人物の善悪を定めんには我に極美(アイデアル)なかるべからず。小説の是非を評せんには我に定義なかる可らず。されば今書生気質の批評をせんにも予め主人の小説本義を御風聴して置かねばならず。本義などという者は到底面白きものならねば読むお方にも退屈なれば書く主人にも迷惑千万、結句ない方がましかも知らねど、是も事の順序なれば全く省く訳にもゆかず。因て成るべく端折って記せば暫時の御辛抱を願うになん。
凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、
孰を重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に
形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、
厳敷いわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。夫の
米リンスキー
(魯国の批評家)が世間唯一意匠ありて存すといわれしも強ちに出放題にもあるまじと思わる。
形とは物なり。物動いて事を生ず。されば事も亦形なり。意物に
見われし者、之を物の持前という。物質の和合也。其事に見われしもの之を事の持前というに、事の持前は猶物の持前の如く、是亦形を成す所以のものなり。火の形に熱の意あれば水の形にも冷の意あり。されば火を見ては熱を思い、水を見ては冷を思い、梅が枝に
囀ずる鶯の声を聞ときは
長閑になり、秋の葉末に
集く虫の音を聞ときは哀を催す。若し此の如く我感ずる所を以て之を物に負わすれば、
豈に天下に意なきの事物あらんや。
斯くいえばとて、強ちに実際にある某の事某の物の中に某の意全く見われたりと思うべからず。某の事物には各其特有の形状備りあれば、某の意も之が為に隠蔽せらるる所ありて明白に見われがたし。之を譬うるに張三も人なり、李四も亦人なり。人に二なければ差別あるべき筈なし。然るに此二人のものを見て我感ずる所に差別あるは何ぞや。人の意尽く張三に見われたりといわんか夫の李四を如何。
若李四に見われたりといわんか夫の張三を如何。して見れば張三も李四も人は人に相違なけれど、是れ人の一種にして真の人にあらず。されば未だ全く人の意を見わすに足らず。
蓋し人の意は我脳中の人に於て見わるるものなれど、実際箇々の人に於て全く見わるるものにあらず。其故如何と尋るに、実際箇々の人に於ては各々自然に備わる特有の形ありて、夫の人の意も之が為に妨げられ遂に全く見われ難きによるなり。故曰、形は偶然のものにして変更常ならず、意は自然のものにして万古易らず。易らざる者は以て
当にすべし、常ならざる者
豈当にならんや。
偶然の中に於て自然を穿鑿し種々の中に於て一致を穿鑿するは、性質の需要とて人間にはなくて叶わぬものなり。穿鑿といえど
為方に両様あり。一は智識を以て理会する学問上の穿鑿、一は感情を以て感得する美術上の穿鑿是なり。
智識は素と感情の変形、俗に所謂智識感情とは、古参の感情新参の感情といえることなりなんぞと論じ出しては面倒臭く、結句
迷惑の種を蒔くようなもの。そこで使いなれた智識感情といえる語を用いていわんには、大凡世の中万端の事智識ばかりでもゆかねば又感情ばかりでも埒明かず。二二※
[#小書き片仮名ン、237-11]が四といえることは智識でこそ合点すべけれど、能く人の言うことながら、
清元は意気で
常磐津は
身があるといえることは感情ならでは
解らぬことなり。智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかいうものは如何なもので御座る、拙者未だ之を食うたことは御座らぬと、剽軽者あって問を起したらんには、よしや
富婁那の弁ありて一年三百六十日
饒舌り続けに饒舌りしとて此返答は
為切れまじ。さる無駄口に
暇潰さんより
手取疾く清元と常磐津とを語り較べて聞かすが
可し。其人聾にあらざるよりは、手を拍ってナルといわんは必定。是れ必竟するに清元常磐津直接に聞手の感情の下に働き、其人の感動(インスピレーション)を喚起し、斯くて人の扶助を待たずして自ら能く説明すればなり。之を某学士の言葉を仮りていわば、是れ物の意保合の中に見われしものというべき乎。
然るに意気と身といえる意は天下の意にして一二唱歌の私有にはあらず。但唱歌は天下の意を採って之に声の形を付し以て一箇の現象とならしめしまでなり。されば意の未だ唱歌に見われぬ前には宇宙間の森羅万象の中にあるには相違なけれど、或は偶然の形に妨げられ或は他の意と混淆しありて容易には
解るものにあらず。
斯程解らぬ無形の意を只一の感動(インスピレーション)に由って感得し、之に唱歌といえる形を付して尋常の人にも容易に感得し得らるるようになせしは、是れ美術の功なり。故曰、美術は感情を以て意を穿鑿するものなり。
小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ。さるを今の作者の無智文盲とて古人の出放題に誤られ、痔持の療治をするように矢鱈無性に勧懲々々というは何事ぞと、近頃二三の学者先生
切歯をしてもどかしがられたるは御尤千万とおぼゆ。主人の美術定義を拡充して之を小説に及ぼせばとて同じ事なり。抑々小説は浮世に
形われし種々雑多の現象(形)の中にて其自然の情態(意)を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝えんにも直接ならでは叶わず。直接ならんとには摸写ならでは叶わず。されば摸写は小説の真面目なること明白なり。夫の勧懲小説とは如何なるものぞ。主実主義(リアリズム)を卑んじて二神教(ヂュアリズム)を奉じ、善は悪に勝つものとの
当推量を定規として世の現象を説んとす。是れ教法の提灯持のみ、小説めいた説教のみ。
豈に呼で真の小説となすにたらんや。さはいえ摸写々々とばかりにて如何なるものと
論定めておかざれば、此方にも
胡乱の所あるというもの。よって試に其大略を
陳んに、摸写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり。前にも述し如く実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、夫の偶然の形に蔽われて判然とは解らぬものなり。小説に摸写せし現象も勿論偶然のものには相違なけれど、言葉の言廻し脚色の摸様によりて此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ摸写小説の目的とする所なり。夫れ文章は
活んことを要す。文章活ざれば意ありと雖も明白なり難く、脚色は意に適切ならんことを要す。適切ならざれば意充分に発達すること能わず。意は実相界の諸現象に在っては自然の法則に随って発達するものなれど、小説の現象中には其発達も得て論理に適わぬものなり。譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの
誓文も
悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を沈むるという段に至り、是ではどうやら洒落に命を棄て見る如く聞えて話の条理わからぬ類は、是れ所謂意の発達論理に適わざるものにて、意ありと雖も無に同じ。之を出来損中の出来損とす。
夫れ一口に摸写と曰うと雖も豈容易の事ならんや。
羲之の書をデモ書家が真似したとて其筆意を取らんは難く、金岡の画を三文画師が引写にしたればとて其神を伝んは難し。小説を編むも同じ事也。浮世の形を写すさえ容易なことではなきものを
況てや其の意をや。浮世の形のみを写して其意を写さざるものは下手の作なり。写して意形を全備するものは上手の作なり。意形を全備して活たる如きものは名人の作なり。蓋し意の有無と其発達の功拙とを察し、之を論理に考え之を事実に徴し、以て小説の
直段を定むるは是れ批評家の当に力むべき所たり。
(明治十九年四月「中央学術雑誌」)