いにしえの【世界】 24
 件の芝居小屋の地面の下から、ぬっと突き出ている。
 生白く細い、しかし妙に力強い腕の形が、彼女の夢の奥底に潜み、脳漿に焼き付いていた「男の腕」とぴたりと重なる。
 黒い爪を持つ指先を極限まで開いた掌が、グンと一息に迫ってくる。
 現実ではない。それは理解している。
 だが、掌が顔面を覆う息苦しさ、爪がこめかみに食い込む苦痛、頭蓋を砕くかれる恐怖を、彼女は予感してしまった。
 エル・クレールは己の体を己で抱きしめた。
 小振りで丸い頭骨に、大きな掌が乗った「現実の感覚」に、彼女は息を詰まらせた。
 大きく見開かれた双眸の前に、男の顔がぬっと現れた。
 エル・クレールの肩は大きく揺れた。
 半分ほどまぶたを閉ざした黄檗色の目。その向こう側に、澱んだ赤い目が、ぴたりと重なって見える。
 思わず目を閉ざし、頭を振った。
 再び目を開いたときには、黒い爪も赤い目も見えなくなっていた。
 見えなくなったことに安堵した彼女は、ほっと息をついたが、直後、
「何故あのように見えた……?」
 つぶやくのを聞いたブライトは、その言葉の意味を、
「普段と違った勘の働き方をした」
 と受け取った。
「いくらか調子が戻ってきたか。めでてぇことだ」
 言いつけを守った飼い犬にするような乱暴さで彼女の頭をごしごしとなで回したのは、安堵の表れだ。
 エルは「そうではない」と言いかけて言葉を飲んだ。
 悪夢に見たオーガの幻と、今ここにいるオーガを退治する立場の……ハンターなど呼ばれもする……人間とが「似て見えた」なとということを、当の本人に向かって言えるはずもない。
 もっとも、それを言ったとして、ブライトは腹を立てたりはしないだろう。
 いつだったか彼は「オーガとハンターは、突き詰めれば同類」であると言い切ったことがある。
 共々、常人と掛け離れた力を手に入れた存在であるから、というのが彼の「考え」であるらしい。
 二つのモノの違いは、望んで……場合によっては望んでいなかったのに……手に入れてた力に、飲み込まれてしまうか、制御できるか、その違いでしかない。
『酒呑みみてぇなもンだな。酔って暴れたがるやつと、そうでないやつとがいる。白面しらふのやつから見れば、両方ともひとくくりに「酔っぱらい」さ』
 ブライトは己も「白面のやつ」の立場にいるかのごとき口ぶりで嘲笑する。嘲りの対象は、後者の酔っぱらいの一人である自分自身に他ならない。
 そういう考えの持ち主であるから、エルが
「幻に見たオーガが貴方に似ていました」
 など言ったとしても、
「ふぅん」
 さも当たり前のことと言わんばかりに、鼻で笑うのみに決まっている。
 それが嫌だった。
 そちらの方面に関する彼の知識は、彼女の尊敬するところではあるが、このことのみは承伏しかねる。
 エル・クレール=ノアールもハンターなのである。
 ブライトの理論で言えば、彼女もまた「オーガと同類」ということになる。
 すなわち、彼女の父の命を奪い、故国を壊滅させ、母をいずこかへ連れ去った、憎い仇敵の同類ということになるのだ。
 それはだけは、認めたくない。
 エルは口を真一文字に結んだ。
 彼女が返事も反論もしないことを、ブライトは不審がらない。
 筋のいい弟子で、負けられない好敵手ライバルで、可愛い妹分で、からかうとおもしろい玩具で、見込みの薄い片恋の相手で、信用する相棒である彼女の考えていることは、すべてお見通しのつもりでいる。
 この「つもり」の半分ほどはどうやら的を射ているが、残りは過信であり見当違いだった。
 ブライトはエルが
『見えなくなっていたものが、急に見えるようになった』
 状態だと見ている。
『真っ暗闇に目隠しの状態を不安がっていたら、唐突に炎天下に突き出されて目がくらみ、困惑している』
 ようなものだ、と思っている。
 それならば放っておいても問題はない。直に目も慣れる。むしろ、喜ばしい。
「快気祝いに芝居にでも連れて行ってやろう」
 ブライトはニタリと笑った。

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