昔、花山院の御時、紫の大納言という人があった。
そのころ、左京太夫
袴垂れの徒党は、討伐の軍勢を蹴散らかすほど強力であったばかりでなく、狼藉の手口は残忍を極め、
恋のほかには余分の思案というものもない平安京の多感な郎子であったけれども、佳人のもとへ通う夜道の危なさには、粋一念の心掛けも、見栄の魔力も、及ばなかった。
往昔、花の
紫の大納言は、二寸の
一夜、それは夏の夜のことだった。深草から
折しも雨はごうごうと降りしぶいて、地軸を流すようだったので、大納言は松の大樹の蔭にかくれて、はれまを待たねばならなかった。
雨ははれた。谷あいの小径は、そうしてよもの山々は、すでに
「わたくしの笛をお返しなされて下さいませ」
鈴のねのような声だった。それは凜然として命令の冷めたさが
「わたくしは人の世の者ではございませぬ。月の国の姫にかしずく侍女のひとりでございますが、あやまって姫の寵愛の小笛を落し、それをとって戻らなければ、再び天上に住むことがかないませぬ。
「はてさて、これは奇遇です」と、大納言は驚いて答えた。「私の祖父の家来であった年寄が、月の兎の
天女はにわかに打ち驚いて、ありありと恐怖の色をあらわした。
「わたくしは急がなければなりませぬ」必死であった。「姫は待ちわびていらせられます」
「なんの、三日や五日のことが」と、大納言は天女の悲しむありさまを見て、満悦のために、不遜な
天女は涙をうかべた。
「
「隠れ蓑の大納言とは聞き及びましたが、空飛びの大納言は珍聞です」と、大納言はにやにやした。「すらりとしたあなたならばいざ知らず、猪のようにふとった私が空を翔けても、とんと風味がありますまい。私は、こうして、京のおちこちを歩くだけで沢山です。唐、
大納言の官能は、したたか
天女は飛びのき、凜として、
「あとで悔いても及びませぬ。姫君のお仕置が怖しいとは思いませぬか」大納言を
「ワッハッハッハ。天つ乙女の軍勢が攻め寄せて来ますかな。いや、喜び勇んで一戦に応じましょう。一族郎党、さだめし勇み立って戦うことでありましょう。力つきれば、敗れることを悔いますまい。こうときまれば、
天女は張りつめた力もくずれ、しくしく泣きだした。
大納言はそれを眺めて、満悦のためにだらしなくとろけた顔をにたにたさせて、喉を鳴らした。
天女の
「これさ。御案じなさることはありますまい。とって食おうとは申しませぬ」
大納言は食指をしゃぶって、意地悪く、天女の素足をつついた。泣きくれながら、本能的にあとずさり、すくみ、ふるえる天女の姿態を満喫して、しびれる官能をたのしんだ。
「とにかく、この山中では、打解けて話もできますまい。はじめて下界へお降りあそばしたこととて、心細さがひとしおとは察せられますが、それとてもこの世のならいによれば、忘れという魔者の使いが、一夜のうちに涙をふいてくれる筈。お望みならば、月の姫の御殿に劣らぬお住居もつくらせましょう。おや、知らないうちに、月もだいぶ上ったようです。まず、そろそろと、めあての家へ参ることに致しましょう」
大納言は天女のかいなを執り、ひきおこした。
天女は嘆き悲しんだが、大納言の決意の前には、及ばなかった。
大納言の言葉のままに、彼の召使う者の
さて、燈火のもとで、はじめて、天女のありさま、かお、かたちを見ることができたとき、その目覚ましい美しさに、大納言は
ともすれば、うっとりと、あやしい思いになりながら、それをさえぎる冷たいおののきに気がついて、大納言は自分の心を疑った。今迄に、ついぞ覚えのない心であった。胸をさす痛みのような、つめたく、ちいさな、怖れであった。
大納言は自分の心と戦った。
召使う者にいいつけて、うちかけを求めさせ、それを天女にかけてやったが、そのとき、彼は、うちかけの下に、天女をしかと抱きしめて、澄んだししあいの官能をたのしみたいと思っていた。いや、うちかけをかけてやるふりをして、
が、大納言の足は重たく、すすまなかった。うちかけをかけてやる手も、延びなかった。うちかけは、無器用に、天女の肩のうえに落ちた。ずり落ちて、朱の裏をだし、やるせなかった。羅の白衣につつまれた天女の肩がむなしく現れ、つめたく、冴え冴えと、美しかった。
「山中は夜がひえます」
大納言は、立ちすくんで、つめたい、動かぬ人に、言った。自分の声とは思われぬ、むなしく、腑ぬけた、ひびきであった。
大納言は、悲しさに駆りたてられて、そのせつなさに、からだのちぎれる思いがした。
「五日です! ただ、五日です!」
大納言は、はらわたを
「それ以上は、決して、おひきとめは致しませぬ。あなたのおからだに、指一本もふれますまい。夜は、この家に、泊りますまい。あやしい思いを、起すことすら、致しますまい。笛を落したあなたが悪い! それを拾わねばならなかった私の因縁が、どうにも、仕方がないのです。五日のあいだ! それは、仕方がありません! あした、あなたのお目覚めのころ、私の召使う者どもが、あなたの御こころを慰めるために、くさぐさの品と、地上の珍味をたずさえて、ここへお訪ねするでしょう。その者どもは、すべて、あなたの忠実なしもべたちです。あなたの御意にそむく何ものもありませぬ。私とて、五日の後にこの笛をお返し致す約束のほかは、あなたの御意にそむく何事も致しませぬ。そうして、夜分、あなたの御心がしずまったころ、私はここへ訪ねてきます。あなたの笑顔をみることができ、月の国のお友達や、親、姉妹と語るように打解けたお声をきくだけで、満足です。私を嘆かせて下さいますな。あなたの涙は、私のはらわたを、かきむしります。ただ、五日ではありませんか。この因縁は、もはや、仕方がないのです」
大納言はむなしく吠え、虚空をつかみ、せつなかった。
こうして、ただ、月光を仰ぐことが、説明しがたい悲しさと同じ思いになることは、いったい、どうしたわけだろう。天女の身につけた清らかな香気が、たちまち月光の香気となって、彼の胎内をさしぬき、もし流れでる涙があれば、地上に落ちて珠玉となろうと彼は思った。ともすれば、あやしい思いにおちるのを、不思議な悲しさがながれ、泣きふしてしまいたい切なさに駆りたてられて、道を走った。
やがて、大納言は、息がきれ、はりさけそうな苦痛のうちに、天女のししあいを思っていた。
大納言は、笛をめぐって、一日、まどい、苦しんだ。
この笛が地上から姿を消してくれさえすれば、あのひとは月の国へ帰ることを
こな
五日の後に笛がかえると思えばこそ、あのひとは地上にいるのであろう。笛の紛失が確定すれば、天へ去らぬとも限らない。そういうことも思われた。
あのひとを地上にとどめるためには、掌中に、常に笛がなければならぬ。そうして、あのまっしろなししあいを得るためにも――そういうことも、思われた。
あの、まっしろなししあいが、もはや、大納言のすべてであった。どのように無残なふるまいを敢てしても、あのししあいをわがものとしなければならぬと彼は思った。
天も、神も、皓月も、また悪鬼も、この怖ろしい無道を、よく見ているがいい。どのような報いも受けよう。あのひとのししあいを得てのちならば、一瞬にして、命を召されることも怖れはしまい。悔いもしまい。命をかけての恋ならば、たとい万死に価しても、なお、一滴の涙、草の葉の露の涙、くさむらにすだく虫のはかないあわれみ、それをかけてくれるものが、何者か、あるような思いがした。
たそがれ、大納言は小笛をたずさえてわが家をでた。
道へでて、はじめて心は勇みたち、のどかであった。一夜のさちを、あれこれと思う心が戻っていた。澄んだ、ゆたかな、ししあいを思った。やわらかな胸と、嘆きにぬれた顔を思った。ゆたかに延びた手と脚を思った。祈る目と、すくむししむらと、そよぐ髪と、ふるえる小さな指を思った。四方の山も、森も、闇も、踏む足も、忘れた。
日が暮れて、月がでた。山の端にさしでた月の光から身を隠すよすがもなかったが、たじろぐ胸をはげます力も
と、谷あいのしじまを破る気配がした。木蔭から月光の下へ躍りでて、行くてをふさいだものがある。四人、五人、また一人。現れたものは太刀をぬいて、すでに彼をとりまいていた。
大納言はその場へくずれて坐ったことも気付かなかった。思わず小笛をとり落した。むなしく月の使者達を眺めた。そうして、声がでなかった。と、然し、彼等が袴垂れの徒党であると分ったときには、安堵のために、思わず深い放心を覚えた。
やにわに、彼は、落した小笛をとりあげて、まず、まっさきに、盗人の前へ差しだした。
「これをやろう!」
こみあげてくる言葉に追われて、はずむ声で、彼は叫んだ。
「命にかえられぬ秘蔵の品だが、とりかこまれては是非もない。これを奪って、今宵第一の獲物にせよ」
盗人は大納言の手中から無造作に小笛をひったくり、返す手で、大納言のたるんだ頬を小笛でピシリとひっぱたいた。大納言はようやく、気付いて、うろたえた。
「太刀もやろう。欲しいものは、みんな、やろう」
「衣も、おくせ」
大納言は
山科の家へ辿りついて、彼は叫んだ。
「あなたのふるさとであるところのあの清らかな月の光が、すべてを見ていた筈でした。私は笛をとられました。丁度あなたの小笛を拾ったあのあたりで、数名の無道の賊徒が現れて、いきなり、小笛をとりました。それから、太刀も、衣も、とりました。命をとられなかったのが、不思議です。いいえ、私は、命が惜しいとはつゆ思いませぬ。それが償いとなるならば、即坐に一命を断つことも辞しますまい。あなたの命とも申すような大切な小笛を奪いとられた悲しさに、私の涙が赤い血潮とならないことが、もどかしい。あなたの嘆き悲しむさまを、今宵も
大納言は、うちもだえ、うちふして、
天女は立った。大納言を見下して、涙に、怒りが凍っていた。
「償いに命を断つと
「これは又、悲しいお言葉をきくものです」と、大納言は恨みをこめて天女をみた。「あなたの嘆きを見ることが、天地の死滅を見るよりも悲しい私でございませんか。もしも、たしかに捨てた笛なら、言い訳は致しますまい。いかにも、私は、捨てたい心はありました。あの笛が姿を消して、そのために、あなたが地上の人となって下さるならば、笛をくだいて、焼きすてたいと思いました。賀茂川の瀬へ投げすてたいとも思いました。千尺の穴の底へうずめたいとも思いました。この一日、思いくらしていたのです。けれども、それは、できませぬ。あなたの嘆きを見ることが、地獄の責苦を見るにもまして、せつなかったからでした。私の涙に、つゆ偽はありませぬ。天よ。照覧あれ。私の命が笛にかえ得るものならば、たちどころに命を召されて、この場に笛となることを選びましょう」
大納言は、
「すでに、このようなことにもなり、小笛が帰らぬ今となっては、私の悔いの一念が笛と化して、月の国へあなたを運ぶよすがともならない限り、あきらめて、この悲しさに堪えて下さい。あなたの嘆きは私の身をそぐばかりでなく、地上のすべてを、暗く濡らしてしまいます。私共のならわしでは、あきらめが人の涙をかわかし、いつか忘れが訪れて、憂きことの多い人の世に、二度の花を運びます。地上の
天女は、さめざめと泣いていた。
大納言の官能は一時に燃えた。思わずうろたえ、祈る眼差で、天をさがした。天もなく、月もなかった。あるものは、貧しい家の、暗い、汚い、天井ばかり。かすかな燈火がゆれていた。くらやみへ、祈る眼差を投げ捨てた。あたりが一時に遠のいて、曠野のなかに、心もなかった。血が、ながれた。大納言は、天女にとびかかって、だきすくめた。
大納言は、夜道へさまよい落ちていた。
夢の中の、しかと心に覚えられぬ遥かな
月はすでに天心をまわり、西の山の端にかたむいていた。
無限の愛と悔いのみが、すべてであった。それはまた、心を万怒に狂わせた。あらゆる罰を受けるために、その身を岩に投げつけたいと思いもした。
「天よ。月よ。無道者の命を断とうとは思いませぬか」空に向って、彼は叫んだ。
「私はそれを怖れませぬ。あらゆる報いも、御意のままです。甘んじて、八つざきにもなりましょう。
どのような手段もつくし、またどのような辛苦にも堪え、きっと小笛をとり返そうと彼は念じた。
彼の歩みは、小笛を奪われたその場所へ、自然に辿りついていた。
然し、谷あいの小径には、もはや盗人の影もなかった。
大納言は途方にくれたが、
もはや自分の歩くところが、どのあたりとも覚えがなかった。山の奥に踏みまよっていた。行くてに笹の繁みをくぐり常に逃げる何物かあり、頭上に蝉がとびたって、逃げまどい、枝にぶつかる音がきこえた。
と、行手はるかに、ののしりどよめく物音が、渡る風に送られて、きこえたような思いがした。たたずんで耳をすますと、まさしく空耳のたぐいではない。音をたよりに忍びよると、木蔭のかなたに焚火をかこむあまたの人の影がみえ、それはまさしく盗人どもにまぎれもなかった。
彼等は酒に酔い
ぬすびととねずみは、三輪の神とおなじくて、おだ巻のいとのひとすじに、よるをのみこそたのしめ。
大納言は最も近い木蔭まで忍びよって、さしのぞいた。彼等の獲物と
大納言は、すすみでて、叫んだ。
「私に見覚えの者はいないか。さっき、谷あいの径で、小笛、太刀、衣等を奪われた者が、私だ。あれはたしかに、おまえたちの一味であったにちがいはあるまい。小笛を奪った覚えの者は、名乗りでてくれ。太刀も衣もいらないが、小笛だけが所望なのだ。その代りには、おまえたちの望みのものを差上げよう。あの小笛には
ひとりの者がすすみでて、まず、物も言わず、大納言を打ちすえた。と、ひとりの者は、うしろから、大納言の腰を蹴った。大納言はひとつの黒いかたまりとなり、地の中へとびこむように宙を走って、焚火のかたわらにころがっていた。
「望みのものをやろうとは、こやつ、
彼等は手に手に
もはや動かぬ大納言のありさまをみて、盗人たちは、はじめて打つことに飽きだしていた。ひとり、ふたり、彼等は自然に榾柮をなげた。そうして、いちばん最後まで榾柮をすてずにいたひとりが、榾柮の先に火をつけて、大納言のあらわな股にさしつけた。大納言は必死に逃げているのであろうが、びくびくと、ようやく芋虫のうごめきにすぎないところの反応をみると、盗人たちは声をそろえて、笑いどよめき、大納言を木立の蔭へ蹴ころがした。思いがけなく現れた当座の酒興にたんのうして、物言うことも重たげに、盗人たちはあたりのものをとりまとめて、いずこともなく立去った。
ほどへて、大納言は意識をとりもどした。すでに焚火も消えようとして、からくも火屑を残すばかり、あたりに暗闇がかえろうとしていた。
大納言は、今いる場所、今いる立場がわからなかった。やがて、自然にわかりかけてきたのであったが、分ろうとする執着もなく、その想念をたどる気力も失われていた。視覚もかすれ、また聴覚もとざされて、つめたい闇がはりつめているばかりであった。ただひとすじに、天女のかたち、ありさまと、その悲しみのせつなさを、くらやみのうつろの果に、ありありとみた。彼の手が動くことを知ったとき、わが身のまわりに、小笛のありかをたずねてみた。手の当るあらゆる場所を、さぐり、つかんだ。そうして、絶望の悲哀にかられた。
喉がかわいて、焼くようだった。ひとしずくの水となるなら、土もしぼって飲みたかった。彼は夢中に這いだした。そうして、ようやく、谷川のせせらぐ音を耳にした。
大納言は、谷音をたよりに、這った。横ざまに倒れ、また這い、また、倒れるうちに、ようやく視覚も戻ってきたが、谷音は、右にもきこえ、左にもきこえ、うしろにもきこえて、さだかではなかった。風のいたずらでなければ、耳鳴にすぎないのかも知れなかった。あらゆることが絶望だと彼は思った。
大納言は、木の根に
と、鼻さきに、とつぜん物の気配を感じて、大納言はてのひらを外し、その顔をあげた。すぐ目のさきの
「ゆくえも知らぬ――」
と、童子は大きな口をあけて、とつぜん唄った。ひどく大きな口だった。そのせいか、目と鼻が、更に小さくクシャクシャ縮んで、かたまった。
大納言は、びっくりした。と、とたんに童子は
「恋のみちかな」
童子は下の句をつけたした。そうして、手をうち、自分の頬をピシャピシャたたき、彼を指し、大きな口を開いて、笑った。
「ゆくえも知らぬ、恋のみちかな」
再び、童子は、大納言の鼻をつまんだ。予測しがたい素早さである。身をかわすひまはなかった。アと思うまに、もう手をたたいて、唄っている。
ひどく不潔な顔である。猿の目鼻をクシャクシャとひとつにまとめた顔である。そうして、顔中、皺である。動作は、甚だ下品であった。正視に堪えぬ思いがした。
と、ひょいと童子の立上るのを見た筈だったが、そのとき童子はにやりと笑い、目も鼻も大きな口も、突然ひとつにグシャグシャちぢんだ筈だった。とたんに、するりとからだがすぼんで、童子の姿は
大納言は呆然として、目を疑った。彼は思わず這いよって、蕈にさわってみようとした。
突然四方に笑声が起った。
大納言は驚いて顔をあげたが、笑う者の姿はなかった。笑いは
大納言はからだの痛みを打ち忘れて、とつぜん立って、逃げようとした。然し、傷ついた全身は、
みたび我に返ったとき、山々は、すでに白日の光のもとに、青々と真夏の姿を映していた。木のまを通してふりそそぐ小さな陽射しが、地に伏した彼のからだにもこぼれていた。
大納言は再び喉を焼くような激しい乾きに苦しんだ。谷川の音をたよりに、必死に這った。谷川は崖の下にせせらいでいた。大納言は降りようとして、転落した。岩にぶつかり、
草をむしり、岩をつかみ、夢中に這った。ようやく、せせらぎの上へ首を延ばすことができたとき、顔からふきだす真赤な血潮が、せせらぎへバシャバシャ落ちた。大納言は、さすがに、ふるえた。せせらぎに映る顔をみた。人の世のものとも見えず、黒々と
すでに、すべてが、絶望だった。背筋を走る悲しさが、つきあげた。
「私はここで、今、死にます」大納言は絶叫した。「私が死んでいいのでしょうか! 私の命は、つゆ惜しいとは思いませぬ。残されたあなたは、どうなるのですか! せめて、ひとめ、あなたが、見たい! 人の一念が通るなら、水に顔をうつして下さい!」
大納言は水をみた。真赤な口をひらいた顔があるばかり。せせらぐたびに、赤い口もゆがんで、のびて、血が走り、さんさんと水は流れた。
私は、ここに、このような、あさましい姿となっているのです。しかも、あなたの悲しさの一分すらも、うすめることができずに。あなたは、いま、どこに、どのようにして、いられますか。もはや、お目覚めのことでしょうね。このうすぎたない地上でも、あなたの目覚めに、なお、いくらかは優しい慰めを与えたものがあったでしょうか。もう、
大納言は、てのひらに水をすくい、がつがつと、それを一気に飲もうとして、顔をよせた。と、彼のからだは、わがてのひらの水の中へ、頭を先にするりとばかりすべりこみ、そこに