番外編 舞殿の【女帝】1
宛名も差出人名もなく、ただユミル王家の紋章が蜜蝋の上に型押しされているその封筒には、便せんが一枚きり入っていた。
そこには女文字で一言、
『おいで願いたし』
とのみ書かれている。
「嫌だぞ、俺は」
ブライト=ソードマンは木賃宿のベッドの上で薄い毛布を頭から引っ被り、窓から外の様子をうかがっている。
件の手紙を手にしているのはエル・クレール=ノアールだった。
「すぐ目と鼻の先に宮殿があるという所まで出向いておいて、何故急にそのようなわがままをおっしゃるんですか?」
装飾性を極端に押さえた、しかし気品のある略礼服に身を包んだ若者は、その華奢な体つきからは考えられない強引さで、寝間着のままヒゲも剃らずにふてくされている中途半端な中年男の毛布を引きはがした。
「冗談じゃねぇや。こんなだまし討ちみたいな目に遭わされて」
無精ヒゲまみれの顎が、窓の外を指した。
港は、海面が見えぬほど大量の船を抱え込んでいる。その一艘一艘がすべて大振りで、すべて豪奢であった。
「まあ、確かに私たち以外にも呼ばれている者がいるとは、どこにも書かれていませんが」
エル・クレールは窓から指す陽光に便せんをかざしてみた。
そんなことをしたところで、あの短い筆跡と、蜜蝋に押されていたのと同じ文様のすかし以外は、何も見えないのだけれど。
「他の客の所には、もっと真っ当な文面の招待状が行ってるだろうよ」
ブライトは相変わらず窓の外をにらみ付けている。布団を剥がれようが、襟首を捕まれようが、ベッドにしがみついて動こうとしない。
「で、しょうね。どうやらそうそうたる来賓がお見えのようですから」
エル・クレールも窓をのぞき込んだ。
数多の船は、誇らしげにそのマストの頂点に諸国の有力者達の家紋を掲げている。
「腐れ貴族共の品評会なんぞに、誰が好きこのんで出かけるモノか」
ベッド下にうち捨てられていたボロ毛布をひっつかむと、ブライトは再びそれを頭からかぶった。
「仕方のない方ですね」
そう言った主の足音が、次第に出口へと遠ざかって行くのに気付いた「毛布の中身」は、
「オイ、どこへ行く気だ?」
「迎賓宮殿・グランドパレスへ」
薄気味悪いほど晴れ晴れとした笑顔が返ってきた。ブライトは大あわてで跳ね起き、ベッドから飛び降りた。
「お前、船酔いで脳みそがとろけてるンじゃあるまいな?」
「ひどい言いようをなさいますね」
「当たり前だ。あれだけのニンゲンが招かれている場所で何が起こるか想像が付かないってんなら、お前さん相当の盆暗だぞ」
そう言って、彼はエル・クレールの腕を引き、その身体が部屋から出るのを食い止めようとした。すると彼の相棒は、
「確かに私はあなたよりも遙かに察しの悪い胡乱者かもしれませんが、そこまで目先が暗い訳ではありませんよ。あれほどの国賓が集っているからには、相当盛大な舞踏会の二晩や三晩は開かれるでしょうことぐらい、容易に想像できます」
と答え、背筋を伸ばすと、開いている方の手で自身の襟元を正した。
「お前さんの社交界嫌いは、俺の上を行くと思ってたんだがね。そいつは勘違いか?」
瞼で眼球を半分覆った不機嫌面が、エル・クレールの鼻先まで寄った。
「旧来の知己がすぐそこにいるというのに、挨拶もせずに退散できるほど厚顔無恥ではないだけですよ」
エル・クレールは自分の腕を掴んでいるブライトのその腕を、逆の手で掴み返して、
「あなたもそうでしょう?」
同意以外の答えを拒否する笑顔を、満面に浮かべた。