番外編 舞殿の【女帝】12


 その行動が浅はかに過ぎたことに彼が気付いたのは、壁に一枚の絵を見つけたときだった。
 小さな風景画だ。写実を極めた硬質な筆遣いで、中央に噴水を配してシンメトリーに造成されている美しい庭園と、その奥にある小さな白い建物を描いている。
 カンバスの隅には絵師のイニシャルと、タイトルらしき「グランドスパ」の文字が書き込まれている。
「この絵、見覚えが……?」
 まず、描かれている風景に見覚えがあった。つい先ほど見てきてきたばかりの、この宮殿の中庭……咲いている花の種類が先ほどとは違うから、おそらく違う季節……の風景なのだろう。
 しかし、ピエトロは描かれた対象ではなく、絵そのものを見た気がしたのだ。
 それも、謁見室から飛び出してから今までの本の短い時間の間に、何度も。
「まさか、同じ所をぐるぐると回っているんじゃないだろうか?」
 不安に駆られたピエトロは、今来た道と、これから行こうとしていた道とを見比べた。
「そう言えば、廊下の雰囲気が違うような気がするぞ」
 確か最初に見て回った控え室の棟は、華やいだ春の雰囲気のする壁紙と赤い絨毯で飾られていた。
 だが、今いるこの場所はさながら落ち着いた秋の風情で、足下の絨毯もシックな紫色だ。
 明かり取りの窓から外を見、街の見え方も違うことを確認した彼は、確信してつぶやいた。
「反対側の棟に来てしまったんだ。ああ、僕はなんて方向音痴なのだろう。いつも遅刻をしてしまうのはそのせいに違いない」
 ピエトロは踵を返して数歩進んだ。
 たどり着いた三叉路の右手の先に、数名の兵士がトランペットを抱えて背筋を伸ばしているのが見える。
 おそらく、来賓を出迎えるファンファーレを奏でる役目の者たちであろう。
「ということは、あちらの方に行けばエントランスにゆけるに違いない」
 ピエトロが右に曲がろうとしたとき、左手の奥から小さな足音が聞こえた。
 それはまるでつま先立ちで駆けているかのような、小さく、不安げな足音だ。
 振り向いた彼の、ちょうど胸元あたりに、フラックス色に輝く小さな頭があった。
 小柄な……さながら童女のような……一人の女性だった。
「あ……あの。失礼ですけれど、こちらの宮殿の方であられますか?」
 琥珀色の大きな瞳にとまどいの光を宿したその人は、絹織りの紗を幾枚も重ねたうす桃色のドレスを着ていた。
「はい。接待役のピエトロと申します」
 一応、紳士としての教育を受けているピエトロであるから、困っている女性を放っておくことはできない。膝を落とした礼をし、
「どうかなさいましたか?」
「ああ良かった」
 女性の瞳からいっさいの不安が消し飛んだ。
「実はこちらの宮殿があまりにも広いので、道に迷ってしまったのです」
 その女性は恥ずかしそうに言う。
「それは大変でしたね。どちらをご案内すればよろしいですか?」
「グランドスパという温泉療養施設への入り口は、一体どこでしょうか? 中庭から行けると聞いて行ってみましたら、なにやら物々しい警備で、通してもらえませんでしたの。そこの兵士から、南棟の通路から行くように言われたのですけれど……。どうやら曲がり角を一つ二つ間違えてしまったようなのです」
 グランドスパと言葉を聞いて、ピエトロは先ほど自分が迷子であることを気付かせてくれた風景画を思い出した。
『中庭の奥の方にあった、あの白い建物がそれに違いない。成程、温泉の硫黄の香りを弱めるために、中庭にハーブを植えてたのか』
「南棟はあちらの方角ですが……」
 ピエトロは自分が行くべき方角とは正反対を指し示した。
 彼の指先をなぞってみる女性の瞳に、再び不安が浮かんだ。
『そうか、この人は相当長い間道に迷っていらしゃったんだ。それもたった一人で。だから、この先も一人で行くのは不安でならないのだな』
 ピエトロ自身、たった今までやはり迷子であったものだから、この女性の心細さが痛いほど判る。
「僕でよろしければ、ご案内致しまょう」
「まあ、ご親切に、ありがとうございます」
 女性はまるで踊り子のようにスカートをつまんで、深々と礼をした。
 そのとき、ピエトロは気付いた。
 女性のスカート丈が、信じられないほど短いのである。