捕物小説を書くことの
二十年前、「オール読物」が創刊された時、編集長の今は亡き菅忠雄君が、新聞社の応接室に私を訪ねて、「岡本綺堂さんのような捕物を書いて見ないか」と持ち込んで来たのが、この二十年の苦難道中の始まる原因であった。それから、戦争の初期と、戦争の末期と、二度ほど半年位ずつ休んだが、「銭形平次の捕物」は三木鶏郎君にまで冷かされるほど、永々と根気よく続いた。私は好きで書いてるわけでもなく、暮しのために書いてるわけでもないが、御存じの強力なジャーナリズムが、弱気な私を引摺って書き続けさせて居るというのが本当の話である。
その癖私は、同じ短篇連載の「奇談クラブ」や「磯川兵助」などよりは、遥かに楽に書いているのであるが、楽々と書いている癖に「これで
大抵の人はよく「一つ一つ違ったトリックを考えるのは六つかしかろう」というが、三百篇も捕物を書いていると、そんな事は大した問題ではない。碁打が詰碁の新題を考え、将棋差しが詰将棋の新手を考えるのと大した違いは無く、毎月二つや三つはどうにかなるのであるが、一番悩ませられるのは、毎篇違った人間を創り出して、違った心と心の接触を
私は「銭形平次」を書き始めた頃は、
ワトソン役として、八五郎を発見したのは四回目の「呪いの銀
長い間には私の考えも態度も少しずつ変って行った。「面白く読ませよう」とした受け身の時代から「
私は草深い奥州の百姓の子として生れた。私の少年時代には、家族のうちにも、天保安政生れの老人があり、南部藩の百姓一揆の恐ろしさを身を以て経験した人も少くはなかった。従って私は侍階級の横暴と驕慢をいやが上にも聴かされて育ち、筆を執るようになってからは、侍階級の歪められた道徳を、非難し
封建的な義理や人情、寺子屋的な或は三勝半七的な道徳も、私の嫌いなものの一つであった。戦争前から戦争へかけて、極端に日本的なものが、
近頃はもうそんな山気も争気も無くなってしまった。私は楽しくて明るい捕物小説を書いて、皆んなに喜んでもらいたいという外に大した慾望はない。が、大きな憂鬱は相変らず私にのしかかっている。事件を書かずに心の動きを書くことの六つかしさ、換言すれば人の心の動きと動きによる、微妙なトリックを発見し、それを描写して行くことの六つかしさが私を憂鬱にするのであろう。
幸にして私共は祖師岡本綺堂先生を