いにしえの【世界】 3
 白鳥の羽ばたきのごとく、クレールは腕を振り上げる。
 鬼神の形相を向けられた「それ」の唇は、相変わらず笑っていた。が、目元には酷く寂しげな色が浮かんでいる。
「それほど怖い顔をしてまで拒絶せずとも良かろうに」
 さながら求愛を断られた優男だ。だが「それ」は気弱な男と違って落胆することを知らなかった。
 黒い影がクレールの視界の隅で動いた。
 素早い動作は、蛇が獲物を捕らえるさまに似ていた。
 しかしそれは毒牙ではなく五本のかぎ爪を持っていた。
 太く節くれ立った指が、剣を振り下ろさんとしていた細い手首に絡み付く。大きな掌が攻撃の力を総て押さえ込む。
 慌てて腕を引いて逃れようとした。しかし「それ」は、それすらも許さない。むしろ彼女の腕を己の方へ引いた。
 腕が引かれれば、当然身体も頭も「それ」の腕の中に引き寄せられる。勝ち誇る眼差しが、クレールの眼前に突き出された。
「放しなさい!」
 逃れようと暴れるものの、力が及ばない。彼女は苦もなく組み伏せられた。
 クレールの身体は「それ」の体で覆い尽くされた。筋張って硬い肉の重みが、彼女の自由を完全に奪う。
 鼻先に「それ」の顔がある。
 泥水色の髪、毛虫の眉、枯れ草色の瞳、楔のように尖った鼻筋、錆鎌の刃に似た唇。
 それらが整然と、そして美しく並んだ顔が。
 クレールは顔を背けた。
 すると「それ」は彼女の耳につぶやいた。
「夜が明ける。残念なことだ」
 深い落胆を吐き出す「それ」の体から僅かながら力が抜けた。それはその身そのもので作りだしていた戒めが弛むことを意味した。
 クレールは両の足を突き上げた。不意を突かれた「それ」の肉体が、大きく跳ばされる。

 大柄な男の身体が床に叩き付けられ、ドサリ、と鈍い音を立てた。
 カビ臭くほこりっぽい空気が、ゆらゆらと揺れている。
 朝日がまぶしい。
 エル・クレール ノアールは子犬のように頭を振った。白髪と見まごうプラチナの髪がさらさらと揺れる。
 翡翠色の瞳を覆う瞼は少しばかり腫れ、取り囲む白目は充血していた。彼女は利き手の甲で眼の当たりをこすり、無理矢理の瞼を持ち上げる。背伸びをすると、安っぽいベッドがギシギシと悲鳴を上げた。
 その足下の、艶のない板床の上に、黒みを帯びた黄茶色の頭髪が、丸まった針鼠の格好で転がっている。
 頭は太い首で幅の広い肩に繋がり、その下に広い背中があり、がっしりとした足腰がある。
 彼女の旅の道連れは、脂汗をかきながら臍の下を押さえ、うつ伏してうずくまっていた。
「全く、寝相の悪いオヒメサマだ」
 ブライト ソードマンは床とキスをした格好のまま、口惜しそうに喘いだ。
 エルはあくびとため息で呼吸すると、不自然に空いた夜着の胸元を綴じ合わせる。
「どうりで夢見が悪かった訳です」
「俺サマはただ、お前さんがあんまり寝苦しそうだったから、襟元を開けば息がしやすいだろうと、親切をしてやったンだぞ」
 言い訳したブライトだったが、床から顔を引きはがして見た、彼が相棒と呼ぶ「男の身形をした娘」の目元の痙攣が、どう身贔屓して見ても寝起き故の不機嫌から来るものではなさそうなことを悟り、慌てて話題を変えた。
「時に、この宿は飯が出ないそうだ。朝飯は外で喰うことになるんだが、どうやら近くに飯屋は一つしかねぇときてる」
 精一杯に清々しく、しかし引きつった笑顔を向けると、エルのこめかみから痙攣が消えた。
「ではとりあえず一度この部屋から出て頂けますでしょうか? 着替えをしますので」
 彼女の表情からは、怒りであるとか、怪しみであるとかいう負の感情は読みとれない。
 ブライトは安堵し、つい、軽口混じりの本心を口にした。
「下着の着付けを手伝わせて欲しいんだがね」
「ご親切、痛み入ります」
 意外なことにエルは破顔した。ただし、その笑みは水晶の仮面のごとく、硬く冷たい。
「ただ思いますに、今度はおそらく床に倒れ込むだけでは済まないでしょうけれども。そう、確かこの部屋は三階で、窓の外は石畳だったと記憶していますが、これは私の憶え違いでしょうか」
 ブライトは黄檗色の瞳を見開いた。
 彼の相棒は冗談を言うことを苦手としている。口にしたことの大半は実行しないと気が済まない質だ。
 彼は慌てて部屋から飛び出していった。

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