いにしえの【世界】 78
普通の光景であるはずがない。
それなのにこの男と来たら、見えているはずのものとはまるで違うことを言ってのけたのだ。
この様を異様と思わないほどに無神経なのか、そうでなければ、
「あんた、アレが見えないっていうのかい?」
マイヤーは思わず大声を出した。
ほとんど同時に、別の大声が、観客席側であがった。
男の悲鳴だ。
振り返ったマイヤーの目に飛び込んできたのは、客席の中に立つ、黒っぽい汚れた石を削って磨いた人の像、だった。
不可解な像だった。細身で、背ばかり高く、皮膚の下の筋肉がはっきり見て取れるような作りをしている。それでいて、体のラインは柔らかな曲線を描いている。
マイヤーは初め、少年兵の裸像かと思った。しかしすぐに少女の姿を写した物であると気付いた。
胸はふくらみを、腰回りは丸みを、僅かだが帯びている。
その部分をことさら強調し、時として巨大に表現しさえもする成人女性の像とは違った造形ではある。しかしながらマイヤーには、小さな隆起が鋭角な造形の上に生み出す儚げな曲線は、美麗にして劣情的な当たり前の造形よりも艶めかしく見えた。
確かに美しい形した像ではあったが、同時に不可解で不気味でおぞましいものだった。
まず材質が良くないように見える。黒い表面は周囲の風景が映り込むほどに磨かれているが、所々ボンヤリと曇り、赤錆色の亀裂が縦横に走っている。
両の腕は肩の付け根からそっくり無くなっていた。折れた、割れた、とは思えない滑らかな断面が、体の両端に残っている。鋭利な刃物ですっぱりと切断されたかのようだった。
肩口の断面から、粘った、しかし水気の多い汚泥が、流れ落ちる跡を残してこびり付いていた。
もしこれを、地中深くの遺跡からたった今掘り出してきたばかりの戦女神の像だと言われたなら、或いは納得したかも知れない。……ただし、半刻前であったなら、という条件付きで、だ。
像の足下には見覚えのある黒い装束が一塊に落ちている。頭の上には、これも見知った羽根飾り付きの黒い帽子が載っている。
つい先ほどまで、ヨハネス=グラーヴという人間の形をしていたモノだということを、マイヤーはどうにか「理解」した。そう判ずることが一番合理的だった。
何が起きているのか、何が原因なのか、深く追求することは無理だし、意義のないことだろうとも判断した。
「こいつは、まずい」
マイヤーの喉が引きつった。何が「まずい」のか、どう「まずい」のかに明確な説明を与えることはできない。ただ、彼の脳漿はこの場から離れよとだけ四肢に命じている。
命令は、遂行されなかった。膝が笑って言うことを聞かない。
羽根飾り付きの帽子の下、人でいうなら後頭部のあたりで、何かが動いていた。
一見すると、地に届くほどに長い髪の毛の束であった。太い一本の三つに編み込んで、光沢の有る生地で包み込み、先端を猛禽の嘴に似た大きな飾りで覆った髪を、背後に立つ人間の肩に掛け渡しているように見えた。
そう見えて当然だ。当たり前な思考を持っている者なら、頭の後ろから生えているモノを、一目で蠍の尾や触肢の類と見て取ることができようはずもない。
それが自ずから動き、背後の人間の肩口に巻き付き、締め付けている光景を、瞬時に、見たそのままに納得するなど、不可能だ。
ギュネイ皇帝の紋を刺繍した「錦の御旗」の旗竿を掲げていた従者だった。長い触肢が指物を持つ右腕の肩に巻き付き、先端が左の肩口に食い込んでいる。
硬い物が圧力を加えられて潰される薄気味の悪い音が、彼の体の中から聞こえた。
旗指物の竿を握った腕を中空に残し、従者は両膝を折って床にうずくまった。悲鳴は無かった。最初の絶叫の直後には、すでに彼は意識を……あるいは命を……失っていたのだろう。
触肢の巻き付いた細長い肉の塊は、鉄の臭いがする赤い液体を滴らせながら、ゆっくりと空中を移動した。
行き着く先に有るのは、腕のない女人像だった。黒い石像の右の肩口に右の腕の断面が、左の肩口に左の腕の断面が、それぞれ重ねられた。
触肢が解けた。腕はその場に止まった。
指先を僅かに痙攣させた後、腕はゆっくりと動いた。体の前に手を伸ばす。
像の頭が前に傾いた。帽子が落ちた。
頬の丸い少年の形をした真っ黒な顔面が、新しく生やした腕を眺め、うっとりと微笑した。