番外編 舞殿の【女帝】8
振り向いたラムチョップは鼻先すぐのところに相当に疲れ果てた顔があるのを見、ほんの少しまぶたを持ち上げた。それがどれほどの驚愕を意味しているのかは、ピエトロには判らなかった。ただ、間を空けずに
「こちらでしばらくお待ち下さいませ」
と言った彼の口調は、平静そのものだった。
「あ、うん」
ピエトロがうなずくのを確認すると、彼はそのドアの前から離れた。
そうして、廊下を少し進んだ先の、別の、極小さなドアを開け、その中へ消えた。
ピエトロは奇っ怪な静けさが充ち満ちた廊下に、ただ一人取り残された。
辺りには人影一つ無いが、人の気配がしないというのではない。とは言え、誰かに見られているという雰囲気があるでもない。
常にどこかに誰かがいる、という雰囲気は、逆にピエトロに孤独感を抱かせた。
『そうだ。僕は、この宮殿の住人ではないのだな』
ともかく、居心地が悪い。
まるで神殿の中心にいるような、神聖な気分になってくる。
彼は一度大きく息を吸った。そしてそれを吐き出すと、居住まいを整え、背筋を伸ばし、ドアに向かって真っ直ぐ立った。
そのタイミングを推し量ったかのように、重いドアは静かに開いた。
「お入り、ピエトロ」
室内から、静かで良く通る声がする。
誘われるように、ピエトロは入っていった。
床も壁も白い大理石で覆われている。極限まで磨き上げられた石は、鏡のように光を反射していた。
ドアや木彫品は鉄刀木で作られている。調度品は一見地味だが、細かい螺鈿や象眼の細工が、さりげなく施されていた。
天井のシャンデリアは
水晶硝子ではなく、内包物も傷も全くない、選りすぐりの純粋な
天然白水晶で作られていた。
もっとも、ピエトロには材料の区別などまるきり付かない。それでも、宵になりこれに灯が入ったときにはどれほど美しい光を弾くのか想像もできない……という想像だけはできた。
正面には玉座がある。枠には金箔が幾重にも厚く重ね貼られ、重い光を放っている。そこに、貝紫で染めた繻子の布が張られていた。
そして。
ギネビア・ラ=ユミレーヌが座している。
幼い日に垣間見た少女の面影を目元辺りに宿した神々しくもある美女が、威厳ある微笑を頬にたたえていた。
ピエトロは考える間もなく女王の前に跪き、息を呑んでその言葉を待った。
「免礼」
謁見室は、主の言葉を部屋の隅々にまで確実に轟かせるように、音響を整えてある。宰相姫の吐息のごとく小さな声が、ピエトロには全身を揺さぶる厳命に聞こえた。
顔を上げた彼に、ギネビアは優しく声をかけた。
「楽になさい、ピエトロ。久しぶりですね。息災そうでなによりです」
「はい。全てはギネビア様ならびにユミレーヌ王家のご威光が全土に充ち満ちている……」
出がけに兄にたたき込まれた文言だったが、ギネビアは笑って、
「世辞は不要ですよ。早速本題に移りましょう。何分時間がありませぬゆえに」
ピエトロは全身から火が出る想いだった。
『道が混んでいて馬車が進まず、やむなく歩いてきたが、今度は道に迷って……』
よほど言い訳しようかと考えもしたが、それで自分の立場が良くなるとは思えず、結局、
「申し訳ありませんでした」
とだけ言い、深々と頭を下げた。
ギネビアは許すとも許さぬとも言わず、
「ご苦労でした」
小さくうなずいた。ピエトロが安堵の息を吐く暇もなく、彼女の口からは命令の言葉が紡ぎ出される。
「あなたをここへ呼んだ理由は他でもありません。この度の舞踏会には数多の国々より客人を招待しています。ことに各国のより姫君がたが多く参じて下さいました。彼女たちをエスコートする役目を、あなたに任せたいのです。よろしいですか?」
『来た!』
ピエトロの心臓が早鐘を打つ。
『ギネビア様とお近づきになるのは、多分……ううん、絶対に無理だ。でも、舞踏会で外国の姫君に出会えたら……それで親密になれたら……。僕はあの小さな故郷での家族の目を気にしながらの生活から脱出できるかも知れない』
「良いも何もありません。重要なお役目を僕にお与え下さり、ありがとうございます。全身全霊を持って努めます」
上気した声で、彼は答えた。
「よろしい。ではまず、パレスの内外をよく知っておきなさい。姫君を間違った部屋にご案内するようでは、紳士とは言えません。ですが、あまり時間はありませんよ」
「かしこまりました」
ピエトロは一礼すると、謁見室を辞した。