探偵小説と音楽
野村胡堂
近代探偵小説に一つの型を与えた、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」は、あの苛辣冷静な性格に似ずヴァイオリンをよくし時には助手のワトソン博士に一曲を奏でて聴かす余裕があり、緊迫した空気の中で、トスカニーニの指揮するモーツァルトに興味を持ったりしている。
たったこれ丈けのことであるが、音楽を知り、音楽に親しみを持つということが、シャーロック・ホームズを、どれだけ我々読者に親しませるかわからない。しかもそれは決して付け焼刃ではなく、あの明哲冷厳なホームズが、心から音楽を愛する態度が沁み出して、ほほ笑ましきものをさえ感じさせるのである。作者コナン・ドイルに、並々ならぬ音楽に対する愛情があるからであろう。
ヴァン・ダインは私の好きな作家の一人だが、その出世作「カナリア殺人事件」の重大な詭計は、ベートーヴェンの第五シンフォニー第二楽章アンダンテのレーベルを貼ったレコードに針を落すと、暫らくの間は音楽も何んにも聴えず、唯針音だけを立てて廻って居るが、レコードの最後に近くなって、突然恐怖に充ちた声で「助けてエ、助けてエ」と女の甲走った声で絶叫し、続けて「いいえ、何んでもないの、大声なんか出して悪かったわねエ、どうか続けて頂戴、心配なさらなくても宜いワ」と殺された女の声で続けるところがある。このレコードに吹込ませた女の声が、明察のヴァン・ダインをさえ、最後まで迷宮に引摺り込んでいたという筋で、その探偵小説的構成の精緻さは、まさに響歎すべきものであるが、厳格に言えば、此素晴らしい詭計にも、レコードの製作工程に対する、説明を欠いて居るという非難は免れない。
詳しく言えば、殺された女の声をワックスにレコードと、それを厄介な工程を屡々プレスするということは、素人業では出来ることでは無く、レーベルを印刷して貼付するだけでも、犯罪発覚の端緒にならずには済まされないだろうということである。百歩を譲ってこのレコードが、素人の吹込などに利用している簡単な録音盤だとしても、第五シンフォニーのレーベルの貼付は六づかしく、糊や膠で貼った位では、これはヴァン・ダインの慧眼を誤魔化せるものでは無い。
近頃の人気作家エレリイ・クイーンには、ピアノの象牙の鍵の間に小さく畳んだ密書を隠して、そのピアノを弾く者に発見させるように仕向けた、味の細かい詭計を用いた小説がある。併しこれは直接音楽と関係のある筋ではなく、その位の事なら、まだ他にも沢山あるだろうと思う、例えばヴァイオリンの胴の中に、密書や宝石を隠したという筋などは私の知って居るだけでも二つや三つでは無い。
楽譜を暗号に使用した実例は、第一次欧州大戦の頃から、決して珍らしいものでは無いと言われて居るが、探偵小説に応用したもので、すぐれた例を私は一つも知らない。実例から言っても、疑わしい楽譜を読んで見て、それが音楽になって居なければ、唯それだけのことで間諜の暗号と見倣されるわけで、音楽気の無い探偵小説家が、出鱈目に作った楽譜の暗号などが、本当の意味で暗号の役目を果たす道理は無いわけである。日本の探偵小説にも、楽譜の暗号を使用した例を私は幾つか知って居るが、殆んど悉く子供だましで、此処に挙げるほどのものは一つも記憶してはいない。
私は嘗て――自分の事を言うのは甚だ恐縮だが、――サン・サーンスの「死の舞踏」のピアノ譜に、暗号を書き込んだという筋の小説を書いたことがあるが、甚だ不出来で赤面ものでしか無かったと思って居る。
これは実際にあった話だが、私の娘のK子がまだ生きて居る頃、娘の宛名で不思議な手紙が舞い込んだことがあった。それは五線紙に丁寧に書いた楽譜には相違ないが、ピアノでも叩けず、歌でも唄えないもので、最後の行に書いた骸骨の絵が、病弱で神経質なK子を、ひどく脅かしてしまったのであった。
その頃K子は鎌倉に住んでいて、私は東京の家から一週間に一度位ずつ見舞って居たが、ある日不意に訪ねて行くと、「気味の悪い手紙が来て居るのよ、不良少年の悪戯かも知れないと思うけれど、どうしたものでしょう」と、兄妹達と一緒に、全くおびえ切って居るのであった。
私はたった一と眼で、それは極めて簡単な暗号に違いないと思った。
五分ばかり考えた後、「K子、私が読むのを其処へ書いて御覧」、私はそう云い乍ら翻訳して行った。その文句は――K子さん御機嫌はいかが、この三四日はすっかり春らしい良い気候になったのね――と言った、世にも他愛の無いもので、それはK子の一番親しい友達の悪戯に過ぎないことがわかったのである。
この十年前に病床のK子を驚かした楽譜の暗号手紙を、最近K子の遺した手紙の束の中から発見して、私は不思議な感慨に打たれたことであった。
それは兎も角として、こんな罪の深いのではいけないが、楽譜でどんな暗号の手紙が書けるか、恋人同士、友人同士で試して見るのも面白いではあるまいか、若い人にはそれ位の悪気があっても決して悪くはないだろう。
神秘小説の題材として、音楽を使ったものは甚だ少くない。誰かの小説に簡単なオルガン曲で、それが悪魔的な魅力を持ち、演奏者を不思議な陶酔と昏迷に導くのを、恋人がバッハの聖らかなオルガン曲を弾いて対抗し、辛くも異教的な誘惑から恋人を救うと言った物語を読んだことがある。ヴァグナーの「タンホイザー」や、ムソルグスキーの「禿山の一夜」と同じ思想で、別に珍らしくは無いが、一寸興味のあるものであったと思う。
岡本綺堂氏の書いたものに「落城の譜」という奇談物がある。ある武士が、落城の時でなければ吹いてはならぬ保螺貝の曲に異常な誘惑を感じて、山中に分け入って吹き試みたために、永の暇になるという筋であったが、その落城の譜に限りなき魅力を感ずる、武士の心持が非常に面白く書けていたと思う。
又自分の事を言うようで、甚だ気がひけるが、私が二十年前に書いたものに「魔の笛」というのがあり、これは笛吹の専門家まで訪ねて書いた作品だが、亡くなった伊庭孝氏に褒められたことを今でも記憶して居る。外に銭形平次に「禁制の賦」があり、現代探偵物に「音盤の謎」「葬送行進曲」芸能小説に「古近江」などというのを書いたが、いずれも言うに足りない。
一度「鼓」のことを書いて見たいと思って居るが、どうした事かいまだに期が熟さない、芝居の千本桜の狐忠信の鼓は少し馬鹿馬鹿しいが、謡曲の「綾の鼓」はいかにも深酷で、これは少し舞台を考えるとそのまま小説になるだろう。谷崎潤一郎氏の「盲目物語」的な名人業でやってくれると申分ないが、それ程でなくとも、何んとか格好をつけてくれる人があるだろうと思って居る。
尤も、泉鏡花氏は好んで謡曲を題材にし、「綾の鼓」なども「風流線」の中に活かして使って居た筈である。
芸術的な作品の中には、ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」のように、音楽を題材とした不朽の名作があるのに、音楽を題材として、音楽的知識を必然的な鍵とした、一篇の傑作探偵小説も無いというのは、如何にも口惜しいことである。(尤も既にあるのかも知れないが、不学にして、私はその一つも挙げることが出来ない)
これは他の場合にも書いたことであるが、小説の中に扱われた音楽の知識が、どんなに間違って居るかを、刻明に集めた英文の著書があるということだが、不思議なことに日本の小説に現われた、音楽上の誤謬と出鱈目については、まだ曾て指摘した人は無いからだ。
一時日本の小説――特に甘美な恋愛を扱った婦人雑誌級の小説に、音楽の知識や用語を採り容れることが流行し、誤謬と出鱈目が氾濫したるにも拘らず、楽壇の紳士諸君は、極めて寛大にこれを看過したのはどうしたことであろうか。
先に掲げたヴァン・ダインの「カナリア殺人事件」を訳した、故平林初之輔氏の訳文にも、ささやかな手ぬかりがあり、あの驚く可き物識り、故小栗虫太郎氏の小説の中にさえも、音楽上のことに関しては多少の誤は免れなかったようである。
今は飛騨の高山に引込んで、新しい活躍を用意している江馬修氏が日本の小説に現われた音楽用語及び知識の、愛嬌のある誤謬について私に話したことがある。それは今から二十年の昔で、悉く時効にかかってしまった文壇人は――恐らく我も人も――今に至るまでこの誤りを繰返して止まない。
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