いにしえの【世界】 35
「どうせ私は鈍うございますから」
 拗ねた口ぶりのエル・クレールに
「いや、姫若さまは綺麗なお心でいてくれなくては困るンでね。それがお前サマの良いところなンだ。汚れごとはぜんぶ俺サマに任せておきゃぁいい」
 これはブライトの本心でもあった。
「そうやって、いつまでも私を子供扱いするのですか?」
「そうやっていつまでも子供扱いするンですよ。でなきゃこっちの立場が危うい……。このところ剣術の稽古も真剣でやるのが恐ろしいくらい、お前サマは成長していらっしゃるから」
 これも本心だった。
 エル・クレールが反論の言葉を探している間に、ブライトは話題を元に戻すことに努める。
「封印の紋章は多分本物。これは姫若さまも同意見」
 彼がちらりと視線を送ると、不機嫌に唇を尖らせたエル・クレールは小さく頷きを返す。
「……まさかあんた、俺が外見を見ただけで納得する素直な人間だとは思っちゃいないだろう?」
 指先を切った革手袋を嵌めた大きな右手が、マイヤーの鼻先へ突き出した。
「ついさっきまではちょびっとだけ『そうだと良いな』と期待してたんですがねぇ」
 戯作者は渋々掛け紐をほどき、ブライトの掌の上に羊皮紙を乗せた。
 右手は水平に半円を描いて動いた。エル・クレールの目の前になめし革の束を突きつけるための動作だ。
「この俺が、ガップの殿様の筆跡を知っているとは……思いたくもありませんでね」
 ブライトは自分の手と、そこに乗っている「穢らわしいもの」から顔を背け、言う。
 羊皮紙の束を受け取ったエル・クレールはその表面に目を落とした。
 古い写本の表面を削り、なめし直したものだった。
 大きさが不揃いで、肌触りが少しずつ違っている。色目も違う。なめし具合も一定でない。材料となった動物の種類も統一されていない。
 一冊の書物をばらしたものではないことは明らかだった。おそらくは、新しい書き手が入手した時には、すでに本の体裁を保っていない、数冊の書物の残骸だったのだろう。
 それを「保存の必要がある書き付け」として再利用したものであるらしい。
『長期に保存するつもりがなければ、羊皮紙ではなく紙を使うはず』
 エル・クレールは刻まれた鵞ペンの跡を目で追った。
 マイヤーが言ったとおり、文章の断片や単語、数字などが、走り書きにされている。
 その筆跡は「クレール姫宛の手紙」に書かれた文字とは違っていた。
 それは幼い姪が読むことを考え、ことさら丁寧に、一文字ずつ書き付けたものであったから、当然ではある。
 しかし、父の手文庫の中にそっと仕舞われていた私信の中には、急ぎ書き送ったものも含まれていた。
 強い筆圧で、且つ素早く書かれた筆記体の手紙は、幼子宛の大きな文字とは印象が違い、いたずらな姫君は大いに驚いたものだった。
「おそらく皇弟殿下のお筆跡でしょう。殿下は急いで文字を書かれたときには書き進むにつれて右上がりになる癖と、縦の線を極端に短く書かれる癖がおありでしたから……ああ、ちょうどここや、それからこのあたりの文字が良く特徴が出ていてわかりやすい……」
 彼女は羊皮紙の何カ所かを指で指し示した。マイヤーは細い指先をじっと覗き込んで
「いやあ、若様がフレキ殿下と文通なさっていたとは」
 少々的外れなことを言いつつ、盛んに頷いて見せる。
 一方ブライトはそっぽを向いたまま、
「ふん……」
 少々不機嫌に鼻を鳴らし、エル・クレールの手から皮紙の束を乱暴に取り上げた。
 マイヤーは当然それが自分の所に戻ってくるものと思い、両の手をブライトの前に差し出した。が、予想は外れた。
 ブライトはそれを己の両手でしっかりと掴んだのだ。それでいて、汚らしいものを眺めるように眉間にしわを寄ている。
 黄檗色の目玉は、「特徴が出ている」という箇所を睨み付けていた。
 ややあって、彼は小さく舌打ちすると、皮の束をエル・クレールの手の中に押し戻した。
 あっけにとられるマイヤーに対して、彼は
「字は殿様のものだってのは間違いなさそうだ。ただし、中身をよぉく読んで見ねぇことには、あんたの芝居が殿様の原作にどの程度忠実かが解らんよ」

前へ 次へ
目次に戻るクレールメニュー お姫様倶楽部Petitトップ