いにしえの【世界】 79
 唇が動いた。
「これだから脆弱な男の体は嫌よ。美しさが微塵もないもの……」
 耳障りのする……声の響く広いホールの人混みで聞いたような、雑音の混じった声だった。しかし、マイヤーには
「聞き覚えがある」
 声だ。否定しようにも否定しきれない。
「クレールの若様だ。……どうなっているって言うんだ。あの化け物、女の体の上に若様のような顔をくっつけて、若様のような声をひりだしていやがる」
 グラーヴ卿の厚化粧の下から化け物現れたことは、どうにか理解ができる。
 初手から薄気味悪いと感じていたグラーヴ卿がついに本性を現したのだと、マイヤーは確信している。
 しかも、この化け物は「別の姿を写し取る」能力を持っているらしい。
 さすがに化け物が生まれついてグラーヴ卿の姿だったのか、あるいは途中からグラーヴ卿に化けたのかまでは解らないが、
「あの化け物め、よりにもよって若様に化けやがった」
 マイヤーは拳を握った。今すぐにあの化け物に殴りかかってやりたい。だが彼は拳そ己の眉間に打ち付けることしかできなかった。
 フレイドマルが目を擦りながら怪訝な顔をマイヤーに向けた。
「何が誰に化けたって? 大体、こいつは何の騒ぎだ? ええい、忌々しい。莫迦共が走り回りおって、埃が目に入った」
 両腕に何か抱え込んでいる。一応、隠しているつもりらしい。上着を箱の上に掛け回してあるが、端の方がめくれ上がっていて、目隠しの意味がない。
 革張りの木箱だ。
 一見、ありふれた作りだが、蓋を開けるには複雑なカラクリを間違えずに動かす必要がある。手順を知っているマイヤーでなければ開けられない。
 大事に抱え込んでいる本人はおそらく知らないだろうが、中身は空だ。
 入っていた物はブライト=ソードマンという田舎侍に「奪われ」た。ブライトは主であるエル=クレールと名乗る若い貴族にそれを手渡した。
 その若様は今、楽屋にいる。
『恐らく乱入者を苦もなく打ち倒し、定めしお恙も無く、多分留まっておられる筈だ』
 それを知らない座長殿に対し、マイヤーは少々いやみたらしく
「あんた、なんでそんな物抱えてるのさ? いや、そんなことより、あんた目玉がどうかしちまったのかい? それともイかれたのは頭の方かね?」
「これは……」
 言いよどんで、フレイドマルは慌てて箱を背中側に隠した。
 いまさらそんなことをしても詮無いことであることを、彼も十分解っているようだった。その焦りや気恥ずかしさを何とか誤魔化そうと思ったのだろう、わざとらしく偉ぶった声を出した。
「そんなことよりも、だ。ほれ、閣下がお待ちなのだぞ。早いところ女共を舞台に引きずり出せ!」
「いくら阿呆でも、人間と、頭の後ろから尾っぽ生やした化け物の区別ぐらい付くだろう? この場所のどこに『閣下』なんて呼べる偉い『人間』がいるって言うんだ?」
 掠れ震えた小さな声だったが、妙にすごみがあった。襟を掴まれたフレイドマルは、亀の如く首を縮めた。
 彼にはマイヤーが戦きつつも怒っている理由が分からなかった。赤く濁った目をしばたたかせ、おどおどした口調で訊ねる。
「兄弟、どうしたっていうんだよ。いつものお前なら、お偉いさんの前で頭を下げないなんて利口じゃない真似はしないだろう?」
 マイヤーは駭然とした。
「マジで見えてないってのか? あんたの脳みそは、粕取りの酒精アルコールでイかれたらしい」
「私は酔っちゃいない。おかしいのは、兄弟、お前の方だろう?」
 フレイドマルは白目ばかりか黒目にまで赤い濁りが広がっている眼球を丸く見開いてマイヤーを見つめた。
 途端、マイヤーの背筋に悪寒が走った。
 丸い瞳孔は質の悪い赤鉄鉱を磨いた石鏡のようだった。鏡面には赤い筋が幾本も浮かんでいる。
 曇った鏡の中に、人の顔が映り込んでいた。
 卵形の柔らかな輪郭を持つ、真っ黒な顔だった。鼻筋の通った、少年じみた顔立ちをしている。
 明らかに、マイヤーの顔ではない。
 座長の目玉の中の顔は、優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべた。
 青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「役立たずの子豚ちゃん」

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