いにしえの【世界】 77
 顔が歪んでいる。塗りたくった白粉がひび割れ、白い欠片がぼろぼろと落ちる。
 グラーヴ卿は……いや、卿などという尊称を付けて良い「者」か。
 マイヤーの脳に疑念が浮かんだ。疑念は即座に回答に達する。
 目の前にいるのは、人間ではない。
 何か得体の知れない人の形をした「モノ」だ。屍臭を漂わせているのだから、生き物ですらない。
『本物の化け物だ』
 確信した途端、おかしなことに彼の腹の中から恐怖が消えた。
『化け物が、人の道理で人を裁けようものか』
 マイヤーがヨハネス=グラーヴを畏れていたのは、彼を執達吏しったつりの類と思っていたからだ。
 真っ当な法家によって真っ当に捕らえられれば、国家の法を横目に「綱渡り」をして飯を喰っている自分たちは、反論の暇もなく斬首されて当然であることは、さしものマイヤーも理解している。
 彼は法を畏れているのではない。法そのものに畏怖を持っているのなら、例えそれが悪法であっても、法に触れるようなことはしないし、できない。
 だが彼は、わざわざ法に触れるような芝居をしている。あえて危険な台本を書き、演じている。同時に、観た者がそそこから彼の犯した罪を連想せぬように、ごまかし、言いくるめてきた。罪に罪を、悪行に悪行を重ねている。
 悪人呼ばわりならば甘んじて受ける厚顔無恥なマイヤーが畏れているのは、法の下で断罪され罪人と呼ばれることだった。
『悪人というのは場合に依るがむしろ尊称だ。でも犯罪者ってのは蔑称以外の何もんでもありゃしない』
 歪んだ考えだった。
 何故彼がそう言う思想を持っているのか、彼自身にもその理由は判っていないらしい。
 思えば子供の頃から擦れっ枯らしじみたひねくれ者だった。どうしようもない叛骨は、あるいは親の代からもの書きという血筋のためかも知れなかった。
 兎も角、彼は己の命が奪われることよりも、公的な書類の上に犯罪者の誹りを記されること、或いは、名を残すことなく罪人としてこの世から抹殺されることを嫌っている。
 目の前にある「モノ」がよし人であったなら、例えそれが死人でもいくらは人の世界の決まり事に影響を与えられよう。
 何しろこの世ときたら、とうの昔に死んだ人間が作った法の縛りや国の仕切りに満ちていて、生きた人間を操っているのだから。
 だが相手が人間でないならば、官吏でも法家でもありはしない。
 人間でないモノが人の法を笠に着て、この世の書類に罪人の名を記すことなど有りはしない。
 グラーヴ型のモノは、苦痛を喜ぶ叫びを上げつつ、床に倒れ込み、身悶えている。
 マイヤーは立ち上がった。
 楽団溜まりオーケストラピットの連中を一人残らず通用口に押し込むと、彼は舞台の上に飛び乗った。
 人に似た形のモノが客席の椅子をなぎ倒して転げ回る様子、「それ」に従ってきていた役人体の人間達までも蒼白な顔で「それ」からじりじりと遠ざかってゆくさまを、一段高い場所から見下ろす。
「毛物め」
 つぶやき、マイヤーは舞台袖に固まって震えている団員達に視線を送った。
 眼に力が満ちている。
 彼の凛とした顔つきを見た途端、団員達のの膝の震えがぴたりと止まった。青白い顔に血の気が戻るまでには至らぬが、動けるほどには恐怖を克服できた様子だ。肩を寄せ合いつつ、そっと出口に向かった。
 一塊の人間の、ほんの僅かな体の隙間から、別の人間の影が見えた。
 座長フレイドマルだ。
 見覚えのある大きな箱を抱え込んで、おろおろと周囲を見回しつつ立ちつくしている。
 舞台の上にマイヤー=マイヨールがいることに気付いた彼は、禿頭のてっぺんまで紅潮させた。出て行く人の流れを強引に逆らい割って戯作者の元に近寄る。
「一体何のっ……」
 大声で言いかけたフレイドマルだったが、
「……騒ぎだ」
 語尾は消え入りそうなまでに小さく押さえられていた。
「見れば判りそうなものでしょう」
 マイヤーが顎で客席を指す。
 小柄なマイヤーよりもさらに背の低いフレイドマル座長は、ちょっとのびをするような仕草をし、その空間をじっと見つめた。
 そこに何かを見つけたらしい彼は、急に卑屈に頭を何度も下たかと思うと、マイヤーの腕を引っ掴み、元来た舞台袖の方角へ彼を強引に連れ込む。
 アルコールの混じったひどい臭いのする口をマイヤーの耳元に寄せて、抑えた声を出した。
「閣下が笑って居られるじゃあないか。どうやらお怒りではなく、むしろ芝居を楽しみにしておられる様子なのが幸いだ。早く幕を上げないか」
 マイヤーが駭然とするのも道理だ。
 観客席には一個所綺麗に椅子のなくなった空間があるのだ。その真ん中に、黒マントに包まれた、悪臭を漂わせる細長い何かが転がっている。

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