小坂部伝説

岡本綺堂




 わたしは帝劇のために「小坂部おさかべ」をかいた。それを書くことに就いて参考のために、小坂部のことをいろいろ調べてみたが、どうも確かなことが判らない。伝説の方でも播州姫路の小坂部といえば誰も知っている。芝居の方でも小坂部といえば、尾上家に取っては家の芸として知られている。それほど有名でありながら、伝説の方でも芝居の方でもそれがはっきりしていないのである。
 まず伝説の方から云うと、人皇第九十二代のみかど伏見天皇のおんときに、小刑部おさかべという美しい女房が何かのとがによって京都から播磨国に流され、姫山――むかしは姫路を姫山と云った。それが姫路と呼びかえられたのは慶長以後のことで、むかしは土地全体を姫山と称していたのを、慶長以後には土地の名を姫路といい、城の所在地のみを姫山ということになったのである――に隠れて世を終わったので、それを祭って小刑部明神と崇めたというのであるが、それには又種々の反対説があって、播磨鑑には小刑部明神は女神にあらずと云っている。播磨名所巡覧図会には「正一位小刑部大明神は姫路城内の本丸に鎮座、祭神二座、深秘の神とす。」とある。それらの考証は藤沢衛彦氏の日本伝説播磨の巻に詳しいから、今ここに多くを云わないが、まだ別に刑部姫おさかべひめは高師直のむすめだと云う説もあって、わたしはそれによって一篇の長編小説をかいたこともある。しかし、小坂部――小刑部とも刑部ともいう――明神の本体が女神であるか無いかという議論以外に、その正体は年ふる狐であるという説が一般に信じられているらしい。なぜそんな伝説が拡まったのか、その由来は勿論わからない。
 一体、姫路の城の起源は歴史の上で判っていない。赤松が初めて築いたものか、赤松以前から存在したものか判然はっきりしないのであるが、とにかくに赤松以来その名を世に知られ、殊に羽柴筑前守秀吉が中国攻めの根拠地となるに至っていよいよ有名になったのである。慶長五年に池田輝政がここに入って天主閣を作ったので、それがまた姫路の天主として有名なものになった。しかし徳川時代になってからも、ここの城主はたびたび代っている。池田の次に本多忠政、次は松平忠明、次は松平直基、次は松平忠次、次は榊原政房、次は松平直矩、次は本多政武、次は榊原政邦、次は松平明矩という順序で約百四十年のあいだに城主が十代も代っている。平均すると一代わずかに十四年ということになるわけで、こんなに城主の交代するところは珍しい。それはこの姫路という土地が中国の要鎮であるためでもあるが、城主が余りにたびたび変更するということも、小坂部伝説にはよほどの影響をあたえているらしい。
 それについて、こんなことが伝えられている。この城の持ち主が代替りになるたびに、かならず一度ずつはの小坂部が姿をあらわして、新しい城主にむかってここは誰の物であるかと訊く。こっちもそれを心得ていて、ここはお前様のものでござりますと答えればよいが、間違った返事をすると必ず何かの祟りが[#「祟りが」は底本では「崇りが」]ある。現にある城主が庭をあるいていると、見馴れない美しい上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)があらわれて、例の通りの質問を出すと、この城主は気の強い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、俺のものだと、きっぱり云い切った。すると、その女は怖い眼をしてじろりと睨んだままで、どこへかその姿を隠したかと思うと、城主のうしろに立っている桜の大木が突然に倒れて来た。城主は早くも身をかわしたので無事であったが、風もない晴天の日にこれほどの大木が俄かに根こぎになって倒れるというのは不思議である。つづいて何かの禍いがなければよいがと、家中一同ひそかに心配していると、その城主は間もなく国換えを命じられたということである。こんな話が昔からいろいろ伝えられているが、要するに口碑にとどまって、確かな記録も証拠もない。
 小坂部明神なるものが祀られてあるにも拘らず、かれは天主閣に棲んでいると伝えられている。由来、古い櫓や天主閣の頂上には年古る猫やいたちその他の獣が棲んでいることがあるから、それらを混じて小坂部の怪談を作り出したのかも知れない。支那にも何か類似の伝説があるかと思って心がけているが、寡聞にして未だ見あたらない。日本の怪談は九尾の狐ばかりでなく、大抵は三国伝来で、日本固有のものは少ないのであるから、これも何か支那の小説か伝説がわが国に移植されたものではないかとも想像されるが、出所が判然はっきりしないので確かなことは云えない。
 さて、それから芝居の方であるが、これは専門家の渥美さんに訊いた方がいい。現にわたしも渥美さんに教えられて、初代並木五瓶作の「袖簿播州廻そでにっきばんしゅうめぐり」をくりかえして読んだ。角書つのがきにも姫館妖怪ひめやかたようかい古佐壁忠臣こさかべちゅうしんと書いてあるのをみても、かの小坂部を主題としていることはわかる。二つ目の姫ヶ城門前の場とその城内の場とが即ちそれであるが、この狂言では桃井家の後室きぬたの前がこの古城にかくれ棲み、妖怪といつわって家再興の味方をあつめるという筋で、若殿陸次郎などというのもある。これは淀君と秀頼とになぞらえたもので、小坂部の怪談に託して豊臣滅亡後の大坂城をかいたのである。現に大坂城内には不入いらずの間があって、そこには淀君の霊が生けるがごとくに棲んでいるなどと伝えられている。それらを取り入れて小坂部の狂言をこしらえあげたと云うのは、作者が大坂の人であるのから考えても容易に想像されることである。しかし、ともかくも小坂部というものを一部の纏まった狂言に作ってあるのは、この脚本のほかには無いらしい。これは安永八年三月、大坂の角の芝居に書きおろされたものである。
 尾上家でそれを家の芸としているのいうのは、かの尾上松緑から始まったのであるが、一体それはどういう狂言であるか判っていない。他の通し狂言のなかに一幕はさみ込まれたもので、取り立ててこれぞというほどの筋のあるものではないらしい。しかし江戸では松緑の小坂部が有名であったことは、「復再松緑刑部話またぞろしょうろくおさかべばなし」などという狂言のあるのを見ても知られる。この狂言は例の四代目鶴屋南北の作で、文化十一年五月に森田座で上演している。すでに「復再」と名乗るくらいであるから、その以前にもしばしば好評を博していたものと察しられるが、それがわからない。明治三十三年の正月、歌舞伎座の大切浄瑠璃「闇梅やみのうめ百物語」で五代目菊五郎が小坂部をつとめた時にも、家の芸だというのでいろいろに穿索したそうであるが、一向に手がかりがないので、古い番附面の絵すがたを頼りに、三代目河竹新七が講釈種によって劇に書きおろしたのであった。今度もわたしは尾上松助老人について何か心あたりは無いかと訊いてみたが、老人もやはりかの歌舞伎座当時の話をして、自分も多年小坂部の名を聴いているだけで、その狂言については何にも知らないと云っていた。
 小坂部の正体が妖狐で、十二ひとえを着て姫路の古城の天主閣に棲んでいて、それを宮本無三四むさしが退治するというのが、最も世間に知られている伝説らしく、わたしは子供のときに寄席の写し絵などで幾度も見せられたものである。こんなことを書いていながらも、一種今昔の感に堪えないような気がする。
 そういうわけで、芝居の方では有名でありながら、その狂言が伝わっていない。そこを付け目にして、わたしは新しく三幕物に書いて見たのであるが、何分にも材料が正確でないので、まずいろいろの伝説を取りあわせて、自分の勝手に脚色したのである。
 松緑のも菊五郎のも、小坂部の正体を狐にしているのであるが、狐と決めてしまうのはどうも面白くないと思ったので、わたしは正体を説明せず、単に一種の妖麗幽怪な魔女ということにして置いた。したがって、あれは一体何者だと云うような疑問が起こるかも知れないが、それは私にも返答は出来ない。くどくも云う通り、昔は播州姫路の城内にああいう一種の魔女が棲んでいて、ああいう奇怪な事件が発生したのだと思って貰いたい。又、その以上には御穿索の必要もあるまいと思っている。
 今度の上演について、おそらく此の小坂部の身許しらべが始まるだろうと思われるから、ちょっと申し上げておく。
(大正一四・二・演芸画報)

(昭和三十一年二月、青蛙房刊『綺堂劇談』所収「甲字楼夜話」より)





底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
   2002(平成14)年3月29日初版発行
底本の親本:「綺堂劇談 甲字楼夜話」青蛙房
   1956(昭和31)年2月
初出:「演芸画報」
   1925(大正14)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年9月23日作成
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