いにしえの【世界】 80
「ぎゃっ!!」
フレイドマルが踏みつぶされた蛙のような悲鳴をを上げた。背に隠し持っていた木箱が落ち、装飾金具が床に大きな傷を付けた。
「目玉、目玉が焼ける!」
顔を覆う両の手の短く太い指の間から、赤黒い光のような、あるいは闇のような、不可解なものが一条、漏れ出た。
「座長!? おい、フレイドマル、何だ? どうした!?」
膝から崩れ落ちる肥体を、マイヤーが抱え起こそうとしたときだった。
「退きなさい」
鋭い声が背後から聞こえた。いや、言葉の最後が聞こえたときには、すでにその声の主はマイヤーのすぐ側にいた。
人間だった。少なくとも人の形をしている。頭から白い光があふれ出て、尾を引いて流れているように見えた。
きらめく光の帯と見えたのが、流れる髪の毛が弾く輝きであると気付いた彼は、思わず声を上げた。
「若様!?」
柳眉を釣り上げ唇を引き結んだ白い横顔は、しかし、彼が叫んだときには遠くへ去っていた。
厳密に言えば、マイヤーの体の方がその人影から遠ざけられたのだ。
猛烈な勢いで、彼は突き飛ばされていた。
客席に落ちるぎりぎりの舞台隅まで弾かれたマイヤーは、若い貴族が深紅の光を放つ細身の剣をフレイドマルの顔面に突き立てるのを見た。
何事が起きたのか、瞬時には理解できなかった。
初めはエル・クレールの姿を「盗み取った」件の化け物が、フレイドマルに襲いかかったのではないかと疑った。
だが座長の眼窩に剣を突き立てているのは間違いなく「クレールの若様」だ。マイヤーが「芸術と名声の守護神」とも思い決めた人物を、ことあろうかニセモノのバケモノと見まごうはずがない。
マイヤーは身を起こし、エル・クレールを凝視した。
人が人を襲う恐ろしい光景であるにも関わらず、マイヤーにはエル・クレールの姿が美しく思えた。
赤い剣のような物の切っ先がフレイドマルの顔面に突き刺さる深さは、親指の長さの半分よりも浅いようだ。その深さでは、目玉を貫くことはできても、脳漿に傷を付けるには至らないだろう。
つまり、クレールの若様はフレイドマルの命を脅かそうとしているのではないに違いない。
「あの方のやることに間違いはないはずだ」
何の根拠もなく感じた。
事実、エル・クレールにはフレイドマルを弑するつもりなど微塵もなかった。むしろこの彼を助けようとしている。
エル・クレールは浅く付き入れた赤い剣――【正義】のアームを、跳ね上げるような動作でフレイドマルの顔面から引き抜いた。
太った座長の丸い顔の中から、丸い塊が弾き出された。弧を描いて飛び、丁度マイヤー=マイヨールの目の前の亜麻仁油で固めた合板の床に、湿った音を立て落ちた。
目玉ほどの大きさの腐肉の塊だった。
初めは赤黒い潰れた玉の形をしていた。しかし見る間に形は崩れた。あっという間に、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体となって流れ出し、やがて床板の隙間に吸い込まれた。
フレイドマルの肥体が床に崩落ちるのと、ほとんど同時に、化け物の悲鳴が再び響いた。
マイヤーは思わず客席へ振り返った。
薄汚れた石像もどきの化け物が、相変わらずそこにいた。
右の手に旗指物の柄を握って杖に突き、残った掌で顔の半面を覆っている。
さながら、天を仰いで号泣しているポーズだった。実際、指の間からは水っぽい物が流れ出ている。ただし、マイヤーの目の前で流れて消えた物と同じ色の、濁った茶色でどろりと粘った液体が、涙でないのは明らかだ。
悲鳴を上げ、泣き叫びながら、化け物は笑っていた。快楽の歓喜に震えていた。
「テメェの『分身』をぶった斬られて、痛ぇ痛ぇと涙流して喜ぶたぁ、どうやらこいつがマジモンの変態ってヤツらしい」
低く押し殺した声の主は舞台袖にいた。
ブライト=ソードマンは腕組みをし、何故か安堵したような顔つきで化け物を眺めている。
目玉が動いた。顔の向きを変えぬまま、彼はマイヤーに
「おい、チビ助。そこの丸いのを引っ張って外に出ろ」
その口調は提案でも要求でもなく命令だった。もっとも理由や口調の如何を問わず、マイヤーがブライトに逆らえる道理はない。
床を這い、倒れ込んでいるフレイドマルの襟首を掴み、ブライトが立つのと逆側の袖へ後ずさった。