映畫はさすがに大衆のものだけあつて、わたしのような外國映畫の臺詞を飜譯している、いわゆるスーパー屋さんにまで、ファン・レターならぬいろいろの手紙が、思わぬところから舞いこんでくる。
半年ほど前だが、東北のさるところから屆いたはち切れるほど部厚な封書は、マニアじみた國字改良論者からのものだつたが、彼氏自ら苦心考案するところの略字、略号を克明に並べ立てて、中國の略字政策も遠くおよばぬ抱負經綸をるる述べてあつた。結局は、この教祖、わたしにもその使徒の一人になれとのたまわくのだが、うかつに返事でも出そうものなら、前に何倍する長文のご書翰を賜りそうなのに辟易して、わたしは單なる敬意だけにとどめておいた。それにしても、その説き起し説き去るくだりは、およそ制限漢字など無視した詔勅のごときものであつたのは、この教王があるいは大いにユーモアを解されるご仁かとも思われたことであつた。
また、これはごく最近、「スパイ」という映畫で、フランスの口中清凉劑ごときものが出てくるので、それを分りやすく、日本で最もよく知られている清凉劑の名におき變えたら、ある日、その製造元から、その社の製品のオール詰め合わせの小包がとどき、「わが社の製品が歐米諸國においても廣く認められんとする(まさか!)趨勢を裏書することに力を借した」といつた意味のうまくこじつけた表彰状ごときものがついていたのには、苦笑せずにはいられなかつたが、それとは別に、そのときほど、世のなかに、女房ほど欲の皮のつつぱつた人類はいないものだと痛感されたことはなかつた。「こんどは、どこかの銀行の名を使つてみなさいよ。ギフト・チェックぐらいくるかもしれないわよ」と、こと欲に關しては、とつさに、よくもまあ、こう頭腦が廻轉するものである。
とんでもない! 銀行はこりごりである。銀行では、いちど、苦い思いをさせられたからである。
「女優ナナ」という映畫のなかで、Comptoir de Crdit Imprial という原語を「帝國信用金庫」と何氣なくやつたところが、まもなく、その業界の連合會から、内容證明の猛烈な抗議文をぶつけられたのには驚いた。映畫のなかで、「帝國信用金庫」が隆々と榮えていれば文句もあろうはずはなかつたし、それこそ、女房の言い草ではないが、金一封ぐらい頂けたかもしれなかつたが、生憎と破産して取りつけ騷ぎを食うのだからいけなかつた。「故意にわが國の信用金庫を誹謗し、陷れんとするものである」というような文句を使つて、新聞紙上に謝罪文を出せとの要求である。故意とは心外であつた。映畫會社に相談したら、それは面白い、騷ぎが大きくなれば、またとない宣傳になると言う拔目なさだつた。そこで、わたしも意を強うして頬被りをしていると、相手は、こと業界の命運に關するとばかり、手段を變え、人を變えては、談判にくる。ルイ十六世の時代のフランスには「信用金庫」なるものはない、これは日本だけにあるものだと大上段にふり被つて來る者があると思えば、次に來た使者は「せめて殖産金庫に直したらどうか、殖産なら潰れたから」と妥協的である始末で、この係爭(?)は、幸か不幸か、さして宣傳にもならなかつたが、それを金にしようとする者まで現われて、三ヵ月間くらいくすぶりつづけたあげく、遂に、こちらでも、我を折つて、信託銀行と直せば、先方でも謝罪文要求は引込めて、おんびんにけりがついたが、なんのことはない。その頃は、日本全土の大半を映畫は既に廻り切つていた。すんでみれば座興話だが、先方が國際法學者まで引つぱり出して堂々の陣を張るので、法律に暗いわたしは、どうなることかと、ずいぶんと氣をもんだ。中央紙何社、地方紙何社などと先方の要求通り謝罪文を出したひには、それこそ「帝國信用金庫」ならぬわたしが大破産してしまう。くわばら、くわばらであつた。
一番よく來る手紙は、直接間接のアルバイトの依頼状である。これは、月に四五件は必ずある。失職したから映畫の飜譯でもやらせてもらえまいか、現在の給料ではやつていけないからアルバイトにやらせてくれという類いであるが、こんな手紙を受けとると、わたしはつい不愉快にならざるを得ない。勿論、返事は殆んど出さない。アルバイト仕事ぐらいに考えてもらいたくないからである。
そういうわたしも、むかしは、これを本業とするつもりはなかつた。もともと、この仕事は映畫批評家や宣傳部員の片手間の仕事であつて、まず下積みのあまり榮えない仕事とされていた。
だが、いまは、わたしにとつて、ついのなりわいとなつている。そうなれば自然と仕事を大事にすることにもなるが、わたしが、今日、ともかくも、日本へ來るフランス映畫のほとんど全部を手がけているのは、少くとも、心機一轉、アルバイト根性を改めて、わたしなりに眞劔に取組むよう努力しているからである。
私事を述べるのは面映ゆいようだが、わたしの意圖は、ここで、わたしが今の仕事に滿足して働けるようになるために、恩人的役割をして下さつた大岡昇平氏があることを言いたかつたが爲である。その頃、大岡氏はあの「野火」を書かれていた最中か、あるいは書きあげられた直後か知れなかつたが、まだ復員の軍袴姿で、一夜、わたしの譯した「山師ボートラン」という映畫の日本語版を、徹底的に、かしやくなく添削して下さつたのである。安直に、それこそいい加減な仕事をしていたわたしには晴天のへきれきであつたし、深く自省する機會ともなつた。
それともう一人、東大の小林正氏もわたしがひそかに龜鑑としているお方である。小林氏は「肉體の惡魔」の對譯シナリオを執筆されていたとき、代名詞の“Le”を、「あれ」と譯せば事足りるのに、そのあれが何であるかを究明する爲に、映畫會社へ幾度か足を運ばれたのであつた。わたしは、この態度にうたれ、これこそ龜鑑とすべきだと思つた。
恩人といい、龜鑑といい、まことに古めかしい言葉だが、古風を以つて自任するわたしは、つい仕事が投げやりになりがちな時は、必ず大岡、小林兩氏を思つて氣を引きしめ直すのである。何かの機會があつたら、どうしても感謝の意を表したいと常々思つていたので、駄文のあとにつなげた無禮を、兩氏よく諒として頂きたいと思う。
(飜譯家)