「お腰のモノを、お預けください」
 宿坊の入り口で、尼僧が言う。
「聖なる寺院では、人を傷付ける道具を禁忌としておりますゆえ」
「心得ております」
 エルが己のサーベルと師のブロード・ソードとを、尼僧に差し出した。
 受け取った尼僧が、それらの軽さに怪訝な顔をする。
 ブライトは『営業用スマイル』を浮かべた。
「竹光です。我らも、人を傷付ける道具が嫌いでね」
「それは、良いお心懸け、ですね」
 背後から、しわがれた声がした。
「ツォイク教区を、任されておる、ヘルムス=モルトケ、です」
 司祭が満面に穏やかそうな笑みを湛えて立っている。
 大寺院の大司祭自ら客を客室に案内してくれた。……破格の待遇、であるらしい。
 ブライトとエルは宿坊で一番広いという部屋に通された。
 そこはどうやら、ここ数年使われていない様子だ。掃除は行き届いているのに、何となく埃臭く、火の気のあるはずが、どうにも寒々しい。
 そう思うと、膳の手配をする尼僧の仕草も、どことなく空々しく思えてしまう。
「御辺らは、いずこより旅出でて、いずこに向かわれるか?」
 司祭は、疲れた顔で微笑んだ。
 エルはちらとブライトを見やった。
 彼は、テーブルに両肘を突き、祈るときのように両手をんでいた。
 目玉が、『お前さんに任す』と言っている。
「故郷はなく、行き先もございません。……と申しますのも、実は私ども、身内を全て失うたが故に、旅に身を投じた次第でして……」
 モルトケ司祭の顔が曇った。
「では、もしや……いや、まさか……。各地に、魔性の物があらわれ、村町を襲い、国を滅ぼしてい、と言う噂を…………聞き流しておったが、真実と思って、良いのでしょうや?」
 エルは悲しげに小さくうなずいてから、聖職者の顔をじっと見た。
「あなたの言う【魔性の物】を、ギュネイ皇帝は【堕鬼だき】であるとか【オーガ】であるとか呼んで、誅殺の勅令を発しています」
 司祭は力無く頭を振った。……否定、というよりは、否認の素振りだ。
「【オーガ】どもは、人の命が持つ『力』を食らうが為に町村を襲っている。そして命の抜け殻、つまるところ死体を操って、国を滅ぼしている。その死体のコトは、【グール】なんて呼んでるがね……帝都の玉座でふんぞり返っている旦那は」
 ブライトがつぶやく。周りの人間によく聞こえるような、小さな声で。
 ヘルムス=モルトケは、目をつむり、天を仰いだ。
「先ほどの葬儀……亡骸は、普通の死に様ではなかったように見受けられました」
 よく通るエルの問いかけに、司祭は再度頭を振る。
「若者ばかりが、命を失っておられるのでは?」
 モルトケ司祭はびくりと顔を上げた。怪訝な顔で、エルを見つめる。
「……参列者が、ご老体ばかりでした。子や孫に先立たれたショックで、泣くこともできぬ程、憔悴しきっておられた」
 一瞬、モルトケ司祭の顔に厳しい嫌悪が現れた。
 が、
「良う、お気づきになる……」
と、声を絞り出したときには、彼の「基本的」には柔和な顔が、その尖った感情をすっかり隠していた。
 ブライトは、乾いた皮膚を引きつらせて笑む大司祭殿を横目で見、またつぶやく。
「どうやら、世ずれしたマトンより、純なラムの方が、美味い上に扱いやすいってのを、やつも知ってるようだ」
 彼の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、司祭は目を堅く閉じた。唇と、肩と、指先と、脚とを、小刻みに震わせている。
「万一……あの子等の、命を奪った者が……その【オーガ】などという、人外の物で、あったとして……。その……【オーガ】……とは、何でしょう? いや、もし、そのようなモノが居たとして、ですが」
 モルトケ司祭の口振りは、否認を続ける罪人のようですらある。
「人間、ですよ」
 ブライトがくぐもった声を出した。
 エル・クレールが後を接ぐ。
「人はすべからく、心に闇を抱えているものです。心強き者は、その闇を信念の光で照らすことができます。ですが、脆弱な心にはそれができないのです。 そのような弱い人々の、畏れと不安に満ちた心が、自身の中に渦巻く恐怖に取り憑かれ、堕ちてしまうのです。……【オーガ】になることが、恐怖を打破する術だと勘違いして」
 深いため息が、語尾を飾った。
 すると再びブライトが、拱んだ手の上に顎を乗せたまま、語る。
「……きっかけがありさえすれば、誰もが堕落の道を歩むでしょうな。大天使ですら慢心の末に堕ち、年経た蛇だの悪龍だのと呼ばれる。況や、人間をや……。弟子が師に教える事もないこってすがね」
 そして、あの鋭い目を、ちらと聖職者に向ける。干からびた青黒い顔に。
 モルトケ司祭は、唇を噛み締めていた。
 鋭く尖った犬歯の下から、黒紫の血が滲み出た。
 同時に、眼光が急激に険しくなった。
 だが、どういった訳か、瞳は濁り、淀む。
 その眼に、赤い光が映り込んだ。
 あか紅玉髄カーネリアンの珠。
「それは……?」
「きっかけ、に、なりうる物……とでも申しましょうか。ご存じでしょう?」
 エル・クレールの掌の上で、それは無機質に輝く。
「こちらの至宝、【ルイ=ワンの魂】。私どもは【吊された男ハングドマン】と呼んでおります。 もっとも、これは、レプリカですけれど。……本物は、司祭様の手中にある筈ですから」
 新たな、そして決定的な物証を提示する検察官のように、彼女はそれを机の上に置いた。 そうして、微笑むのだ……総毛立つほどに冷ややかな、且つ熱い眼差しで。
「脆弱な心をそそのかす強い魂……。それが悪であると見抜けない間抜けと、独善を他人に押しつける愚か者とでは、どちらが悪いのでしょうね」
 
   バン!!
 
 モルトケの左手が、激しく机を叩いた。
 死人のように青黒い指が、小刻みに動いている。
『愚か者とは誰のことぞ?』
 左手の主の唇を震わせたのは、地の底から押し出されたような、黒い声だった。
『ビンゴ、か』
 ブライトの禽獣きんじゅうのような眼光が、モルトケの姿をしているモノの全身を射抜いた。
 何かを探している。
 目に見えない、何かを。
 その隣で彼の相棒が、同じように鋭い視線を、同じモノに向けていた。
「誰も、あなたのことだとは言っていませんよ。自称・忠臣のルイ=ワン殿」
 エル・クレール=ノアールは、立ち上がりざま、己の腰に手を伸ばした。
「それとも、少しは後ろ暗く思っておいでですか?」
 黒い声が、司祭の顔に嘲笑を作った。
『愚かはうぬであろう』
 司祭の左拳が、糸をもって引き上げられたマリオネットのそれと同様の動き方で、エルの眼前に突き出された。
『うぬの剣はこちらにある!!』
 語尾が消える直前、それの拳が、赤黒い光を発した。
 無数の光の筋。
 意思を持った数多の鞭が、うなりを上げて突き進む。
 ブライトが、床に伏せた。
 テーブルの下を転がり、悲鳴をあげることすらできず立ちすくむ若い尼僧を抱き、彼女を部屋の隅に押し込めると、体を返した。
 視線は、上に向けられていた。
 天井と、禍々しく紅い「鞭」の隙間に、エル・クレール=ノアールが飛んでいる。
 羽毛のように軽く、彼女は司祭の姿をしたモノの背後に降り立った。
 振り向きざま、唱える。
「我が愛する正義のもののふよ。赫き力となりて我を護りたまえ」
 エルの腰から、紅い輝きがほとばしった。
【正義】ラ・ジュスティス!!」
 明けの陽光のような、暖かく澄んだ光が、一振りの剣となって、彼女の腰から引き抜かれた。
『うぬっ! 【魂】アームか!?』
「そうですよ。これはあなたと同様の存在。現世に心を残して冥府に旅立った者の思念の結晶。心強く生きる者に力を与え、心折れた生ける屍を蠢かす輝石」
 花びらのような柔らかいカーブを描く唇が吐き出すのは、美しい真実。蠱惑の言葉。
「もっとも、私に力を貸してくれているこの【正義】ラ・ジュスティスは、あなたのような、人の弱味につけ込んでその心を操り、あわよくばその体を奪おうなどと言う、質の悪い出来損ないではありませんけれど」
 エル・クレール=ノアールの微笑みには、ぞっとするような艶があった。さながら、命を得た大理石の彫刻か、白磁の人形か。何であるにせよ、人のモノとは思えない。
 水分の抜けきった司祭の形をしたモノが、頬を赤黒く染め、エルと真紅の剣とを見比べている。
『出来、損ない……だとっ!』
 朽ちた血色の筋が、エルに襲いかかる。
 一閃。
 しなやかな剣舞の前に、それらは形を保つ力を失って、床に散った。
 溶けた血のゼリーが、古びた床を濡らす。
『おおおっ』
 それが、膝を落とした。
『おのれっ、おのれっ、おのれっ! 貴様に何が解る!? 我の深慮、我の憂国、我の決断。青二才に、解るはずもなし!!』
「ええ。理解できませんね。モルトケ殿がなぜあなたなどに自身の心と体を奪われるなどという失態を演じ、また、あなたが多くの若者達の命と肉体とを奪うのを見逃すなどという失策をていしているのか」
『失態? 否! これは英断だ!! 失策? これも否! これまさに妙策なり!! モルトケも我もツォイク公国を護らんとしているっ! 無敵の兵団、不死の士に依って』
 人の姿をした、人出はないモノが、吠えた。同時に、部屋は破壊音で満たされた。
 鉛ガラスと、木枠と、日干し煉瓦の砕け散るその音。
 湿気たカビの胞子を吐き出す、腐った土をまとったその兵団は、声にならぬ咆吼とともに、壁を、床を、突き破って現れた。
 まだ新しいはずの死体達が、朽ち木のような腕を伸ばし、生きている者達ににじり寄る。
 エルの身が、硬直した。
 予想外だった。彼女は敵が目の前の一体だけだと思いこんでいた。
 今まで、流れるような挑発を紡ぎだしていた唇が、突如として整わない言葉を発し始める。
「何ということを……。司祭殿、あなたはここまで望んだのですか? 死体を【グール】に堕とすなど……冒涜ぼうとくです! あなたはっ」
 言葉が、途切れた。
 赤黒い、腐った蛇の一軍が、彼女に襲いかかり、その身体を捕らえ、まとわりつく。
 

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