第一夜
「昨晩」、わたしはお月さまが口にしたままを書いています。
「昨晩、私はインドの雲ひとつない空にいて、私の顔がガンジス河の水面に映し出されていました。私の光は、下の方でまるでカメの甲羅みたいにこんもりしているバナナの太い絡み合う枝のあいだまで照らし出しました。そのこんもりとしているところから、カモシカのように身軽でイブのように美しい、一人のインド人の娘が飛び出してきました。このヒンドゥーの娘は立ちすくんでいて、見た目は軽やかでとても美しく、それでいてまわりの闇からははっきりと目立ちました。彼女の繊細な表情から、どうしてここにきたかを読み取ることが出来ます。下をはう、とげだらけの植物が彼女のサンダルを破りましたが、そんなことには全然かまわず彼女は先へといそぎました。乾きをいやすために河へとやってきたシカは、彼女が手にもえさかる炎をもっていたので、びっくりして飛びのきます。彼女はゆらぐ炎が消えないように手でおおっていましたから、その細い指先には血管がすけてみえました。河のそばまで降りてくると、炎が水面に映りました。映った炎は河の流れにそって流れていきます。炎は前後に大きくゆらいで、今にも消えてしまいそうでしたが、まだ燃えつづけてしました。少女の黒くかがやける瞳は、長いシルクのようなまつげで半分かくれていましたが、真剣なまなざしで河に映った炎を追っています。彼女は知っていました。もし見えている限り炎がもえつづけていれば、彼女のいいなづけはまだ生きているということを。ただもし炎がとつぜん消えてしまえば、彼は死んでしまったと。炎はしっかり燃えつづけ、彼女はひざまづき祈りました。すぐわきの草のなかには斑点のある蛇がいましたが、彼女はそんなことは気にかけません。彼女が考えていたのは、インドの神様といいなづけのことだけでした。「生きてる」 彼女はよろこびのあまり叫びました。「生きてるのよ」 山々からはこだまがかえってきます。「生きてるのよ」
第二夜
「昨日」、お月さまはわたしに語りかけます。
「四方を家々にかこまれた小さな中庭を私は見下ろしていました。中庭には一匹のめんどりと十一匹のひよこがいます。一人の小さなかわいい女の子が、そのまわりをとびはねながら走りまわっていました。めんどりはびっくりして、鳴きさけびます。そして羽をおおきくひろげ、ひよこたちをかばいました。すると女の子の父親が家からでてきて、女の子をしかりつけました。私は空を動き、それっきりそのことを忘れていました」
「でも今晩、数分前のことです。私は同じ中庭を見下ろしていました。あたりいちめん静まりかえっていましたが、とつぜんあの小さな女の子がまた出てきました。しずかに鶏小屋にしのびよるとかんぬきをはずして、めんどりとひよこがいるところへと入っていきます。めんどりとひよこは大声をあげて止まり木から飛び降り、びっくりぎょうてんして走り回っています。そして小さな女の子は、そのあとを追いかけまわしているのです。私には、鶏小屋の壁の穴からこの光景がはっきりと見えました。私はこのわがままな子供にすっかり腹をたてて、父親が家からでてきて昨日よりひどくしかりつけ、腕をきつくつかんだときには嬉しくおもったほどです。女の子はうなだれました。その青い目にはおおつぶの涙があふれています。
「ここで何をしてたんだ」 父親はたずねました。女の子は泣きじゃくりながら答えます。
「きのうおどかしたから、めんどりさんにキスしてあやまろうと思ったの。でもこわくて、お父さんにはいえなかったんだもの」
「父親は無垢な子供の額にキスをしてやりました。もちろん私もその子の目と口にキスをしましたとも」
第三夜
「向こうの街角のせまい通りで、あんまりせまいので私の光も家の壁にそって一分ほどしかとどかないところなのですが、その一分でも私にはどんなことが起きているかをみるには十分です。そのせまい通りで、私はひとりの女性をみました。十六年前にはその女性も子供で、田舎の古い牧師館の庭であそんでいました。バラのいけがきもかれ、花もしおれていましたが小道まで生いしげり、とげのある枝をりんごの木々の枝にまでのばしていました。あちこちでバラの花がいくつか咲いていましたが、よくいわれるところの花の女王というほどではありません。ただ色と香りはなかなかのものでしたけど。牧師の小さな娘のほうが、私にとってはずっと愛らしいバラにおもえました。その女の子はおいしげった生垣の下にこしかけて、使いふるされてぼろぼろになった人形にほおずりをしていました」
「十年後、ふたたび彼女をみました。はなやかな舞踏室にいたのです。お金持ちの商人の美しい花嫁となっていました。私も彼女の幸せを祝福し、静かでおだやかな晩には彼女のもとに訪れたものです。だれも私のすきとおった目としずかなまなざしに気づく人はいなかったのですが。それにあの牧師館の庭のバラのしげみのように、私のバラも伸び放題になっていました。日常生活にも悲劇はあります。今晩その最後の一幕を私はみたのです」
「そのせまい通りの一軒の家に彼女は横たわっていました。死にいたる病でした。冷酷な大家がやってきて、寒さから彼女を唯一守ってくれるうすい上布団をひきはがし、『起きろ』といいました。『おまえの顔をみるとぞっとするくらいだ、さっさと起きて着飾って、おれのところに金をもってこい。じゃなきゃ道端にでもほうりだすぞ、いそげ、起きるんだ』 彼女は答えました。『あぁ、死がわたしの胸をむしばんでるんです。どうか休ませてください』 しかし大家は彼女を無理やり起し、化粧させ、髪にはバラのかざりをさし、窓際の椅子にすわらせました。そしてそばにろうそくを一本ともして、出て行きました」
「私は彼女をみましたが、両手をひざにのせ身動きひとつせず座っていました。風がふき、開いた窓が大きな音をたてて閉じ、窓ガラスが一枚こなごなにくだけました。でも彼女はぴくりともしません。カーテンに火がもえうつり、炎が顔をてらしだします。私には彼女が死んでいるのがわかりました。開いた窓の側に死んだ女性が座っていて、それは原罪にたいする説教になっています。牧師館の庭から生えた私のかわいそうなしおれたバラ」
第四夜
「今夜私はドイツ演劇が上演されるのをみました」 お月さまはそう語りだしました。「そこは小さな町でした。ある馬小屋が劇場になっていて、そうです、馬がいるところもそのままで、特別見物室になっていました。そして木でできていたところは全て色紙でおおわれています。天井からは鉄でできた小さなシャンデリアがぶらさげられていて、豪華な劇場みたいに合図のベルが聞こえると、大きな逆さになった桶がシャンデリアの上にかぶさり、まるで天井に消えていくかのようにみせていました」
「チリン、チリン」とベルがなりひびき、鉄でできた小さなシャンデリアはとつぜん半ヤードほども持ち上げられ、桶のなかに姿をけしました。劇がまさにはじまろうとしている合図です。若く高貴な生まれの男とその妻が、たまたまその町をとおりかかって、観劇におとずれていました。そのために小屋は人でいっぱいでした。ただシャンデリアの下だけには、噴火口みたいにぽっかりとスペースができていましたが。ろうがぽたり、ぽたりと落ちてくるので、誰もそこには座らなかったのです。小屋はあまりに暑苦しく、すべての小窓があけっぱなしになっていたので、私は全てを見とおすことができました。男も女も召使たちは外にたっていましたが、すきまから覗きこもうとしては、中にいた本物の警官に警棒でおどされています。オーケストラの近くに高貴な若い二人のカップルが、古いひじかけいすに腰かけているのが見て取れました。その席はいつもならば、町長と奥さんに敬意を評して提供されているものでした。でも町長夫妻は今日はまるでふつうの町民であるかのように、木製のベンチでがまんしなければなりません。町長の奥さんは、しずかにひとりごちました「上には上がいるってことを知らなくては」 そしてこのできごとが、全体のなりゆきにいっそうお祭りらしい雰囲気をもたらしていました。シャンデリアが小さく動き、のぞいていた連中はこっぴどく怒られ、そして私も最初から最後まで劇をみましたとも」
第五夜
「昨日」お月さまは話しはじめました。「私はパリの大騒ぎを見下ろしていました。私の目は、ルーブル宮殿のある部屋でとまりました。一人の下層階級のぼろを身にまとった老婆が下働きのあとについて、広いがらんとした王座のある室へと入っていきます。ここが老婆が見てみたいと思い、見ると心に決めていた部屋でした。この部屋にまでくるのには、ちょっとした贈り物やおべんちゃらをたくさんつかわなければなりませんでしたが。彼女は自分の細い手を組み合わせ、教会にでもいるかのように畏敬の念にうたれ、あたりをみまわしました」
「ここ」と言葉をもらすと「ここだったのね」と王座の方へ近づいていきました。王座からは金のレースの縁取りのすばらしいビロードがたれさがっています。「そこ」と彼女は感動をこめた声をもらしました。「そこなんだ」 そしてひざまづき、紫のカーペットに口づけました。私は彼女は本当に泣いていたと思います。
「でもこれが当時のビロードだったわけじゃないぜ」と召使は声をかけ、その口元には笑みがうかんでいました。「そうなんでしょう。でもまさにここがその場所だったのね」 老婆は答えました。「それにこんな感じだったにちがいないわ」「そうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」と召使。「窓という窓は割られていて、ドアというドアはちょうつがいから壊され、床には血だまりができてたからな」「でもあなたがなんと言おうとも、わたしの孫はフランス王座で死んだのよ、そう死んだ」老婆は悲しげにくりかえしました。私はそれ以上何かが語られたとはおもいません。二人はホールをでていきました。たそがれは闇となり、私の光がフランス王座のすばらしいビロードをいっそう明るく照らし出しました。
「さて、このかわいそうな老婆はだれだったと思いますか? 聞いてください、これからそのお話をしますから」
「7月革命の、もっとも輝かしい勝利の日の夕方に起こったことです。全ての家が要塞になり、全ての窓が胸壁となっていました。民衆はチュイルリー宮殿を急襲しました。戦う人の中には女性や子供でさえみてとれました。かれらは宮殿の部屋やホールへとなだれこみます。ぼろぼろの上着をきた貧しい少年が一人、大人の反乱軍にまじって戦っていました。銃剣で何箇所にも傷をうけたのが致命傷になり、少年は倒れました。それは王座のある部屋でのことでした。群集は血まみれの少年を、フランス王座に横たわらせました。傷にビロードをまき、血が紫のカーペットにひろがり、そのありさまはまるで絵のようでした。豪奢なホールで、戦う人たち。床には引き裂かれた旗があり、三色旗が銃剣の先ではためいています。そして王座にはかわいそうな少年が青ざめた顔つきで、目は空をみつめ、四肢は死の苦しみでもだえ、胸をはだけ、そのみじめなぼろぼろの服は銀色の縁取り刺繍があるすばらしいビロードで半分覆われています。少年のゆりかごでは、一つの予言がされていました『この子はフランス王座で死ぬことになるでしょう』 母親の胸には第二のナポレオンの夢が浮かんだことでしょう」
「私の光は、その少年のお墓の花にキスをしました。そして老婆の額にもキスをした今夜、夢の中では彼女の前にあなたが書いたかもしれない絵が浮かんだことでしょう。そうフランス王座にすわった貧しい少年の絵が」
第六夜
「私はウプサラにいたこともあります」お月さまは言いました。「草もまばらな大平原と不毛の地を見下ろしていました。蒸気船が魚たちをけちらしているとき、自分の顔がチュリス川に映るのをみました。私の下ではさざなみがたち、いわゆるオーディン、トール、フリーガの墓の上に長い影をなげかけました。丘をおおうまばらな芝には、名前が書かれていました。ここには記念碑はありません。旅人が記念に自分の名前を刻むものもないのです。表面に名前が書けるような岩肌もありません。したがって訪れた人たちはそのために芝生に名前を書くのです。地の肌が文字の形となって、名前となるわけです。こうした名前は丘全体にみてとれました。これは永遠にのこるといってもいいでしょう。新しい芝生がはえてくるまでは」
「丘の頂には、一人の男、詩人がたっていました。広い銀の縁がついた杯ではちみつ酒をあおると、ある名前をつぶやきました。風に秘密にしておいてくれるよう詩人は頼みます。でも私はその名前を聞いてしまいました。私にはそれが誰だかわかりました。伯爵の冠がその名前にはきらめいています。だから詩人はその名前を大きな声で口にしなかったのです。私は詩人の冠がかれの名前をひきたてていることを知っていたので微笑みました。貴族のエレノラ・デストは、タッソの名前にむすびついています。そして私はどこに美しきバラがさきほこるのかも知っていました」
そうしてお月さまがしゃべったとき、雲がひとつわたしたちの妨げになりました。詩人とバラのあいだも雲がさまたげなければいいのですが。
第七夜
「波打ちぎわには延々と、ナラとブナの森がつづいていました。この森は生き生きとして、いい香りがしました。春になると何百羽のナイチンゲールがその場所を訪れます。常に姿をかえる海にたいへん近くて、海と森のあいだには広い街道がはしっていました。馬車が次から次へと通っていきます。ただ私はそれを追いかけることなく、視線は一点にくぎづけです。そこにはフン族の墓があり、スローやリンボクが岩々のあいだに生い茂り、ここにこそ本物の詩が存在しているのです」
「人々はいったいこの詩について、どう思っているのでしょう? 昨晩、夜を通してここで語られ、私が耳にしたことをお話しましょう」
「最初に、たくさんの荷物をつんだ二人がやってきました。『立派な木々だな』片われがいうと、『確かに、一本から十荷はたきぎがとれるな』と相棒が答えました。『今年の冬も寒そうだし、昨年は一荷十四ドルだっけ』そして二人は去っていきました。『ここらの道はひどいね』やってきた他の男がもらしました。『まったくこういった木々のせいだよ』隣の席にすわっていたものが答えます。『風がぬけていかないからな。風は海のほうからしかこないんだ』、そしてその二人も去っていきました。駅馬車がガタガタ、音をたてながらやってきます。このような絶景の場所にさしかかっているのに全員寝ています。御者は警笛をふきました。ただこんなことを考えていたのです『おれはなんて笛をふくのが上手いんだろう。それにこの場所ときたら一段といい響きだな。ここにいるやつらも気に入っただろう』そして馬車の姿も見えなくなりました。それから二人の若い連中が馬にのってやってきました。血気盛んな若者たちだな、と私は思いました。そしてかれらは、モスグリーンの丘と深い森をみて笑みを浮かべます『粉引小屋のクリスチーヌとここを歩くのも悪くはない』片方がそう口にして、二人は疾風のごとく去っていきました。
「花の香りが辺りにただよい、風もおちつき、まるで海も深い谷の上に広がる空の一部になってしまったかのようです。一台の馬車が通り過ぎ、6人が中にすわっていました。4人は寝ていて、5人目は自分の新しい夏の上着が自分にすばらしく似合うだろうなと考え、6人目は御者の方をむき、向こうに見える石が積んであるのは何かめずらしいものかと尋ねました。『いいや』御者は答えました。『ただ石が積み重ねてあるだけでさぁ、あっちの木々は特別ですが』『それはまたどうして?』『どうして特別か教えましょうや。冬に雪がどっさりつもると、道がぜんぶ隠れて何もみえなくなって、その木々が目印として役立ってわけです。あれを目印にするんで海につっこんでいかなくてすむってわけです。ほら、どうして特別かおわかりになったでしょう』」
「それから、画家が一人やってきました。一言も話しませんでしたが、目は輝いていました。画家が口笛をふくと、ナイチンゲールたちも以前より大きくさえずりました。『静かに』怒ったようにいうと、かれは全てのものの色と場所を正確に書きとめました。青、薄紫、こげ茶。『これはすばらしい絵になるぞ』とふともらしました。画家は鏡に映ったかのようにその景色を描きます。描いているあいだは、ロッシーニのマーチを口笛でふきました。一番最後にやってきたのは貧しい少女です。運んできた荷物をおろして、フン族の墓のところで一休みしています。青白い整った顔で、森の方に耳を傾けています。目はきらきらと輝き、海と空を熱心にみつめていました。両手を組み、お祈りをしていたように私は思いました。『父なる神よ』。彼女は自分でも自分の中にひろがる感情を理解できませんでした。ただ私は、その瞬間が、その美しい自然の風景が、彼女の記憶に何年ものあいだ生き続けることを知っていました。それも画家がさまざまな色をつかって紙に描く絵よりも、もっと生き生きと、そしてもっと本物らしく。夜明けの光が彼女のまつげにキスをするまで、私の光は彼女を照らしつづけました」
第八夜
どんよりした雲が夜空をおおい、お月さまはまったく姿をみせませんでした。わたしは小さな部屋に一人たちつくし、前よりずっと寂しい想いにとらわれ、お月さまが姿をあらわすはずの夜空をながめていました。わたしの想いははるか遠く、毎晩わたしにすてきなお話をして、絵をみせてくれる親友のところまで至っていました。そうです、お月さまはなんでも知っているんです。ノアの洪水のときも世界を照らし、わたしに微笑みかけるようにノアの箱船にも微笑みかけました。そして旧世界からとびだした新世界に慰めと約束をもたらしたのです。イスラエルの民がバビロン河のほとりで涙にくれていたとき、お月さまは柳の木々に鳴らない竪琴がかけられているのを悲しそうに見ていました。ロミオがバルコニーにのぼり、天使が天国へいくように真実の愛がはばたくとき、まあるいお月さまは半分ヒノキに姿をかくしながら明るく照らし、見ていたのです。セントヘレナの有能で偉大な人物が、さびしげな岩の上から広い大海をみつめていたのも目にしていました。そのときにも彼の魂の中には偉大なる考えがひしめいていたのですが。あぁ、お月さまの語るお話のなんてすばらしいこと。人生とはお月さまにとってはお話です。今晩お月さまの姿はみえないでしょう。お月さま、今晩、わたしはあなたが訪問してくれる思い出の絵はかけません。そして、夢みごこちで雲の方をみつめると、夜空があかるくなりました。ひと筋の光がさし、月からの光がわたしを照らし出します。ただお月さまはすぐ姿をけし、黒い雲がとおりすぎました。しかしそれでもちゃんとしたあいさつです。お月さまからわたしへの友情のこもった「こんばんは」のあいさつです。
第九夜
空気はふたたび澄みわたっていました。幾夜がすぎ、月は上弦になっていました。ふたたびお月さまはわたしにスケッチの輪郭を語ってくれました。お月さまの話をきいてください。
「私は北極鳥と泳いでいる鯨を追って、グリーンランドの東端まできていました。荒涼とした氷に覆われた岩々と暗い雲が谷にたちこめています。そこには小さなやなぎとヒロハヘビノボラズが緑に装い、花をつけたセンソウが甘い香りを漂わせていました。私の光はぼんやりとしていて、茎からちぎれて何週間も流れにただよったすいれんのように私の顔は青白くなっていました。王冠の形をしたオーロラが夜空にはげしく燃えています。オーロラの輪は大きく、そのまわりでは光線が夜空全体に何本もの火柱のように放たれていました。オーロラは、緑から赤へときらきら色を変えながらきらめていました。氷におおわれた場所に住んでいる原住民たちはダンスとお祭りのために集まってきています。ただかれらはそういったすばらしい見ものには慣れっこで、わざわざ目をやったりはしません。「死人の魂は、セイウチの頭でボール遊びをさせておけばいい」という迷信を信じていたのです。かれらのすべての関心は歌とダンスに向けられていました。輪の中心では、一人のグリーンランド人が毛皮の上着をぬぎすて、小さな縦笛をもち立っていました。かれはアザラシ狩りの歌を演奏しました。まわりのコーラスがそれに「エイ、エイ、ヤ」と合いの手をいれています。白い毛皮をきて輪になっておどっているさまは、まるで北極熊がダンスをしているかのようでした」
「そして裁判が行われました。争っていたグリーンランドの人たちが前に進み出て、被害を受けたものが前に出て相手の非を縦笛の音楽にあわせてダンスしながら即興で歌い、物笑いの種にするわけです。相手もするどい皮肉でもってそれに答え、観衆はわらいながら評決を下します。岩々が動き、氷河がきしみ、大量の氷と雪がくずれおち、こなごなに砕けました。すばらしいグリーンランドの夏の夜でした。100歩ほど向こうに革のテントがあり、一人の病人が横たわっていました。まだ温かい血には生命がかよっていましたが、この男は死ぬ運命なのでしょうか? 男は自分でもそれを感じていましたし、男のまわりをとりかこんでいたものも全員それを知っていました。だから男の妻はすでに体の周りに毛皮の覆いを縫いつけていました。死んだ後、死体にさわらなくてもすむようにです。妻は尋ねました。「岩にうめてほしいの、それとも固い雪の中に? その場所をあんたのカヤックと矢でかざりたてるよ。祈祷師がその上でおどってくれるだろうよ。それとも海に沈めたほうがいいかい?」「海に沈めてくれ」男はささやき、悲しげな笑みをうかべうなずきました。「あぁ、海は夏には心地いいテントだものね」妻も口にしました。「何千というアザラシがそこでたわむれてるし、セイウチも足元でよこたわり、安全ですてきな漁ができるだろうよ」泣き叫ぶ子供たちが、死体を海へと運んでいくために窓の穴から覆いをはずしました。大波がうねる海に、そこは生きているときは食べ物をもたらし、今死んでからは休息の地となるわけです。男の墓は浮かんでいて常に形を変える氷山で、その上でアザラシが眠り、コアシウミツバメがきらきら光るその天辺の上を飛んでいくのです」
第十夜
「私はひとりのおばあさんを知っていました」お月さまは話しだします。「彼女は冬になるといつも黄色のサテンを羽織っていました。それはいつも流行のもので、それが彼女が唯一流行についていってると思っているものでした。夏になると、同じむぎわらぼうしをかぶります。そして私は、いつも同じ青灰色のドレスを着ていたと本当に信じています」
「おばあさんは、通りの向こう側の昔からの親友のところまで行く以外は外出しませんでした。ここ数年は、親友が死んでしまったので、それさえしません。ひとりぼっちですが、おばあさんはいつも窓際で忙しそうにしていました。窓際ではフェルトの上に、夏は小さな花々が飾り立てられ、冬はカラシナが育てられています。ここ数ヶ月は、おばあさんを窓際でみかけることもありませんでした。ただ彼女は生きていますし、私にはそれがわかっています。なぜなら私はまだ彼女が『長い旅路』につくのを見ていないからです。『長い旅路』とは、おばあさんが親友とよく話していたことでした。『そう、そう』おばあさんはよく言っていたものです。『死ぬときには、一生の中で一番長い旅をするのよ。わが家の墓はここから六マイルもはなれていて、わたしはそこに運ばれ、家族や親戚といっしょに眠ることになるわけ』昨晩、一台の馬車がその家の前に停まりました。ひつぎが運び出されてきます。私にはおばあさんが亡くなったことがわかりました。ひつぎの周りにはわらがしきつめられ、馬車は走り出しました。そこには、ここ一年は一度も外にでたことがなかった物言わぬおばあさんが眠っていました。馬車は楽しい遠足にでもいくみたいに軽やかに街の門をくぐりぬけました。街道ではペースはさらに上がりました。御者はときどきあたりを不安そうにみていました。私が思うに、黄色いサテンの上着をきたおばあさんがひつぎの上に座ってるのでも想像したんでしょう。御者はびくびくしていたので、考えなしに馬たちをいそがせました。手綱をあんまりつよく持っていたので、かわいそうな馬たちはあぶくをだしている始末です。馬たちはまだ若くて、元気いっぱいでした。一匹の野うさぎが街道にでてきて、馬たちを驚かせ、そして馬たちは猛烈な勢いではしりだしました。落ち着いたおばあさんは、何年も何年もきまった場所をしずかに行き来していたのに、死んだ今になって街道の木や石でガタガタさわがしくしているわけです。わらをかぶったひつぎが、馬車から転げ落ち、街道に置き去りになりました。にもかかわらず、馬たち、御者、馬車はものすごいスピードで走り去っていきました。ひばりが野原からとびたち、さえずりの声をあげました。ひつぎのところに立ち寄って、朝をつげているみたいです。ひつぎの上にとまり、覆い被さっているわらを取り除こうとでもするようにつついています。ひばりは再びとびたち、楽しげにさえずりました。そして私は朝焼けの真っ赤な雲の後ろに姿を隠しました」
第十一夜
「さて、ポンペイの絵をお見せしましょう」お月さまは語りました。「私は郊外の墓場通りとよばれているところにいました。そこにはすばらしい記念碑がたっていて、ずいぶん昔には陽気な若者たちが頭にバラの冠をのせレイ姉妹とおどったところです。今は死の沈黙があたりをおおっています。ドイツ人の傭兵たちがナポリで軍役につき、カード遊びやサイコロをふりながらそこの警備をしていました。一人の見張りにつきそわれて、観光客の一団が山々の向こうから町にやってきました。月の光にてらしだされて、墓からよみがえった町を見に来たのです。私は、溶岩にすっかりおおわれた道のわだちを照らし出し、ドアの表札やまだそこらにのこっている看板を照らし出しました。観光客はせまい中庭で貝殻におおわれた噴水台を目にしましたが、水も噴出していなければ、ブロンズの犬が門のところで番をしている豪華にかざられた部屋から歌声が響いてくることもありませんでした」
「そこは死の都でした。ただベスビオ山だけがいつまでも轟きを響かせていました。その一つ一つが人にとっては、噴火とよばれているものなのです。私たちは雪のように真っ白な大理石でできたビーナスの神殿に行き、その広い階段の前には高い祭壇があり、円柱のあいだで生き生きとしている柳が風にそよいでいました。空気は澄みわたり青く、黒いベスビオ山が常に松の幹のような火柱を噴出しながら背景にそびえていました。その上には夜の帳の中に薄雲がひろがっていて、まるで松の樹冠のようでした。ただ血のように真っ赤にうかびあがっていたのですが。団体の中には一人の女性の歌い手がいました。本物のすばらしい歌い手です。私はヨーロッパの大都市で彼女が絶賛の嵐を受けたのも見ています。悲劇の劇場までやってきたとき、観光客は円形劇場の段のところに腰をおろしました。劇場のほんの一角に、数世紀前とおなじように観客がもどってきたのです。舞台は昔のままで、両脇には壁があり、背景には2つのアーチがかかっていました。観客はアーチのむこうに昔に舞台を飾ったのと同じ風景をみることができたのでしょうか? それはまさしく自然のままの風景で、つまり、ソレントとアマルフィの町のあいだの山々がみてとれるわけです。歌い手はたわむれに古代の舞台に立ち、歌いました。その場所が歌う気にさせ、その歌声は私にアラブの野生の馬を思わせました。鼻息あらく、たてがみをなびかせ、一目散に駆ける馬を。歌はかろやかであるとともに、聞きごたえがありました。すぐに私はゴルゴタの十字架の下でなげきかなしむ母親のことを思いました。劇場は拍手喝采と歓喜の渦につつまれています。『すばらしい、たぐいまれな才能』 聞いていた人はみなそう誉めそやしました。五分後、舞台には人っ子一人いません。一団は去っていき、物音一つ聞こえないでしょう? すべては終わったのです。ただ廃墟は姿をかえず残っています。何世紀たってもこのままでしょう。すばらしい歌に対する一時の拍手喝采や歓喜の渦のことを知るものが一人もいなくなっても、廃墟はこのままです。全てが忘れさられ、去っていっても、廃墟はこのままでしょう。そして私にとってもこの一時は、ほんの過去の夢にすぎないのです」
第十二夜
お月さまは話をします「私はある編集者の家の窓からのぞき込んでいました。ドイツのどこかで、家にはりっぱな家具、多くの本があり、新聞が散乱していました。わかい男が何人かおり、編集者は机の側に立っていました。いずれも若い作家が書いたニ冊のささやかな本が批評されています。『これは私に送ってきたものだ』と編集者はコメントしました。『まだ読んでいないが、あなたがたはどう思う?』『えぇ』一人が答えました、彼自身も詩人でしたが『充分いいできだと思いますよ、確かに少し自由奔放なところあるけど、作者もまだ若いことだし。確かにもっと改良する余地はあるとおもいますが。考え方もしっかりしてます、まぁ、どちらかといえばありふれたものといっていいかもしれませんが。でもいったい何を期待するっていうんでしょう? いつも新しいものが手に入るわけじゃありません。もちろん私もこの作者が偉大な詩人になるとは思いません。でもまぁ、誉めてやってもいいんじゃないですか。なんといっても読めるし、東洋学者としてはなかなかだし、分別もありますよ。私の『家庭生活に対する感想』にけっこういい批評をしてくれましたから。この若者を寛大に扱ってやりましょうよ」
「でもあれはまったくのやっつけ仕事ですよ」他の男が意見をのべた。「月並みほど詩にとって最悪なことはありませんし、この作品はまったく月並みそのものといっていい」
「かわいそうな若者だ」また別の男が口をはさみました「かれの叔母さんはかれのことを誇りに思ってるんだがね。そう編集長、叔母さんっていうのは、こないだのあなたの翻訳にあれほどたくさんの予約をかきあつめてくれた人ですよ」
「あぁ、あのすばらしい女性か。この本に手短な批評をしよう。疑いなき才能、歓迎すべき贈り物、詩の庭にさいた一輪の花、上品にまとまっている、など。ではもう一冊の本はどうだろう、作者はどうやら僕にも買わせる気らしい。誉め言葉は耳にするね。作者は、間違いなく天才だがね。さぁ、どう思う?」
「えぇ、全世界がそう宣言しているかのようですね」詩人は答えた。「ただちょっと雑な感じもしますがね。この本の句点のつけ方なんてとくに、とっぴょうしもないものですよ」
「この男はすこしこきおろして、ちょっとばかし怒らした方がいいんですよ。さもなきゃ、うぬぼれすぎますから」
「でもそれはあまりにフェアじゃないなぁ」別の男が異議をとなえます。「ちいさな欠点をあれこれ言うのはやめて、目の前にあるまさに本物の豊潤な才能を楽しもうじゃありませんか。かれは群をぬいてる」
「そうでもないだろう。本物の天才なら、きびしい批判にもたえうるもんだよ。褒め称える人は大勢いるんだから、思い上がらせないようにしないと」
「まぎれもない才能」編集者は書きました。「ただときおりいい加減なところがあり、25ページには間違った詩がみうけられ、そこでは2箇所ほど韻が誤っている。もっと古典をまなぶことを薦めたい、など」
「私はその場を去りました」お月さまはつづけました。「そしてあの叔母の家の窓をのぞきこみました。そこには賞賛された詩人、平凡な方、が座っていました。招かれた客は全員かれに尊敬の念をいだき、かれはとても幸福そうでした」
「私はもう一人の詩人、並外れた方、も探し出しました。かれもパトロンの家にいて、そこには大勢の人が集まっていました。そこでも平凡な詩人の本が論じられていました」
「『もちろんあなたの本も読みましょう』パトロンは言いました。『でも正直にいわせてもらえば、わたしが自分の意見を隠せるような男じゃないことはわかってるだろうし、この本にはたいして期待してないんだ。その理由は君があまりにとっぴょうしもなく、空想的だからだよ。でも人間としては君はものすごく尊敬に値する人物であることは認めざるをえないが』」
「一人の少女がすみの方に腰掛け、本の次の部分を読んでいました」
「天才と栄光は塵にまみれど
平凡な才能はみとめられる。
これは古き、古い話なれど
同じことは日々繰り返される」
第十三夜
お月さまは口を開きました「森の小道の脇に二軒の農家がありました。ドアは背が低いもので、窓のいくつかは高いところについていますが、他の窓は低いところについています。セイヨウサンザシとヒロハヘビノボラズが低い窓の周りに生い茂っていました。二軒の家の屋根にはコケがむしていて、黄色い花とバンダイソウが育っていました。庭で栽培されているのはキャベツとじゃかいもだけですが、生垣の向こうには柳の木が一本ありました。柳の木の下には少女が一人座りこみ、その少女の目は二軒の家のあいだにある古い樫の木をみつめています」
「樫の木の幹はすっかりやつれていて、上の方は切られ、コウノトリがそこに巣をつくっていました。コウノトリは巣にいて、くちばしをガタガタいわせています。少年が一人やってきて、少女の脇に立ちました。二人は兄と妹でした」
「何をみてるんだい?」兄がたずねます。
「コウノトリを見てるの」妹はそう答えると「となりの人はわたしに、今日コウノトリが小さな弟か妹を連れてきてくれるっていったの。見てましょうよ」と続けました。
「コウノトリはそんなものは運んでこないぞ」兄は胸をはっていいます「おまえは信じてるかもしれないけどね。おとなりさんは僕にも同じことをいったんだ。でも笑いながらだったし。それで僕が『神にかけて?』と聞いたら、答えられなかったんだ。だから僕はコウノトリの話はホントじゃないってわかったよ。子供を喜ばせるためにいってるんだ」
「じゃあいったい赤ちゃんはどこからくるの?」妹は聞きました。
「天国から天使が樫の木の下に連れて来るんだよ。でもだれも天使を見ることはできないから、いつ連れてきてくれるのかは分からないんだ」
「そのとき柳の木の枝がざわめきました。子供たちはお互いの手をにぎりしめ、みつめあいました。まちがいなく天使が子供をつれてきたのです。二人はたがいの手をとり、そのとき二軒の家のうちの一軒のドアが開き、おとなりさんが顔をだしました」
「二人ともおいで、コウノトリが運んできたものをみてごらん。弟よ」
「子供たちは真剣な顔でお互いにうなずきました。というのは、二人とも赤んぼうがきたのがはっきりわかっていたからです」
第十四夜
「私はリューネブルグの荒野の上を照らしていました」とお月さまは語りかけました。「道端には一軒きりの小屋が建っていて、そのまわりにはまばらな茂みが生えていました。ナイチンゲールが一匹道に迷って、鳴き声をひびきわたらせていました。私が耳にしたのは、お別れの歌でした」
「朝焼けがかすかに赤く空をそめ、私はハンブルグに向かう小作農の移民の一団を目にしました。ハンブルグからアメリカにわたり、そこで一旗あげようというのでしょう。母親たちは赤んぼうを背負い、子供たちは母親の脇をよろよろと歩き、かわいそうな飢えた馬が家族のわずかな財産を乗せた馬車を引いていました。冷たい風がふきすさび、少女は母親にぴったり寄り添いました。母親は私の欠けていく様子をみながら、故郷での困窮を思い、支払えなかったほどの重税について口にしました。一団の全員が同じことを考えていました。だから夜が明け行く様子は、みんなにとってのメッセージのように思えたことでしょう。みんなの頭上にかがやくだろう幸運のメッセージが。みんなは死にゆくナイチンゲールの鳴き声を耳にしました。それは偽の予言というわけではなく、幸運の前触れでした。風が吹きすさび、ナイチンゲールの歌っている内容はみんなには分からなかったのです。『海を越えていく。おまえはすべてのものを抱え、長い旅路をやってきた。そうして貧しく無力なものがカナンの地に至るのだ。おまえは自分自身も妻も子供も売らなければならない。でもおまえの苦悩は長くはない。十分に楽しい別離のかげには、死の女神がかくれている。女神のお迎えの口づけは、あなたの血を沸き立たせる。旅立て、旅立つんだ、荒れ果てた海を越えて』 そしてよく耳をすませた一行は、幸運を約束してくれるようなナイチンゲールの鳴き声を楽しみました。明るい雲を通して夜明けの光が射し込んできます。地元の人たちが荒野をよこぎって教会へといそいでいます。白い髪飾りをつけ、黒いガウンを羽織った女性は、教会の絵からぬけだしてきた幽霊のように見えました。辺りはみわたすかぎりまっ平らで、枯れた茶色の荒野でおおわれ、白い砂の丘にはところどころ黒焦げのような黒い場所がありました。さきほどの女性は賛美歌の本をもち、教会に入っていきました。あぁ、祈りましょう、荒れた海をこえて死に場所をさがしさまようものたちのために祈りましょう」
第十五夜
「私はある道化役(訳注1 Pulcinella)を知っていました」お月さまは、わたしにそう話しかけてきました。「観客はかれをみると大騒ぎで拍手喝さいでした。一挙手一投足がコミカルで、芝居小屋を笑いの渦へとひきこむのです。ただ実はそれは演じているものでなく、生来のものだったのですが。道化役が少年のころ他の子供たちと遊んでいたときから、すでに彼は笑いもの(Punch)でした。生まれたときから自然とそうなっていて、背中と胸にそれぞれこぶがあったのです。ただ道化役の内面、つまり心は、その正反対で豊かでした。情感が豊かなことと当意即妙な知性では彼にかなうものはいませんでした。劇場は道化役にとっては理想的な世界で、もし彼が均整のとれた見目のいい姿をしていたら、どんな舞台でも比べものにならないぐらいの悲劇俳優となっていたかもしれません。勇敢で、偉大なところが道化役の魂には満ちあふれていました。だから彼は道化役にならざるをえませんでした。とても悲しそうで深い物思いにふけるところが、するどい容貌のコミカルなところを強調し、観客をますます笑わせるのです。観客は道化役が大のお気に入りでした。男役(Harlequin)の相手のかわいらしい女役(Columbine)はとくに道化にやさしく、心から道化を好きでした。ただ彼女は男役と結婚することを選んでいました。もしこの美女と野獣がじっさいにいっしょになったとしたら、どれほど物笑いの種になったことでしょう」
「道化役が非常に気分が悪いときには、女役だけが唯一道化役のことを心から笑わせるか、少なくとも微笑ませることができました。最初は女役も気分が落ち込みますが、だんだん落ち着き、最後には気分も晴れやかになり幸せになるのです。『あなたがどうなのか、私にはよくわかるわ』彼女は言いました。『そう、そうよ。あなたは恋してるのよ』そうすると道化役は笑わざるをえません。『僕が恋だって』道化役はさけびます。『そうだとしたらこっけいな見ものだよ。観客たちはどれほどわめきたてることか!』『確かにあなたは恋におちているわ』彼女は続け、コミカルな調子でこう付け加えました『そしてあなたの恋する相手は私なのね』おわかりでしょう。こんなことは思ってもみないからこそ口にできるのです。そしてじっさい道化役は大笑いして宙にとびはね、憂鬱もふきとんでしまうというわけです」
「ただ彼女の口にしたことは本当のことでした。道化役は彼女を愛していたのです。すばらしい高貴な芸術を愛するように崇拝していたといってもいいくらいです。女役の結婚式では道化役はまねかれた客のあいだで一番ほがらかでした。しかし一人ぼっちの夜になると道化役は泣きました。もし観客が道化役の涙にゆがんだ顔を見たなら、それみたことかと大騒ぎしたことでしょう」
「それから数日後、女役は死にました。お葬式の日は男役も舞台には立たなくてよいといわれました。というのも悲嘆にくれた男やもめですから。観客がかわいらしい女役と生き生きとした男役がいないのをひどくさみしく思わないように、演出家は一段と楽しい舞台をつくらなければなりません。それは道化役がいつもよりもっとばか騒ぎして、やりすぎなほどやらなくてはいけないということです。道化役は心に悲しみをひめたまま、踊りはね回りました。そして観客は大声でわめきました『ブラボー、いいぞ!』道化役はじっさい幕前に呼び出され、誰とも比べられないくらいすごいと評されました」
「ただ昨晩そのいまわしき小男は一人きりで町をでて、寂しい墓地へと向かいました。女役の墓の花輪もすでにかれ、道化役はそこに腰をおろしました。そのようすは絵描きにはいい題材になったことでしょう。あごを両手でささえ、目は私の方をみていましたが、道化役はグロテスクな銅像のようにみえました。墓場の笑いもの、奇妙で奇抜ですらある! もし観客がこのお気に入りの道化をみたなら、いつものように叫んだことでしょう「ブラボー、道化役。ブラボー、いいぞ!」
訳注1 Pulcinella のナポリ方言Polecenella から英語の Punchinello となる。さらにpunch「ずんぐりした人」となり、人形芝居の主人公Punchから英語の漫画入り週刊誌Punchとなる。これにちなんで Wirgman が横浜で発行したJapan Punchから西洋流風刺漫画を日本語で「ポンチ絵」と呼ぶようになった。
第十六夜
これもお月さまがわたしに語ったお話です。「私は士官になりたての若者が、はじめてきりっとした制服を着用したところをみたことがあります。ウェディングドレスに身をつつんだ若い花嫁をみたこともありますし、王女のようなその女性は豪華絢爛な服をきてとても幸せそうでした。ただ私は今晩に目にした四才の少女ほどの幸せは見たことがありません。少女は青い新しいドレスとピンクの新しい帽子を買ってもらって、ちょうどそれを身につけた姿はすばらしく、だれもがろうそくを取りに走りました。というのも私のひかりが部屋の窓から照らすだけでは十分明るいとはいえなかったからです。もっと灯りが必要だったわけです。少女は人形のようにまっすぐ立ち、両腕はドレスから苦しそうなほどまっすぐ出て、指はせいいっぱい開かれていました。そしてなんてことでしょう、彼女の目から、全身から、幸福があふれだしていたのです! 『明日おまえはこの新しい服でおでかけするんだよ』お母さんがいうと、少女は帽子を見上げ、服を見下ろすとはれやかな笑顔をみせました。『おかあさん』少女はこうふんして言いました『こんなすてきな新しい服をきたわたしを見て、子犬はどうおもうかしら?』」
第十七夜
「ポンペイのお話をしたことがありましたね」お月さまはそう言います。「あれは、たくさんの人が生活しているさまざまな都市の風景の中にさらされた都市の死骸でした。でも私はもっと奇妙な風景を見たことがあります。それは死骸ではありませんが、都市の幽霊です。噴きだした噴水が大理石の噴水台にふりそそぐときはいつも、私は宙に漂う都市の話をしてもらっているように思えたものです。そう、噴き出す水がその都市の話をしていて、打ち寄せる波はその都市の名声を歌っているのでしょう。海の表面にはよく霧がでますが、それこそが都市の未亡人のベールなのです。海の花婿は死んでいて、花婿の宮殿と都市は霊廟となっています。あなたはこの都市を知っていますか? その都市の通りでは馬車の車輪や馬のひずめの音を耳にすることは決してありません。その都市の通りには魚が泳いでいて、黒いゴンドラが幽霊のように緑色の水面をすべっていきます。あなたに宮殿をお見せしましょう」お月さまは続けました。「都市の中でもっとも広い場所で、まるでおとぎの町にきたように思うことでしょう。敷石がしきつめられた広い道には草がはびこっています。朝の薄明かりの中では、人に慣れている何千羽の鳩が一つぽつんと建っている塔の周りを羽ばたいています。あなたのいるところは、三方が歩道でとりかこまれて、歩道では物静かなトルコ人が長いパイプをふかしていました。整った顔のギリシャ人が柱にもたれかかり、過ぎ去った権力の記念のかかげられたトロフィーと高いマストをみつめています。旗は喪にふくしているスカーフのようにたれさがっていました。そこでは少女が一人休んでいました。水でいっぱいになった重いバケツを運んでいましたが、休んでいるときもてんびん棒は肩に乗せたままで、少女は勝利のマストにもたれかかっていました。さらに向こうのあなたの前方にあるのは、おとぎ話の宮殿ではなく教会です。金ぱくの丸い屋根ときらめく球が私の光でかがやきました。その上の方にある栄誉ある青銅の馬は、まるでおとぎ話の青銅の馬のようにいろいろなところを旅してきました。あちらこちらを行き来し、ふたたびここへと戻ってきたのです。壁や窓の色とりどりの壮麗さにお気づきになりましたか? このすばらしい寺院の装飾はまるで天才がきまぐれな子供の言うがままにしたみたいです。柱の上の翼のついたライオンが目に入るでしょうか? まだ金色にかがやいていますが、その翼はくくられています。ライオンは死んでいます、そう海の王が死んでいるのですから。大きなホールには人気がなく、昔ははなやかな絵画がかざられていましたが、今はなにもかかっていない壁がじかにみえます。乞食がアーケードの下でねています。昔にはこの道は、高貴な身分のものしか足を踏み入れることはできなかったものですが。深い井戸から、そしてたぶん『ため息の橋』のそばの牢獄から、哀しみの声が聞こえてきます。にぎやかなゴンドラでタンバリンの音が聞こえ、金の指輪がベニスの総督が乗っている船から海の女王アドリアへと投げ込まれたときのことです。アドリアよ、その身を霧でつつみたまえ。未亡人のベールでもってその体をつつみたまえ、そして哀しみの喪服で花婿の霊廟をつつみなさい。そう、大理石でできた幽霊の都市ベニスを」
第十八夜
「私は大劇場を見下ろしていました」お月さまは話しました。「劇場は大混雑で、というのも新人俳優が今晩初舞台をふむからでした。私の光が壁の小さな窓から射し込み、その窓に白粉をぬった額がおしつけられているのが目にとまりました。それが今晩の注目の俳優でした。騎士らしいあごひげが縮れてカールされていましたが、目には涙がいっぱいです。というのも、ブーイングをうけて舞台をおりてきたからです。まぁ、それももっともなのですが。才能のないかわいそうな男。ただ才能のない男は、芸術の世界では認められません。その男は深い感受性をもち、芸術を心のそこから愛していましたが、芸術はかれには微笑んでくれなかったのです。舞台のベルがなりひびき、『主役がさっそうと登場』とト書きにはかかれていました。男はあざけりを受けた観衆の前へと登場しなければなりません。舞台が終わると、私はマントに身をつつみ、階段をとぼとぼと降りる男の姿を目にしました。それが今晩、敗北した騎士の姿でした。大道具たちはお互いにこそこそ噂話をしています。私はかわいそうな男の家まで跡をつけていきました。首をつるのはみすぼらしい死に方だ、ただ毒薬は手に入らない。私はその二つのことが男の頭にうずまいていたのを知っています。窓に男の青白い顔が映され、両目は半ば閉じられていましたが、死んだときの見た目を気にしているのを私は目にしました。人は不幸のどん底にあっても、感情的なものです。男は死を、自殺のことを考えていました。私には男がひどく涙を流していたので、自己憐憫に陥っているのがわかりました。人が涙をだして泣くときには、自殺はしないものです」
「それから一年がすぎ、ふたたび演劇が上演されていました。ただ今回は小劇場で、旅回りの一座です。ふたたび私は、ほお紅をさしちぢれたあごひげのよく見知った顔を目にしました。男は私をみあげ、微笑みました。その一分前には観客にブーイングをうけて舞台を降りてきたのにです。それも、うらぶれた劇場で、ひどいお客からブーイングを受けたのに。今晩、古い霊柩車が一台、町の門から外へとでていきました。自殺者です、そうあの白粉をつけた主役の男でした。いるのは霊柩車の運転手だけで、私の光を除いてはだれも付き添うものはありませんでした。教会の墓地の片隅に自殺者の死骸はうめられました。すぐにイラクサが墓をみえなくするほど覆いかぶさり、墓地の掃除をする男が、他の墓に茂っている下草や雑草をその墓のところに捨てることでしょう」
第十九夜
「私はローマから来ました」.お月さまは語りをはじめました。「街の中央の七つの丘の一つに、宮殿の廃墟がありました。壁の裂け目からはいちじくの木が野生しており、その大きな灰色がかった緑の葉がむきだしの壁をおおっていました。がれきをかき分け歩いていくと、ロバが緑の月桂樹をふみしめ、はびこっているアザミに大喜びしていました。この場所からかつてはローマのワシが飛び立ち、『来た、見た、勝った』と伝えたものですが、いま私たちの行くところには質素で小さな家、二つの柱にはさまれた粘土でできた家があるだけです。その家のかしいだ窓には、お葬式の花輪のようにつたが生い茂っていました。そこには老婦人と孫娘が住み、今ではシーザーの宮殿を治め、見物人に過去の栄光の遺跡をみせているわけです。華麗な王座の間は、今はそっけない壁が立っているだけです。一本の黒いイトスギがかつては王座があったところにその影をなげかけています。砂ぼこりが何フィートも壊れた歩道の上につもり、宮殿の娘である少女が夕べの鐘がなりひびくとき、よくそこに腰かけています。近くにあるドアの鍵穴を少女は塔の窓とよんでいます。そこからはローマ半景が一望でき、聖ペテロ教会のすばらしい丸屋根もみることができます」
「今晩もいつものように、静寂があたりを支配していました。私の光を全身にうけ、少女があらわれました。頭の上には、水がたっぷり入った古い型の陶器の入れ物を運んでいます。はだしで、上着のすそもみじかく袖もほつれていました。少女の小さな丸い肩、黒い瞳、黒くつやのある髪に私は口づけしました。少女は、くずれた大理石のかけらや倒れた柱の頭でできた急な階段をのぼっていきました。きれいな色のトカゲがびっくりして、少女の足元を走っていきましたが、少女はまったく驚きません。すでに片手をあげて、ドアの呼び鈴を押すところでした。宮殿の呼び鈴のひもにはうさぎの足がむすびつけられています。少女はたちどまりました、何を思っていたのでしょうか? たぶん教会のすぐ下にある美しい神の子供たちが、金銀に着飾っているのを思っていたのでしょう。教会の銀の燭台が明るくかがやき、そこでは少女の友達が少女も歌える賛美歌を歌っていました。私には少女が何を思っていたのかはわかりません。さて、少女はふたたび歩き出し、つまづきました。陶器の容器が頭からすべりおち、大理石の階段でわれました。少女は泣き出しました。その美しい宮殿の少女は、とるにたらない壊れた容器のことで涙をながしています。足ははだしで、泣きながらたちすくんで、呼び鈴のひもをひくこともしませんでした。宮殿の呼び鈴のひもを」
第二十夜
お月さまが最後に姿をみせてから二週間以上もたちましたが、いまお月さまはふたたび姿をあらわしています。まんまるで光り輝き、雲の上をゆっくりと動いています。お月さまがわたしに語りかけることに耳を傾けましょう。
「フェザンの街から私は隊商のあとをついていきました。砂漠に入るところの塩の平原で、そこはまるで凍りついた湖のように輝いていて、わずかばかりの流砂が表面をおおっていましたが、隊列は一旦停止しました。ベルトに水筒をぶらさげ、発酵させていないパンをいれた小さな袋を頭にのせた一団のリーダーが、棒で砂の上に四角をかき、コーランからの数言をその中にかきいれました。それから隊商の一行が、その清められた場所をとおりすぎていったのです。目と姿かたちで東部の出身だとわかる一人の若い商人が、鼻をならしている白い馬にのって、物思いにふけりながら歩を進めていました。たぶん若くて色白の妻のことでも考えているのでしょう。なにせ二日前のことですから、そう毛皮と豪奢なショールをまとったらくだが、美しい花嫁を運んで街の城壁のまわりをめぐり、そのあいだ太鼓やシンバルがなりひびき、女性たちは歌い、祝砲がなりひびき、花婿がなんといっても一番多くらくだの周りで祝砲をあげたのは。そして今、花婿は隊商といっしょに砂漠を旅しています」
「私は幾晩も隊列のあとをついていきました。隊列は発育がとまった椰子の木々にかこまれた水源で一休みしていました。一行は倒れたらくだの胸にナイフをつきさし、肉を火であぶりました。私の光はもえたつような砂を冷やし、広大な砂漠の海の孤島である黒い岩々をてらしだしました。一行は道なき道をゆくときでも敵の部族に遭うこともありませんでしたし、砂嵐にも遭わなければ、隊商を死に至らしめる砂の竜巻にも出くわしませんでした。故郷では、美しい妻が夫と父親のために祈りをささげています『死んでしまったのかしら?』妻は三日月の私にたずねました。『死んでしまったのかしら?』満月の私にそうなげきました。一行は砂漠をとおりすぎ、今晩は背の高い椰子の木々の下で休んでいます。つるが長い羽をはばたかせ、その周りを飛んでいますし、ペリカンがミモザの木の枝にとまり隊商をみています。うっそうとしげった草木が象の足でふみつぶされ、倒れています。黒人の一団が内陸にある市場からもどってきました。女性たちはその黒い髪に銅のボタンをつけ、青藍にそめた服でかざりたて、荷物をたくさん積んだ雄牛たちを追っています。そして雄牛たちの背では、はだかの黒い子供たちがまどろんでいます。一人の黒人が自分で買った子供のライオンをつれています。一団は隊商に近づいていきます。若い商人は物思いにふけり微動だにせず、黒人の地で美しい妻のことを考え、砂漠の白いユリを夢みて腰をおろしていました。商人が頭をあげると、」ちょうどそのとき雲がお月さまをさえぎり、わたしはその晩はそれ以上、お月さまから話をきくことはできませんでした。
第二十一夜
「私は、幼い女の子が泣いているのを目にしました」お月さまは話をはじめました「女の子は世の中の悪を嘆いていたのです。贈り物として美しいお人形をもらったのですが、なんとすばらしくきれいで繊細なお人形さんだったことでしょう。世の中の悲哀を背負うために生まれてきたようには思えません。でも女の子の兄弟がとんでもないいたずら坊やたちで、お人形を高い木の枝のところに置いて逃げてしまったのです」
「女の子はお人形のところまでは手がとどきませんし、助けて下ろしてあげることも無理です。それが女の子が泣いている理由でした。お人形も泣いているに違いありません、というのも青々とした枝の合間から両手を伸ばしていたからで、とても悲しそうにみえました。そう、これが女の子がよく耳にする人生の災難ってものでしょう。あぁ、かわいそうなお人形。あたりはすでにだんだん暗くなってきました、すぐにでも夜になってしまうことでしょう。お人形は枝の上で一晩中すごさなきゃならないのでしょうか? だめ、幼い女の子にはそんなことは許せません『わたしもここにいる』そうはいってみたものの、みるみる不安な気持ちがわきおこるのを感じないわけにはいきませんでした。大きな冠の形をした帽子をかぶった小さな妖精が、しげみに隠れているのがはっきり見えたようにも思えます。おまけに、道のむこうではひょろひょろとしたお化けがゆらゆらしているようにも。だんだん近づいてきて、両手をお人形の座っている木の方にのばしたりするのです。あざけりわらって、お人形の方を指さしたりしています。えぇ、なんて女の子は怖かったことでしょう『でもなんにも悪いことしてないもの』女の子は思いました。『だからどんな悪いやつだってなにもしないわ。わたし、なにか悪いことしてなかったわよねぇ』そうして考えてみると、『あら、わたしかわいそうなあひるが足に赤いぼろきれをつけているのを笑っちゃったわ。あんまりおかしく足をひきずっていたんですもの。思わずわらっちゃったの。でも動物を笑うなんていけないことだわ』お人形を見上げると、こうたずねました『あなたもあのあひるを笑ったでしょう?』えぇ、お人形もうなずいたようでした」
第二十二夜
「私はチロルを見下ろしていました」これがお月さまが言ったことです「私のひかりが黒い松の長い影を岩々の上になげかけました。私は、子供のキリストをつれている聖クリストファーの絵が家々のかべに描かれているのをみました。姿は大きく、地面から屋根までとどくくらいありました。絵の中では、聖フロリアンは燃えている家に水をかけてけしていました。キリストは路傍の十字架で血を流しています。今の時代の人たちには、これは古い絵ですが、わたしはそれらが出来るときから観ているわけです、一軒一軒できていくのを。向こうの山のがけの上に、修道尼の修道院が一軒、ツバメの巣のように建っていました。尼僧が二人、鐘をならす塔にいました、二人ともまだ若く、二人の視線は山を越え町のほうへと流れていきました。一台の旅馬車が眼下を通り過ぎていきます。御者がつのぶえを響き渡らせ、その刹那二人は悲しみにみちた目で馬車を追いました。とくに若い尼僧の両目には涙が光っています。つのぶえの音はだんだん小さくなり、修道院の鐘がそのひびきを打ち消しました」
第二十三夜
これがお月さまがわたしに話してくれたことです。「数年前、ここコペンハーゲンで私はみすぼらしい小さな部屋の窓から中をのぞきこんでいました。両親は眠りについていましたが、小さな息子は眠っていません。ベットの側の綿のカーテンがうごき、子供の顔がのぞきました。最初その子が大きな時計を見ているのかと思いました。赤と緑にはでに彩られた時計です。上にはカッコーが乗っていますし、下にはとても重い錘がぶら下がっています。そして金属製の光沢のある丸い振り子が左右にゆれ、『チクタク』と時をきざんでいました。でも子供がみていたのは時計ではなく、ちょうどその下にあるお母さんの紡ぎ車でした。男の子はそれが大のお気に入りだったのです。でもさわる勇気はありませんでした。なんせちょっとでも触れようとしたら、手を叩かれるのですから。何時間ものあいだお母さんが糸を紡いでいると、男の子もそのそばで一緒にしずかに座って、糸がつむがれ、車が回るのをみているのでした。男の子はすわっていてもいろんなことを考えていました。えぇ、自分でも糸を紡ぐことができたらとか! 両親は寝ていました。男の子は両親をみて、そして紡ぎ車をみました。小さなはだしの足がベットから顔をのぞかせました。そしてもう一つの足も、それから二本の白い足がみえました。立ち上がり、もう一回両親がまだ寝ているかあたりを見回しました。えぇ寝ています。それからしずかにしずかに歩をすすめ、丈のみじかい寝巻きのままで、紡ぎ車のところまでやってきました。糸が紡ぎ車からでてきて、紡ぎ車は勢いよくまわりました。私は男の子の金髪の髪と青い目にくちづけをしました。それはまるで絵のような光景でした」
「そのとき母親が目をさましました。カーテンがゆれ、彼女はそこをみました。地の精やなにかそういったお化けでもみたのかと思ったのです。『おぉ、神様』母親はさけび、父親も驚いて目をさましました。目を眠そうにこすって、元気いっぱいの小さな坊やを目にしました。『どうしたんだ、ベルテルじゃないか』。そして私の目はその部屋から離れました。というのも私にはみるべきものがたくさんあるわけですから。そしてバチカンの半分あまりを目にしたとき、そこでは大理石の神々があがめられていました。私の光がラオコーンの一団をてらしたとき、その石像はためいきをもらしたかのようでした。わたしはミューズの唇にかるく口づけをしました。石像たちは今にも動き出しそうでした。しかし私の光がいちばん長くとどまっていたのは巨大な神々のナイルの一団のところでした。スフィンクスにもたれかかり、物思いにふけり、瞑想しているかのように横たわっていました。その姿はまるですぎさった月日に想いをはせているかのようです。小さな愛らしい神々がたわむれ、ワニたちもそこで遊んでいました。豊穣の角笛の中には、両腕をくんだほんとうに小さな愛らしい神が一人すわっていました。まじめに荘厳な川の神をみていたのです。その姿は、紡ぎ車をまわしていたあの少年に生き写しでした。その小さな大理石の姿は、チャーミングでまるで生きてるかのようでした。それなのに石から神が飛び出したときから、時の歯車は千回以上もまわっているのです。あの小さな部屋の男の子が紡ぎ車をまわすのと同じだけ、時の歯車も音をたてたのです。それも時がのちと同じようなこの石像を再びつくりあげるまで」
「こういったことから何年も後のことです」お月さまは続けました「昨晩、私はデンマークの東岸の湾の上から見下ろしていました。みごとな森、高い木々、赤い壁の古い騎士の城、池の白鳥、背景には果樹園のあいだに教会のある小さな町。多くの舟、舟に乗っている人達はみなたいまつを持っていて、静かな水面をすべっていきました。しかしこうした火は魚を捕まえるためのものではありません。なぜなら全てはお祭りのようでしたから。音楽がなりひびき、歌がきこえ、そうした船の一つに一人の男がすくっと立ち上がっていました。全員が彼に敬意をはらっていました。背の高いたくましい男で、外套に身を包んでいます。青い目をして長い白い髪をなびかせていました。私はこの男を知っています。バチカンやナイルの一団のこと、そして古き大理石の神々を思い浮かべました。小さなベルテルが寝巻きをきて、紡ぎ車の側にすわっていたさっぱりとした小さな部屋を思い浮かべました。時の歯車がまわって、新しい神々が石から飛び出してきました。舟からは声があがります『ばんざい、ベルテル・トルヴァルセン、ばんざい』」
第二十四夜
「フランクフルトの絵を見せてあげましょう」とお月さま。「私は一つの建物に特に注意をひきつけられました。それはゲーテの生まれた家でも、古い議会でもありませんが、その格子窓からは皇帝が王位についたときに人々に与えられる焼かれた雄牛の角がみてとれました。そうではなく、そこは個人の家でした。外見は質素で、緑に塗られていて、ジュー通りにたっています。そこはロスチャイルドの家でした」
「開いた扉から家の中をみると、階段のところが明るく照らされていました。召使たちは大きな銀の燭台にろうそくを立て、そこに立って、老婦人の前で低く頭をたれていました。その老婦人は、籠で階下にはこばれるところでした。この家の主人は帽子をぬいでそこに立っており、老婦人の手をとりうやうやしく口づけしました。老婦人は母親だったのです。母親は親しげに主人と召使たちにうなずくと、召使たちは暗くせまい通りへと運び出し、小さな家へ運び込みました。そこが彼女の住居でした。そこが子供たちが生まれた場所であり、ここから一家の富が生まれたのです。もし老婦人がこのうらぶれた通りと小さな家を見捨てたとしたら、富もまた彼女の子供たちを見捨てたことでしょう。それが彼女の固い信念でした」
お月さまはそれ以上何も口にしませんでした。お月さまの今晩の訪問はごくみじかいものでした。でもわたしはあの狭いうらぶれた通りの老婦人に思いをはせました。老婦人がたった一言でもいえば、テームズ川の川辺に素敵な家をたてることもできたでしょう。またナポリ湾にすてきな別荘を建てる事もできたでしょう。
「もし私がこのみすぼらしい家を見捨てたら、そう、私の息子たちの富が最初に花咲いたこの家を見捨てたら、富は息子たちを見捨てるだろう!」それは迷信に過ぎません。でもそういった類の迷信は、お話を知っていてこの絵を見たものにとっては、理解するためにはたった二言あれば十分です。そう「一人の母親」と。
第二十五夜
「昨晩の黎明(れいめい)のことでした」これはお月さまがわたしに言ったことです。「大都市でしたが、まだどの煙突からも煙はでていません。私がみていたのは煙突そのものでした。突然そのうちの一つから小さな頭が姿をのぞかせました。それから体が半分、両腕を煙突のへりのところにもたれかからせています。『やった、やった』と声がします。それは煙突掃除の子供でした。うまれてはじめて煙突にもぐりこんで、てっぺんから頭をのぞかせたわけです。『やった、やった』えぇ、確かに暗く狭い煙突にもぐりこむのはいままで体験したことのない出来事でした。ふきぬける風は新鮮で、緑の森まで都市全体をみわたすことができました。ちょうど太陽がのぼってきます。朝日がその子の満面をてらします。顔はとてもかわいらしい具合にすすけてましたが、なんとほこらしげだったことでしょう」
「まち全部がぼくのことをみてるぞ」その子はさけび、「お月さまも、お日さまもだ。やった、やった」ほこらしさのあまり、ほうきをふりあげました。
第二十六夜
「昨晩、私は中国のある町を見下ろしていました」お月さまは話しはじめます。「私の光は道をつくっているむきだしの塀をてらしていました。ところどころには門がみてとれました。でもその門には鍵がかかっています。というのは、中国人は外の世界にはまったく注意を払っていないからでしょう。家の塀のうしろにある窓には、木製のよろい戸がきちんと閉められています。ただお寺の窓をとおしてかすかな光がもれだしていました。私は中をのぞきこみました。そして古風で趣がある内装を目にしました。床から天井に至るまで、まばゆいほどの色とあふれんばかりの金ぱくで絵がえがかれており、絵はこの世での神の行ないをうつしていました。あらゆる隙間には仏像がかざられ、ただそれらもいろとりどりの幕や旗でほとんど見えないくらいでした。それぞれの神像の前には(すべてすずでつくられたものでしたが)、小さな祭壇があり、聖水に花と炎のゆらめくろうそくがありました。とりわけ最後には最高の神、仏陀が黄色のシルクを身にまとっています。黄色は中国では聖なる色なのです。祭壇の下には一人の人間、若い僧がすわっていました。そのほほには赤みがさし、頭をたれています。かわいそうなソーホン。たぶん高い塀のむこうの小さな花壇で働いている夢でもみているのでしょう。そういった仕事のほうが、お寺でろうそくの火をみているより彼には合っているのでしょうか? それとも饗宴に座して、出されるもののたびに銀の紙で口をぬぐいたいとでもいうのでしょうか? それとももし口にだしたら、天上界の神が死をもって罰するほど彼の罪は大きいのでしょうか? 彼の想いは海賊の船にのって空高く舞い上がったのでしょうか、そう遠くはなれた海賊の故郷のイギリスまで? いいえ、彼の想いはそこまで至っていません。それなのに彼の想いは十分罪深いものでした。若い心に浮かんだその想いは罪深く、とくにお寺で、仏陀や他の神聖な神々の前ではそうなのです」
「私は彼の想いがどこにあったのかを知っています。町のはるかはなれた外れに、タイルでおおわれた平らな床があり、そこには花が描かれたすてきな花瓶がありました。そしていたずらな目をして、ふっくらとした唇で、小さな足の美しいプーが座っていました。靴がきついのも彼女を苦しめていましたが、その心はもっと苦しんでいました。彼女がその優雅でまるみをおびた腕をもちあげると、繻子(しゅす)織りの着物が音をたてました。彼女の前には、金魚鉢にはいった四匹の金魚がいます。彼女は金魚鉢を細い漆塗りの棒で、注意深くゆっくりゆっくりかきまぜました。というのも、彼女も想いにふけっていたからです。ひょっとして彼女もこうした金魚たちが金で着飾ってどんな風かとか、鉢の中で平和で穏やかにくらしているとか、えさをちゃんともらってるかとか、もし自由になったらどれほど幸せになるだろうかと考えていたのでしょうか? えぇ、美しきプーにはよくわかっていました。彼女の想いも自分の家を遠く離れ、寺院へとさまよっていたのです。ただ寺院の聖なるもののためではありません。かわいそうなプー、そしてかわいそうなソーホン」
「この世での二人の想いはめぐり会いましたが、私の冷たい光が天使の剣のようにその想いのあいだにあったのです」
第二十七夜
「ここちよい夜でした」お月さまはそう話をしました。「水はすみきった大気のように透明で、そこを私はすべっていき、水面から深いところでは奇妙な植物が、その長い触手を私の方へまるで森の巨大な木のようにのばしていました。魚たちがそのてっぺんをあちこち泳いでいます。空たかく白鳥の群れがとんでいました。そのうちの一羽が疲れきって、だんだん落ちて行きます。目は軽やかな仲間たちを追っているのですが、その姿はだんだん遠くになっていきます。つばさを精一杯広げ、ゆっくりと白鳥は水面まで落ちて行きました。その姿はまるでしゃぼん玉がしずまりかえった空気の中を落ちて行くかのようでした。とうとう白鳥の頭は羽のあいだにうもれ、しずまりかえった湖の蓮の白い花のように、白鳥はしずかによこたわりました。そこにゆるやかな風がふき、しずまりかえった水面にさざなみが立ちました。さざなみは大きな波のなかでただよう雲のように光りました。そして白鳥は頭をあげ、その胸と背中のまわりで水が青い炎のようにしぶきをあげました。朝焼けが雲を赤くそめています。白鳥はすくっと姿勢をただし、朝日にむかって飛んでいきます。仲間たちが飛んで行った透明に近い青い色をした海岸の方へ。ただ一羽、胸にあこがれをいだき飛んで行きます。青くうねる大海の上を一羽さびしく飛んで行きます」
第二十八夜
「スウェーデンのようすをお話しましょう」とお月さまははじめました「暗い松林から、ストックセンの憂鬱な土手の近くに、古いレタ修道院がありました。私の光は格子窓から埋葬室へとさしこみました。そこには王たちが大きな石の棺のなかでしずかに眠りについていました。壁にはそれぞれのお墓の上に、この世での偉大さを表す紋章、王族の冠がついていました。ただそれは木で作られ、金めっきされたもので、壁に打ちつけられた木の掛けくぎにぶらさげられているものでした。虫たちが金めっきされた木をかじっており、クモが冠から地面までまるで半旗のように巣をはり、死の悲しみのようにもろくはかないようすでした。なんと静かな眠りでしょう。そのようすをありありと思い浮かべることができます。かれらの唇にうかんだ不敵な笑み、喜びや悲しみをはっきりありありと示していました。蒸気船が湖を魔法のかたつむりのようにわたるとき、旅行者が修道院にやってきて、埋葬室を訪れます。王たちの名をたずね、死者の忘れられた名前を耳にするのです。虫食いのある王冠をみて微笑み、もしたまたま敬虔ぶかく思慮のある人なら、その笑みにどこか物悲しいようすが見られることでしょう。眠れよ、死者たち。月が見守り、夜の月がおまえたちの静かな王国に、松林の上を越えて光をなげかけると」
第二十九夜
「本街道の近くに」お月さまは物語をはじめました。「一軒の宿があり、その向かいには大きな馬車置き場がありました。そのわらぶき屋根はちょうどふきなおされているところでした。私は小屋の枠組みのあいだから顔をのぞかせ、屋根裏部屋からその下のわびしい場所をながめました。梁では七面鳥が眠っており、からのかいば桶には鞍がおかれていました。小屋のまんなかには旅行馬車が一台とまっていました。その馬車の持ち主は中にいて、ぐっすり眠りについており、馬たちには水が与えられていました。御者は体をおもいっきりのばし、私が思うにはついさきほどの旅程の半分で気持ちよくうつらうつらとしていたに違いありません。召使の部屋のドアは開けっぱなしで、ベッドは何度もひっくりかえったかのようで、ろうそくは床に立っており、ずいぶん燃えていました。小屋を風がふきぬけ、夜分をすぎて夜明けが近くなっていました。地面におかれた木のベッドでは音楽の巡業の一家が眠りについていました。両親はボトルにのこっていたきついお酒の夢をみているようでした。小さな青白い顔をした娘も夢をみていました。というのも彼女の目は涙にぬれていたからです。頭のところにはハープがあり、足元では犬がだらんと寝転がっていました」
第三十夜
「それは小さな地方都市でのことでした」お月さまはそう口火をきりました。「確かに昨年のことですが、とくに昨年ということに関係あるわけじゃありません。私はそれをはっきりと目にしました。今日新聞でそのことを読んだのですが、半分も物事は明らかになっていません。小さな宿屋のバーに、熊使いが腰を下ろして夕食をとっていました。熊は外で木のくいにつながれています。かわいそうな熊のブルーイン。何の害も与えないのに、まぁ十分獰猛に見えたのはたしかですが。屋根裏部屋では三人の子供が私の光をあびて遊んでいました。一番年上が六才で、一番小さいのがたぶんニ才くらいでしょう。『ドシン、ドシン』誰かが二階に上がってきました。だれでしょう? ドアが押されて開きました。ブルーインです、大きな毛むくじゃらのブルーイン。庭でまってるのにうんざりして、階段を上る道をみつけたのでした。私はなにもかも見ていました」とお月さまは続けました。「子供たちは最初は大きなけむくじゃらの動物をみて、びっくりぎょうてんして、三人とも隅の方で縮こまっていました。だけど熊はすぐに子供たちをみつけだし、においをくんくんかぎましたが、なんら危害をくわえるようなことはしません。『これは大きな犬にちがいないよ』子供たちは口々にいい、熊をなではじめました。熊は床に横たわり、一番小さい子がその背中にのぼりって、その小さな金髪の頭を隠し、熊の毛むくじゃらの体の中に隠れて遊びました。そのとき一番年上のこどもがたいこを持ち出してきて、ぼんぼこ叩きはじめました。熊は後ろ足でたちあがり、踊りはじめました。みているとすっかり楽しくなるような光景でした。子供たちはみな銃を持ち、熊もひとつもたされました。熊は銃をちゃんともつことができました。子供たちはすばらしい遊び友達をみつけたのです。みんなで行進をはじめました、おいっちに、おいっちに」
「とつぜん誰かがドアのところにやってきて、ドアを開けました。子供たちの母親が姿をあらわしました。すっかり口もきけないほどびっくりしてしまい、顔からさっと血の気がひき、口は半開きで、目はおそろしい光景を凝視しています。でも一番ちいさな子供が大喜びでお母さんにうなづき、子供らしい口調ではなしかけました。『兵隊ごっこをやってるんだ』、そして熊使いも階段をのぼってきました」
第三十一夜
風がびゅんびゅん冷たくふきました。雲はすごい勢いで流れて行きました。お月さまがその隙間から顔をのぞかせたときです。こう切り出しました「流れる雲の上の静かな空から地上を見下ろしていました。地上ではいくつもの大きな影が追いかけっこをしていました。私はある監獄を見下ろしていました。屋根のある馬車が監獄の前にとまります。一人の囚人が移送されることになっていたのです。私の光は格子窓を通りぬけ壁まで達しました。囚人はかけらで壁になにかを書いていました。でも言葉を書いていたのではありません。心にあふれてくるメロディーを刻んでいたのです。ドアが開き、囚人はつれていかれ、その目は私の丸い姿にくぎづけでした。まるで彼が自分の顔をみれないさだめで、私も彼の顔をみれないさだめでもあるかのように雲が二人のあいだを流れて行きました。囚人は馬車にのりこみ、そのドアが閉まり、むちの音が鳴り響きました。馬が深い森へと駆け出して行きました。そこには私の光も届きません。でも私は格子窓をとおして、書かれたものを読み取りました。監獄の壁に書かれた最後のお別れの挨拶を。言葉では語れず、音楽が雄弁になるときがあるのです。私の光はそのぽつんと書かれたものを照らし出しました。そこに書かれた大部分は私には暗くてよく見えませんでした。囚人がそこに書いたのは死の賛美歌なのでしょうか? 喜びに満ちた歌なのでしょうか? 馬車でつれていかれ死を迎えるのか、愛するものを抱きしめるために急いでいるのでしょうか? 月光は死の運命をもった人間のかいたものを、すべて読むことができるわけではありません」
第三十二夜
「私は子供を愛しています」お月さまはそう話しかけました「特にちっちゃい子は。おどけたところがあるじゃないですか。ときどき子供たちがぜんぜん私のことなんて考えてないときに、私はカーテンや窓枠のあいだから部屋をのぞくのです。着替えているところをみるのは楽しいものです。まず子供服をぬぐとまんまるいちっちゃい肩が、そして腕が姿をあらわします。あるいは、くつしたをぬいで、ふっくらした小さなまっしろい脚が、そしてキスしたくなるような真っ白な小さな足が姿をあらわすのです。もちろん私もそれにキスをします」
「でもお話したいのはこういうことです。今晩、カーテンのかかってないある窓から部屋をのぞいていました。向かいの家にだれも住んでいなかったので、カーテンがいらなかったのです。わたしはちっちゃい子供の一団を目にしました。みんな家族で、そこには小さな女の子がいました。たった四才ですが、みんなと同じようにお祈りをちゃんとできるのです。お母さんは毎晩、女の子のベッドのそばにすわりこんで、その子がお祈りするのを聞いてあげるのでした。それから女の子にキスをして、寝るまでずっとそばに座っているのです。女の子はいつも目をとじるとすぐ寝てしまうのですが」
「今晩、年上の二人がすこしおいたをしました。一人は長いまっしろな寝巻きをきて、片足でぴょんぴょんはねていました。もう一人は子供服をまわりにちりばめ椅子の上にたって、ギリシャ彫刻みたいだろ、と得意げにいいはなちました。三番目と四番目の子はきれいな下着を箱の中に注意深くしまいました。というのはそれがやらなきゃいけないことだったからです。お母さんは一番小さい子のベッドのそばに腰をおろし、全員に静かにするようにといいました。女の子がお祈りをするからです」
「私はランプ越しに小さな女の子のベッドをのぞき込みました。こざっぱりした白い上布団にもぐりこみ、両手は上品に組まれていて、女の子の小さな顔は真剣そのものでした。女の子はお祈りを声にだしました。でもお母さんがお祈りの途中でやめさせます。『どうしたの』お母さんは聞きました。『日々のパンってところで、いつも聞き取れないけど何かいってるわね。なんて言ってるのかいいなさい』小さい女の子は答えず横になっていて、お母さんの顔をこまったように見ています『日々のパンのあとになんていってるの?』『おかあさん、怒らないでね。ただ、それにバターもたっぷりって言っただけなの』」