いにしえの【世界】 30

「いやね、今のネタもだいぶん古びて来たので、すっぱり切り捨ててお終いにしようと思ってたところでして。それには次のハナシが必要だった訳ですが。……まったく若様との出会いは、芝居の女神のお導きに違いない」
 必要な文字を書き付け終わったらしい彼は、紙の束を丸めて無造作に袂へ押し込むと、揉み手をしながら再度エル・クレールへの接近を試みた。
 マイヤー=マイヨールとてそれほどの莫迦者ではない。己の行く手が再び「巨躯の下男」に阻まれるであろうし、「姫のような若様」が自分と視線を合わそうともしてくれないだろうことは分かり切っている。
 今度は勢いよく駆け寄ったりはしない。慎重に歩幅の狭い足取りで、ゆっくりと近づく。
 彼の予想通り、ブライトは彼の行く手を阻んだ。
 しかし、エルの行動は彼の予想とは反していた。
 彼女はブライトの背後から出てきた。
 視線はマイヤーの目に注がれている。
 マイヤーの面に愉悦の笑みが一瞬浮かび、すぐに消えた。
 エル・クレールは唇を挽き結び、鋭い眼差しでマイヤーを睨んでいる。
あたしめは、なんぞ若様のご不興をかうようなことを申したかい?」
 彼はエルにではなくブライトに問うた。
「さぁて。姫若さまはガップの殿様のことが大好きだそうだから。多分、あんたが殿様名義のお芝居を『切り捨てる』と言ったのがお気に召さないんだろうよ。当然、あんたが殿様の名を騙ったこともだがね」
 ブライトは後頭部をガリガリと掻いた。
 これは「反吐が出るほど嫌いな連中」のことを脳の片隅に思い浮かべただけでも起きる頭痛発作を誤魔化し、和らげ、忘れるための癖だったが、マイヤーはそれを知らない。
 彼はただ、『この男も不機嫌だ』と感じたに過ぎない。
 それは間違っていない。
 ブライトはエル・クレールがあくまでもヨルムンガント・フレキのイニシャルに拘泥していることが不満であり、且つ、それに立腹している自分の偏狭さが腹立たしくてならないのだ。
 そういった細かい心情など、マイヤーの知ったことではない。大体、この大柄な男に細やかな神経があるということ自体が、彼の思慮の外側にある。
 マイヤーから見れば、普段から主人に振り回されているらしい忠義な下僕は、箱入りで気難しげな田舎貴族よりも、ずっと御しやすかろう存在だった。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。此奴の不機嫌を何とかすれば、巡り巡って若様のお目をこっちに向けることも、あるいはできる』
 愛想良い笑顔がブライトに向けられる。
「そりゃ、言い様は悪かったけれどもね。……それにお宅の若様は誤解してなさる。あたしはフレキ様の騙りなんぞしてやしないよ」
「ほう、この期に及んでまだ本物と言い通す気かね? それとも勅使に向かって切ってみせた大見得の方が嘘だったとも?」
 小柄なマイヤーの上に覆い被さるようにしてブライトが言う。エルにはそれが酷く滑稽なしぐさに見えた。
「全部が全部本物って訳じゃない。それはしかたないことで。芝居にするには脚色ってやつが必要なんだ。だからあたしは大分手を加えてる。なにしろ私が殿下のところから貰ってきたのは、プロットみたいな走り書きだけだったからね」
 マイヤーは「貰って」という単語をことさら強調して言った。
 皇弟から直接手渡されたかのごとき言いぶりに、エル・クレールは驚いて目を丸く見開き、ブライトはいぶかしんで瞼を半分閉じた。
 睨まれたマイヤーは、
「ああ、これは内緒の話。どうかご内密に、ご内密に」
 いかにも白々しく慌てて、己の唇に人差し指を一本立ててあてがって見せた。
 その芝居ぶりを見て、ブライトは「偽物」との確信を抱いた。
「イイ度胸だよ。どうしようもない阿呆め」
 呆れもしたし、感心もした。
 かぶりを振る彼を見て、味方に付けた、と思ったのだろう。マイヤーは心中で
『此奴はあたしを嫌っちゃいない』
 にやりと笑った。
 ところがブライトは、不満げに彼を見上げるエルに、
「姫若さま、この野郎の言うことを真に受けちゃぁなりませんぜ。何しろ人生全部がお芝居の野郎だ。どこからどこまでが本当で、どこから先が嘘っぱちなのか、本人にすら解らなくなってやがる」
 強い口調で言った。
「大方はそうであろうと思ってはおりましたけれども……」
 エル・クレールはため息を吐いた。

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