンカラチンカラ、チンカラチンカラと、朝も暮れも昼も夜も、沢山な若い娘さんたちが機を織っているのでございます」
「こいついよいよ気に入ったぞ」甚太郎はニヤリと笑ったが、
「中には
「それはあなた、おりますとも」
「畜生、ひどく気に入っちゃった。……ところで何を織ってるんだい」
「白い平絹でございます」
「まだその他にもあるのかい?」
「はいあなた、ございますとも」
「云って見な、どんな工場だ?」
「絞り染め工場がございます」
「ははあ白絹を染めるんだな」
「はいさようでございます」
「綺麗でいいな、染物屋は」
「綺麗でございますとも、染物屋は」
「色々の色に染めるんだな?」
「いいえあなた、そうではございません」
「そうでないって? では何んだ?」
「ただ
「智恵がねえな、一色とは」
「はい智恵はございませんとも」
「どんな色に染めるんだい」
「燃え立つような真紅の色に」
「つまり血のような色にだな」
「はいはいさようでございます」
「
すると小四郎は笑ったが、
「はいさようでございますとも」
「おや
「いったい何が
「何も可笑しくはございません。何も笑いは致しません」
「いいや笑った。確かに笑った。ふざけちゃいけねえ、ふざけちゃいけねえ。俺を盲目にするつもりか。こうこう俺のこの眼はな二つながらちゃんと見えるんだぜ。節穴だと思うと間違うぞ。さあ
ピタリと中段へ構えたものである。
小四郎はやにわに飛び上がったが、またベッタリ床へ坐り、
「はい笑いました。確かに笑いました。……あなたは苦手でございますよ。槍だけはご勘弁願います。……いや全く眼もあてられない。……はい確かに笑いました」
「何が可笑しくて笑ったんだ?」
「……ハイ、その、蘇芳とおっしゃいましたので」
「蘇芳と云ったが何故可笑しい」
「染料は蘇芳ではございません」
「それがそんなに可笑しいのか?」
「何んにもご存知ありませんので」
「全体何んで染めるんだ?」
「
「ふうん」と云ったが甚太郎は何がなしにゾッとした。「犬の血かな? 馬の血かな?」
「人間の血でございます」
「黙れ! 馬鹿!
「人間の血でございます」
「で、どこから持って来るんだ?」
「城中に飼っておりますので」
「何、人間を飼っている?」
「お客様方でございます」
「お客様だって? 俺もお客様だ」
「はいさようでございます」
「では俺の血も絞るのか?」甚太郎はブルッと
「オイ、俺の血も絞るのかよ!」
「はいいずれは、そうなりましょう」
「ふん、俺の血も絞るんだな?」
「そういう運命が参りますればな」
「手前、正気で云ってるのか?」
「どうぞお許しくださいまし」
「それではここは地獄だな」
「纐纈城でございます」
「地獄だ地獄だ! ここは地獄だ!」
「しかし極楽とも申されましょう」
「血の池地獄だ! 貴様は獄卒だ!」
「甘い食物、美しい衣裳、苦労のない日々の
「助けてくれ! 助けてくれ!」
「助けることは出来ません。助かった
「助けてくれ! 助けてくれ! 小四郎殿助けてくだされ!」
甚太郎は突然
「私は獄卒でございます」悠然と小四郎は立ち上がる。「獄卒に涙はございません」
「俺はいつ頃殺されるんだ?」
「
「それはいつだ? いつ籤を引く?」
「ちょうど今夜でございます」
「今夜?」
と叫ぶと甚太郎は、
「で、今は何刻だ?」
「籤まで
「たった二刻。たった二刻」
「きっと当るとは申されません」
「いや当る。当りそうな気がする」
「お祈りなさりませ。神仏をな」
「当った証拠は? 何が印だ?」
「紙に
「当らなかったその時は?」
「何んにも書いてありません」
「白紙を引くと助かるんだな?」
「先へ延びるのでございます」
「髑髏を引くと殺されるのか」
「永遠の静けさへ参りますので」
「たった二刻。たった二刻」
「遁がれることは出来ません」
「小四郎殿助けてくだされ!」
「お
「馬鹿!」
と云うと甚太郎は飛燕のように飛び上がった。棹を握ると斜に構え小四郎の両足を横へ
不意を打たれた小四郎がドンと床の上へ
「へ、どんなものだ。驚いたか」
しかし小四郎は
「乱暴なされては困りますな。私をどうしようとなさるので」
「気の毒だが監禁だ。この部屋から出さないのさ」
「監禁して、さてそれから?」
「それから拷問に掛けるのさ」
「拷問に掛けて、さてそれから?」
「手前の口から聞き出すのよ。纐纈城の逃げ道をな」
「私は決して申しません」
「では手前は
「それでは私は死にますので?」
「うん、そうだ、俺より先にな」
「ではすぐにお殺しなさりませ」
「ゆっくりでよい。二刻ある」
「そのうち邪魔がはいりましょう」
「邪魔がはいる? どんな邪魔だ?」
「私は少々あなたのお部屋にいすぎたようでございます」
「それがどうした。だからどうなんだ」
「私はいったいこの部屋へ何んに参ったのでございましょう」
「知れたことさ、いつも通り、晩飯を持って来たんだろう」
「でござりましょう。だからいけません」
「ふん、何んとでも云うがいい」
「この城内の
「何んの時間だ? え何んの?」
「お客様方とお話しする時間で」
「それとこれと何んの関係がある?」
「私は少々あなたのお部屋にいすぎたようでございます」
「だからよ、それがどうしたと云うんだ?」
「仲間が探がしに参ります」
「
「決して嘘は申しません。と云いますのはお客様の中には、ちょうどあなたと同じように私ども善良な
「よかろう、うん、それもよかろう。どっちみち殺される身の上ならいっそ早い方が諦めがいい。それにもう一つ面白いことがある。仲間の奴らがやって来たら、破れカブレだ、黐棹槍で片っ端から退治てくれる。死人の山を築くのさ。地獄の道連れを作るのさ」
「大層元気でございますな。死人の山が築けましょうかな」
「心配するな、築いて見せる」
「精々二人でございましょうよ」
「二人は愚か二十人三十人、百人来ようと仕止めて見せる」
「大層な勇気でございますな。しかしそういう勇士に対しては、城の方でもそれ相応の用意があるのでございますよ」
「
石突きを小四郎の
「あ、苦しい。こいつは
部屋は次第に暗くなった。夜が這い込んで来たのである。
ウーンと呻く声がした。小四郎が絶息したのである。しかし決して死んだのではない。一時呼吸を止められたのである。
とたんに部屋の戸を叩く者がある。
「おや本当に来やがったな」
甚太郎は耳を澄ましたが、ピッタリ壁へ躰を寄せ、廊下の気配を窺った。
戸を叩く音はやがて止んだ。ひとしきり
ギーと云う音がした。二重戸の一つが開いたらしい。とまた後は
「おいどうした」
と云う声がして、また一人人影が浮き出した。つと甚太郎の手が延びる。そうしてそれが引かれた時、同じ光景が演ぜられた。人影が部屋の中へはいって来て、前傾りに床の上へ
ドーンと戸の閉じる音がした。
さすがに甚太郎も
「獄卒を二匹退治たまでさ。何んの
こう冷やかに呟くと死人の袖で棹を拭いた。棹の先から血が滴り、それが
「さてこれからどうしたものだ」甚太郎は急がしく思案した。
「どうしようにもしようがない。ここで待つより仕方あるまい。大挙して攻めて来るに相違ない。片端から突き殺してやろう」
彼はじっと
その時足音が聞こえて来た。しかし大勢の足音ではない。三、四人の足音である。
戸の向こう側で立ち止まった。何やら囁いているらしい。
「ふん、いよいよ来やがったな。何を愚図愚図しているんだ」
黐棹槍を引き
部屋の外は静かである。囁く声も絶えてしまった。しかし人のいる気配はする。と不意にパチパチという異様な物音が聞こえて来た。
「おや何んだろうあの音は?」
ちょっと甚太郎は度胆を抜かれ思案せざるを得なかった。パチパチ、パチパチと廊下からは尚その音が聞こえて来る。
霧のようなものがどこからともなく部屋の中へはいって来た。霧ではなくて煙りである。それと一緒に甚太郎は次第に胸が苦しくなった。手足が
「あ、いけねえ毒気だな」
甚太郎はグタグタと床へ仆れた。「畜生、畜生、卑怯な奴だ。俺を狸か狐のように毒煙攻めにしようとしやがる。あ、眼が廻わる。グラグラする。お母さん! お母さん! お母さん!」
彼の眼の前の闇の中で青い焔が飛び交った。だんだん彼は弱って行った。まず握っていた棹を放し、それから両足を
その時部屋の戸が開いて一人の大男が現われた。首斬り役の万兵衛である。巨大な斧を
「うまく行った。……はいって来な」
声に応じて三人の男が戸口から姿を現わした。
「さあ死骸の片付けだ。仲間が二人にお客様が一人、染料三
「大丈夫かな小四郎は?」一人の男が囁いた。
「あいつは大概活き返るだろう」
そこで三人は死骸を担ぎ廊下の方へ出て行った。その後から万兵衛が続く。四人の者は黙々と長い廊下を進んで行く。やがて廊下の端へ来た。そこは厳重な板壁である。万兵衛の手がそれへ触れる。するとそこへポッカリと一つの真っ黒な口が開いた。中庭へ通う階段が闇の中から見えている。
四人の者は黙々とその階段を下りて行く。下り切った所で一休みした。それから中庭を突っ切って湖岸の方へ歩いて行く。星一つない闇夜である。行手の闇を
そこに一つの建物がある。地下室へ通じる大階段の最初の下り口を守護するために作り設けられた建物であったが、死骸を担いだ四人の者は粛々とそこへはいって行った。
大岩を畳んで築かれた幅三間の階段が
四人の者は黙々と大階段を下りつづける。
十六年前の昔であった。すなわち天文十一年の夏、富士の裾野の
美しい容貌、上品な姿、大分
恋の
恋の相手は
一見不倫の恋のようではあったが、事実はあながちそうではなかった。
若侍とその乙女とは、幼少時から恋仲であって、末は夫婦と当人達も思い、世間の人達もそう思っていた。しかるに若侍の実兄なる者が、理不尽にもそれを横取りした。――ここに悲劇の第一歩がある。
乙女は温良な
で、乙女は良人のために貞節な妻としての本分を尽くし、また若侍は兄に対し忠実な弟としての義務を尽くし、無事に月日を送ろうとした。しかし、これは不自然を極わめた単なる一つの「空想」に過ぎない。
この
恋すまいと思えば思うほどそれが二倍の力となって、若侍は嫂を恋した。嫂の方も同じである。
この息苦しい二人の恋は、すぐに兄に感付かれた。
兄が妻を虐待し、また弟を邪魔にしたことは、当然なことと云わなければならない。
そのうち、女は児を産んだ。もちろん良人の種である。
しかし良人から見る時は、どうもその子が疑わしい。弟の種のように思われる。
これは実に彼にとって、何物にも換え難い苦痛であった。――この苦痛は親としての万人に共通すべき苦痛である。
こうして子供が可愛い盛りの六つの歳になった時、最後の悲劇がやって来た。兄弟
こういう場合の通則として、道徳心の強い方が、大概決まって負けるものである。
兄と闘うより死んだ方がいい。……こう思った若侍はフラリと家を出てしまった。
彼は富士山が好きであった。円満
甲府から裾野までは遠くはない。で、若侍は家を出ると、富士の裾野へ
さて、彼は裾野へ来ると、あちこち死場所を探し廻わった。
その時
と、岩根の
で、何んの考えもなく、あわただしくそこへ身を隠したが、これこそ彼の運命をして、別の方面へ転化さすべき、微妙な神の摂理であった。
まことに意外にもその岩穴は、決して見掛けほどに小さいものではなく、非常に奥が深かった。
ふと起こった好奇心からズンズン奥の方へはいって行った。
行くに従って岩穴は末広がりに次第に拡がり、左右の岩壁も天井も、もう躰へさわろうともしない。そうして実に不思議なことには、どこからか光が射して来ると見えて、
こうして今の時間にして一時間余も歩いた時、突然荒漠たる平原を、彼は眼前に見ることが出来た。
空は高く且つ暗く、星のない闇夜を想わせる。
四辺は広く
この別天地の遥か彼方に銀箔のように輝いているのは
諸所に丘があり、川があり、奇岩怪石が
しかし冷静に云う時は、一個巨大な洞窟に過ぎない。すなわち、富士の底の岩根を数里に渡って
それにしても広大なこの洞窟を、月夜よりも明るく
驚きに打たれた若侍は、しばらくは
手を延ばして触って見た。
永い間の年月に、堅固な錠前も
膝の辺に
一番上に置かれてある一巻の経文を手に取ると若侍は無意識に開けた。
「壇上有金色孔雀王、其上有白色蓮花」と、開巻第一に記されてあったが、それは真言孔雀経であった。
「不思議な人物、何者であろう!」
こう若侍は呟きながら、尚龕の中を窺った。
その時計らず眼についたのは、岩壁に刻まれた文字である。
我ハ是役 ノ優婆塞 、
肉身此処ニ埋ムト雖 、
霊魂宇宙ニ遍在スベシ、
千年ノ後見出サン者、
則チ我教法ノ使徒、
文字は鮮かにこう読まれた。肉身此処ニ埋ムト
霊魂宇宙ニ遍在スベシ、
千年ノ後見出サン者、
則チ我教法ノ使徒、
「ああそれではこのお方は
こう思って来て若侍は、意外の感に打たれたが、それと同時に
「千年の後見出さん者、すなわち我教法の使徒と、こうここに刻まれてあるが、既に千年は経っている。そうして見出したはこの俺だ。では自分は予言されたる教法の使徒ではあるまいか?」
さらにこのように考えて来て彼は
で彼は叫んだものである。
「死ぬのは止めだ! 使徒になろう!」
恋に破れた若侍が、
その時、多くの世人から、
「
こうして五年のその間に、日本全国津々浦々を、光明優婆塞は
そうしてさらに六年の月日が、
富士教団神秘境は、「洞窟の内」と「洞窟の外」と、この二つに別れていた。「洞窟の内」は神域であり「洞窟の外」は人界である。
人界の中心は「丘」であった。
「丘」は高さ六十間周囲半里と註されていたが、事実はそれよりも小さかった。「丘」は一名「聖壇」とも呼ばれ、幾棟かの神殿で飾られていた。「聖壇」は元岩山であった。その岩山の頂きを非常な努力で平地とし、そこへ神殿を建てたものであって、今も尚周囲は岩畳みであった。自然と人工との合一したもの、それがこの「聖壇」なのである。その「聖壇」の中央に壮麗を極わめた建物があったが、内に安置された本尊は孔雀明王だということである。しかし内陣は薄暗く、それに不断に香の煙りが立って、あらゆる物象を
それと云うのも石像の顔が、
僧侶達の宿房は、この石像の西南にあった。
この神々しい「聖壇」を囲み、四方八方に延びているのが、信者達の住む市街であった。
家数にして五百軒、
ただいかにも平和であった。
争う声、喚く声、そういう声を聞こうとしても、この町では聞くことが出来ない。
一通の大道が町を貫き「聖壇」の下まで通じていたが、そこを歩いている牛馬の類、犬や鶏さえ
仏像を売る家、香華を
往来には人々が歩いていた。家々には人々が充ち充ちていた。しかも
とは云えここには千余の人が住み且つ活きているのである。恋も結婚も
二
町の外れの野や丘に、沢山の天幕が立っていた。最近この地へやって来て、まだ家のない人々が、臨時に住んでいる住居である。
その一つの天幕に土屋庄三郎は住んでいた。
父母と叔父とを探がそうとして、甲府を抜け出した庄三郎が、その叔父や父母を忘れたかのように、ここにこうして
彼はやはり父母や叔父を探がし求めているのであった。
しかし彼にはこの教団が
彼は教団が好きであった。
で彼は思いながらも、未だに教団を出ようとはせず、一日一日と日を送った。
しかし平和な教団にも、ある恐ろしい敵があって、絶えず教団の人々を、脅かしているということを、庄三郎が知った時、その心は動揺した。
その日彼は天幕の中で、ぼんやり物思いに
驚いて天幕から飛び出して見ると、いつもは静かな往来が、右往左往に走り廻わる人で、火事場のように
「これは不思議だ」と呟きながら、庄三郎は小走って行った。町へ行って見て驚いたことには、女子供の姿が見えない。家々の戸が
「来たぞ来たぞ血吸鬼どもが!
「女子どもに気をつけろ! 早く早く家の中へ隠せ! 来たぞ来たぞ血吸鬼どもが! 真鍮の城の
そうして一斉に弓を引き、ヒューッヒューッと矢を飛ばせる。
いよいよ驚いた庄三郎は、空の方を眺めて見た。と、真相が始めて解った。
空には富士山が
それはどこかの侵入軍らしい。
彼らは次第に近寄って来た。近寄るままによく見ると、血紅色の陣羽織を、いずれも揃って纏っている。
「おお血染めの
思わず庄三郎が叫んだとたん、どっと
市街を目掛けて山上から、侵入軍が下りて来たのである。
遠く離れての矢合せから、白兵戦に変ったのである。喚き声、
侵入軍の総勢は、二百人余と思われたが、いずれも
今、二騎の侵入兵が、その
五人、十人、二十人と、見ている間に信徒達は、侵入軍の
今、二十騎の侵入軍が、その紅巾を波立たせながら、一つの小路へ駆け込んで行った。と、怒号悲鳴が起こり、続いて凄じい
真昼の太陽が燃えている。青嵐が吹き
それだのに下界では無数の人が、殺し合い奪い合い
「平和の楽土ではなかったのだ。ここもやはり浮世だったのだ」
逃げ迷う人波に
「いつの時代であれ、どんな土地であれ、
こう思って来て庄三郎は、今さら自分が
「出よう出ようここを出よう。自分には目的があった筈だ。父母や叔父を探がさなければならない」
しかし出ることは出来なかった。
人波が彼を
庄三郎は人波に押され、いつか「聖壇」の上へ来た。既にここにも数百人の、避難して来た信徒がいる。彼らは口々に叫んでいる。
「孔雀明王! 孔雀明王!」
「助け給え! 助け給え!」
それは凄惨な
祈りの声は一団となり、丘から町の方へ響いて行く。その町では今も尚、人間狩りが行われている。
しかし、やがて、
侵入軍が引き上げたのである。
平和が教団へ帰って来た。信徒達は嬉々として、破壊された跡を修理した。悪魔の破壊は一時であるが、神の修理は永遠である。こう互いに慰め合いながら、
夜は
この時、一つの人影が石像の前へ現われた。
それは
有髪の僧は石像の前で静かに地上へひれ伏したが、何やら熱心に祈り出した。
この時「聖壇」の
祈っている有髪の僧を見ると、ふと若者は足を止めた。あまりに熱心な祈り方に、どうやら心を引かれたらしい。
「……私は弱者でござります。憐れな愚者でござります。……どうぞどうぞこの私をあなたの偉大な霊の力で、強い人間にお変えください。利口な人間にお変えください。……そうしてどうぞ私の胸から、醜い
有髪の僧の祈りの中から、こういう言葉が聞き取れた。
若者はじっと聞き入っている。
夜は暗く、
永い熱心な祈りを終えると、有髪の僧は立ち上がった。その時はじめて彼の側に人のいるのに気が付いたらしい。しかし驚いた様子もなく、「ご免ください」と挨拶をすると、下り口の方へ歩いて行った。
と、若者が呼び止めた。「どうぞしばらくお待ちください」
「はい、ご用でございますかな」
「この教団のお方と見て、お願いしたいことがございます」
「私の力で出来ますことなら、何んなとご用に立ちましょう」有髪の僧は引き返した。
「何んでもないことでございます。ご親切さえございましたら、すぐにも出来ることでございます。……どうぞ私をこの土地から出して
すると僧は押し黙り、若者の様子を見守ったが、
「
「しかし出ることが出来ません」
「道はある筈でございます」
「しかし私には出られません」
「関門には番人はおりません」
「でも私には出られません」
「不思議なことでございますな」僧は小首を
「それではいったい何物が、あなたを止めているのでしょう?」
「はい、教団でございます。何んと申したらよろしいやら、この教団の持っている神秘崇厳なある力が、私を捉らえて放しません」
「なるほど」と僧はそれを聞くと、ようやく解ったと云うように、
「ではお
「私には目的がございます。とげねばならぬ目的が。……そうしてそれをとげるには、ここを出なければなりません」
「では、お出掛けなさりませ」
「私を捉らえて放そうとしない、神秘の力をどうしましょう」
有髪の僧は返辞をしない。
「私には不思議でございます。私には訳が解りません。この神秘、この崇厳、何から来るのでございましょう? 物々しい無数の殿堂、それから来るのでございましょうか? 『洞窟の内』の幻怪な風景、それから来るのでございましょうか」
しかし僧は返辞をしない。
「私はここへ参ろうと思って、参ったものではございません。偶然来たものでございます。思わず道に踏み迷い、紛れ込んだものでございます」
「縁あればこそ参られたのです。ここでお暮らしなさりませ」
僧は始めて厳然と云った。
しかし若者は後へ引かない。
「ここで暮らすことは出来ません。どうしても出なければなりません。……ただ、私は出る前に、確かめたいのでございます」
「何をお確かめになりたいな?」
「はい、神秘の源泉を」
「神秘の源泉? それは懺悔だ!」
僧はまたもや厳然と云った。
もしまた産衣が絹布であるなら、絹布の原料は絹糸であり、絹糸の基は
少年と成って散歩をする。と、その一足一足の下に、幾十という小さい虫、幾百という
産まれた時から死ぬ時まで、無自覚的にしろ自覚的にしろ、とにかく一人の人間が他の生命を奪う数は
ところで生命とはどんなものだろう?
成就に向かって流転するもの、これすなわち生命である。
そうして生命は「個」を足場とする。一人の人、一匹の獣、一尾の魚、一本の木、一茎の草、一個の虫……これらの物を足場とする。非情の如くに思われる山や川や石や土や日月
仮りに「生命の本態」を「大なる生命」と命名し、「個」の生命をそれと反対に「小なる生命」と名付ける事とし、さて「大なる生命」なるものは成就に向かって未来
「他でもない
秋の夜空は黒く冴え、星が無数に蒔かれていた。その夜空をクッキリと割って巨人一人が立っていた。すなわち
「聖壇」の麓、眼の下には、教団信徒の家々が黒く固まって立っていた。人声も聞こえず灯火も洩れず、
眠れ眠れと云うように、優しい夜風は尚吹いていた。しかし小鳥は啼き止んだ。巣籠もり眠ったに相違ない。
それに彼には有髪の僧の物語り振りが好もしかった。俗人に対するとおおかたの僧は、多くは高飛車に物を云う。しかるにこの僧はそうではなかった。謙遜に静かに物を云った。それは教えるという風ではなく、
「この人は常人ではなさそうだ」
庄三郎は聞いているうちに、尊敬の念に捉えられた。で、彼は
「そして
すると僧は説明した。
「懺悔とは自分の罪を認め、謝罪することでございます」
「誰に謝るのでございます」
「例えば自分より大きなものへ」
「それは誰なのでございます?」
「例えば自分より小さい物へ」
「それは誰なのでございます?」
「便宜上ここでは役ノ優婆塞へ、懺悔することになっております」
「そうして懺悔しましたなら、罪が清まるのでございますか?」
「そうです、ともかくも、多少なりと……」
それから僧は話し出した。
人間がこの世に活きている限りは、意識的なり無意識的なり、必然に罪を犯さなければならない。これは避け難いことである。ただし懺悔をすることによって意識的の罪だけは免がれる。これだけでも幸いである。では死んだらどうだろう? 死は決して消滅ではない。それは一時「小なる生命」が「大なる生命」へ帰することである。そうして実に「大なる生命」は成就すべく流転して行く。そうして流転の
「そこであなたにお
「人間鳥獣山川草木と、この広大な宇宙の中に、こういう差別のあることを不思議に思われはしませんかな?」
「ハイ、不思議に存じます」庄三郎は素直に云った。
「生命の活動の多少によって、そういう差別が出来るのです」
「活動の多少とおっしゃいますと?」
「生命が多く活動する物、それが生物でございます。生命が少しく活動する物、それが無生物でございます。そうして人間は生物の中で、特に最も生命の活動が著しい物でございます。したがって罪を犯すことも一番多いのでございます」
有髪の僧の言葉には犯し難い自信がこもっていた。
「だから人間は何物にも増して、懺悔しなければなりません。茨を背中に背負うことによって、一本の足で歩くことによって、日輪を直視することによって、十歩行っては八歩かえり、二十歩歩いては十九歩かえる、こういう困難な歩き方によって、その他さまざまの苦行によって、自分の肉身へ刑罰を加え、それによって懺悔心を起こすことも、人間には必要でございます。……『
次第に有髪の僧の声は、悲哀の調子を帯びて来た。
「いったいこの人は誰だろう?」またも庄三郎は心の中でこの疑問を繰り返した。
この時空の西の
「おや」
と彼は思わず云った。この教団の教主たる光明優婆塞の容貌によく似ていると云われている、この石像の容貌と、有髪の僧の容貌とが怪しいまでに似ていたからであった。
「ああそれではこの人は、光明優婆塞であるまいか」庄三郎は
と、その人は首を垂れ、階段の方へ歩き出した。肩の辺に月光が射し、長い
月は教団の町々を薄蒼白く照らしていた。その町々を陰影のように光明優婆塞は
「子供よ子供よ夢を見たか。夜は深い、泣き止んでおくれ」
呟くように囁いた。すると嬰児は泣き止んだ。
一軒の家から云い争う男女の声が聞こえて来た。とまた優婆塞は窓を叩いた。
「夫婦の者よ、云い争うな」
するとすぐに争いは止んだ。
町を出ると荒野であった。
光明優婆塞は走り出した。
それは走ると云うよりも舞うと云った方がいいようであった。月の光りに透きとおる白雲のような何物かが藪の上や灌木の上を非常な速さで舞って行くと、こう云った方がよいようであった。しかし決して妖術ではあるまい。永い年月繰り返された行者としての難行苦行が、彼の躰を軽いものとし、速走の骨法を自得させたのであろう。
富士の裾野の荒い野には露がしとどに降りていた。虫が草間で
やがて
暁近い深い
その濛気の奥にこそ
そうしてその城の一室にこそ仮面の城主はいるのである。
「兄上!」
と突然光明優婆塞は、湖水へ向かって呼びかけた。「まだあなたはこの私を憎んでいられるのでございますか。不幸なお方、不幸なお方!」
それは不思議な声であった。
「兄上、あなたは卑怯者です。いつも私の留守を目掛けて、
光明優婆塞は叫びつづけた。
「兄上、いやいや仮面の悪鬼! 悪病の持ち主、纐纈城主! 俺はお前を憎んでやる! お前だけは許すことは出来ない!
次第にその声は弱って来た。
「しかし、しかし、おお兄上! ごもっともにも存じます! 私に対するあなたの
彼の叫びは訴えとなり、やがて嘆願となり
「あなたに云い分があるように私にも云い分はございます。私の恋人を取ったのはあなたが先でございます。しかしこれとて云ってかえらぬ昔のことでございます。昔のことを繰り返しさらに怨みを深めるのは私達の本意ではない筈です。昔犯したさまざまの罪を懺悔で清めるということが私達の勤めでございます。……人生を懺悔で統一する! これが急務でございます。……私はあなたに逢いたいのです。どうぞお逢いくださいまし。ああしかしあなたは私と逢おうとはなさいません。それで私はここへ来て、湖岸の草へ
夜はまだ明けそうにも見えなかった。湖水からはなんの返辞もない。それは無慈悲に黙っていた。
光明優婆塞は合掌したまま
蒼い尾を曳いて星が飛んだ。
この時サラサラと草を分け、近寄る人の
伏し転んでいる白衣の行者を、じっと上から見下ろした時夜目にも凄じく彼の眼の輝いたのが見て取れた。
「斬るかな、それとも突くとしようか」
刀の柄に手が掛かった。ブルッと彼は
「行者!」
と一声呼び掛けた。起き上がるところを一刀に首を斬ろうとしたのであった。
光明優婆塞は動かなかった。
「起きろ!」
とまたも声を掛けた。しかし優婆塞は起きなかった。
「エイ」と三度目の掛け声と共に
「不思議だな。俺には斬れない」
その時優婆塞は立ち上がった。
こうして兇暴な殺人鬼と、聖者とは顔を見合せた。静まり極わまった夜の高原、虫が無心に唄っている。二人の間を吹き通るのは、涼しい暁の風である。
と、優婆塞はおもむろに云った。
「お前は誰だ? なんの用がある?」
「名前ぐらいは聞いていよう、俺は三合目
「かねて噂は聞いている。ああお前が陶器師か」
「お前は誰だ? 名を
「世間の人は私のことを、光明優婆塞と呼んでいる」
これを聞くと陶器師は思わず一足後ろへ引いた。そうしてつくづく相手を見たが、
「そうではあるまい。そんな筈はない!」
「何故な?」と優婆塞は微笑した。
「ひどく予想と
「悲しければ誰でも泣く」
「光明優婆塞ならもっともっと勇士でなければならない筈だ」
「では私は勇士ではないのか?」
「光明優婆塞ならもっともっと風采
「そう私は貧しげなのか?」
「お前は喪家の犬のようだ。お前は路傍の乞食のようだ」
「そうだ、それは
「聖者の威厳などどこにもない」
「なんの私が聖者であろう」
「お前は牢屋の囚人のようだ」
「そうとも私は罪人だ」
「大木の蔭の草のようだ。日の目を見ない人間のようだ」
「事実私はそうなのだ。大きな大きなある力にいつも私は押し付けられている」
「これまで逢った人間の中、お前のように憐れ気な者は、かつて他に一人もない」
「私はあらゆる人間の中で、一番憐れな人間なのだ」
「不思議だ!」
と突然陶器師は、躍り上がって絶叫した。
「そんなに憐れ気なお前だのに、そのお前を斬ることが出来ない!」
「何故だろうな?」と優婆塞は訊いた。
「何故だろう? 解らない! ただ俺には斬れないのだ」
「何故だろうな?」とまた訊いた。
陶器師は答えない。
俄然刀を投げ出すと、彼はバッタリ地へ座った。
「今こそわかった! 光明優婆塞様!」
その手は合掌に組まれている。
「立て」と優婆塞は優しく云った。「大なる生命の存在を、認めることの出来た時、人は限りなく弱くなる。その弱さが極わまった時、そこに本当の強さが来る。私は聖者でもなんでもない。ただ弱さの極わまった者だ。……そこでお前に訊くことがある。何故お前は人を殺すな?」
「ハイ」と陶器師は弱々しく、「いたたまれないからでございます。必要からでございます」
「活きて行く上の必要からと、こうお前は云うのだな」
「ハイ、さようでございます。心の中に鬼がいて、それが私を
「もし唆しに応じなかったら?」
「あべこべに私が殺されます。ハイその心の鬼のために食い殺されるのでございます。自滅するのでございます」
「しかし、たとえ、人を殺しても、お前の心は休まらない筈だ」
「ただ、血を見た瞬間だけは……」
「心の休まることもあろう。しかしすぐに二倍となって、不安がお前を襲う筈だ」
「で、また人を殺します」
「するとすぐ四倍となって、不安がお前を襲う筈だ」
「で、また
「血は復讐する永世
「で、また餌食を猟ります! で、また餌食を猟ります! で、また餌食を猟ります! で、また餌食を……で、また餌食を……地獄だ地獄だ! 血の池地獄!」
「
「お助けくだされ! お助けくだされ!」
「恐ろしいと思うか。恐ろしいと思うか?」
「恐ろしゅうございます! ああ恐ろしい!」
「懺悔だ!」
と優婆塞は憐れむように云った。
「この他には道はない」
「懺悔?」
と陶器師は繰り返した。それからいつまでも黙っていた。
星は次第に光りを失い、天末がやや仄白くなった。しかし秋の夜はまだ明けない。虫が降るように鳴いている。咲き乱れている野花の香が、野一杯に充ちている。富士は
ク、ク、クという笑い声が、急に陶器師の口から洩れた。と彼は立ち上がった。まず刀を鞘に納めると、嘲けるように云い出した。
「懺悔! なるほどな、いい言葉だ。第一ひどく響きがいい。ザンゲ! ふふん、いい発音だ。そうさ、俺もある時代には、真面目に考えたこともあった。その素晴らしい言葉についてな。ところでその結果何を得たか? こいつを思うと
と
造顔術師月子のために磨きを掛けられた彼の顔は、世にも美しいものであった。しかしそれだけその顔は世にも不気味のものでもあった。人工的の「美」なるものが、いかに美しいかということと、いかに醜いかということが、その顔を見ればうなずかれる。
彼は昏々と眠りに入った。
自分の力のいかに弱いかを、彼は如実に経験した。こういう悪人に対しては、全く無力と云わざるを得ない。彼の顔は悲しそうであった。打ち
時あって
今がそういう時であった。
眠っている
やがて優婆塞は歩き出した。
首を垂れ、腕を組み、裾野の草を分けながら、彼はどこともなく歩いて行った。
「不足だ」
と彼は呟いた。
「俺の思想に間違いはない。俺の考えは
彼は
「俺は教団へは帰るまい」
悲しそうに呟いた。「俺はもっと苦行しよう。当分決して人を説くまい」
白衣姿の優婆塞は、さも遅々として歩いて行った。丘を上り、谷を下り、林の中へ分け入った。
この夜、纐纈城内では、仮面の城主、悪病の持ち主が、いつもの部屋でいつものように、一人
部屋では香炉が燃えていた。露台の扉も開いていた。これはいつもと変りはない。その開いている扉の隙から月の光りが射し込んでいた。
「誰か俺を呼んでいるようだ」
ふと彼は呟いた。
しかし誰も呼んではいない。人声などは聞こえない。
「確かに俺を呼んでいる」
そうだ誰も呼んではいない。が、それにもかかわらず彼には何か聞こえるらしい。
「誰だ!」
と彼は怒鳴るように云った。もちろんどこからも返辞がない。
「そうだ、今夜には限らない。これまで時々湖水の岸から俺を呼ぶような声がする。それを聞くと不思議なことには、俺の心が滅入って来る。何故だろう? 解らない! それにここと湖水とはかなり距離が離れている。声の聞こえる筈がない。錯覚かな? それに相違ない。……ああ今夜も気が滅入る。誰か俺を呼んでいる」
その時、戸を叩く音がした。
「はいれ」
と彼は
廊下に向いた部屋の戸が外から音もなくス――と開いて一人の男が現れた。
「うん、お前か、万兵衛か」
「ハイ、私でございます」
首斬り役の万兵衛は敷居の内側で一礼した。
「何か用か? 早く云え」
「染料三
「ふん、なんだ、そんな事か」
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます」
「今夜は俺は不機嫌なのだ。――もっともいつも不機嫌なのだがとりわけ今夜は気が滅入ってならない。心ない奴だ、馬鹿な奴め、もっと面白い話を持って、部屋の戸を叩くがいい」
「……は、お許しを受けまして……」
「いつ俺が許さないと云った。勝手に絞りへ掛けるがいい」
「かしこまりましてございます」
万兵衛は部屋を出ようとした。
「待て! たわけ、名簿はどこだ」
「は、これにございます」
万兵衛はオズオズ進み出ると、手に持っていた帳面を
「うん、よしよし三人だな」
「ハイ、さようでございます」
「……一番部屋係り京二郎。二番部屋係り咲二郎。何んだこれは、
「殺されましてございます」
「ふん、誰に殺されたのだ?」
「大事な
「それはいったい何者だ?」
「そこに記してございます」
「ふん、そうか、こいつだな。高坂甚太郎、十四歳。なんだまだ子供ではないか」
「恐ろしい子供でございます」
「恐ろしい子供? 身分はなんだ?」
「ハイ、
「鳥刺風情が恐ろしいのか」
「槍の名人でございます」
それを聞くと仮面の城主は、
「この城内の賓客へは一切武器を持たせぬが掟だ。そいつに誰が槍を持たせた!」
「いえ、
「ナニ黐棹? それが槍か?」
「ハイ、さようでございます。黐棹槍の高坂流、こう申しておりまする」
「それで二人を突き殺したのか」
「二人ながら
「さては素晴らしい
「で、根からの鳥刺かな」
「いえ、本来は甲斐の国、武田の家臣だと申しますことで」
「ははあなるほど、侍だな。……ふうん、甲州武田家の家臣……そうして姓は高坂だな?」
城主はじっと考え込んだ。
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます」
しかし城主は返辞をしない。万兵衛は不思議そうに口を
「その立派な武田の家臣が、何故鳥刺になどなったのだろう?」呟くように云ったものである。
「ハイ、人を尋ねるためだと、このように申しておりましたそうで」
「ははあなるほど、そうであったか。……とまれ武田家で高坂と云えば、
「ハイ、その者の従兄にあたる、土屋庄三郎と申す者を、尋ねるそうにございます」
「ナニ、土屋庄三郎 おお確かにそう云ったのだな?」
城主は
「悪い名だ! 悪い名を聞いた!」その声は凄く
彼はヨロヨロと歩き出した。
「万兵衛! 確かに、そう云ったのだな?」
「申されました。ご城主様」
「土屋庄三郎と、こう云ったのだな?」
「ハイ、ご城主様、そう申されました」
「土屋庄三郎を探がしているとな?」
「ハイ、その通りでございます」
「その庄三郎はどこにいる!」
「なんで私が……ご城主様!」
「この城内にはおるまいな?」
「いると思ってその鳥刺は、尋ね参ったそうでございます」
「ではおるのか? この城内に?」
「いえ、いえ、おいでではございません」
「よもやおるまいな? 賓客の内に?」
「ハイ、保証いたします」
「悪い名だ! 悪い名を聞いた! 懐かしい名だ! 懐かしい名を聞いた! 土屋庄三郎、庄三郎! あの女の産んだ子だ。そうだこれだけは間違いない! だが俺の子か、あいつの子か、この秘密さえ確かめられたら。……憎いは女! 俺の妻だ! 憎いは姦夫! 肉親の弟! おおそれさえ確かめられないとは!」
「で、お許しを受けまして、絞りに掛けたいと存じます」
「万兵衛!」
と城主はツカツカ進み、
「行って
「は、それでは絞りへは?」
「指一本触れさせたが最後、
「お助けなさるのでございますか?」
「俺にとっては妻と弟の子だ! 昔あった俺の妻のな」
戸が音もなく閉ざされた。廊下を地下室へ走って行く
明け近い月の白茶けた光りが、戸の隙から射していた。そうして遥かの湖水の岸から、彼に向かって呼びかける声が、尚遠々しく聞こえて来た。
「兄上よ、兄上よ」と。……
「兄上よ、兄上よ」と。……
「申し上げます」
と云いながら、
「うん何んだ! 何か用か?」
「は、ご来客でございます」
「ナニ来客? 何者だ?」
「みすぼらしい老人でございます」
「そんな者には用はない。追っ払ってしまえ、追っ払ってしまえ」
「それがなかなか帰りませんので」
「無礼な奴だ。斬って捨てろ」
「かしこまりましてございます」
「が、待て待て、どんな風態だ?」
「ハイ、胸に
「で、姓名は何んと云った?」
「
「おおそうか、それはそれは、珍らしい人物が参ったものだ。すぐに通せ、
「では殿にはご存じで?」
「京師室町将軍家の
「は、何人でございましょうか?」
「誰でもよい、早く通せ」
「かしこまりましてございます」
近習犬丸は座を
しばらくあって襖が開くと、老人が姿を現わした。
「おお
「謙信公にはご健勝、
「もっと進め、遠慮はいらぬ」
「愚老遠慮は大嫌い、ハイハイもっと進みますとも」
二人は膝を突き合せた。
越後春日山の城中である。主人は不識庵上杉謙信、客は剣聖塚原卜伝、ピッタリ顔を合わせてしまった。
しばらく二人は何んにも云わない。ただ眼と眼で笑い合っていた。
「
と謙信は突然云った。
「ハイハイ何でございますな」
「
「お前様のことだ名刀ででもあろうよ。小豆長光の名刀かな」
「いやいや違う、そんなものではない」
「ははあ、そうか、これは失敗」卜伝はポンと手を
「今度は解った、
「これは面白い、あててみろ」
「あてたら何をおくんなさる」
「こいつがこいつが、慾深爺が! 何んでもくれる。望みのものをな」
「それはそれは有難いことで」
「が、外れたら何んとするな?」
「さようさ、外れたら、……外れっ放しだ」
「悪い奴だ。馬鹿な話だ。それでは
「それでいいのだ。金持ちはな」
「まずともかくもあてるがいい」
「首であろう? 首の筈だ」
「首?」
と謙信は
「首であろうがな、信玄の首! アッハハハそれともまだかな」
さすがの謙信もこの皮肉には苦笑せざるを得なかった。
つと謙信は手を延ばした。何やらしっかり握っている。
「首ではない、そんな物ではない。もっともっと小さい物だ。ここにあるのだ。拳の中にな」
すると卜伝も手を延ばしたがやはり何やら握っている。
「や、それではお前もか」
「殿、お前様もお持ちなのか。……それでは来るではなかったに」
二人同時に拳を開いた。と、二人の
「卜伝、どうして手に入れたな?」
「殿、どうして手に入れられました?」
「馬一頭、太刀二振り、それでようやく手に入れたそうな」
「ははあ、お前様のご家来がな」
「うん、
「私は自身手に入れました」卜伝はグッと眼を据えたが、
「一刀に斬って捨てましてな!」
「無慈悲な男だ。殺さずともいいに」
「世のためでござる。殺した方がよい」
「さては薬売りは悪人だったと見える」
「悪魔の手下でございます」
「魔王は誰だ? 知っているかな?」
「申すまでもない、製薬主!」
「いかにもな。いかにもな」
「起死回生、神変不思議、効験いやちこのこれほどの名薬、神の手では作れない」
「いかにもな、いかにもな」
「魔王一人、作ることを得ます」
「俺もそう思う、悪魔の
「悪魔の業でございます」
「心あたりは? 心あたりはないか?」
謙信は一膝膝を進めた。
「まず第一が、甲州弁……」
「甲州弁とな? 薬売りがか?」
「
「甘糟の逢った薬売りは、片足なかったということだ」
「脱疽でござる。脱疽に相違ない」
「さては薬売りは多人数と見える」
「日本国津々浦々へ行き渡っていることでござろうよ」
「欲しいものだ、是非欲しい。せめて百粒、せめて千粒……」
「ご同様だ。愚老も欲しい」
「
「起死回生でござったかな?」
「うんそうだ、
「愚老は
「ふうむ、やっぱり快癒したか」
「さながら薄紙を
「名薬! 名薬! ……欲しいものだ!」
「実は殿にはこれほどの名薬、ご存じあるまいと存じてな、それで一粒を献じようと、本日参上したのでござる」
「礼を云うぞ、厚い好意だ」
「日本に武将は数多くござれど、愚老の好きは殿一人だ」
「益々有難い、嬉しく思う」
「義侠に富んでおわすからな」
「ナニ義侠? そうでもないが……」
「一つ村上義清のため、信玄御坊と数度の合戦、これ義侠ではござらぬかな」
「なんの、あれは酔狂よ」
「そういう酔狂こそ望ましゅうござる」
「それはとにかくこの名薬、手に入れる工夫はあるまいかな?」
すると
「殿、文庫をお見せくだされ」
「いと易いこと、なんにするな?」
「ご記録拝見致しとうござる」
「記録を見て何んにする?」
「他に何んの用があろう、この名薬の
「おお」
と叫ぶと謙信は
「卜伝! そちにそれが解るか?」
「殿」
と卜伝は声を細めた。「この丸薬の製法こそは、越後流にございますぞ!」
謙信は無言で眼を据えた。
「表に塗ったこの金箔、これこそ佐渡の黄金でござる」
「ははあ」謙信は思わず云った。
「やや楕円の形こそは、越後特有の軍用薬型、何んとそうではござらぬかな」
「…………」
「すなわち殿のご家臣の中に、薬の
謙信は黙って見詰めていた。
ちょっと重苦しい沈黙である。
やがて謙信は探るように云った。
「誰であろうな? 心あたりあるかな?」
「ご記録拝見致したなら、おおかた見当が付くでござろう」
「うんそうか、では頼む」
謙信ほどの英雄ではあったが、とうとう頼むと云ったものである。
卜伝塚原義勝は、常陸国塚原の産、その実父は土佐守といい塚原城の城主であった。
門弟一万を越える中、その最も有名なのは足利将軍義輝公、伊勢国司北畠
その列国を往来するや、駒を
そうかと思うと
性
ある日卜伝が草庵の中で兵書の閲読に耽っていると、
「五臓丸、五臓丸、売りましょう五臓丸!」
「はてな」
と卜伝はそれを聞くと、手に持っていた書を伏せた。
そうして童子を走らせて、その五臓丸を買って来させた。
そこで茶椀へ水を充たせ、そこへ丸薬を投げ込んだ。すると丸薬は
「おおこれは本物だ」
こう卜伝は呻いたが、スックとばかり立ち上がると、太刀を提げて走り出た。
それとも知らぬ薬売りは城下の方へ歩いて行った。
「待て!」と一声呼び止めておいて一刀の下に斬り
これには立派な理由がある。
まだ壮年の頃であったが、飛騨山中で道に迷い、彼は危く餓死しようとした。その時折よく通り合わせたのは、老いたる一人の猟師であったが、彼を猪小屋へ担ぎ込むと、火打ち袋から丸薬を取り出し、まず水の中へ抛り込んだ。と丸薬は
それを飲んだ卜伝は一時に神身爽快を覚えた。
「神妙な霊薬! 何んと云う薬か?」
卜伝は感心して訊いて見た。
「
「ふうん。何から製したものか?」
「猿の五臓から
「贋というのは
「これは贋物でございます」
「では本物の五臓丸は?」
「人間の五臓で製します」
「ふうん、恐ろしい薬だな」
「恐ろしい薬でございます」
「それはどこで製しているかな」
「へい、南蛮とか申す国で」
「おおそうか、日本ではないのか?」
「へい、日本ではないそうで」
「で、どんな効能があるな?」
「へい、万病に
――つまりこういう経験が、その過去においてあったところから、そこでこの日「五臓丸」という薬売りの呼び声を耳にするや、すぐ一粒を
「では何者か日本でも五臓丸を造るものがあると見える。生きた人間の五臓を
それから彼は五臓丸を
で、彼は思うところあって
こういうことがあってから一月ほど経ったある日のこと、老人と童子の一行が富士の裾野を歩いていた。
「菊丸よ菊丸よ、さあ唄ったり唄ったり」
「かしこまりました、ご隠居様」
そこで童子は唄い出した。
花の散るのは風のため
月の曇るは雲のため
サッササッサ
サッササッサ
「うまいうまい、なかなかうまい。今度は私が唄おうかな」月の曇るは雲のため
サッササッサ
サッササッサ
「お唄いくだされ。お唄いくだされ」
そこで老人は唄い出した。
どんつくどんつくドッコイショ
どんつくどんつくドッコイショ
ヨンヤヨンヤ
ヨンヤヨンヤ
どうも一向面白くない。訳のわからない唄である。どんつくどんつくドッコイショ
ヨンヤヨンヤ
ヨンヤヨンヤ
二人はポクポク歩いて行った。
「菊丸よ、菊丸よ」
また老人はやり出した。
「おん前に、ご隠居様」
童子は心得たものである。狂言の型で返辞をした。
「謎々しようじゃまろまいか」
「掛けさしませ、掛けさしませ」
「赤くて白くて真っ黒け、サアサこいつは何んでござる?」
「ううん、こいつは困ったな」
菊丸はとうとうベソをかいた。
それが老人には面白いと見えて、ニヤリニヤリと笑っている。
「解りません、あげました」
「おやおやこいつは困ったね。ところで私も存じません」
これで謎々も
まことに
今日もお山は晴天で、八つの峰が鮮かに見え、肌が
いったいどこへ行くのだろう? この時代の裾野と来ては、猛獣毒蛇
そのうちだんだん秋の日が山の方へ落ちかかった。
つるべ落としと云われるほど暮れるに早いこの頃の日は、見る見る裾野を夜に導き、
「ご隠居様、ご隠居様、夜になりましてございます」
菊丸は不安そうに云い出した。
「さようさよう夜になったな」
「どこぞへ
「さようさよう宿まらずばなるまい」
しかし宿まると云ったところで、人家もなければ
で二人は歩かなければならない。
すると、この時一点の火光が遥か行手から洩れて来た。
「あれ、ご隠居様、火が見えます」
菊丸は声を筒抜かせた。
「オット待ったり、オット待ったり」
老人は小声で制しておいて、じっとその火を眺めやった。
火は一点に止どまって、動きもせねば揺れもしない。
「まず有難い、家があるそうな」
「ご隠居様参りましょう。宿を乞おうじゃございませんか」菊丸少年はせがみ出した。
「しかし」と老人は不安そうに「あぶないあぶない用心せねばならぬ」
「なんの用心でございますな?」菊丸は少しく不平そうに云った。
「まず聞くがよい、古歌がある。『日は暮れて野には伏すとも宿かるな
「でもここは富士の裾野で、安達ヶ原ではございません」
「うん、そういえばそれもそうだな」
「宿を乞おうではございませんか」
「おおよかろう、参るとしよう」
そこで二人は足を早め、灯の見える方へ歩いて行った。
行き着いて見れば、木立に囲まれて、一宇の館が立っていた。夜目にも凄じく荒れてはいたが、構えは堂々たる書院造り、どうやら
玄関にかかった老人は、「お頼み申す、お頼み申す」
二声ばかり呼んで見た。
しかしどこからも返辞がない。
老人は小首を傾げたが、さらにもう一度案内を乞うた。
すると遥かの奥の方から「オー」と
「案内を乞うたはお手前達か?」
傴僂男は横柄に訊いた。
「ハイ、さようでございます」
老人は
「で、何んぞ用事かな?」
「行き暮れました旅の者、近頃
「ははあ、それで参られたか。だがここは宿屋ではない」
「ハイハイさようでございますとも」
「鍵手ヶ原の療養園だ」
「ははあ、さようでございますか」
「すなわち直江
「ははあ、さようでございますか」
「病人なれば宿めて進ぜる。健康体ならお断わりだ」
すると老人はその眼の中へ一道の光を宿したが、にわかに弱々しく声を
「それはそれは何より幸い、私ことは世にも憐れな脱疽病者でございます」
「なに脱疽? おおそうか。ではよろしい通らっしゃい」
ス――と手燭を手もとへ引くと、
その部屋は二つにわかれていた。
まず前房から説明すると、床が
その薬棚のやや前方、滑石の床の
後房と向かい合った部屋の隅に、鉄製らしい漆黒の、巨大な火炉が作り付けられてあったが、魔物の口とでも形容したい、カッとひらいた
この部屋全体を照らすための、一個大型の
今、部屋には人影がなく、寂しいまでにひっそりとしていた。と、その時、中庭に当たって、人の歩く
その時、黒い垂れ布をかかげ、後房から姿を現わしたのは、一人の威厳のある老人であったが、しずかに戸口へ歩み寄ると、
あけられた戸口からはいって来たのは、
解剖台に寝ているのは、正しく活きている人間ではあったが、手もなければ足もない、ズンド切りにした丸太のような、胴ばかりの生物で、その一端が細まりくびれ、そこに一個の隆起物があったが、云うまでもなく頭部であった。今、一方の左の眼が、その
嘔吐を催させる悪臭が、いつか部屋を立ちこめていたが、
解剖台の横に立ち、患者の様子を見下していたのは、手術衣を纏った老人であったが、一本のメスを取り上げると、トントンと卓の縁を打った。と、それを合図にして、後房の垂れ布を左右へひらき、一人の若々しい青年と、一人の乙女とがはいって来たが、つと乙女は卓の側へ行き、青年は棚から銀盆をおろし、火炉の前へ
残忍といえば残忍ともいえ、奇怪といえば奇怪ともいえる、人体解剖の行われたのは、実に、その次の瞬間からで、
「
と老人は厳かに云った。
「…………」無言で卓の上の香箱を、つと取り上げた美しい乙女は、それを老人の手へ渡した。香箱を受け取った老人は、やおら箱の蓋を取り去ったが、それを患者の鼻へあてると、しばらく様子を窺った。
「よし」というと、蓋を冠せ、卓の方へ押しやった。
やがて「メスを」と老人は云った。と、
血が一筋吹き上り、五寸あまりも宙に躍ったのはその痙攣と同時であったが、しかしそれも一
露出された死者の喉から胸、胸から腹まで一文字に、大メスの刃が引かれたのは、手術が二段目へはいった証拠で、切られた切り口から熱い血が左右の脇腹へ滴たり落ちたが、すぐに血止めで凝らされた。
「
と老人は云った。と、乙女の手が卓の上から、それを老人へ手渡した。
「肺の臓」と冷静に云った。それから青年へ眼をやったが、「銀盆を!」と命ずるように云った。
つと進んだ青年は、銀盆に肺臓を受け取ると、そのままゆっくりと旋廻し、爪先で歩いて火炉まで行ったが、筒形の釜の真上の辺で、そろそろと盆を傾むけた。
シンシンという湯鳴りの音が、ひときわ音を高めたのは、獲物を一つ呑んだからである。
血の最後の滴りが、盆から釜の中へ落ちるのを見て、青年は盆を手もとへ引いた。それからグルリと振り返った。と、その眼の前に老人が、二つ目の獲物を掌に捧げ、冷静に青年を待っていた。
「銀盆を! 心の臓!」こう老人は云ったものである。
二度高く釜鳴りがし、二度銀盆を胸に抱え、青年が方向を変えた時、三つ目の獲物を掌にのせて、老人が同じように立っていた。
「銀盆を! 肝の臓!」
ふたたび老人は冷やかに云った。
で、その肝臓も銀の盆から、釜の中へ落とされた。
三度青年が振り返った時、老人は
こうして
部屋の中は蒸し熱く、膿の匂いと血の匂いと薬の匂いとで充たされていた。
とはいえ、それらの冷静の中には、殺人鬼の持つ惨酷味などは、一点といえども含まれてはいず、むしろそこには科学者だけが持つ、学究的冷酷というようなものが、多分に含まれているのであった。
部屋の片隅に設けられてある、大形の湯槽の栓を抜き、そこから
黒の垂れ布を一つ隔てた、ここ、後房の有様は、陰惨たる前房とは似ても似つかぬ、愉快な
まず中央に
肘掛椅子に腰掛けているのは、解剖のメスを揮ったところの、例の威厳のある老人であったが、他ならぬ直江蔵人で、その彼の背後にあたり、それこそ天井に届きそうな、巨大などっしりとした書棚があったが、積み重ねられた書籍の多くは、見慣れない南蛮の書であった。
その老人とテーブルを隔て、寝椅子に並んで腰掛けているのは、例の青年と乙女とであったが、その青年こそ他ならぬ直江主水氏康で、そうして乙女は松虫であった。
仕事の後の快い
さまざまの部屋の
「信玄公より謙信公が偉い? ほほう、それはどうしてだな?」
こう云ったのは蔵人で、赫ら顔で長身肥大、雪のように純白な手術衣を纏い、半白の長髪を肩へ垂れた、その風采は神々しかったが、日本的とは云われなかった。
「私にはわからぬ、どうしてだな?」彼はもう一度くりかえした。
「信玄公は戦好き、無名のたたかいをなされます。それに反して謙信公は、終始一貫任侠を
こう答えたのは主水であった。今年の晩春越後の国から、この館へ来た頃から見ると、肉も付き血色もよく、健康そうになっていた。おそらくこの土地の風物が、彼の心身に
「なるほど」と蔵人はそれを聞くと、穏かな微笑を浮かべたが、「しかし私から云う時は、謙信公も信玄公も、いずれもひとしなみの野蛮人だがな」
「まあお父様」
と驚いたように、横から声を筒抜かせたのは、美しい乙女の松虫で、「謙信様はわたしどもにとって、恩ある故主様ではございませんか。ほかに云いようもありましょうに、野蛮人などと
「いやいやそういう意味ではない」蔵人はちょっと手を振ったが、
「なにも私は軽蔑をして、そういう言葉を使ったのではないよ。私の持論から割り出すと、今川であれ北条であれ、浅井であれ朝倉であれ、世のいわゆる武人なるものは、
「それはまたなぜでございますな?」今度は主水が
「なぜというのかな、ほかでもないよ、いき物の世界の法則から見て、横道へそれているからさ、……由来、人間というものは、人間同志争ってはならぬ。と、こういうのが法則なのでな」
「変な法則でございますことね」松虫が笑いながら突っ込んだ。
「では人間はどんなものと、
「そうさな」と蔵人は真面目顔をしたが、「たとえば洪水とか、雷さんとか、火事とか地震とか悪い獣とか、まずザットこんなようなものと、喧嘩をしなければならないのさ。……おお、そうそうもう一つある。大事なものを忘れていた。ほかでもない病気だよ」
すると二人の若い男女は、声を揃えて笑い出したが、やがて松虫がからかうように、
「それはお父様が
「それはそうだよ、いうまでもなくな」依然として蔵人は機嫌よく、「だが私は若い頃には、決して今のように薬師ではなかった」
「ええええそれは承知しております」こう受け答えたのは直江主水で、「伯父様のご武勇は春日山では、今も評判でございますよ」
「たしか、あれは、二十歳の頃だった」永く忘れていた昔の夢を、思い出そうとでもするように、蔵人はしばらく黙想したが、「家中こぞって田楽の
云い云い蔵人はテーブルの上の、
「おお
「それから何んとなされましたな?」
「うん、苦もなく退治たよ。のしかかって来る一刹那を飛び違ってただ一刀、胸から
「お勇しいことでございましたな」感に堪えたように主水は云った。
「が、後がよくなかった」
こう云うと蔵人は憮然として、長髪の端をまさぐった。
「と云うのは他でもない」やがて蔵人は云いつづけた。
「顔を見たのだ、熊の顔をな! すると私はゾッとした。なんと熊は笑っているではないか! そうだ、熊は笑っていたのだ」
見る見る蔵人の眼の中へ、憂愁の色が漂ったが、
「猛獣などとは思われないほど、本来熊の顔は可愛らしいものだ。しかし熊は死んでいるのだ。罪もないのに殺されたのだ。それだのにその顔が笑っているのだ。あっと思った一瞬間、これまで戦場で首を刎ねた、幾十とも知れぬ敵の首が、ズラリと眼の前に現われたではないか! そうして皆な笑っているのだ!」
こう云うと蔵人は眼をとじた。
と、主水も松虫も、にわかに鬼気に襲われたかのように、互いに顔を見合せたが、云い合せたように吐息をした。
華やかに見えていた部屋の中を、一筋黒い何者かが
と、蔵人は云いつづけた。
「その時以来、武功というものが、値打ちのないものに思われて来てな。そうして私はこう思うようになった。戦争以外、武功の他に、何かもっと値打ちのあるものが、この世になければならないとな……」
「ああ、それでお父様は、
「まずそうだ。がしかし、それまでになるには尚いろいろ、苦しみもしたし悲しみもした。……だが今はまず平和だ。そうして順境と云ってもいい。……ただお前達二人の者が、私の後を継いでくれたらな」
この時コツコツと主屋に通ずる板扉を打つ音が聞こえて来た。
「おはいり」
と静かに蔵人は云った。
と、すぐ扉がひらかれて、つつましく姿を現わしたのは、醜い
「小源太か、何か用かな?」
「新入りの患者がございますので」
「ほほう、こんな深夜にな」蔵人はその眼をひそませたが、「で、どんな人物かな?」
「はい、一人は老人で、もう一人は侍童らしゅうございました」
「なんという名か、訊いたであろうな?」
「はい、常陸の
「常陸の爺? で、病名は?」
「脱疽だそうでございます」
「脱疽、なるほど、それならよい」
「まずとりあえず二号病舎へ、差し置きましてございます」
傴僂の小源太は立ち去ろうとした。
「どれ、それでは見舞うとしよう。小源太、
「かしこまりましてございます」
やがて二人は中庭へ下り、門を
半町あまり歩いて行くと、低い小丘へぶつかった。小丘を上り、小丘を下りると、周囲を林に取り巻かれた広い空地が
鍵手ヶ原の療養園である。
小源太の持った提灯の火が、その一つの小家の前で、ちょっとの間ためらったのは、錠前をまさぐっていたからで、陰気なギーという音と共に、やがて表戸がひらかれた。
一筋細い廊下があって、その正面とその左右に、都合五つの小部屋があったが、これは患者の居間なのであった。
まず小源太が先に立ち、その後から蔵人が続き、正面の小部屋にはいった時には、常陸の
「園主様のお見舞いでござる」
小源太が物々しく声をかけた。
とたんに顔を上げた常陸の爺は、蔵人の顔をじっと見たが、
「思った通りだ! お前さんだったか」
「おお、これは!」とそれと同時に、蔵人は驚きの声を上げた。
「塚原小太郎義勝殿か!」
「俺だよ、
「うん」と云ったが、にわかに笑い、「これは誰でも驚くよ。なんと思って出て来たな?」
「さればさ」と卜伝は睨むようにしたが、「お前の首を貰いに来たよ」
「こんな首をか。なんにするな」
「悪逆無道の
「おおそうか、面白いな」
「蔵人!」
と卜伝は
「冗談ではないぞ! 笑い事ではないのだ! いつから貴様は悪鬼になったな」
しかし蔵人は水のように、冷然として立っていた。と、
「まずお前も腰をかけろ。話は出来る。それからでもな」
「ならぬ!」と卜伝はにべもなく、「活ける人間の五臓を取って、薬を製するとは天魔
「ははあ、それでやって来たのか。ご苦労であったな。だが卜伝!」
蔵人は相手を憐れむように、
「俺を
「
「卜伝」と益々憐れむように、「剣をとらせたら
蔵人は尚も云いつづけた。
「さて、今度は俺の仕事だ。一殺多生! 一殺多生! 多くは云わぬこれが目的だ!」
「なるほど」と卜伝は小刀から、やおら右手を放したが、
「一殺といえども殺は殺、なぜその残虐を敢てするな?」
「では俺からお前へ訊こう。腰間に秋水を何故横たえるな?」
「すなわち悪魔降下のためよ」
「その悪魔はどこにいるな?」
「内に察しては自己心内! 外に探っては一切万物!」
「悪魔降下の手段はな?」
「ある時は殺人剣、またある時は活人剣!」
「いやはや随分忙しそうだな。結局は何が目的なのだ?」
「剣禅一致、悟道だ悟道だ!」
「が、お前は結局は死ぬ」
「一切
「死はあんまり有難くない」
「が、覚者にはそうでもない」
「ナーニ、やっぱり活きていたいのさ」
「何をお前は云おうとするのだ」
「お前は死をどう思うな?」
「死か? 死はな、
「
「蔵人!」
と卜伝は疑わしそうに、「ははあ、またまた詭弁だな」
「卜伝!」
と蔵人は立ち上がった。「正直に云え、死にたくあるまい」
「うむ」と卜伝はやむなく云った。
「うむと云ったな。よく云った。誰でも死にたくはない筈だ。これは生物の本能なのだからな。死にたくないの一念が、宗教を産み剣道を産み、そうして医学を産んだのだからな。ところで宗教は消極的、武道に至っては要するに兇器。ただわずかに医学があって人間の生命を救おうとしている。生命の本態は物質だ。……そうして物質を救うものは、やはり同じに物質でなければならぬ。薬だよ! 五臓丸だよ!」
蔵人は悠然と部屋を出た。
「まずゆっくりと考えるがいい。まずゆっくりと眠るがいい」
蔵人は屋敷へ引っ返して行った。
由来宗教というものは、それ自体偉大なものである。
それは一面哲学であり、また救世の道具だからである。
おそらくあらゆる宗教は、その創立の始めにおいては、簡素であったに相違ない。
教祖の全人格の放射なるものが、とりも直さず宗教なのである。
あらゆる新思想がそうであるように、あらゆる宗教は創始時代においては、その時代に反逆する。
だから迫害されるのである。
法律は死物である。司法官の優秀なる運用があって、はじめて活溌なる生命を持つ。
宗教といえどもそうである。僧侶の勝れた布教があって、
富士教団といえどもそうであった。
光明優婆塞を除外しては、富士教団は存立しない。
もしも彼がなくなったなら、富士教団もなくならなければならない。
宗教は偶像を要求する。それは人間の弱点である。適確に物を掴まなければ、おおかたの人は安心しない。
仏像、聖画、讃美歌、祈祷、ことごとくある意味の偶像なのである。
そうしてほとんど例外なしに、教祖その人は偶像なのである。
教祖に対する信者の情緒は、ほとんど恋愛と云ってもよい。
そうして恋愛は性慾なのである。
だから非常に力強い。
だから平気で殉教する。
殉教は彼らには快楽なのである。
光明優婆塞は恋人であった。
その恋人がいなくなった。
信徒達は恋人を失った。
教団は偶像を紛失した。
動揺せざるを得ないではないか。
あっちでもこっちでも噂された。
「今日で一月お姿が見えない」
「こんなことはこれまでにはなかった」
「二日か三日、せいぜい五日、お姿の見えないことはあった。……だが、こんなことははじめてだ」
「いったいどこへ行かれたのであろう? 私達を見棄てたのではあるまいか」
「どうしたらよいのだ。こまったことだ」
「俺は恐ろしくてたまらない。今にきっと悪いことがあろう」
「何かをお怒りになられたのだ。私達の何者かを」
「ああ、どうぞお早くお帰りくだされ」
「探さなければならない。探さなければならない」
「だが、どうしてさがすのだ? あてがない。想像もつかぬ」
「もしやどこかで優婆塞様は、おなくなりになったのではあるまいか」
「聖者だ、聖者だ、そんなことはない」
「だが、生身のお体だ」
「しかし、奇蹟がお出来になる」
「登天されたのではあるまいか。下界を去られて、天上界へ……」
「私は信仰を失いそうだ」
「私は教団を出ようかしら」
「苦行するのが厭になった。香を焚くのも厭になった」
「謀反が起こるに相違ない」
「誰だ誰だ、裏切り者は」
「私はなんだか死んでしまいそうだ」
「私の前身は
「この頃は
「祈祷の声も聞かれなくなった」
「撲り合い、掴み合い、喧嘩口論。……昔の面影はなくなった」
「
家の中でも、天幕の中でも、また往来でも「聖壇」でも、信者たちはヒソヒソと噂し合った。
おりから季節は冬であった。
富士のお山も「聖壇」も、その「聖壇」の建物も、そうして巨大な行者の像も、雪の白
冬は
教団にとっては反対であった。
疑惑、不安、不信、動揺、そうして議論の季節であった。
教団の
狼たちは群をなし、熊は妻と子供とを連れ、猪はいつも一人ぼっちで、餌食はあるまいかと探し廻わっていた。
勇敢な熊がある夕方、教団の中へ忍び込んだ。そうして一頭の馬を盗んだ。
つづいて猪が忍び込み、納屋の野菜を掠奪した。
と、狼が隊をつくり、突然「聖壇」の裏手へ現われ、鶏と犬とを食い殺した。
しかも教団の人々は、それに備えようともしなかった。彼らは議論し、やっつけ合い、
一軒の家では老いた夫婦が、互いに
するとまた一軒の若夫婦の家では、
おりから東の関門をくぐり、新たに入団した一家族があったが、乱脈している教団を見ると、愛想をつかして引っ返して行った。
驚くべきことが勃発した。
富士教団始まって以来の、最初の
つづいて
とまた
神聖なるものが
人々は人々を疑った。そうして信仰を疑った。そうして利慾に
こうしてまたも一月経った。
光明優婆塞は帰って来なかった。
「いよいよあの人は見棄てたのだ。この不幸な私達を」
「悪党よ、
「あいつのお蔭で貧乏になった。こんな所へ来なければよかった」
やがて光明優婆塞に対し、憎悪の声をさえ洩らすようになった。
日が昇り日が暮れた。
そうして早春が訪れて来た。
滝壺のあたりに水仙が咲いた。藪では
雁や鴨が騒ぎ出した。
ある日やわらかい風が吹いた。おおそれは春風であった。忽然、
鹿が荒野で啼き出した。
と、河原の崖の周囲を、無数の
優婆塞は帰って来なかった。
信徒たちは殺気立った。
「破壊だ破壊だ!」
と叫ぶものがあった。
いくつかの仏像が破壊された。
雪が徐々に消えて行った。そうして
富士のお山は笑い出した。だが未だ白無垢は脱がなかった。
やはり光明優婆塞は、教団へ帰っては来なかった。
いったいどこへ行ったのだろう? どうして帰って来ないのだろう? ――それは誰にもわからなかった。とまれ彼はあの時以来――三合目
土屋庄三郎昌春といえども動揺せざるを得なかった。
彼は一冬を天幕で暮らした。貴族の
だが彼には苦痛ではなかった。
それは
教主光明優婆塞とは、
彼はすっかり
彼は一目惚れしたのであった。
それだのに今や教団は、教主優婆塞
そうして現在の教団は、平和の別天地ではなくなった。
「不思議ではない、当然なことだ」
彼は思わざるを得なかった。
「人間としての優婆塞が、いかに偉かったかということは、この一事だけでも想像出来る。彼らにとっては教理などは、実はどうでもよかったのだ。光明優婆塞その人ばかりを、愛しもし信じてもいたのだ。『
で、彼は自分へ云った。
「さて庄三郎よ、お前はどうする? 俺か、俺は出立しよう。本来の目的へ帰ることにしよう。父母と叔父とを尋ねることにしよう。俺は実際はいい意味において、光明優婆塞に魅せられていたのだ。露骨に云えば
で、ある日庄三郎は、仕舞い込んで置いた紅巾を、物の間から取り出して、膝の上へ拡げて見た。
天幕の隙間から春の陽が、黄金の
いまさらながら庄三郎は感嘆せざるを得なかった。
彼は恍惚と見入っていた。これが彼の悪運であった。
一人の僧が通りかかり、何気なく庄三郎の天幕を覗いた。彼の顔色は
彼はそのまま「聖壇」の方へ、大急ぎで帰って行った。
忽ち世にも恐ろしい噂が、耳から耳へと囁かれた。
「仮面の城主の手下
「纐纈布を持っているそうだ」
「
「さあそれだから優婆塞様は、帰っておいでにならないのだ」
「これで真相がはじめて解った」
「纐纈布! 纐纈布!」
囁きは
教団中が湧き上がった。人々は兇器を手に持った。そうして庄三郎の天幕の方へ、喚きながら走って行った。
信徒ではなくて暴徒であった。それこそ血に
しかし庄三郎は知らなかった。何がそんなに信徒たちを、驚かせ怒らせたか知らなかった。
彼は天幕から引き出された。
「『聖壇』へ! 『聖壇』へ!」
モッブたちは絶叫した。
庄三郎は宙に釣るされ、「聖壇」の上へ運ばれた。
役ノ行者の大石像は、悲哀を含んで立っていた。その下へ庄三郎は据えられた。
「殺せ!」
と誰かが怒号した。
「
「
「
群衆は口々に叫び出した。
人生で最も惨酷なものは、群衆の持つ心理であろう。それには一切反省がない。
そうして今や庄三郎も、やはりそのために殺されようとしている。
しかし信徒たちの心持ちにも、同情すべきものがあった。彼らにとっては纐纈城主と、その手下どもは敵であった。肉を食い血を啜っても、飽き足りないところの仇敵であった。これまでいかに彼らの同胞が、彼らのために掠奪され、彼らのために血を絞られ、彼らのために染料にされ、纐纈布の犠牲となったか! そうしていかに彼らのために、尊い教団を破壊されたか!
信徒たちにとっては纐纈布は、死の象徴というべきであった。
それを庄三郎は持っているのである。敵の廻し者と信じたのも、決して無理とは云われない。
その上彼らは去冬以来、ほとんど常識を失っていた。そうして殺伐になっていた。教団全部が発狂していた。
もし光明優婆塞が依然として君臨していたならば、こうまで狂暴にはならなかったであろう。
悪運というものは一緒に来る! 土屋庄三郎は悪い時に悪い物を見たものである。
「これはいったいどうした事だ!」
庄三郎の心持ちは、この一語に尽きていた。何が何んだか解らなかった。ただ身に
弁解しようと決心した。
彼は石像の台石の上へ、球のように飛び上がった。
「違う!」
と彼はまず叫んだ。「纐纈城主の部下ではない! 俺はこれでも武田家の家臣だ! 土屋庄三郎昌春だ!」
不幸にも弁解は聞かれなかった。
聞かれないのが当然であった。
そうして台石から引きずり下ろされた。
「掟通りに、掟通りに!」
群集はとうとうこう叫んだ。庄三郎の運命は決定された。掟通りに処刑されなければならない。
うらうらと空は晴れていた。そこでは
そうして子供だちははしゃぎ廻わり、犬や、猫や、鶏は、
家々の窓や門口では、年を取った人達が、不安そうに話し合っていた。
そうして若い数百の男女は、往来を波のように一杯に埋め、処刑をされる若侍の、やって来るのを待ちかまえた。
やがて一隊の人の群が「聖壇」の方からやって来た。
手を縛られた庄三郎が、往来の真ん中を歩いていた。その前を行くのは僧の群であった。その左右を固めたのは、武器を提げた信徒たちであった。抜き身の槍、抜き身の
庄三郎は諦めていた。それは悲惨な心境であった。
弁解することが出来ながら、弁解することを許されない!
だがおおかたの社会なるものは、そういうものであるかもしれない。
相手は眼に余る大勢であった。刀を揮って抵抗したところで、敵すべくとも思われなかった。
それに大小も奪われてしまった。
木に昇っていた少年が、突然小石を投げ付けた。と、二三人が真似をした。みるみる小石が降って来た。その一つが
真鍮の城の
庄三郎の頭の中を、いろいろの幻影が通り過ぎた。
甲府の館。……信玄公の姿。……友人の真田源五郎。……爛漫と咲いている夜の桜。……年寄りの紅巾売り。……そうして
「父上にも母上にももう逢うことは出来ないだろう。……死! 処刑! 教団の掟! こんな所へ来なければよかった。……俺はすぐに殺されるのだ。……痛い! 小刀で突いたそうな。……いったいどこへ連れて行くのだ! 悪党どもが! 悪者どもが!」
一隊はやがて辻を曲った。それから丁字路を左へ折れた。そうしてノロノロと進んで行った。
行っても行っても群集であった。群集の顔は口ばかりであった。
またも一隊は辻を曲った。
あらゆる町々を歩くのであった。
彼は晒し物にされるのであった。そうしてそのあげくに殺されるのであった。
次第に庄三郎は
「良人を返せ!」
「子供を返せ!」
「
一筋泣き声が響いて来た。つづいて笑う声が聞こえて来た。
歩かなければならなかった。見世物にならなければならなかった。
「お父様!」と突然庄三郎は云った。「おお、お母様! お母様! どこにおいででございます! どこにおいででございます! 私はこんなに探しております! 私はこんなに探しております!」
歩かなければならなかった。
往来からは
彼は死にたくなくなった。そのくせ肉体も精神も、ほとんど死にかかっているのであった。だから死にたくなくなったのであろう。
「これは不当だ! 不当すぎる! 誤解の下に殺されるなんて!」
弁解しようと決心した。血だらけの体を引き延ばし、群集へ向かって手を振った。
「聞いてくれ、聞いてくれ、静かに聞け! 俺は土屋庄三郎だ! 去年の春だ、桜の夜だ、甲府の
ドッと哄笑が湧き起こり、彼の声を葬った。
歩かなければならなかった。
忽然眼の前が暗くなった。おお夜が来たらしい。いやいや太陽は輝いていた。夕陽が
彼の視力は弱って来た。
もう歩くことが出来なかった。と急に肩の辺りへ、恐ろしい痛みが感じられた。で、彼は小走った。彼は
無感覚になろうとした。ともすると
やがて関門の前へ出た。
富士胎内神秘境へ、一筋通っている横穴の口で、楕円を
ギーと扉がひらかれた。と、三列の
群集は従いて来なかった。
庄三郎は歩いて行った。
僧侶の群と武装した信徒が、五十人あまり従った。
黙々として歩いて行った。
道は狭く低かった。そうして左右の岩壁にはさまざまの彫刻が施されてあった。
道は次第に広くなった。そうして天井も高くなった。だが容易に尽きなかった。十里もあるように思われた。
よろめき、つまずき、また仆れ、庄三郎は歩いて行った。彼の全身は血に濡れていた。それが篝火に反射した。
どんなに苦しんで歩いたことか! そのあげく彼を迎えるものは、掟であり死であった。しかも
彼はとうとう歩き通した。
胎内最初の関門が、彼をワングリ呑むことになった。その関門には衛士がいた。
「何者?」
と一人の衛士が訊いた。
「罪人」
と一人の僧が云った。
そこで関門が内側へひらいた。
富士胎内神秘境は、こうして一隊を迎えることになった。
やがて一隊は寿相門を通り、岩石造りの楼門へ出た。
弓形の門を通り過ぎた。右へ行けば
坂を向こうへ下って行った。
この時突然庄三郎は千切れるような悲鳴を上げ、握った拳を頭上で振った。そうして
夜光虫の光で胎内の国は、
空は暗く高かった。その空の
夜光虫の光の届かない
庄三郎は死んだのではない。――死んだのなら何んと安らかであろう。――だが彼は生きていた。ただ正気を失ったばかりだ。
三人の信徒は担ぐことになった。
一人が頭、一人が胴、もう一人が足を担ぐことになった。
僧侶の群れが先頭に立ち、気絶した庄三郎がその後から続き、その左右と背後から、武装した信徒が従った。
一隊は一言も物を云わない。足音ばかりが反響した。
一筋川が流れていた。短い石橋がかかっていた。その石橋を渡って行った。
長い廻廊が現われた。白木の懺悔堂が現われた。それを過ぎると河原であった。
天工自然の大巨巌が、燐火の海に浮き出ていた。それには少しの飾りもなかった。これまでのすべての建物の中で、これが一番神々しかった。
富士教団の守護神たる、
一隊はその前を通り過ぎた。
と、遥かの薄明の中に、銀のような一筋の光が見えた。
すなわち一湾の湖水であった。
一隊はそっちへ進んで行った。
やがて湖水の岸へ来た。水は
岸は岩で畳まれていた。それが緩いカーヴをなして、左右へ遠く延びていた。
古風な
一隊ははじめて立ち止まった。それから掟が行われた。
庄三郎は信徒の手で独木船へ移された。
彼は死の湖水へ棄てられたのであった。二三人が船を押しやった。と、船は
湖水は動いているのであった。きわめて緩慢ではあったけれど、沖の方へ、沖の方へと、渦を巻きながら動いていた。
で、船は渦なりに、沖の方へ引かれて行った。
船は湖心まで引かれて行った。
そこでしばらく静まった。それから徐々に流れ出した。
船は東南へ流れ出した。
湖水は大河に続いていた。仁田四郎忠常が、究めることが出来なかったという、人穴の奥の大河こそは、湖水に源を発しているのであった。船の中の庄三郎は、まだ気絶から醒めなかった。血にまみれた顔を上へ向け、木像のように動かなかった。
船は湖水から大河へ出た。河はゆるやかに流れていた。
どこまで流れて行くのだろう? 他の大河へ合するのであろうか? それとも海へ入るのであろうか? それとも地軸へ落ち込むのであろうか?
富士の岩根を貫き流れる、名のない大河は名のないように、どこへ向かって流れるものか、今日も尚解らないのであった。
それは末無しの河なのであった。恐らくきっと地表の外へ、突然消えてしまうのであろう。
船は
もう夜光虫はいなかった。水路は文字通り闇であった。
水音が次第に高くなった。
救いの道は絶えてしまった。
船は急速に流れ出した。
船は
船の中では庄三郎が、まだ気絶から
水路は文字通り闇であった。水の音ばかりが響いていた。
富士胎内のことであった。水路の上や水路の左右は、恐らく岩か土なのであろう。そうして恐らく草木などは、一本も生えてはいないだろう。そうしてもちろん水路には一匹の魚さえ住んではいまい。水草もないに相違ない。生命ある物は一つもあるまい。水! それは流れていた! では水だけが生きていると云える。死の胎内を一道の大河が生きて駸々と流れているのだ。しかもその水の
船はしばらく速く流れた。
その中水勢が
その頃から
最初遥かの行手にあたり、蛍火のような微光が見え、船が進むに従って、その微光が色濃くなった。月夜よりはやや暗く、暁の色よりは艶がなく、
と、船は光の中へはいった。
蒼褪めた顔、落ち窪んだ眼、血にまみれた腕や足、船底に
光の中を徐行した。
光はどこまでも続いていた。すると、水路はカーヴをなして、左の方へ緩く曲った。やはり水勢は穏かであった。ほとんど瀬の音さえ聞こえない。
水路が次第に拡がった。
一つの小さい入江へ出た。それは一方の断崖が、水勢のために
船は入江の岸に添い、島をゆるやかに巡り出した。灰色の漣が島の根方を、音を立てずに洗っていた。入江の水は平らかで、油を流したように穏かであった。
もし庄三郎が気絶から覚めて、その島を
島を取り巻いている岩壁に、仏像が刻まれているからである。
それは夜光虫が動くからでもあろう、入江一杯に充たされている、蒼い光はしばらくも待たず、ちょうどまばたきでもするように、チラチラチラチラ動いていたが、その光の動きに連れて、千体仏の表情が明るく暗く変化した、今、一つの羅漢の眼が、夢見るように閉ざされた。と、同時に法衣の
船はゆるやかに巡って行った。
船の進むに従って、千体仏の数々は、それを見送り見迎えた。
仏が刻まれている限りは、刻んだ人がなければならない。では無人のこんな境地にも、住んでいた人があったのだろうか? 誰が住んでいたのだろう?
数百年のその昔、
人の知らない暗黒世界で、人に知られず努力した跡が、千体仏となって残ったのであった。
それは信仰の所産であった。
同時に意志の所産でもあった。
自己完成と衆生済度との、
とまれそこに厳然と千体仏は刻まれていた。そうしてそこは無人境であった。人の
偉大な聖者の苦心の跡は、こうして永久人に知られず、埋没されてしまうだろう。
一巡湾を廻わった後、船はようやく水路へ出た。
依然
右手の断崖の高い所から、ちょうど水路の真ん中辺へ、その滝は落ちているのであった。滝の幅は五間もあろうか、
船が滝壺に
泡沫が船底に仆れている庄三郎の体へ降りかかった。庄三郎の全身は、泡沫のために濡れしおたれ、顔から滴が流れ落ちた。
渦巻く波の圏内から、船が遠く遁がれた時、滝の音は遠退いた。
やや水勢は速まった。
船は前後に躍りながら、先へ先へと進んで行った。
滝の音が全く消え、水の流れが和んだ時、ふたたび静寂が返って来た。
蒼い光を押し分けながら、船はその旅をつづけて行った。
こうして水路は徐々に広まり、やがて水路は大河となった。そうして瀬の音が聞こえるようになった。河幅が広まるに従って、河底が浅くなったらしい。
泡沫を冠っても庄三郎は、理性を
古風な形の
と、一点の灯火が、右手の岸から見えて来た。人工の灯火だということは、火の色の赤いので察せられた。空色の面紗でも張り廻わしたように、蒼々と拡がっている夜光虫の光へ、
その灯火を中心に、一間四方の空間が、淡紅色に隈取られていた。そうしてその光に照らされながら、一人の若い美しい女が、河岸へ膝を突いていた。
何かを洗っているらしい。
白い露出した長い腕を、肘の附け根まで水へ浸し、彼女は何かを洗っていた。
一つ洗っては
十数個の能面を次々に洗っているのであった。
船はゆるゆると流れ下った。
もし彼女が眼を上げたなら、船を見ることが出来たろう。そうしたら彼女は庄三郎を、船から陸へ救い上げたかも知れない。しかし彼女は一心に手もとばかり見入っていた。そうして仕事にいそしんでいた。
で、機会は失われた。
船は河下へ流れて行った。
夜であろうか昼であろうか? もう
庄三郎は気絶していた。時もなければ場所もなかった。夜もなければ昼もなかった。
流れ流れ流れるばかりであった。
河水がにわかに量を増した。
枝川が一筋注がれていた。
そこを過ぎると淵であった。そうしてその頃から次第次第に、蒼い微光が薄れて来た。
間もなく暗黒が襲って来た。
暗黒の中を暗黒の船が、生死未詳の若者を載せて、
どの辺を流れているのだろう? 駿河国の方面だろうか? それとも甲州の側だろうか? どっちへ流れているのだろう? 東へだろうか西へだろうか?
もし時刻が真昼なら、春の日光が裾野を照らし小鳥が歌い、花が笑い、笠を傾けた旅人が、楽しそうに歩いているだろう。
そうして甲府の城下では、あの豪快な信玄公が、観桜の
だがここには生活はなかった。
寒さと闇と死と恐れとが、――それも誰にも知られずに、
船はひたすら流れて行った。
それは死への航海であった。
その時雷のような大音響が、行手の闇から響いて来た。
音のようすでその辺りに巨大な穴でも開いていて、そうして大河が
船は動揺し突き進んだ。
事実そこに大穴があるなら、もう船も庄三郎も、助かることは不可能であった。
大音響は近づいて来た。
と、闇の中にシラジラと、砕ける波の穂頭が、
船は背後へ押し返され、グルグルと二三度ぶん廻わった。そうして次の瞬間には、矢のように速く走り出した。
と、突然横へ
そうして、何という奇怪なことだろう。穏かに船は漂った。
それから静かに流れ出した。
大穴の手前数間の所に、横穴が開いていたのであった。押し寄せる水と押し返す波とが、小さな
夜光虫が巣食っているからであろう、横穴はカッと明るかった。それも
横穴はかなり狭かった。庄三郎が眼を覚まし、左右へ両手を拡げたなら、指先が届くであろうほど、幅の狭い穴であった。
そういう狭い横穴へ、ベッタリ夜光虫がくっ付いているので、それでそんなにも明るいのであった。
天井は非常に高かった。そうして水は深かった。で、空気は清らかであった。それは横穴には相違なかったが、やはりそれは水路であった。と云うよりむしろ
船は水路を辷って行った。
水路はおりから花盛りであった。そこでは「
ゆるゆる流れている船の左右、狭い高い岩壁に、高山植物や富士植物が、爛漫と花咲いているのであった。
細い触角を顫わせながら、しばらく羽虫は宙を舞ったが、ちょうど小船を導くように、水路を先の方へ飛んで行った。その水路が曲った所に、
水中には魚の家族達が、鬼ごっこをして遊んでいた。今、一つの背の赤い魚が、群を離れてつと進んだ。とたんに水藻の花が揺れた。と、その蔭から顔を覗かせたのは、母指ほどの山椒魚であった。
清らかな空気には花の香が、
お
もし神がいますなら、こういう所にいるべきであった。
川底から突起した岩のために、時々船は止められた。岩壁から差し出した花木のために、しばしば船は支えられた。
だが、やっぱり進むのであった。
水路は右へ曲り左へ廻わった。そのつど新しい風景が、船を迎えて展開した。左右の岩壁のある所は、朱塗りのように赤かった。岩の亀裂が紋様を織り、悪鬼、菩薩、少年の姿をあらわしているような場所もあった。
だが庄三郎は眼覚めなかった。見ることも聞くことも出来なかった。ただ船底に仰臥して、船が進めば進むに
船がまたもや迂廻した。
その時、遥かの前方から、意外な光が射して来た。新酒のような光であった。間違いなく朝陽の光であった。
朝陽が射し込んで来たのであった。ではその辺に
船はそっちへ進んで行った。
水の流れが急になり、小さくはあったがハッキリと、
それはある日の朝であった。
纐纈城の水門が、鈍い音と共に開かれた。
と、一隻の帆船が波を蹴立てて走り出た。
愉快そうな歌声が響き渡った。
いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
頭巾、袖無し、鳥はいぬかや大鳥は
過ぐる秋のある日のこと、彼を載っけて纐纈城へ運んだ、それと同じ赤帆の船が、纐纈城から湖水の岸へ、彼を運んで行くのであった。
甚太郎はクリクリと肥えていた。血色も好ければ艶もあった。そうしてひどく元気であった。
「おお、おお船頭どんなものだい」船の中間に頑張りながら、彼は毒舌を揮い出した。「とっ捕えたら放しっこのねえ、纐纈城ともあるものが、俺を逃がすとはどうしたものだ。……うんにゃ、違う、逃げるんじゃアねえ。へん、この俺がなんで逃げる。大威張りに送られて帰るのよ。……だがな、本当に纐纈城は、俺にとっちゃいいとこだった。ふんだんにいい着物を着せてくれて、ふんだんに旨い物を食わせてくれて、
人工の濛気は湖上から、一匹の白布を掲げたように、空を蔽って立っていた。ドンドンドンドン! ドンドンドンドン! 濛気の奥、湖水の底から、何んとも云えない不気味の音が、こう間断なく響いて来たが、血絞り機械の音であった。
船は
しかし
振り返って見ても纐纈城は、どこにあるとも解らなかった。前路を見ても足下を見ても、
進むかと思えば後へ退き、左へ行くかと思えば右へ
要害を知らせないためであった。
それにも
「……思い出しても気味が悪い。……庭を歩いていた時だ、ヒョイと上の方を見上げると、そのエテものがいたじゃねえか。赤い陣羽織に、灰色の仮面! 望楼の上からこの俺を、じっと見下ろしていたものさ。おやと思って見直すと、もうどこにもいなかったっけ。……なんだか
船はグングン走って行った。
体がビッショリ湿って来た。厚い濛気の
濛気が薄れ、水の色が見え、やがて正面の空高く富士の全身が現われた。
「ワーッ、富士だあ! お富士さんだあ!」
甚太郎は船の中で飛び上がった。
「お早う、お富士さん! いい天気ですね! 久しぶりの対面だあ。濛気の野郎に遮られて、城の中じゃ見られなかったんだからな。……帰って来ましたよお富士さん! そうだ、去年の秋だった、
甚太郎ははしゃいでまくし立てた。
「だがね、お富士さん、実のところ、
しかし富士は
弾力を持った山肌は、すがすがしい朝陽を真っ向に浴び、
樹海の緑は去年のままで、黒く鉄のように錆びていたが、間もなく新鮮な今年の葉が、新緑を
今、一団の山鳩が、竜巻のように舞い上がった。と、パッと八方へ散った。が、再び一つに集まり、灰色の翼で日光を切り、湖水の岸まで翔けて来た。と、にわかに
湖面は
そうして色も冴えなかった。ただ、元気なのは水鳥で、
そうして今や赤帆の船が、辷るように
「いい気持ちだ! 風が吹く! 暖い風だ! 春風だ!」
甚太郎は尚もはしゃぐのであった。
「船頭、頼む、廻わしてくれ! グルリと船を廻わしてくれ! 一巡湖水を廻わるのよ。帆綱を握れ!
そこで船は岸に添い、輪なりに先へ駛って行った。
「やあ兎だ! 刎ねてらあ!」
甚太郎は嬉しそうに手を
栗の木では
「おっ、変な船が流れて来らあ」
こう叫んで指差した。
古び
赤帆の船と独木船とは、次第次第に接近した。そうして素早く擦れ違おうとした。
独木船の船底に、若い侍が仆れていた。蒼褪めた顔、落ち窪んだ眼、血にまみれた腕や足、
「おお可哀そうに、死んでるよ」
甚太郎は呟いた。しかしその時は赤帆の船は、数間の先を駛っていた。
距離が
微風。日光。野花。水鳥。山上湖の春は穏かであった。そうして何事もなかったのであった。
恐らく独木船は水に引かれ、纐纈城の水門へ、横附けされるに相違ない。そうしたら水門は開くだろう。そうしたら別個の運命が、
赤帆の船は岸へ着いた。高坂甚太郎は上陸した。春の
樹海の方から聞こえて来たのは、例の鳥刺の歌であった。
いざ鳥刺が参って候
………………………
だがその声もやがて消えた。………………………
ようやく朝日は昼の日と変り、草木の露が消えはじめた。
そうして本栖湖は水鳥以外、動くもののない静けさとなった。
「俺は昔を思い出した。俺は甲府へ行って見たくなった」
夜はまだ宵ではあったけれど、纐纈城内は静まり返り、物音一つ聞こえない。
ただ一基の灯火が、部屋の中に灯っていた。
窓から舞い込んだ白い蛾が、灯火の射さない暗い床へ、クッキリと斑点を
卓の向こう側に城主がいた。
神聖とは類例ない
孤独の彼を喜ばせたのは、高坂甚太郎の来訪で、彼はそのため忘れていた血縁の親しみを感じることが出来た。で、彼は甚太郎へ、城の掟を破ってまで、自由自在の
甚太郎の奔放な行動から、彼は彼の少年時代の、奔放な生活を思い出した。甚太郎の唄う歌声から、彼は彼の少年時代の頃、よく唄った
憎人主義者の彼の心へも、いつとも知れず人情の味が、こっそり忍び込んで来るようになった。
で彼はその日頃、幸福でさえあったのである。
だがその甚太郎は立ち去った。今日の払暁に立ち去った。で再び荒涼たる孤独が、城主の心へ
なまじ慰めを見付けたのが、今の彼には苦痛であった。
「俺は昔を思い出した。俺は甲府へ行って見たくなった」
――衷心からの
しかし彼は餓えていた。充たさるべく願っていた。食を選ばない彼であった。
彼がゆらりと立ち上がった時、部屋の戸をコツコツと打つ音がした。
「はいれ」と彼は放心したように云った。
はいって来たのは万兵衛であった。
「賓客が参りましてございます」
「そうか」と放心を続けながら、「珍らしくもないな。何者だ?」
「珍らしい賓客でございます。富士教団特有の、
万兵衛は
「よろしい」と城主は冷淡に、「掟通りに、……賓客部屋へ。さて、万兵衛、船の用意!」
「どちらへお出掛けでございます?」
「船の用意だ! 水門をあけろ!」
仮面の城主は繰り返した。
二つの影が前後して、長い廊下を伝って行った。
その人影が消えた時、水門のひらく音がした。続いて帆鳴りの音がした。
この夜月は出なかった。空も湖心も星ばかりであった。
と、太鼓の音がした。答えて
それも途絶えた闇の湖を、
富士の裾野は闇であった。星ばかりが空へ穴を
纐纈布で
故郷の土地を恋しがり、故郷の人を懐しがり、甲府を差して行くのであった。
だが、はたして故郷の人々は、彼を歓迎するだろうか? 彼は
神聖とは「二つ無い」謂いであった。それは「無類」ということであった。神が「唯一」でなかったなら、決してそれは「神聖」ではない。神は「唯一」であり「一切」であり「宇宙」であるの故をもって、はじめて「神聖」と云われるのである。
仮面の城主の癩患は、世界唯一のものであった。最後に残ったその物であった。癩患はこの世に多かろう。しかし城主の癩患は、その悪性の点において、他に類例がないのであった。
仮面の城主は歩いて行った。
去年の草に溜っていた、夜露がパラパラと降りかかった。彼の両足は白い布で、隙間なくキリキリと巻き立てられていた。で寒くはない筈であった。
袍の光に照らされて、一間四方の空間が、彼を中心にして光っていた。ポッと明るい円光の中を、深紅の袍が焔のように燃え、前へ前へと行くのであった。
彼の歩みは「歩み」というより、むしろ
彼は左右へよろめきながら、前へ前へと進むのであった。
彼の着けている少将の
草を踏み分ける足の音と、時々洩らす喘ぎ声とが、次第に更けて来る夜の裾野の、たった一つの音であった。
一匹の布が焔のように輝き、その頂上の
仮面の城主は歩いて行った。
荒野が尽きて深林となり、その深林へ分け入った時、ひとしきり彼の姿が消えた。しかし間もなく一団の焔が、木と木の間を縫って行った。
白樺が彼を迎えた時、粉を吹いたような木の幹が、彼の袍に反射して、しばらく桃色に色附いた。しかし彼が立ち去ると同時に、再び闇に埋ずもれた。
暖かい人情に
林が途切れて
その禿山を向こうへ越した。
そこに
夜は容易に明けようとはしない。
彼は歩かなければならなかった。
また一団の燃える焔が、谿の斜面を這って行った。
甲府よ甲府よ懐しい甲府よ!
で、彼は上り切った。
狼が一匹眠っていた。彼は
彼の眼を覚ますものがあった。それは熱のない火光であった。彼は猛然と洞を出た。しかしすぐに背を縮め、尾を両脚の間へ入れ、耳を
産まれて初めての恐ろしいものが、その前を走るように通るからであった。
音久和の古池の縁を過ぎ、乳守の古代古戦場をも、走るようにして越えて行った。
蘆川の流れは速かった。そうしてそこまでやって来た時、東の山の端が色付いた。
「夜が明ける」
と呟いた。
しかし彼は進んで行った。
一千二百二十尺の、
と、嵐が次き出した。暁に吹く嵐であった。
新葉を
今、一陣の
そうして仮面の城主の
今や風が城主を襲った。
いままでは煌々と静かに輝いた、一道の光に過ぎなかった。しかし今はそうではなかった。今は燃え狂う業火であった。全くそれは活き不動であった。前へ前へと進んで行った。動かないものが一つだけあった。他でもない仮面であった。
やがて嵐は彼を見棄て、釈迦岳の方へ走って行った。忽ち彼の左手にあたり、同じ動揺が湧き起こった。木立から林、林から森、森から平原、平原から丘。そうして山骨へぶつかった。岩の
死んだように
動くものとては一つもなかった。
ただ一人城主ばかりが、先へ先へと進んで行った。
その頃から星が消え出した。
一番小さな屑星が、真っ先に光を失った。つづいて二つ、つづいて三つ、そうして順次に消えて行った。
東の空の水色が、次第にその色を変えて来たのも、ちょうどこの頃からのことであった。
夜の明けるにも順序があった。
まず暗い水色が、次第次第に透明になり、やがて薄い
山々の肌が
この前後から雀達が、木々の梢で啼き出した。
色と音との合奏が、いまや裾野を占めようとしていた。
空の大半が紅潮を呈し、その紅の極まった頃、一筋の
仮面の城主の纐纈の袍は、その光を
一本の
それは非常に高かった。その梢の一本の枝へ、陽の光が、
裾野は露に濡れていた。
その露が一時に輝いた。
しかし裾野は次の瞬間には、
古関、飯田、
次第に靄が上って来た。
彼の足は
人に見られるのも厭であった。
やがて滝戸山の斜面へ来た。
巨大な一座の
その蔭で彼は眠ることにした。
鉛色の少将の能面を、桜の花越しに空へ向け、後脳へ枯草を積み重ね、両足を延ばし、両手を重ね、地の上へ仰向けに寝た。
はたして彼は眠られるだろうか?
彼といえども人間であった。
それは奇怪な絵であった。――神代桜の枝垂れた枝々には、盛り切れないほど花が着いていた。そうしてその花は老いていた。で絶えず
春昼の陽は暖かかった。花を蒸し人を蒸し、大地を蒸し草を蒸した。その大地からは
花を洩れ枝を洩れ、新酒の色をした日の光は、仮面の城主の仮面の上へも、その体へも
彼は眠りに落ちていた。しかし仮面は眠っていない。表情のない魚形の眼は、表情のないままに見開かれていた。表情のないその
あらゆる種類の春の花を、受胎に誘う
と、
すると、山鳩の声がした。
と、
城主の眠りは醒めなかった。
万物は
恐るべきことが行われた。
一羽の雀が地に飛び下り、餌はあるまいかと見廻わした。と城主を発見した。そこで彼は無邪気に飛び、ピョンと城主の手に止まった。布は手の甲まで巻かれていた。出ているものは指ばかりであった。しかし、それは指だろうか? とにかくそれは三本しかなかった。爪もなければ肉もなかった。あるものはあざれた骨ばかりであった。しかも
それは「神聖な液」であった。
それへ雀がさわった時、恐るべき事が行われた。
そうしてコロリと地へ落ちた。死骸となって落ちたのである。
光と音楽との洪水が、天と地とを溺らせていた。
城主の眠りは醒めなかった。
傍らの
彼らは隠れん坊をやっていた。枝から枝を渡りながら、大はしゃぎにはしゃいでいた。
とりわけ大きな雄猿が、仮面の城主を発見した。
そこで彼は
いつも見慣れている人間とは、城主の様子が違っているので、最初彼らは不思議そうに、グルリを
その中に例の大猿が、忍び足をして這い寄った。そうして
やはり城主は動かなかった。
あまり相手が
十分あまりも経っただろうか、
痙攣!
世界唯一の
城主の眠りはさめなかった。
自然の美しさには変りなかった。遥かの山の中腹を、大鹿の列が走って行った。
纐纈布の赤袍が、ふたたび焔のように輝く時刻になった。
一つ一つ星が生れて来た。
その時城主は眼をさました。そうしてやおら立ち上がった。
それは一本の火柱が、ノビノビと上へ延びたようであった。その頂きに顔があった。
「甲府へ」
と彼は呻くように云った。
火柱はのろのろと動き出した。それが次第に速くなった。
なつかしい故郷の呼び声がした。急がなければならない。急がなければならない!
鍛冶屋街道に添いながら、城主は飛ぶように走って行った。
「おや、光物が通って行く!」
「おや、火柱が走って行く!」
「悪い事があるに違いない!」
「神様よ、お守りください!」
彼らのある者は祈ったかも知れない。
「甲府へ!」
と城主は呻くように云った。
そうしてひたむきに走って行った。
甲府の人よ、気を付けるがいい! 「神聖な病気」が入り込もうとしている。いそいで門を
信玄の威力をもってしても、恐らくこればかりは防ぐことは出来まい。馬場、山県、真田、高坂、これらの人々の智謀をもってしても、こればかりはどうにも出来ないだろう。御親類衆、御譜代家老、
上杉、北条、今川、織田、これら敵方の勇士より、仮面の城主を恐れなければならない。
仮面の城主は走って行った。
浜、落合、小湊も過ぎた。笛吹川もついに越した。山城、下鍛冶屋、小瀬、下河原、住吉、小河原、
と、遥かの前方に、甲府の城下の灯火が見えた。
「故郷!」
と城主は
「故郷!」
と彼はもう一度云った。
永禄二年春以降、大いに甲府に
しかしどういう径路をとり、どういう有様に流行したかは、知る人きわめて少いだろう。
花嫁の行列が通っていた。甲府城下の夜であった。
行列は辻を曲ろうとした。と、
その時、火柱の主が云った。
「故郷の人。……祝福あれ!」
そうして花嫁へ手を触れた。それは愛撫の手であった。
そこで花嫁は恐る恐る云った。
「神様、ありがとう存じます」
火柱の主は辻を曲り、深紅の光は見る見る消えた。
ふたたび行列は進むことになった。
と、花嫁が呻くように云った。
「体を虫が這うようだ」それからさらに花嫁は云った。「ああ体中が燃えるように熱い。……ああ、両
だが人々は祝し合った。
「神様がお祝いなされたのだ」
「めでたい婚礼だ。めでたい婚礼だ」
「お顔を見たか! 神々しかったことは!」
「お体から後光が射していた」
しかし花嫁は呻きつづけた。二町あまりも行った時、急に前のめりに
その時、花嫁の綿帽子が取られた。
そこには花嫁の顔はなく、見も知らないところの妖怪の顔が、婚礼の晴着の
その顔色は鉛色であった。無数の紫の斑点が、
十本の指が鉤のように曲がり、十個の爪は跡さえなかった。みんな抜け落ちたのである。手にも足にも水腫があった。
見る見るうちに眉が
だが彼女は死んだのではなかった。意識は非常に明晰なのであった。しかし全身は麻痺していた。
彼女は「ヒーッ」と悲鳴を上げた。神経痛が襲ったからである。
三年五年ないしは十年、さらに長きは二三十年の間に、徐々として行われる腐肉作用が、一瞬の間に行われたのであった。奔馬性癩患の性質であった。
彼女はもはや花嫁ではなかった。恋婿を棄てなければならなかった。家を棄てなければならなかった。
彼女を抱いていた老人は、悲鳴を上げて手を離した。
提灯の火がバラバラと散った。
婚礼の行列は四散した。
呼び合う声ばかりが入り乱れた。
第二の犠牲者は老人であった。彼は花嫁を抱いたばかりに「神聖な病い」に取りつかれた。
眉毛が抜け睫毛が抜け、紫斑と水腫と結節とが、彼の姿を醜いものにした。
三番目の犠牲にあげられたのは、不幸な老人の妻であった。
その時闇の夜を明るく照らし、一団の提灯が走って来た。変を聞き知った花婿が、家族と一緒に走って来たのである。
花婿は礼装で身を飾っていたが、地に仆れている花嫁を抱いた。が、あまりの恐ろしさに、抱いた花嫁を投げ出した。
見る見る彼の男らしい姿は、恐ろしい姿に変って行った。そうして花嫁と折り重なり、癩人として
さわってはいけない病気なのであった。それは「さわるな」の病気であった。
花嫁とそうして花婿との親は、めいめい子供達を介抱した。
で、親達も「さわるな」にさわった。
こうしていずれも同じ運命となった。
それは恐怖の夜であった。かつて一度も
たった一晩のその中に、幾十人人が仆れたろう。
病人が病人を
呻吟の声、
夜はもうかなり深かった。そうして今夜は月がなかった。星の数さえまばらであった。
信玄公のお館ばかりは、寂然と静まり返っていた。
夢見山は東南に聳え、
山々は黒く落ち着いていた。
だが町々は発狂していた。
それは「赤の恐怖」であった。
群衆の逃げる音がした。それが家々へ反響した。何かに驚いて逃げるのであった。
と、また集まる足音がした。大勢
「どこへ行った?」
「どこにいる?」
「何んだ何んだ! 何があったのだ!」
雨戸がバタバタと開けられた。窓がガラガラと開けられた。
反対に雨戸の閉じる音がした。
雲を洩れた大きな星が、お濠へ影をうつしていた。
一人の武士が鍛冶小路を、お館の方へ走って行った。
と、曽根屋敷の土塀の蔭から、一人の武士が走り出た。
「待て!」
「何を!」
「待て!」
「黙れ!」
突然刀が抜き合わされた。
間もなく「あっ」という声がした。一人の武士が切り
「桝形東馬だ。俺の親友だ。……何んのために俺は殺したんだ。……何んだか知らない。恐ろしかったからだ。……俺は生きてはいられない。……腹を切ろう腹を切ろう」
大地へ坐って腹を切った。
赤の恐怖の
一軒の家では掴み合っていた。一軒の家では泣き喚いていた。
何かが、そうだ、恐ろしい何かが、潜入したに相違ない。
だがやがて夜があけた。
憐れな行列が通って行った。
花嫁姿の若い女が、顔へ四角の白布を下げ、よろめきながら先に立っていた。つづいて若い男が行った。花婿姿は派手やかであったが、やはり白布で顔を隠していた。後に続いて数十人の人が、一様に顔を白布で隠し、あるいは這い、あるいはいざり、またはノロノロと歩いて行った。
指のもげた者、片足欠けた者、腕の取れた者、耳の腐った者――一夜で出来た癩人であった。
家を見捨て、故郷を
と、
それが家々に反響した。
どんよりと空は曇っていた。
と、また鉦がチーンと鳴った。
城下外れの街道を、ノロノロと行列は
犬が吠え、鶏が啼き、田家からは炊煙が立っていた。畑には菜の花が盛りこぼれていた。
行列の唄うご詠歌が、次第次第に遠ざかって行った。帰るあてのない旅であった。
ご詠歌の声は遠ざかって行った。
不安の一日が暮れた時、恐怖の夜が襲って来た。
夜の城下は陰森と
深夜
その時、お
次第に光は赤味を加え、やがて焔々たる火柱となった。土屋右衛門の屋敷の方へ、土塀に添いながら進んで行く。
依然無表情の少将の
信玄の居城、甲府の城下を、祝福しようそのために、仮面の城主が現われたのであった。
「なつかしい故郷! 恋しい甲府! 俺の祝福を受けてくれ!」
「そんなに甲府はひどいのか。俺にとっちゃあ初耳だ」
こう云ったのは
ここは富士の三合目であった。
火が
今日はお山は曇っていた。空気も変に湿っていた。で小鳥達も
「お話にも何んにもなりゃあしない。
春とは云っても寒かった。竈の
「火柱が立つっていうのだな」陶器師は好奇的に訊いた。
「そうだ、毎晩立つそうだ」
「そいつが悪病の主なのだな」
「うん、そうらしいということだ」
「お前見たのか、火柱を?」
「幸か不幸か見なかった。……目ぼしい仕事はあるまいかと、甲府の城下へ行ったのだが、今からちょうど十日
薪兵衛はここで苦笑した。
「
「え、何んだって、信玄の首? 冗談じゃあねえ、何を云うんだ。そんな
「怨みはなくとも手柄になる。日本第一の豪の者、世間から折り紙を附けられる。故主へ帰ればお取り立て、一万二万の知行になる」
「駄目だ駄目だ」と薪兵衛は、不器用に左右の手を振った。
「第一俺は帰参して、知行を貰おうとは思わない。今の身分で結構だ」
「ふん」と陶器師は鼻を鳴らした。「十人の泥棒の頭でか」
「だがお前よりは偉い筈だ」
「なるほど、俺には手下はない」
「一人ぼっちとは気の毒なものさ」
「俺には俺の考えがある」
「聞きたいものだ。どんな考えかな」
「俺には自信があるからよ。それから俺は人間が嫌いだ」
「人間が嫌い? これは面白い。ではサッサと死ぬがよかろう」
すると陶器師は笑いもせず、
「そうだ、俺は人間が嫌いだ。だから俺は養生して、うんと長生きをするつもりだ」
薪兵衛には意味が解らなかった。黙って竈の火を見詰めた。
と、陶器師は何気なく云った。
「ひどく斬りよいな、お前の首は」
薪兵衛は思わず身顫いした。
「何を云うのだ。気味の悪い奴だ」……あわてて首を引っ込ませた。
「死その物は恐ろしくない」自分で自分へ云うように、穏かな口調で陶器師は云った。
「死の連想が恐ろしいのだ。……そうして本当に恐ろしいのは、生きているということだ。……死の連想に
チラリと陶器師は空を見た。
空は一様に灰色であった。
今は真昼に相違なかった。
だが太陽は見えなかった。
「信玄も困っているだろう。いかに戦は強くとも、悪い病気には勝てまいからな」
「そうだ」と薪兵衛は頷いた。「
「不レ動如レ山、この旗標も無効かな」
「それに上杉が兵を出して、国境へ逼ったということだ」
「そうか、いよいよ面白いな」
「北条殿も兵を出し、やはり国境へ逼ったそうだ」
「ううむ、そうか、北条殿もな」陶器師は妙に息苦しそうに、
「殿には益々元気らしいな。……お互い浪人して久しいものだ」
「だがあの頃は窮屈だった。……懐しいとは思わない。……今の身分が一番いい。……お前はどうだな思い出すかな?」
薪兵衛の口調は
「俺か」と陶器師は物憂そうに、「思い出すまいとしているのさ」
「アッハハハそうだろうて」薪兵衛は益々揶揄的になった。
「ある人にとっては思い出は、ひどく楽しいということだ。お前にはそうでもないらしいな。だがこれはどうしたことだ。北条家の北条内記といえば、立派な家柄の武士ではないか。侍大将の筆頭で、しかも主君とは縁辺だ。非常な勇士で武道の達人、殿のお覚えめでたかった筈だ。いいことずくめのお前だった筈だ。昔思えば懐しい。こういかなければならない筈だ。それだのに思い出は苦しいという。
毛利薪兵衛は面白そうに、後から後からと
「さて、ところで、ここに一つ、お前に聞かせてえことがある。他でもねえ居場所だ。密夫密婦の居場所だ。チラリと俺は聞き込んだ。どうだどうだ聞きたかろう。甲府の城下で聞いたのさ。よかったら聞かせてやってもいい。が、只じゃあ
「おいどうした、陶器師殿、
恐ろしく薪兵衛は愉快そうであった。
同じ家中にいた頃は、身分の相違で圧迫され、同じ
だが陶器師は動じなかった。右手を敷いて枕とし、左手を自然に脇腹へ置き、眼を
「薪兵衛」と陶器師は不意に云った。それは落ち着いた声であった。氷のように冷たかった。だが一脈凄気があった。
「お前のためだ、
「何を?」と薪兵衛は憎さ気に云った。「まだお前は威張る気か」
「古傷をつつくと破れるぞ」
「おおさ、お前の古傷がな」
「いけない、いけない
「気の毒なものさ。可哀そうなものさ」
「血は復讐する。気を付けろよ」
「それがどうした。なんのことだ」
「古傷をつつくと破れるぞ」
「と、
「血は復讐する、気を付けろよ」左手を腹まで下ろして行った。
だが薪兵衛は気が付かなかった。
「三合目殿、さてさて出し惜みをする奴だな。よしよしそれでは只で話す。……甲府で聞いた物語、夢のような話だが、根のねえことでもなさそうだ。甲斐と信濃の国境、富士見高原のどん詰り、八ヶ岳の
陶器師はやはり動じなかった。
しかし左手は徐々に動いた。一寸二寸と動いて行った。いつか腹から辷り落ちた。土を指先で探りながら、足の方へと動いて行った。
薪兵衛はそれでも気が付かなかった。
いささか彼は張り合いが抜けた。
あんまり相手が冷静なので、
「いいないいな、いい商売だ。密夫商売気に入ったな。そこで俺らも探すとしよう。間抜けた亭主はなかろうかな。お前のような亭主がよ」
「薪兵衛」
とその時陶器師が云った。押し付けたような声であった。
「なんだなんだ、何か用か」
薪兵衛は唇を舌で嘗めた。
「俺は寝返りを打とうと思う」
「え、寝返り? 何んのことだ?」これには薪兵衛も
「薪兵衛、だからそこを
「何を!」と薪兵衛は
「俺は
「富士教団の教主にか」
「そうだ」と陶器師は冷静に、
「俺はそいつをとっちめてやった」
「俺とは関係のねえことだ」
「が、この俺もとっちめられた。
「それがどうした。どういう意味だ」
こう云いながらも気味悪そうに、
「そこへお前がやって来て、俺の古傷を
「気の毒だな。苦しいだろう」
「で、寝返りを打とうと思う」
陶器師の手は動いて行った。刀の柄から二寸の
「おい」と陶器師はまた云った。やはり冷静の声であった。「俺の眼を見ろ、開いてはいまい」
まさしくその眼は
ゴロリと陶器師は寝返りを打った。
刀がスルリと引き抜かれ、腰から逆に上の方へ、しかも左手で輪が描かれた。曇天で陽の光が射さなかった。で、ピカリとも光らなかった。
突然「わっ」と悲鳴が起こった。
陶器師は立ち上がった。
小鳥がにわかに啼き出した。
別に風が吹いたのではない。
それが真赤に
血に浸されているのであった。
一つの死骸が転がっていた。まことに
切り口から血汐が流れていた。さも愉快そうに吹き出していた。首は一間の
無心に陶器師は立っていた。何んの変ったこともなかった。
「だが」と彼は嬉しそうに云い、右手を後脳へ持っていった。
「いい気持ちだ、この辺が。詰まっていた物が取れたようだ」
死骸の側へ寄って行き、死骸の袖で刀を拭い、バッチリ鞘へ納めてしまった。それから死骸の両足を掴み、釜の側まで引き擦って行った。片手で釜の蓋を取った。と湯気が立ち上った。ザンブリ死骸を投げ込んだ。つづいて首を投げ込んだ。それから釜の蓋をした。
「さて」と彼は考え込んだ。「どっちへ行ったらよかろうな? ……まずともかくも甲府へ行こう。それから八ヶ岳へ行くとしよう。……存分人が斬れそうだぞ」
彼はスタスタ山を下った。
ちょうど同じ日の事であった。
鍛冶屋街道を甲府の方へ、二人の老人が
同じような年恰好、同じように道服を着、そうして二人ながら長髪であった。
一人は小太刀、一人は木刀、いずれも腰に
木刀の主が塚原
「気の毒だな、俺が持とう」蔵人は薬箱へ眼をやった。
「それには及ばぬ俺が持つ」卜伝は薬箱を揺すり上げた。
街道の左右の耕地では、カッと菜の花が咲いていた。曇天だけに色が冴え、
二人は甲府へ行くのであった。
富士の裾野鍵手ヶ原、直江蔵人の療養園へ、この数日来癩患者が、十人二十人と詰めかけて来た。蔵人はすっかり驚いてしまった。そこで彼は彼らに訊いた。そうして甲府の乱脈を知った。悪病の主? 火柱の怪! 彼はそれらを知ることが出来た。
「ははあ
早くも彼は直覚した。
「しかし奔馬性癩患は、根絶やしになっている筈だ」――そこで彼は癩に関する、色々の文献を調べて見た。
「
風論篇に記されてあった。
「その恐ろしい奔馬性癩患、根絶やしになった筈の悪疫が、どうして今頃現われたのだろう?」
蔵人には不思議でならなかった。
そこで彼は甲府へ行き、ともかくも様子を見ることにした。
この頃塚原卜伝は、蔵人のために説服され、忠実な蔵人の
で、今歩いているのであった。
雨になりそうな空模様であった。
「蔵人」と卜伝は話しかけた。「薬はないのか、癩を
「さあ」と蔵人は
「癩の種類は多いのか?」
「いや大して沢山はない。
「案外長命だというではないか」
「病勢が遅々として進むからだ。だが奔馬性癩患は、二十年三十年の道程を、あたかも奔馬の勢いをもって、一瞬の間に経過する。だから非常に恐ろしいのだ」
益々空は曇って来た。
二人は少しずつ足を早めた。
「だが結局は死ぬのだな」
「あらゆる病人が死ぬようにな。あらゆる人間が死ぬようにな」蔵人は一向平気で云った。「脳や内臓を犯された時、癩患者はコロリと死ぬ。しかし俺から云わせると、あらゆる病気は甲乙なしに、同じように恐ろしいものだ。ただ癩患は醜くなる。そこで人が
日が次第に暮れて来た。
降りそうでなかなか降らなかった。
甲府はまだまだ遠かった。
住吉宿まで来た頃には、日がトップリと暮れてしまった。月も星もない闇夜であった。
と、卜伝が耳を
「はてな?」と彼は口の中で云った。「蔵人、お前先へ行け」
「何故だ?」と蔵人は訊き返した。
「並んで歩いては
で、蔵人は先に立った。
「よいか、蔵人、云っておくが、
「よし」と蔵人は忍び
卜伝は木刀へ手を掛けた。が、何事も起らなかった。二人は足早に進んで行った。
スルリと卜伝は木刀を抜いた。いわゆる春の夜の花明り、闇とは云っても
「カーッ」
と一声声を掛けた。
声は二町も響いたろう。
「もうよかろう」と卜伝は云った。それから木刀を腰へ差し、薬箱をユサリと揺すり上げた。
「いったい何んだ?」と蔵人は訊いた。
「さあ、それが解らない。とまれ凄じい殺気だった。俺もちょっと恐ろしかった」
「誰か俺達を狙ったのか?」
「そうだ、それだけは疑いない」
「そんなに
「業も業だが」と卜伝は、ちょっとその声を
「あの掛け声は極意かな?」
「極意というようなものではない。剣の極意なんてつまらないものだ。ただカーッと叫んだまでだ。敵の心を反らせたに過ぎない。禅の一喝と思えばいい」
「ははあ剣禅一致だな」
「うむまずそういったところだろう。だが本当はそう云ってはいけない。剣も禅も何もない。ただカーッと掛けたまでさ」
「面白いな、気に入った」
二人はズンズン歩いて行った。
畔宿を通り南池を過ぎ、二人はようやく甲府へはいった。
鍛冶屋街道住吉の
彼はホーッと溜息をした。
「浮世は広い。偉い奴がいる。カーッと掛けられたあの気合い、雷に打たれたようだった。あいついったい何者だろう? 一見ヨボヨボの爺だったのに。……ああまだ耳に残っている」
抜き身をソロソロと鞘へ納めた。
「光明優婆塞と今の爺、斬れなかったのは二人だけだ」
彼はノロノロと歩き出した。
「あいつらも甲府へ行ったらしい。……甲府へ行くのが恐ろしくなった。……だが素敵な楽しみだとも云える。巡り合ってただ一討ち、どうがな斬って捨てたいものだ。さぞ腕が上がるだろう。さぞ度胸が坐るだろう」
彼はガタガタ顫え出した。血を予想した武者顫いであった。
で、一散に走り出した。
甲府城下へ入り込んだ。
この夜信玄の
広間正面へ並んだのは、武田典厩、武田逍遥軒、武田勝頼、一条右衛門、武田兵庫、穴山梅雪、以下十一人の親類衆で、馬場美濃守、内藤修理正、山県三郎兵衛、高坂弾正、小山田弥三郎、甘利三衛尉、栗原左兵衛、今福浄閑、土屋右衛門尉、秋山伯耆守、原隼人佐、小山田備中守、跡部大炊介、小宮山丹後、すなわち御譜代家老衆は、その左側に控えていた。真田源太左衛門、真田兵部、すなわち信濃
御曹司様衆と称された、貴族の若殿の一団も、前髪姿で控えていた。
この他槍奉行、旗奉行、御蔵奉行、御料人様衆、御小姓衆、御しょう堂様衆、御
わざわざ領国から夜を日に継ぎ、馳せ参じた者もあった。
信玄は脇息に倚りかかりながら、上段の間に坐っていた。傍らに快川長老がいた。白須法印、日向法眼、二人の奥医師が引き添っていた。
一座
思案に余っているのであった。
上は信玄から下は茶堂、身分の高下を取り去って、一堂に集めて
で、寂然と声もなかった。
この時ドッと
「また押し寄せて来たそうな」
「そんな様子でございますな」
快川長老がこう云った。「考えて見れば憐れなもので」
「さりとて城門を開けることはならぬ」
「さよう、あけたところで無意味でござる」
館の大門は四つとも、数日前に
癩患者の潜入を恐れたからで、またやむを得ない政策であった。しかし城下の人々は、それを無慈悲だと
ふたたびドッと鬨の声が上がった。表門へ寄せて来たらしい。
「これ」と信玄は不安そうに、「どうせ評定は永くなる。固めの方が肝腎だ。持ち場持ち場へ帰るがいい」足軽大将の居並んだ方へ、
足軽大将は十六人の中八人がやおら立ち上がった。
横田十郎兵衛は表門へ、大熊備前守は裏門へ、三枝勘解由左衛門は西門へ、曽根十郎兵衛は東門へ、市川梅印は中
後はまたもや
どこからか風が吹き込むと見え、一斉に紙燭の灯が流れた。信玄の大きな影法師が、床の間の壁でユラユラと揺れた。
にわかに信玄が驚いたように云った。
「道鬼が見えぬ、道鬼はどうした?」
「は、山本道鬼殿は、お屋敷においででございます」
小姓の真田源五郎が云った。
「これは呆れた、どうしたと云うのだ。これほどの大事な評定に、道鬼が不参しようとは。源五郎迎えに行って来い」
「いや」と云ったのは譜代の筆頭、馬場美濃守信勝であった。
「道鬼殿は参りますまい」
「何故だ」と信玄は眼を見張った。
「いつも同じような無駄評定、参ったところで仕方がない。道鬼殿はかよう申されました」
「なに、無駄評定だと? 不届き千万!」信玄の眉はキリキリと上がった。
「実は私も道鬼殿の、そのお言葉には賛成なので」美濃守は平然と云い切った。
「ふうむ、お前も賛成か。無駄評定と思うのか」信玄は厭な顔をした。
「まずさようでございます。奔馬性癩患は不可抗力、患者を捉えて隔離する以外、他に手段はございません。それより国境に押し逼った上杉、北条の軍勢を打ち破らなければなりますまい。道鬼山本勘助殿も、さよう申されておりました」
「何んの」と信玄は嘲笑うように、「謙信はともかく氏康なんど、一蹴するに手間暇いらぬ。道鬼を呼べ! 道鬼を呼べ!」
「それに道鬼殿は一心こめて、戦車考案中でございます」
「うん、それも知っている。が、急場の役には立たぬ。源五郎行って呼んで来い!」
「は」と源五郎は小走って行った。
その時大きな笑い声がした。
信玄は
「殿」と長老は
「なぜな?」と信玄は
長老はいよいよ揶揄的に、
「殿の様子を見ていると、火の子が
信玄は不機嫌な顔をした。だがいささかテレたようであった。
「それほどの大事だ、
「周章てて何んになりますな」
長老は益々揶揄的になった。
信玄は頬をふくらませた。脂肪太りの
突然彼は吠えるように云った。
「憎い奴だ! 火柱
隣室に詰めていた蜈蚣衆、その頭領の
当時
それほど用心しないことには、細作として
琢磨小次郎は琢磨流の始祖、容貌年齢は解らなかったが、身体は小さく
「小次郎」と信玄は声を掛けた。「その方達一度に繰り出して、悪病の主を引っ捉えろ」
無言で
「
「おおそうか、それは勝手だ」
辷るように小次郎は退出した。
またもや後は
門を叩く音がした。
それを
「いいところへ気が付いた。小次郎奴うまく捉えるかもしれない」信玄は
「法印法印、白須法印」
六十を過ごした奥医師の、白須法印は手を仕えた。
「座中を見廻わせ、この座中を。どうだ癩患者はおるまいな」
法印は
「はい、おりませんでございます」
「俺の顔を見ろ、俺の顔を。どうだ癩患ではあるまいな」信玄は顔を突き出した。
「はい、大丈夫でございます」法印は軟かく苦笑した。
やはり信玄は不安らしかった。
「法印法印」とまた呼んだ。「症候は何んだ、最初の症候は?」
「はい」と云ったが法印は、いよいよ軟かく苦笑した。「まず蟻走と申しまして、顔や手足を蟻が這うような、厭な気持ちが致します」
「待て待て。なるほど、蟻走感、そういえばちょっと痒くなったぞ」
快川長老が哄笑した。
「ええとそれから眉毛睫毛が、少しずつ脱けて参ります」
「どれどれ」と信玄は眉を引っ張った。「いや大丈夫だ、脱けはしない」
快川長老が哄笑した。
「ええとそれから額や頬に、境界不明の紅潮を呈し……」
「で、俺はどうだろう?」
「殿は満面朱色を呈し、よいご血色でございます。……それから次第に顔が崩れ……」
「もういいいい。気味が悪い」信玄が
快川長老が哄笑した。
そこへ源五郎が戻って来た。
「戦車の模型出来上がり、殿のご覧に供したければ、こっちへおいでくださるようにと、道鬼様かよう申されました」
「や、本当か?」
と信玄は云った。それからゲラゲラ笑い出した。
「道鬼奴、偉いことを
ヒョイと立つと走って行った。
快川長老が五度笑った。
「いや今夜は面白かった。今夜ほど殿の天真が、流露したことはないからな。まるで子供だ、駄々っ児だ。それがいいのだ。結構結構。……先刻までは癩患が
だが、この夜城下では、
「……ね、
「来やあしないよ、来るものか」
これは老人の声であった。どこにいるとも解らなかった。女の側にいるのかもしれない。少し離れているらしい。夜の闇が彼を包んでいた。
「来ない筈はないわ、来ますとも」女の声は繰り返した。
「おや、大きな星が出たよ」
これは子供の声であった。子供の姿も解らなかった。だが抱かれてはいるらしい。その母の膝の上に。
「ああ駄目だ、消えてしまった」
「ね、妾は思うのよ、お助けが来る、お助けが来るとね」女の声は云いつづけた。「来ない筈はないじゃあありませんか、こんなにこんなに苦しんでいるのに」
「黙っておいで」
と別の声が云った。若い男の声らしかった。
「もう沢山だ! もう沢山だ! もうそんな事は思わないがいい」
若者の声は絶望的であった。若者の姿も解らなかった。女と向かい合っているらしい。どうやら女の
月も星もない闇の空が、その人達を
戸を叩く音が聞こえて来た。
トン、トン、トン。……
トン、トン、トン。……
栗原兵庫の屋敷らしかった。
ザワザワと風の渡る音がした。
「寒いよう」
と子供が云った。「お母様! お母様! 寒いよう」
「ね、妾は思うのよ、お助けが来る、お助けが来るとね。ああ妾には眼に見える。紫の
誰も返辞をしなかった。闇が四人を包んでいた。
と、若者の声がした。
「気の毒なお前、思わないがいいよ。俺は何んにも信じない。この浮世には救いはない。ましてそんな奇蹟はね」
若者の声は湿って来た。
「俺は、俺は、こう思うのだ。成るなら皆んなが成るがいい。うんそうとも病気にな。怨みっこなしに誰も彼もな」
にわかに憤りの声となった。
「何故城門を閉じたんだ! 何故あいつらだけ
また咽ぶような啜り泣きとなった。
その泣き声は長く続いた。
一本の細い蒼白い棒が、
「寒いよう」
と子供が云った。
桜の花の季節であった。しかし甲府は寒かった。四方山に囲まれていた。いわゆる甲府の盆地であった。山々には雪が残っていた。夏暑く冬寒かった。三更を過ごした深夜であった。地面から湿気が立ち上っていた。
と、足音が近付いて来た。
啜り泣きの声が急に止んだ。
「おい誰だ? そこへ来たのは?」
すると足音がすぐ止まった。
「そういうお前は何者だ?」
足音の主が訊き返した。
「病人だよ、病人だよ」
「ああそうか、俺も病人だ」
で、足音は近付いて来た。
「仲間にしてくれ、俺は寂しい」
新来の病人は
「ああいいとも、一緒にいよう」
これで話は絶えてしまった。
誰の姿も解らなかった。
溜息ばかりが闇に散った。
突然女の悲鳴がした。長坂屋敷の方角からであった。若い女が犯されたらしい。
だがそれも一声で止んだ。
と、鉄砲の音がした。神明の社の方角からであった。お
五人の者は
甲府城下そのものが、臭気と
その時またも子供が云った。
「お母様、お母様、寒いよう」
絶え入るような声であった。
と、新来の病人が云った。
「どれ、
人の立ち上がる
「おや、ここに土塀がある。……おやここに門がある。……いったい誰の屋敷だろう?」
若者の答える声がした。
「一条様のお屋敷だよ」
「ああそうか、右衛門様のな」
板切れをひっ放す音がした。
「おい、お若いの、手伝ってくれ」
「何をするのだ? え、何を?」
「うん、焚物を目付けたのだ」
「枯木でもあるのか? 枯木でも?」
「土塀の屋根だ。構うものか」
「うんそうとも、構うものか」
若者の立ち上がる気勢がした。
屋根をひっぺがす音がした。屋根板を投げる音がした。しばらくそれが継続した。
「もうよかろう」
「うんよかろう」
二人の
「だが」と若者の声がした。「俺は
「いや、俺が持っている」
新来の病人の声であった。
カチカチと火を切る音がした。火の粉がパッパッ闇に散った。
と、ボーッと燃え付いた。
焚火の上へ
杓子のような腕と並んで、枯木のようなものが突き出ていた。だが、それも腕であった。肘の辺から指先まで、ベッタリ
それは新来者の右の腕で、左の腕は見えなかった。だがその右腕と並行し、左の腕のあるべき位置に、着物の袖ばかりがブヨブヨと、火気に
新来の病人の手のない袖の、左側に並んで突き出されているのは、普通の人間の腕から見て、二倍も太い腕であった。肘から指までがギッシリと、大小の
老人の腕のすぐ側に、小さい子供の手があった。これだけは人間の手であった。その手は時々
子供を抱いている母親の両手は、布で隙間なく巻かれていた。
火は元気よく燃えていた。
しかし高くは燃え上がらなかった。そして燃え上がっては困るのでもあった。火柱の主と誤られ、鉄砲を打たれる恐れがあった。二尺ぐらいしか燃え上がらなかった。
火を
どんなに火の光を洩らすまいとしても、絶対には防ぐことは出来なかった。しらじらと
彼らの一団とやや離れて、巨大な門が立っていた。その
門の左右は土塀であった。土塀は白く塗られていた。それが火の光に浮き出していた。巨大な
五人は五人ながら黙っていた。
遠くで破壊の音がした。
と、近付いて来る足音がした。
ギョッとして人達はそっちを見た。老人だけが見なかった。それは彼が
闇の中から人の声がした。
「火があるようだ。あたらせてくれ」
光の圏内へはいって来た。それは犬のような動物であった。がやはり人間ではあった。
火の側にいた若者が云った。
「お仲間だね、さあおあたり」
その若者の顔と云えば、さながら
「有難う、有難う」
四ん這いの男はいざり寄った。有難うとは云ったものの、声は言葉を
こうして一人仲間が増えた。
が、みんな黙っていた。
パチパチと火の粉が四散した。その一つが飛んで行って、女のはだけた
女の胸には乳房がなかった。乳房のあるべき位置の辺りに、椀ほどの穴が
焚火の勢いが弱くなった。片腕の男がその腕を延ばし、側に積んであった屋根板を、苦心して掴んで火へくべた。
パッと焔が高く上がった。ひとしきり皆んなが輝いた。
女の膝に子供がいた。母の胸へ後脳をあて、眼を閉じて眠りに入りかけていた。五歳ばかりの子供であった。濃い
母親が子守唄をうたい出した。小さい声ではあったけれど四辺がひっそりと静かなので、遠くまで響いて行くようであった。昔は美人であったろう、いや今でも彼女の顔は、片耳欠け落ちているばかりで、その美しさを保っていた。特にその眼が美しかった。信仰を持った人の眼であった。奇蹟を待つ人の眼であった。
彼女は子守唄をうたいながら闇の空を眺めていた。
おいでなさりませ神様よ
どうぞご神水をくださりませ
これが彼女の子守唄であった。どうぞご神水をくださりませ
みんなの様子は親しそうであった。
とまた闇の中から足音がした。
「火があるね、あたらせておくれ」
で人達は空席を設けた。
その男はそこへ割り込んだ。その頭には毛がなかった。銅のようにテカテカ光っていた。
とまた闇の中で足音がした。一人の出家が現われた。千切れた
こうして次第に癩人達が、焚火の
十四五人の人数となった。彼らはポツポツ話し出した。
「まだ今夜は出ないそうな」
頭巾を冠った癩人が云った。
「
十八九の癖に
「道鬼様、道鬼様、道鬼山本勘助様、ああいう偉いお方にも、どうすることも出来ないのかな」
誰とも知れずこう云った。
「工場の仕事で夢中だそうな」
誰とも知れずこう云った。
「新兵器のご製造か。……が、そいつが出来上がった頃には、甲府に人種がなくなるだろう」
笠を冠った癩人が云った。その癩人は肥えていた。
「
山伏姿の癩人が云った。指が
「働いても働いても食えなかった。昔はね、昔はね。ああ今は働くことさえ出来ない」
蔭の方で誰かが云った。
「可愛がっていた女も癩になったよ。ヒ、ヒ、ヒ、……ヒ、ヒ、ヒ」
笑う声が聞こえて来た。
誰も何んとも云わなかった。
闇は益々濃くなった。寒さはいよいよ強くなった。
と、突然
次第次第に静まった。また
しかし普通の静寂ではなかった。底に無限の恐怖を湛えた、それは一時的の静寂であった。
焚火は
と、一人が立ち上がった。土塀の側へ歩いて行った。屋根板をむしる音がした。二三人が立ち上がった。土塀の側へ歩いて行った。そうして仕事を手伝った、で、円陣に空が出来た。そこから火の光が土塀の方へ射した。
やがて人達が帰って来た。円陣の空が
シクシク泣く声が聞こえて来た。
誰もそっちを見るものがなかった。
「さようなら」
と云う声がした。
「
一人の癩人が立ち上がった。
光の圏内から抜け出した。
みんな何んとも云わなかった。
こうしてしばらく時が経った。
一人の癩人が振り返った。老婆が行った方を隙かして見た。と、彼は呟くように云った。
「……あそこに桜が咲いている。……太い枝が突き出ている。……白い物が散っている。……何か枝へブラ下がっている。……婆さんが首を吊ったらしい」
誰も何んとも云わなかった。身動き一つしなかった。
もちろん驚きもしなかった。珍らしいことでもないからであった。そうしてやがては誰も彼も、そうならなければならないからであった。
夜は容易に明けそうにもなかった。
遠くで幾度か
焚火がまたも消えそうになった。みんなじっと考え込んでいた。それに気の附く者がなかった。
と、この時松の木の背後へ、
焚火は今や消えようとした。
その人影は近寄って来た。
誰もそれに気が付かなかった。
人影は彼らの背後に立った。その前に子を抱いた女がいた。乳房の
声一つ立てなかった。だが何か重い物が、屋根板の上へ落ちて来た。と、屋根板の山が崩れ、焚火の中へなだれ込んだ。焚火がパッと燃え上がった。人々は始めて気が附いた。
焚火の横に女の首が、仰向けになって転がっていた。その切り口から一匹の
人々は茫然と眺めていた。子供が大声で泣き出した。
もう一つの首が地へ落ちた。鼻のない出家の首であった。首は焚火の反対側へ落ちた。瞼を二三度痙攣させた。そうして切り口から一匹の紅巾が――紅巾のような真紅の血が、後から後からと流れ出した。と、首のない胴体が、前のめりに転がった。
一斉に人達は立ち上がった。そうしてバラバラと逃げ出した。
一人の癩人は這って逃げた。両足の脱げた癩人であった。一人の癩人は一本足で逃げた。片足欠けている癩人であった。
焚火が景気よく燃え上がった。
二つの首と二つの胴と、踏み潰された子供ばかりが、焚火の光に照らされていた。
そうして一人の美男子が、しょんぼりとして
宗匠頭巾を冠っていた。利休茶の
彼は少しも動かなかった。聞き澄ましてでもいるようであった。
しかし
「姦婦!」
と突然呻くように云った。
「姦婦!」
とまたも呻くように云った。
どういう意味だか解らなかった。
とは云えこれは
おお魔王、血吸鬼、しかし何んと
甲府よ、お前は呪われている! 悪病の主が入り込んだ。そうして
のみならず血吸鬼が入り込んだ。切って切って切り
ふと陶器師は耳を
陶器師は
闇から二人の老人が産まれた。吐き出されたように現われた。
「おやここにも癩人がいる」
一人の老人がこう云った。長髪が肩で波打っていた。
「や、こいつは切られている」
もう一人の老人がこう云った。それは塚原
「いかにもな、切られている」
蔵人は立ち止って眼をひそめた。
卜伝は薬箱を担いだまま、死骸の側へ膝を突いた。
「これはこれは、驚いたなあ」
卜伝はひどく感心した。「素晴らしい
「そんなに立派な切り口なのか?」
蔵人は立ったまま声を掛けた。
「さよう、とても素晴らしいものだ」卜伝は何やら考え込んだ。
「はて、何者の
蔵人は焚火へ手をかざした。
「まあさ卜伝、一あたりおあたり」
「うん」と卜伝は云ったまま、尚も思案に耽っていた。「人間放れがしている」
「さてその人間放れだが、火柱の主に逢いたいものだ」蔵人は
卜伝は返辞をしなかった。
「いや、どうも俺も驚いた」蔵人は独言を云い出した。「ひどい有様だとは聞いていたが、こうまでひどいとは思わなかった。これじゃあ全然癩地獄だ。行き逢う人間行き逢う人間、満足な者とてはないのだからな。さわったが最後体が
卜伝は返辞をしなかった。
蔵人は皮肉な微笑をした。足で焚火を踏み消した。
「アッハハハこれでいい。火がなければ見ることは出来ぬ。そこで御輿をヨイと上げの、ご出立というところさ」
卜伝の囁く声がした。
「蔵人蔵人、動いてはいけない」
押し付けたような声であった。
ギョッとして蔵人は棒立ちになった。そこから探るように訊き返した。
「え、卜伝、どうしたのだ?」
「うん、出たのだ、例の奴が。鍛冶屋街道の一件物が」
「ううむ」と蔵人は呻き声を上げた。
と、卜伝の声がした。
「後へ退れ、一間後へ。後退りに歩け、背を向けるな」
そこで蔵人は後へ退った。
卜伝は闇の中に立っていた。片手で薬箱を肩に担ぎ、片手で木刀を青眼に構えた。眼を据えて暗中を睨んだ。
心眼に昼夜
黒々と相手の姿が見えた。老松を背にして立っていた。抜き身を下段に付けていた。
と、人影が右へ揺れた。どうやら右手へ廻わり込むらしい。卜伝も右手へ
シーンと
その時であった、遥かの彼方、小幡屋敷の辻にあたって、一本の火柱が燃え上った。
「出たあーッ」
と蔵人が声を上げた。
火柱がしばらく
蔵人には我慢が出来なかった。もう危険などは眼中になかった。闇を突っ切って走り出した。
「
と卜伝が一喝した。
暗中の人影が蔵人に向かって、ただ大鷲の
物の
だが悲鳴は起こらなかった。
しかし火柱は
闇!
峠を越して行く旅人でもあろう、夢見山の腹を
旅人よ、行き給え。
早く地獄を遁がれ給え。
しかしそっちにも焦熱地獄が、待っていないとはどうして云えよう。
火柱が出現したからでもあろう、甲府城下のあちこちから、
人穴の中は暗かった。
一枚の
と、部屋の戸を叩くものがあった。
女は静かに立ち上がった。束髪が地に垂れた。
可愛いらしい子供が立っていた。
「まあ」と女は驚いたように云った。
「おや」と子供も驚いたように云った。赤い頭巾に赤い袖無し、伊賀袴を穿き、
他ならぬ高坂甚太郎であった。
そうして女は月子であった。
「姉さん今日は」
と甚太郎は云った。「休ませて頂戴、
「おはいりなさい。さあ坊や」
で、甚太郎は中へはいった。
「坊はどこからいらしったの?」また月子は筵へ坐った。
「
「それはそれは、可哀そうに」
だが月子には不思議であった。
だが甚太郎にも不思議であった。魑魅魍魎猛獣毒蛇、剽盗の巣食っている富士の裾野に、どうしてこんな若い女が、無事に住んでいられるのだろう。
甚太郎の来訪は月子にとっては、弟に逢ったほどの喜びであった。
月子に逢ったということは甚太郎にとっても喜びであった。
姉に逢ったほどの喜びであった。
で、二人は仲よくなった。
「鳥は捕れて? え、坊や?」
「捕ろうと思えばいくらでも捕れる。だが俺らは捕らねえのさ」
「おやどうしてなの? 捕ればよいに」
「捕る物が他にあるからさ」
ここで甚太郎はニヤリと笑った。三白眼は気味悪かったが、両頬に
「この子はちょっと変りものだよ」月子には
昔ながらの
三方四方岩壁であった。その岩壁は鉄色であった。
岩壁には無数に皺があった。その一所に
そうしてその龕の奥の方で、獣油の灯明が灯っていた。
岩から一筋水が落ちていた。それを湛えた
錦の
二つの部屋の天井は、どっちも大変低かった。
それが人心を憂鬱にした。
だが空気は乾いていた。で、ひどく暮らしよかった。
その夜も彼女は水を浴びた。
まずクルクルと行衣を脱いだ。
一糸も纏わぬ彼女の裸体は、
彼女の顔は上向いていた。その両眼は
鉄色の岩壁を背景にして、彼女の裸体は浮き出していた。
突然彼女は立ち上がった。
にわかに姿勢がバラバラになった。
光と
彼女は真っ直ぐに火に向かった。
どこもかしこもまる見えであった。
ちょうど蛙の腹のように、下腹が丸く張り出していた。巨大な
彼女は両足を左右へ開いた。その隙間から覗いたのは、背景の鉄色の岩壁であった。彼女は両腕を差し出した。無限に長い腕のように見えた。と、彼女は
小桶をそろそろと持ち上げた。タラタラと
と、小桶を覆えした。左の肩から胸へかけ、真っ直ぐに水が流れ落ちた。
彼女は水を浴びたのであった。
肩の弾力に刎ね上げられ、煙りのような
水は地へ落ちて音を立てた。
見られて恥ずかしい姿ではなかった。
部屋の暗さにいよいよ白く、彼女の五体は背延びをした。
と、また彼女は身をかがめた。
小桶に水を一杯充たせた。
ザ――ッと水の音がした。
またも彼女の裸体へは、右の肩から簾が懸かった。
二百の面は眼を見張った。溜息の声が聞こえて来た。二百の面の溜息であった。
四散する
彼女は白布で体を拭いた。ポッと紅味が
まことに仙女の水浴であった。邪心の起こるべき光景ではなかった。
「坊やおいで」
と彼女は云った。
それから錦の
手術部屋ではあったけれど、同時に彼女の寝室でもあった。
二人は一緒に十日暮らした。
寝る時二人は一緒に寝た。姉弟として寝るのであった。
訪問客は少なかった。裾野に春が訪れて以来、めっきり物騒になったからで、裾野を横切り月子を訪ね、顔を直して貰うことは、容易な
かえって月子には幸いであった。
彼女は懸命に
出来上った面は壁へ懸けた。
五十
長い長い昔から、今日までかかって彫んだものであった。
気に入ったものは一つもなかった。
どれもこれも駄目であった。
満足することは出来なかった。
「聖徳太子様、淡海公、弘法大師様の作られたような『神作』のようなものは出来ないものかしら? 日光、
彼女は時々絶望的になった。
だが絶望はしなかった。
絶望することは出来なかった。
絶望することが出来たなら、どんなに彼女は
宿命にはどうしても歯向かえなかった。
彼女は「絶望」を禁じられていた。
今日も明日も明後日も! 「極重悪人の
だが彼女は何者であろう?
どういう身分の女だろう?
何故宿命を背負ってるのだろう?
誰も知ることは出来なかった。
そうして彼女も語らなかった。
甚太郎には珍らしかった。
で、能面の前に立ち、永い間眺めたりした。
とうとうある日月子へ訊いた。
「姉さん、姉さん、この
「ああそれはね、鼻瘤悪尉」
「鼻瘤悪尉?
「玉の井や大社を舞う時にね、着けなければならない面なのよ」
「姉さん、姉さん、この面は?」
「ああそれはね、茗荷悪尉」
「
「張良や寝覚を舞う時にね、着けなければならない面なのよ」
「これは何んだろう、この面は?」
「ああそれはね、大悪尉」
「おやおややっぱり悪尉か」
「
「姉さん、姉さん、これはナーニ、この厭らしい女の面は?」
「鉄輪や橋姫に使う面よ。
「おやここに般若があらあ」
「
「姉さん、姉さん、この
「放生川の石王兵衛」
「どいつもこいつも変な名だなあ。これはナーニ、この面は?」
「黒塚に使う近江女」
「そうしてこれは、この面は?」
「ああそれはね、熊坂の面」
「ああ熊坂か、知ってらい」
甚太郎は胸に落ちたらしい。
「狐の面があるね、狐の面が」
「小鍛冶に使う野干の面」
「こいつは鷹だ。鷹の面だ」
「
「ワーイ天狗の面があらあ」
「ええ、
「どう考えても
「一角仙人の面ですの」
「随分沢山あるんだなあ。いったいみんなで
月子は返辞をしなかった。
ただ優しく微笑した。
「みんな姉さんが作ったの?」
「ええそうなのよ、長い間にね」
「みんな上手に彫れてるんだね」
「いいえ、みんな
月子の声は寂しそうであった。
「そんな事あないよ。傑作だよ」
甚太郎は
「坊やに
「皮肉だなあ、姉さんは」
甚太郎はにわかに
月子にはそれが可愛らしく見えた。
やがて甚太郎は不思議そうに訊いた。
「だがいったい姉さんは、どんな面が作りたいの?」
「極重悪人の
「極重悪人とはどんなもの?」
「一番悪い人間のことよ」
「一番悪い人間とは?」
月子は返事が出来なかった。
すると甚太郎がこんなことを云った。
「悪人なんていう者も、善人なんていう者も、この世に一人だってありゃあしないよ。悪い事をした時が悪人で、善い事をした時が善人さ」
「では悪事とはどんな事?」
「泥棒したいと思った時、泥棒しなけりゃあ悪事だよ。泥棒したいと思った時、泥棒すれば善事だよ」
大変簡単な解釈であった。
だが恐ろしい言葉であった。
そうしてひどく迷語的であった。
月子は何んとなくゾッとした。
考えなければいられなかった。
「そういう解釈もあるものかしら? ……
だがまだこれはどうでもよかった。
彼女にとって恐かったのは、定まった悪人というものが、この世にないということであった。
裾野の春は
ある日甚太郎は
一所に
一所に小さい沼があった。そこでは鴨が泳いでいた。渡り損なった鴨であった。鴨はひどく痩せていた。
一所に野茨の
草の芽が顔を出していた。
甚太郎は
行手に
数頭の馬が草を
「ワーイ」と甚太郎は声を上げた。馬は横眼で彼を見た。それから一散に逃げて行った。
甚太郎の声は
甚太郎は茅萱の斜面を越した。と、灌木の野があった。一所に
尚彼は歩いて行った。
行手に
尚甚太郎は歩いて行った。
南向きの丘があった。
花
甚太郎はゴロリと寝た。
空は海のように拡がっていた。水蒸気を含んでいるからであろう、ぼんやりとして低く見えた。諸所に
日光が彼を酒浸しにした。
ブーンと耳もとで唸るものがあった。
五匹、十匹と飛んで来た。その一匹が黐棹へ止まった。と、黐が食っ付いた。蜂は
「さてこれからどうしたものだ」
甚太郎は考え出した。
「お月姉さんはいい人だ。だがどうにもしようがない。夫婦になれるものじゃあなし」
こんな悪いことを考え出した。
「あれは仙女だ。人間じゃあねえ。
役目のことを考え出した。
「有難くねえ役目だよ。現在の従兄をとっ
彼はここで渋面を作った。三白眼が打ち
変に甘ったるい匂いがした。微風が花野を渡ったのであった。草花のこぼす匂いであった。
「と云って一旦引き受けたからは、目付かりませんでございます、などと云っては帰れねえ。考えて見りゃあ降参だよ」
ひどく心持ちが憂鬱になった。
「信玄公の坊主頭、飛んでもねえ事を云い付けやがった」
呪いたいような気持ちがした。
「そういう俺らも利口じゃあねえ。へいへいよろしゅうございます。二つ返辞で引受けたんだからなあ」
今度は自分を呪い出した。
「このままどこかへ行ってしめえてえ。フラフラフラッとどこかの国へ」
「何が甲府なんか面白いものか。気に食わねえ奴ばかり揃っている。ああどこかへ行きてえなあ」
彼は行き場所を考え出した。
少年にあり勝ちの空想が、次から次と美の国を産んだ。草双紙で見た竜宮が見えた。荘子で読んだ胡蝶の国が見えた。快川長老の説教で聞いた、極楽浄土が見えて来た。
美しい国ばかりが見えて来た。お菓子の山や蜜の川や、
どこへ行ってもよさそうであった。そうしてきっとどこへ行っても、歓迎されそうに思われた。
「山を越して行きてえなあ」
二人の若者が上って来た。
「おい、この辺で休もうじゃあないか」
浅黄の頭巾の若者が云った。肩から釣るした人形箱が、胸の上でガタンと揺れた。
「うん、そうして待ち合わそうぜ」
同じ色の頭巾に人形箱、少し若い方がすぐ応じた。
諸国を巡る
「甲府にゃあまったく驚いたなあ」
「命からがらって云う奴さな」年下の方は汗を拭いた。「逃げられたのが不思議なくらいだ」
「可哀そうなのは藤六さ。とうとう一生を棒に振りゃあがった」
「よせばいいのに親切気を出して、病人の介抱なんかしたからよ」
「ここまで来りゃあ大丈夫だ」年上の傀儡師は芒を投げた。「俺らの役目も
「そうさ」と若い方は溜息をした。「
二人はちょっと黙り込んだ。
投げ出した二人の足先から、ユラユラと
傍らの藪から
「俺は確かに
ふと年長の傀儡師が云った。
「噂はまんざらでもなさそうだ」
「俺は
「俺も見たよ、松火の火をな」年長の傀儡師は頷いた。「諸方の国境で誘拐した、工人どもを警護して、兵器
「油断も隙も出来ないなあ、あの信玄の不道人
「チラリと城下で聞いたんだが」年長の傀儡師は不安そうに、「戦車の模型が出来たそうだ」
「ふうん、そいつあ大変だなあ」
「何しろ勘助が付いているからなあ」
「信玄よりは恐ろしいよ」
「素晴らしい新武器だということだ」
「城下があんなでなかったら、俺は夢見山へ分け上り、信玄経営の兵器廠を、すっかり調べて来たんだがなあ」年下の傀儡師が残念そうに云った。
「夢見山へは上らせないそうだ」
「わざと誘拐されるのよ」
「一旦はいったら出られめえ」
「いずれ厳重には相違あるまいがな」
二人はここで沈黙した。
すぐ眼の前の藪の中から、子を連れた
二人を見ると引っ込んだ。
と、年長の傀儡師が云った。
「だがな、こいつは内密だが、殿にもご用意はあるのだそうだ」
「へえ、そうかなあ、初耳だが」
「宇佐美の殿様の新案で、素晴らしい
「誰に聞いたな、え、梶井?」若い傀儡師は眼を丸くした。
「遅れ馳せに来た松浦からな」
「どんな兵器かな? 教えてくれ」
「何を云うのだ、え、石堂、そんなことが俺に解るものか」
「どこで造っているのだろう?」
「春日山の城中だそうだ」
数人の人影が現われた。
その中には女もいた。
つづいて幾人か現われた。人の数が十五六人になった。そのうち女が五人いた。
二人の傀儡師は立ち上がった。
「これから裾野は物騒だ。離れちゃあいけねえ、揃って行こう」
梶井というのが注意した。
「さあ引き上げだ、急げ急げ」
越後上杉家の細作は、こうして一団に塊まって、裾野の東へ横切って行った。
この時ムックリ起き上がったのは、隠れて聞いていた甚太郎であった。
三白眼を輝かせた。
「越後へ行こう、越後へ行こう」
一隊の後を追っかけた。
裾野には人影がなくなった。
一匹の
鼠は餌物を
月子は
甚太郎は帰って来なかった。
サクサク、サクサクと、
「坊やは帰って来ないそうな」
手を止めて呟いた。寂しそうに眉を
「迷児になったんじゃああるまいか?」
これが彼女には心配であった。
また面を彫み出した。
「駄々っ児だけれど、可愛い児だよ。駄々っ児だから可愛いのかも知れない」
微笑したいような気持ちがした。
「だが」と彼女は考え出した。「いつぞやあの子の云ったように、定まった悪人というようなものは、ほんとにこの世にないのかしら? もし本当にないのなら、
この事を考えると不安であった。
「造顔術を施すのは、決して妾の
鑿の鈍るような気持ちがした。
清水の滴る音がした。
滴水の音と鑿の音、それ以外には音がなかった。いや時々彼女の洩らす、溜息の声が聞き取られた。
今は戸外は昼かも知れない。
鑿の運びが
「考えてはいけない、考えてはいけない」
彼女は自分で自分へ云った。
考えられてならなかった。
「
自分の心を考えて見た。
「
鑿が全く動かなくなった。
「考えてはいけない、考えてはいけない」
で、彼女は彫み出した。
だがやっぱり考えられた。
「極重悪人というような言葉は、内容のない形容詞で、そんな人間はこの世になく、自然そんな人相の、持ち主などもないのかもしれない。では今日まで待っていたのは、つまらない事と云わなければならない。極重悪人の人相がなければ、極重悪人の
また鑿の手が止まってしまった。
眼を垂れて考え込んだ。
過去は暗く無慈悲であった。無意味な禁慾の生活であった。楽しい思い出は一つもなかった。鑿一本一心不乱、無性、精進の生活であった。
そうして将来には光明はなかった。
どうしたらいいだろう? どうしたら?
「いけない、いけない、こういう考え方は」
彼女は心を取り直した。
「彫むことにしよう、これまで通り。何かを掴むに相違ない」
彼女は鑿を揮い出した。
と、その時、コツコツと、入口の戸を叩く者があった。
「坊やが帰って来たそうな」
彼女は立ち上がって
二人の男女が立っていた。
一人は若い武士であった。一人は武士の妻らしかった。
「何んのご用?」と月子は訊いた。
「顔をお直しくださいますよう」
若侍は小声で云った。恐れているような声であった。ひどくその声は
「まずおはいりなさいませ」
月子は横へ身を開いた。そうして油断なく二人を見た。
二人は
それから二人を観察した。苦労な旅の結果でもあろう、二人の姿は
「失礼ながらお名前は?」威厳をもって月子は訊いた。
「私は伴源之丞」
「
忍ぶように名を
ここのみは育つものなし
春の来て明るしといへど
ここのみは
岩窪に水を湛へて
人の住む
野の小鳥訪ひしことなし
野の
面造る
「伴源之丞様と園女様? ああさようでございますか」
月子は
「はい」と源之丞は躊躇したが、「小田原の産でございます」
「で造顔する目的は?」
「はい」とまたも躊躇したが、「実は久しい
「なるほど」と月子は微笑した。「浮世は様々でございますね。
岩壁に懸けられた能の面を、月子は振り返って指さした。「いえ」と源之丞は首を振った。「私には望みがございます。恐怖の顔をお造りください」
「そうして
月子はちょっと眼を
で彼女は頷いた。「恐怖の顔と悲哀の顔、よろしゅうございます造りましょう。どちらからお先に致しましょう?」
「はい、どうぞ、
「ではこっちへ」
と月子は云った。それから錦の
「園!」
と源之丞は呼び止めた。「もう一度顔を見せてくれ。一旦手術をしたからには、二度と見ることは出来ないだろう。お前の顔の見納めだ」
「そうして妾にとりましても」
二人はじっと向かい合った。
「心の
「
「あなたのお顔を見ていますと、妾には悩みが湧いて来ます。お心にある悔恨が、お顔へ現われているからでしょう。あなたはお美しゅうございます。悔恨がお顔に刻まれていて、いよいよ美しく思われます」
「こっちへお出でなさいませ」隣室から月子の呼ぶ声がした。
「はい」と園女は帳をかかげた。そうして隣室へはいって行った。
源之丞は岩壁へ背をもたせた。
「ああ永い間苦しんだなあ」彼は
清水の滴たる音がした。油の煮える音がした。龕の油が煮えるのであろう。
隣室から月子の声がした。
「寝台へお伏せりなさいまし。お顔を上へ……真っ直ぐに」
園女の声は聞こえなかった。寝台の軋る音がした。
源之丞は
「こういう所にも住む人がある。
隣室から月子の声がした。
「心がお顔に現われます。悲しいお顔を造ろうとなら、努めて悲しいお心持ちを、お持ちにならなければなりません。……
ここで月子の声が絶えた。
源之丞は両手の指を見た。龕の灯が幽かに爪を照らした。
「爪に筋がはいっている。恐怖に衰えた人間の、不健康の証拠がここにある」手を裏返して甲を見た。「艶のない手だ、
錦の帳が波立った。そこへ当たっていた龕の灯が、
と月子の声がした。
「昔々近江の国、琵琶湖の岸の朝妻に、白拍子が住んでおりました。『おぼつかな伊吹おろしの風さきに朝妻船のあひやしぬらん』可哀そうな歌を
源之丞は隣室へ耳を澄ました。「朝妻船の物語か。うむ、悲恋の物語だな。全く恋にも色々ある。逢えぬ恋、逢った恋、別れた恋、見ざる恋。そうして俺達二人の恋は、脅されている恐ろしい恋だ」
月子の声が聞こえて来た。
「悲しいことにはお公卿様からは、何んの返辞もございませんでした。それで白拍子は小舟に乗り、琵琶の湖へ乗り出しました。春の夕暮れでございました。満月が空へかかりました。面紗を冠った満月が。微風、水鳥、花咲いた水藻、湖水は
「恐怖の恋だ、俺達の恋は、泣こうとしても泣けない恋だ。語っても同情されないだろう」源之丞は
月子の声が聞こえて来た。
「舟は唐崎へ着きました。誰か植えたる一つ松! 唐崎の松はびょうびょうと、夜風に鳴っておりました。が白拍子は船から出て、上陸しようとはしませんでした。山を越え、河を渡り、どうして
「浜には沢山人がいた。
「……
月子の声が聞こえて来た。
「小舟は漂って行きました。水鳥の群の中を分け、一筋白い
源之丞はじっと動かなかった。立てた膝頭へ額をあて、背を丸くして固まった。「それから逃亡、それから流浪……。逃げて逃げて逃げ廻わった。俺は柔弱、しかも無学、
月子の声が聞こえて来た。
「いつまでもいつまでも、小舟は漂って行きました。『見し夢の朝妻船や立ちかへる涙ばかりを袖にのこして』こう白拍子は詠いました。涙が壺に充ちました。また
「ほんとの恐怖の逃亡が、はじめられたのはそれからだ。東北の方へ遁がれることにした。相変らずの色奉公、妻は
月子の声が聞こえて来た。
「舟は石山に着きました。しかし上陸はしませんでした。死を覚悟した白拍子には、陸は恋しくはありませんでした。一杯になった壺の涙を、また湖水へ捨てました。なんと悲しいではございませんか。三杯の涙! 壺三杯! 浮草の身の白拍子、それが一人の男を恋し、流した涙でございます。でまた舟は波に漂い、沖の方へと出て行きました。『このねぬる朝妻船のあさからぬ
源之丞はやはり
「僧院の
源之丞はフッと顔を上げた。皮肉の嘲笑が浮かんでいた。
と、月子の声がした。
「おおおおようやくあなたのお顔へ、悲しみの色が浮かびました。さてそれではまず
何か物でも取り上げたらしい。軟い
と、月子の声がした。
「さあ出来ました。
後はしばらく
とまた月子の声がした。「よいお
また何かを取り上げたらしい。金属製の
と、月子の声がした。
「
頭髪を
とまた月子の声がした。
「可愛らしい額でございますこと。秀でた天停、調った生え際、これも変えなければいけますまい。三横文の皺をつくり、落涙の相と致しましょう」
物を
「情のある眼付きでございますこと。
何かを取り上げる音がした。
少しの間静かであった。
トコトコトコトコ、トコトコトコトコ……岩壁から滴たる水の音。いっそう
「人相さえ変えたら大丈夫だ。少しも恐れることはない」依然源之丞は
またも月子の声がした。
「素直な鼻つきでございますこと。円満鼻と申します。これも変えなければいけますまい。親に別れ
源之丞は隣室へ耳を澄ました。
「うん、それがいい、うんと変相するがいい。昔の面影のないように。園女が園女だと知れないように」
ひとしきり
トコトコトコトコと水の音!
「深い
パタパタと叩くような音がした。
「探せ探せ北条内記!」源之丞は呟いた。「日本国中を探すがいい。が、永久目付かるまい」
また月子の声がした。
「愛らしい
源之丞はいつまでも蹲まっていた。
彫りかけた楠の木の面材が、
とまた月子の声がした。
「
コツコツと叩く音がした。
「耳の形のふくよかなことは。これは
ジョキジョキ不気味の音がした。肉を
とまた月子の声がした。
「さて次は
象牙の
しばらく
源之丞はいつまでも動かなかった。肩と背へ龕の光を浴び、岩壁の裾へ蹲まっていた。
またも月子の声がした。
「
器物へ水薬でも注ぐらしい、トコトコという音がした。
「
源之丞は呟いた。「怯勇無差別ではないだろうか? 勇を揮って功を現わし、高禄を得て世を渡る。なるほど男子の本懐だろう。だが臆病に逃げ廻わり、短い一生を好きな女と、日蔭の花として暮らすのも、人間らしくていいではないか。……勇を現わすということは、
月子の声が聞こえて来た。
「これで
カタンと何か取り上げたらしい。
「鏡をご覧なさいまし」
「俺は疑いなく臆病者だ。いつも恐怖に襲われている」源之丞はフラフラと立ち上がった。しかし岩壁からは離れなかった。
「だが権利は持っている。この世に活きる権利はな。そうしてあからさまに云う時は、肩身を狭め、日の目を恐れ、
その時園女の泣き声が、隣室から弱々しく聞こえて来た。訴えるような泣き声であった。つづいて月子の声がした。
「お泣きなさいまし園女様、悲しいお顔が涙のために、二倍悲しくなりましょう。……お驚きになったのでございましょうね。それで泣かれるのでございましょうね。……鏡に映ったあなたのお顔! どこに一点美しかった昔の面影がございましょう? 昔のお顔は満開の
園女の泣き声は尚続いた。岩窟の壁へ懸けられた、非情の
「ああ園が泣いている」源之丞はじっと耳を澄ました。
「造顔手術が終えたそうな。変面異相、
月子の声が聞こえて来た。
「少しお眠りなさいまし。眠りながらお泣きなさいまし。涙が磨きをかけましょう。……お飲みなさいまし、
後はひっそりと静かであった。
だんだん泣き声が
「源之丞様」と呼ぶ声がした。「こちらへおいでなさいませ」
で源之丞は帳を掲げ、辷るように隣室へはいって行った。
と帳が
と、月子の声がした。
「寝台へお伏せりなさいまし。あなたの奥様と並んでね。……お顔を上へ……真っ直ぐに……」
寝台の軋る音がした。
とまた月子の声がした。
「心がお顔に現われます。
ここでしばらく声が絶えた。
物語を考えているらしい。
どんな話をするのだろう?
恐怖に追われ駈けられている、伴源之丞のような人間を、さらに一層の恐怖の淵へ、落とし入れるような物語が、いったいこの世にあるだろうか?
と、月子の声がした。
「富士の裾野の三合目に、一人の
源之丞の呻く声がした。
「おおおおどうやらあなたのお心へ、
軟い石膏でも練るような、
「さあ出来ました、生身の
後はしばらく静かであった。
とまた月子の声がした。
「富士の裾野の三合目へは、決して行ってはなりません。巣食っているのでございます。その殺人鬼の
源之丞の呻く声がした。
と月子の声がした。
「斬っても
「顔をお直しくださいまし!」源之丞の
「
どうやら壺でも取り上げたらしい。コトンという音がした。
と月子の声がした。
「男の
髪を
深い溜息が聞こえて来た。源之丞の洩らす溜息らしい。
と、月子の声がした。
「次は三停でございます。……額が天停、鼻が人停、それから
皮膚を
錦の帳を一枚隔て、行われている造顔術!
とまた月子の声がした。
「次は五官でございます。……眉が保寿官、眼が監察官、鼻梁が審弁官、口が出納官、そうして耳が採聴官。……これを変えることに致しましょう」
何か刃物でも落としたらしい。ジーンという音が響き渡った。
ひっそりと
岩壁に懸けられた
岩壁から落ちている滝の水、一筋の銀の棒のようであった。
と、月子の声がした。
「さあ、これで出来ました。……お声も変えなければなりますまい。……これをお飲みなさいまし」
水薬を注ぐらしい音がした。
とまた月子の声がした。
「鏡をご覧なさいまし」
しばらく物音が聞こえなかった。
と枯葉の擦れ合うような、老人の声が聞こえて来た。
「誰だ、誰だ、この男は」
「伴源之丞様でございます」
「うッ、うッ、うッ、俺の顔か!」
「あなたのお顔でございます」
「百歳以上の老人の顔!」
「恐怖のお顔でございます」
「満面の皺! 白い
「能の
「飛び出した頬骨!
「すっかり変ってしまいました」
「ひしゃげた鼻!
「
「食い反らせた
「しかも三本欠けております」
「ドンヨリと黄色く濁った眼!」
「おうおう
「左の
「はい、狼に噛まれたように」
「
「人の厭がる
ゲラゲラ笑う声がした。
「北条内記
富士の裾野、人穴の奥、造顔術師月子の部屋、そこの扉の開く音が、ギーと幽かに聞こえたのは、その翌日の払暁であった。
「さようならば月子様」
「源之丞様、園女様、ご無事においでなさいませ」
別離の挨拶の声がした。後は
お
岩山の裾に黒々と
伴源之丞と園女であろう。しかし
どうやら
と、男の声がした。
「なんだか人里が恋しくなった。……もう恐ろしいものはない。……誰に見られても感付かれはしまい。……今までは恐れて逃げ廻わっていた。これからは進んで近付いてやろう。……」
だが源之丞の声だろうか? 百歳以上の老人の、嗄れ果てた声だのに。
「甲府へ参ろうではございませんか。賑やかな武田家のお城下へ。……
二つの人影は動き出した。二人の歩く足に連れ、サラサラと音を立てるのは、枯草が左右へ分れるからであろう。
二人の姿が消えた頃から、裾野の朝は明け初めた。
その日の真昼のことである。
鍛冶屋街道を片輪者が、二人連立って歩いていた。
一人は男、一人は女、男は若々しい武士姿、女も若々しい女房姿、しかし二人ながら首から上は白髪と皺とに埋められた、醜い
能の
能の仮面の泣き老女、そっくり老婆の顔であった。左の
心経寺の宿へかかった頃、行手から
二人の片輪者と癩人とが、往来の上で
鍛冶屋街道は飛び飛びに、
そこを二人は歩いて行った。
白井河原へはいった頃には、永いものの
依然甲府は火柱の主と、癩人と血吸鬼との
闇の夜空へ聳えているのは馬場美濃守の大屋敷で、ポッツリ一つ大きな星が、低く屋根棟に懸かっていた。
その屋根棟に腹這いながら、誰か人間がいるらしい。
と、そこから声がした。
「おい右門、大丈夫かな?」
しかしどこからも返辞がない。
しばらく
ややあって返辞が聞こえて来た。
「うん、俺の方は大丈夫だ。……お前はどうだ? え、小次郎?」
美濃守の屋敷と向かい合い、内藤修理亮の屋敷があった。その屋根棟の一所から、返辞の声は聞こえて来た。やはりそこにも何者か、一人腹這っているらしい。が、姿は解らない。闇が包んでいるからであった。
またもや後は
空へ大きな弧を描き、星が一つ蒼々と流れ、ザーッと風が吹き通った。
ドンドンドン! ドンドンドン!
「ワーッ」という
バタバタと逃げる足の音。
と、「ヒーッ」という女の悲鳴。
「ワッ」と叫んで仆れる音。誰か斬られでもしたらしい。
が、それもすぐ止んで、またもや後は
と、馬場屋敷の屋根棟から、ふたたび声が聞こえて来た。
「遅いではないか。どうしたんだろう?」
「うん」と答える声がした。「さすがの火柱も
「そんなことはあるまい。今に出よう」
「今夜こそどうともして捕えたいものだ」
ここで話が断ち切られた。
いったい二人は何者だろう?
闇とは云っても星空であった。その薄明を背景にして、不意に内藤家の屋根棟へ、黒々と人の姿が立った。城下の様子を眺めようと、琢磨小次郎が立ち上がったらしい。
屋根から見下した甲府の城下の、所々に桃色の火気が、闇を貫いて立っているのは、癩人が
内藤屋敷と並び合い、板垣駿河守の屋敷があった。その隣りが勘解由小路、小路を隔てて神明の社、その社の広庭にも、焚火が赤々と燃えていた。立ったり座ったり這い廻わったり、
「右門! 現われたぞ! 火柱が!」
叫ぶと一緒に小次郎は、ピッタリ屋根棟に腹這いになった。
「うむ。……よし来た! 合点だ!」
馬場屋敷の家棟から、すぐに右門の声がした。後は呼吸の音さえしない。
火柱はダンダン近寄って来た。
動くに連れて土塀の面が、光を映してボッと明るみ、通り過ぎるに従って、ふたたび闇に埋もれた。三枝屋敷を通り過ぎると、火柱は
その南側は内藤家の土塀、その北側は低い堤、堤の上の松並木、火柱が過ぎるに従って、一つ一つ次々に、松の老幹が輝いた。
内藤屋敷の土塀が尽きると、南北に通っている柳町通りで、その四辻で火柱は、またしばらく
風が四辻から吹いて来た。
火柱の主――
と、火柱は動き出した。
内藤屋敷と馬場屋敷、二つの屋敷の真ん中を、南の方へ
二軒の屋敷の大門が
先ず火柱は右に揺れ、それから左手へよろめいた。と、にわかに立ち止まった。
一筋の長い捕り縄が、火柱の主の首の辺から、ピンと斜に張り切って、内藤屋敷の屋根棟へまで、一直線に延びていた。と、もう一本の捕り縄が、火柱の主の胴体から、馬場屋敷の屋根棟へまで、ピンと一直線に延びていた。
火柱の主は二条の捕り縄で、ガンジ
上には垂れ下がった闇の空、左右には立ち並んだ武家屋敷、その真ん中でぼうぼうと、燃え上がっている火の柱、その頂きに無表情に、静止している能の面! ……何んと形容すべきだろう?
その時黒々と人の姿が内藤屋敷と馬場屋敷の、屋根棟の上に延び上がった。琢磨小次郎と茣座右門、二人の姿に相違ない。と、にわかに二つの姿が、あたかも呼吸を合わせたように、火柱に向かって及び腰になった。だが、その次の瞬間には、グイと
意外な出来事の起こったのは、実にその次の瞬間であった。
白布を巻いた右の手を、火柱の主はソロソロと、上の方へ上の方へと上げて行った。と、仮面の
仮面の取れた城主の顔が、内藤屋敷へ向けられたとたん、「うん!」という息詰まる声がした。同時に小次郎の姿が消え、物の仆れる音がした、つづいて屋根の斜面を転がり、黒装束の人間が、ドッと往来へ落ちて来た。
仮面を脱いだ城主の顔が、馬場屋敷へ向けられた時にも、同じことが行われた。息詰まる声、仆れる音、黒装束の人間が、屋根から往来へ落ちて来た。
メズサの顔を見た者は、死の深淵へ落ちなければならない。
小幡尾張守と下条民部、二軒の屋敷に挟まれて、小広い小路が出来ていた。その小路を東へ向け、一条通りの方向へ、忍びやかに歩く人影があった。
小路を抜け出した正面に、原加賀守の屋敷があり、
その
何んの変ったところもない。利休茶の十徳に同じ色の頭巾、
増山通りを北へとり、蘆田屋敷の裏門の方へやがてフラフラと歩き出した。焚火の光の圏内から、彼の姿が消えた時、闇がワングリとそれを呑んだ。しかし間もなく彼の姿は、八幡の境内へ現われた。
そこには二個所焚火があり癩患者がそれを
だが陶器師は刀を抜かず、二つの焚火の間を通り、跡部大炊の屋敷の方へ、小路伝いに歩いて行った。初鹿源五郎の屋敷を過ぎ、御厩小路へ来た時である。行手に二つの人影が見えた。
焔を上げてはいなかったが、カッと
チラリと陶器師は二人を見た。だがそのまま擦れ違った。彼は殺人に飽きていた。刀を抜くさえ大儀なのであった。
一間余り行違った時、ふと陶器師は振り返った。
「む」と彼は呻き声を上げた。「ああ
刀の柄へ手を掛けた。足音を忍ばせスルスルと、二人の背後へ追い
身に逼る殺気を感じたのであろう、二人の男女は振り返った。焚火の光にぼんやり照らされ、闇に浮き出た二人の顔は、源之丞でもなければ園女でもなく、百歳を過ごした
「何んだこれは! 似ても似つかない!」
刀の柄から手を放し、陶器師は呆然と佇んだ。
闇に消えようとする老人老婆の、
「間違いはない! あいつらだ!」
老人老婆の後を
広い空地を中に隔て、伝奏屋敷の北方に、武田左典厩の宏大な屋敷が、夜空を抜いて聳えていた。
その土塀の一所から、話の声が聞こえて来た。「どうもこれでは手がつかない」直江蔵人の声らしかった。「神出鬼没というやつだ。出たかと思うと消えてしまう。消えたかと思うとヒョッコリ出る」
「そうさ」と答える声がした。塚原卜伝の声らしかった。「全く変な化物だ。ノロノロとした歩き方だのに、それでどうにも捉えることができない」
「俺はすっかり
「
「それもどうも仕方がない。いわば俺の手に余ったのだからな」
「いや俺の手にも余ったよ。と云って火柱の主ではない。得体の知れない例の奴だが、全くあの時は
「うんあいつか、あいつにも参った」蔵人の声は皮肉に響いた。
「どうやら俺はお前のために、二度命を助けられたらしい」
「礼を云ったがよかろうぜ」卜伝の声は笑っていた。「それにしてもお前は
「そうは云ってもあの時は、はじめて火柱を見たのだからな、夢中になるのが当然さ」
「
「だがお蔭で薬箱は、
「おやこの
柳町通りの方角で、叫喚の声が湧き起った。
「ははあ今夜も出たらしい」
「おい蔵人、行ってみよう」
「そうさな、ポツポツ行ってみよう」
左典厩屋敷の土塀に添い、闇を縫って東の方へ、二人の者は小走って行った。
曽根下野守の屋敷の方から、真ん丸に
鉄砲足軽の群であった。
粉のような火花がパッパッと、闇の空間で明滅するのは、火縄の口火が散るからであろう。
規律正しい武田家の、鉄砲足軽というにも似ず、足並みも揃えず伍も組まず、互いに体をくっ付け合わせ、おどおどしながら歩くのは、恐怖に
一度城下へ現われるや、悪病を振り蒔き人を殺し、信玄公をして門を閉めさせた、火柱の主というものが、彼ら足軽の
うっかりそんなものを撃ち取ろうものなら
小路を抜けると柳町通りで、遥か北の方角から、叫喚の声が聞こえて来た。
「出たぞ!」
「出たらしい」
「火柱大明神!」
足軽達は囁き合い、一層足を鈍らせた。
神明の社の手前までその一団が来た時であった。行手にあたって
「ワーッ」と彼らは声を上げた。バラバラと幾人かが後へ逃げ、幾人かが横へツッ走った。だが十二三人の足軽は、一列に並んで折り敷いた。
ド、ド、ド、ドン――と鉄砲が放された。
すぐにド、ド、ド、ド、――と
何んの変ったこともない。依然として火柱は立っていた。
「
「俺は何んだか恐ろしくなった。……早く歩こう……まかなければならない」
跡部大炊の屋敷を過ぎ、今沢石見の家の前を通り、小幡、下条、栗原、長坂、屋敷屋敷の門の前を、老人と老婆は足早に、南へ向かって歩いて行った。
時々振り返って背後を見ると、ボッと黒い人影が、二間の彼方から足音を忍ばせ、どこまでも
大熊備前の屋敷の前、伝奏屋敷の南側に、一筋の小路が通っていた。
つと二人は駈け込んだ。
だが、それも無駄であった。
依然人影は
小路を抜けると柳町通り、南北に一筋広い
やはり二間の背後から、同じ人影が追って来た。呼び掛けもせず、切っても掛からず、いつも同じ間隔を置き、ヒタヒタと
神明の社の前まで来た。西に向かって小路がある。駈け込んだ二人は真っ直ぐに、その小路を駈け抜けた。と、すぐに四辻へ出た。それを北の方へ曲がったとたん、カッと眼を射る光物があった。
焔々と燃え上がる火柱が、一間の眼前にユラユラと、揺れながら立っているのであった。
と、真紅の光の中に、蝋燭のような白い物が、二本ソロソロと上へ上がった。
「俺の祝福を受けてくれ。……」嗄れた声が聞こえて来た。「旅人よ、触らせてくれ!」
光に射られた老人と老婆は、両手で顔を
背後から追い逼る殺人鬼! 前からは寄って来る悪病の主! 間に挿まれた老人と老婆は、ベタベタと道へ
道服姿の二老人が、西の辻から走って来たのは、そのキワドイ瞬間であった。
「やッ火柱だ!」
「おッ
彼奴だ! と叫んだ老人は、腰に挿んだ木刀を、スルリとばかり引き抜いた。
卜伝が陶器師へ向かったのである。
「逃げろ逃げろ! 早く逃げろ!」
もう一人の老人――蔵人は老人と老婆へ声を掛け、パッとその間へ身を
ユラユラと進んで来る火柱の主、ジリジリと後へ退りながら、仔細に観察する直江蔵人、左典厩屋敷と神明の社に、左右を断ち切られた宮小路を、南へ南へと移って行った。
突然光の消えたのは、火柱が辻を廻わったからであろう。ふたたび闇となった小路の中で、
三合目陶器師と卜伝とが、向かい合って構えているのであった。
構えた木刀の切っ先から、卜伝は向こうを隙かして見た。二間を隔てた暗中に、物の姿の見えるのは、陶器師が構えているのであろう。進もうともせず退こうともせず、静まり返って立っている。
刀と木刀とが触れ合って、鈍い響を上げたのは、やや久しい後のことで、ほんの一瞬の出来事であった。そうしてその次に起ったのは「むッ」という苦悶の声であり、地に仆れる音であった。
山県屋敷を南に眺め、東に続いている鍛冶小路を、夢見山の方へ走って行くのは、例の老人と老婆であった。恐怖のために正気を失い、無我夢中で逃げるらしい。道が消えて熊笹となり灌木の這っている山路となり、行手に森林の聳えているのも、彼ら二人は気が付かないらしい。
山は次第に険しくなり、やがて浅い谷となった。
尚二人は逃げて行く。
谷を越すと丘であり、丘は林に続いていた。もう振り返っても甲府城下は、山に隔てられて見えないだろう。一里以上も来たのだから。
しかし二人は尚逃げた。
と、行手に
これはいったいどうしたのだ? 平坦な人工の往来が、一筋延びているではないか。
だがそれはまだよかった。
その往来を一隊の人数が、粛々と歩いて来るではないか。
二列縦隊に
正気に返った老人と老婆は、また新しい驚きに、眼を
二人の前まで来た時である、先頭に立った甲冑武者が、
「誰だ!」
と叫んで足を止めた。
と四五人の甲冑武者が、グルグルと二人を取り囲んだ。
「これ、貴様達は何者だ 何んと思ってここへ来た? 見れば他国の人間らしい。うん、貴様達は
一人の武者が
「いえ旅人でございます。うっかり道を取り違えまして」
老人は急いで弁解した。
「いや細作に相違ない。ここは夢見山の間道だ。人の出入りを禁じている。それを承知で入り込んだのだろう。……これ、こいつらをふん縛れ!」
ちょっと
くくし上げられた老人と老婆は、一隊の
一旦止まった行列は、間もなく粛々と前進を続けた。
甲府に向いた一方の側は、人工の岩と木立であり、反対の側は険しい谷、その間を通っている一間
溜息をする者、啜り泣く者、列を放れてよろめく者、
二町余りも歩いた頃であった、逃走しようとしたのであろう一人の若者が列から離れ、谷の中へ飛び込んだ。
と、弓を持った一人の武士が、立ち止って谷を覗き込んだ。ピーンと弦音がしたかと思うと、谷底から悲鳴が聞こえて来た。
何んの動揺も来なかった。
粛々と一隊は進んで行った。
グルリと道が
それは
隧道の中を行くのであった。
数町歩いた頃である、その隧道の遥か行手に、一点の火光が見えて来た。
と、そこから笛の音が、鋭く一声聞こえて来た。
甲府を荒らした悪病も、やがて
一人の聖者が現われて、犠牲的の行動をしたからである。と云って決してその聖者は、「紫の
「私にさわらせてくださいまし。かえってご恩でございます」
で、病所へさわるのであった。すると不思議にも悪病は、次第次第に快癒した。
「聖者様が参られた」
「地獄の苦しみもなくなるだろう?」
「だがどう云うお方だろう?」
「立科の方から来たそうだ」
「いや裾野から来たそうだ」
「それにしてもどうしてあのお方は、俯向いてばかりおられるのだろう?」
「なんて悲しそうなご様子だ」
「それにちっともお威張りにならない」
「みんなの罪を背負ってるようだ」
「ただ指の先を触れられるだけだ」
「それだけで病気が
町から町、人から人、聖者の噂は伝わった。
聖者の後へは数百人の者が、いつもゾロゾロ
偶像にされるのが厭だからであろう、よく聖者はこう云った。
「病気の癒ったお方には、私は用はございません。私を
だがそう云えばそういうほど、沢山の人が集って来た。聖者は逃げなければならなかった。逃げても逃げても逃げきれなかった。逃げれば逃げるほど沢山の人が、聖者の
身の振り方を尋ねる者、
しかし聖者はそういうことには、一言も返辞をしなかった。
饗応しようとする者があれば、「私は乞食でございます。一食で結構でございます」
こう云ってそれを辞退した。
そのため一層その聖者は沢山の人に信仰された。
彼は真理の把持者でもなく、また決して予言者でもなく、そうしてもちろん名医でもなく、彼が自分で云うように、みすぼらしい乞食に過ぎなかった。だがどうして、悪病を、ただ指の先で触れるだけで、全快させることが出来るのだろう? それは奇蹟に相違ない! 奇蹟の出来る人間は? 神の子でなければならないではないか!
それでは彼は神の子か?
いやいや彼は乞食なのであった。
甲府城下は
恐怖時代が過ぎ去ろうとしている。
春が
四散した甲府の人々も、争って故郷へ帰って来た。活溌に人達は働き出した。商業も繁昌しはじめた。信玄の館の城門を開き、武士達も城下を歩くようになった。武家屋敷の窓も開き、夜な夜な
これまでの苦痛が大きかっただけに、その喜びも著しかった。
それはある日のことである、崇拝者の群から遁がれたと見え、聖者は一人で歩いていた。
依然として首を垂れている、依然として
野道はウネウネと
夕立でも来そうな日射しであった。小鳥が葉蔭で騒ぐのは、その天性の敏感から、雨の降るのを察したからであろう。雨の
聖者はいつまでも歩いて行った。放心したような様子である。何か口の中で呟いている。
「力をお与えくださいまし」
聖者は
ポツポツ雨が降って来た。と、雷が鳴り出した。
紐のような豪雨が降って来た。嵐が加わって横になぐられ、優婆塞一人へ襲いかかった。だが彼は歩いて行った。
「私をお救いくださいまし」口の中で呟いている。
道が二筋に別れていた。彼は無心に右の方へ辿った。それは細い細い道であった。野宮に通っているらしい。
荒れた野宮の
狐格子の中は暗かった。格子を通して外光が、光ということさえ出来ないぼど、幽かに鉛色に射し込んでいた。
手枕をし、足を縮め、海老のように寝ている城主の姿が、ボッと薄赤く光っているのは、身に纏っている纐纈の
彼は死んだように動かない。だが死んではいなかった。しかし死にかけてはいるのであった。持ちこたえていた悪病が、いまや勢力を
「ここはいったいどこだろう?」考えたが解らなかった。そんなにも
「遠い昔に城を出た。……本栖湖の
いやいや彼が城を出たのは、わずか数ヵ月前なのである。桜の花の咲く頃で、そうして今は木芙蓉の花が、白々と咲く夏なのである。
「どうして城を出たのだろう? ああそうだ思い出した、故郷の甲府を訪ねようと、ある闇の晩に城を出た筈だ。……うんそういえば湖水へ出る、
ここで意識が断ち切れてしまった。
彼は気持ちが悪かった。何かウネウネした虫のようなものが、頭の中を這い廻わっていた。そうして鋭い虫の歯が、コチコチと頭蓋骨を噛み砕いているように思われた。そうして絶えず耳もとで、嗄れた声が囁いていた。
「やっと俺は思い出した、たしかに俺は甲府へ来た。
嗄れた声が囁いている。何を云っているのか解らない。しかし彼は気持ち悪かった。で手を上げて追い払おうとした。だがその手は動かなかった。
「俺は祝福に来た筈だ。何故みんなは逃げたのだろう? ……ああ
カサ、カサ、カサと嗄れた声が、やっぱり耳もとで聞こえている。
「誰かこいつを追っ払ってくれ! このお
「俺はひどく弱ったようだが、病気をしているのではあるまいか?」
奔馬性癩患だということさえ、今の彼には解らなかった。
「俺はいったい誰なんだろう?」驚くべき疑問が湧いて来た。と突然雪が見えた。降りしきっている雪である。つづいて赤いものが見えて来た。ヒラヒラヒラヒラと動いている。それはまさしく
「ああ我が君だ、晴信君だ!」はっきりそれが思い出された。
雪に蔽われた城が見え、そこへ寄せて行く人数が見えた。と、一つの
「高遠城主平賀源心! あいつの
それこそ本当に遠い昔、彼がわずか十九歳の頃、晴信を進めて高遠城を攻め、一番乗りをした時のことを、フッと意識へ上せたのであった。
だがそいつはすぐ消えた。そうして何にも見えなくなった。と、女の泣き声が聞こえた。一人の女が浮き出して来た。やはりそれにも見覚えがあった。と、その横に若侍が、悲しそうな顔をして坐っていた。
「妻の妙子、弟の主水!」こう思った時には二人の姿が、だんだんかすれて見えなくなった。
すると、今度は闇の中へ、巨大な
「万兵衛の持っている鉞だ! オイ俺を切ってはいけない!」
だが、鉞も消えてしまった。
グーン! グーン! と唸る音!
「地下で
するとハッキリ唄声が聞こえた。
いざ鳥刺が参って候
………………………
それもたった一声であった。………………………
もう何んにも見えなくなった。トロトロトロトロと脳の中で、何かがとろけるような気持ちがした。
「何かが顔の上へ冠さっている」
で、そいつを取ろうとした。苦心してソロソロと手を上げた。手枕をしている右手ではない。床の上に這わしている左手である。
(未完)