パンパリア伯ジロー・ル=ルーは座したまま瞑目している。
年齢は七十に近いはずだ。
四十数年前に当時のハーン皇帝の御前で行われた剣術試合で、見事に優勝をした勇士であるとは、到底思えぬ小柄な体つきであった。
いや寧ろ、小柄で風采のあがらない身分の低い若者が、対戦する巌のような剛の者達の太刀筋を素早く見極め、それぞれに違った戦法を繰り出して、次々と打ち倒してゆくさまこそが、皇帝ジオ=エルの感動を呼び、彼はパンパリア辺境泊という爵位を得たのである。
ジオ=エル皇帝も当時は二十代後半の若さであった。このハーン朝最後の皇帝は、背ばかり高いが体の線は細く、どちらかというと病弱な人物だった。
武術に関しては、肉体の強壮のためにたしなむ程度であったが、逆を言えば、それゆえに剣術の試合を見ることを好んでいたのだろう。
四十有余年の昔――。
闘技場の天覧席からゆっくりと下り来る皇帝の、日蔭では明るい茶であった瞳は、日差しを浴びるほどに碧みを帯びていった。
手ずから栄誉の勲章を取ってジロー・ル=ルーの胸に飾った時の、皇帝の楽しげな微笑を、そして少年の面影を残す若い騎士の紅潮した頬を、覚えている年配の騎士達も、まだ幾人かは生き残っているはずだ。
薄暗く、狭い部屋であった。
ル=ルーが座っているのは玉座のようである。肘掛けが無ければ、祭壇の生贄台に思えるような意匠であった。
座の頭上の壁には、四重丸の同心円が描かれたタペストリーが掛けられている。
一番外周の円は、緑や茶の糸で刺繍されていた。
二番目の円は赤い丸印と、それを起点として中央に向かって伸びている直線によって、十二に区切られている。
三番目の大きな円は光沢のある赤の糸によって塗りつぶされるがごとく刺繍され、その中心に縫い込められた小さな赤い宝石が四番目の円である。
これはパンパリアの、いわば国章であり、地形図であった。
即ち外周の緑と茶色はパンパ山の外輪山を表している。十二の赤い印は点在する神殿・祠を表している。
赤く塗りつぶされた円と宝石は、山々に降り注いだ雨水を全て受け入れながら、そこから流れ出す川が一筋もないが為に、高濃度の赤い塩水の貯まりとなっているカルデラ湖と、その真ん中に浮かぶ小島を表しているのだ。
パンパリアと、エル=クレール・ノアールの故郷であるミッドとは相似の地形であるが、大きさ以上の違いはこの塩湖の色であろう。
ミッドのカルデラ湖も、パンパリア塩湖と同じ理屈で、濃い塩水の湖であった。
しかしミッド湖の水の色は澄んでおり、採取される塩は純白だった。
夏場の短い期間、雨量が減ると、ミッド湖は水位が下がり、真っ白な塩の原となる。
僅かに残った水分が晴れ渡った夏空を写し取るその景色は、足下に天空が広がるかのごとき、不可思議で美しいものであった。
パンパリア盆地は雨がほとんど降らない。雨雲は外輪山の峰に当たると、水気を全て落としてしまう。こうして水を水根だ外輪山の湧水は年間を通してほとんど量が変わらず、パンパリア塩湖の水面が下がることはない。従って、ミッド湖のような景色は見られない。
パンパリア塩湖が産する塩は、ほんのりとピンクがかり、塩気の奥に僅かに鉄の匂いがする。これで肉を焼くと、堪えられないうまさになるいう。美食家好事家が競って求めるというこの塩による収入と、ほとんど毎月行われる御前試合による経済効果とが、パンパリア伯家の収入源であった。
パンパリア伯ジロー・ル=ルーは、僅かに俯いた恰好で座したまま瞑目している。祭壇に据えられた小さな神像のように、ぴくりとも動かない。
足下に男が一人、片膝をついて頭を下げている。
上衣は胸元が大きく開いているが、露出した胸板は、押し抱かれた黄色い鍔広帽によって隠されている。
南瓜のようなシルエットの、酷く丈の短いの半袴、腿の一部が露出する程度の長さの長靴下。
古くさい意匠の、滑稽で黄色い装束に身を包んだ、若い男だった。
「……思いますに、むしろその少年の方が技量が上なのではないかと」
若い男の声が、狭い部屋の中で奇妙に響いた。残響が消える前に、別の声が響く。
「大男の従者よりもか?」
しわがれた、年老いた男の声である。
「現在の技量では、確かに大男の方が上でしょう。しかし伸びしろがあるという意味も含めますれば、少年に分があると存じます」
「先のことではない。今の力量が重要なのだ。ワシが欲しているのは……」
年寄りの声は語尾が聞き取れぬ程に小さい。
「お採り入れが叶うのは、残り一人でございますが?」
「今の力が強い方だ。子供が強くなるまで待てようか。ワシには時が……」
苦しげに、声が消え入る。
若い男は胸に抱いた帽子を強く握った。
よほどに力を込めているのか、手指が白く変じ、微かに震えている。
「大男の方だ。他へ気を散らすな」
若い男が、脂汗の滲んだ顔を上げた。
「御意」
若い男……ピエトロは、今一度深く頭を下げ、そのまま滑るように後ずさって退出した。
狭い部屋に残されたパンパリア伯の、細身で小柄な体は、相変わらず俯いた恰好のまま瞑目し、制止している。
イジュラエル神殿出張所の門前で一寸した騒ぎが起きていた。
ただしそれは、騒動とも呼べぬほど小さな騒ぎであり、あっけなく収束した。
ギュネイ皇帝正規軍の軍人十名ほどが、きらびやかな軍装で神殿出張所門を目指して歩んできたのが、そもそもの起こりである。
門前は神殿騎士団の『臨時募集』に集まった屈強な者共と、その数倍はいる見物人の群れとで、大変な人だかりである。
官軍の将校・下士官達がいかに「帝国の権威」を振り立ててみても、人々の中から彼らを奥へ通そうという動きが起きなかったのは、この地がパンパリアであるがゆえ……かもしれない。
彼らはそれに立腹した。国家に逆らうのかと叫ぶ者がいた。軽々しく国家を持ち出し、その言葉が自分たちを表すように振る舞う不遜さに、叫んだ当人は気付いていない様子であった。
群衆がざわめいた。
立腹する者もいくらかいたようだが、大概は祭り好きの庶民である。
僅かに道が開けた。
如何にも強そうに見えるこの軍人達を通してやるべきだと判断する者が、幾らかはいたと言うことだろう。
とはいえ、それは肩肘を張った人間が通るには狭すぎる隙間だった。それでも軍人達は肩をそびやかしてその細い道に入り込もうとした。
ところが、先頭の者が、ぴたりと歩を止めた。付き従う者達が彼の背を小突くように押し、声高に文句を言う。
直後、怒声は悲鳴に変わった。
前も後ろも横も人間が詰まっている空間で、彼らは無理矢理に後ろへ下がった。
逃げようとしているのだ。
細く開けた道の先に、見覚えのある人影――巌のごとき大男と、下げ髪の優男――を見たが為に。
強引に「退転」しようとした彼らの眼前に、にわかに開けた空間があった。
初めは一間四方ほどの隙間であった。
しかしその場を占めていた群衆達が蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去り、あっという間に広さが増して行く。
軍人達はそれを「自分たちに道を譲っている」と見た。
この期に及んで、彼らはまだ自分たちが恐れられ尊敬される存在だと誤解していた。
彼らはついにパンパリアの国風を理解できなかったようだ。
パンパリアの民は、帝国の軍人達を「官軍だから」という当たり前の理由で恐れることはない。
官軍が敬意を払われるのは、彼らが強者だからであった。
逆を言えば、たとえ反社会的な者……つまりは犯罪者であっても、より強いと認められたなら、尊敬と信頼を集めることができる。
いわば人間の感情から湧き出る単純な判断こそが、「治外法権都市・パンパリア」の法なのである。
つまり、祭り好きの、武術好みの市民達が恐れ、敬うの「純粋な強さ」が、その時に感じられたのだ。
それ故に、彼らはその空間を開けた。官軍共のためではなく、別の強者のために。
軍人達がその空間に走り込んだその時、空から両手持長剣が降って来た。
地面に突き刺さり、壁のように逃走未遂者達の前に立ちふさがる長大な鉄塊は、元は彼らの中の一人が宿営地から、おそらくは上役に無断で持ち出してきた装備品であった。
やや遅れて、片手持ちの剣も「降って」来た。ただしこちらはきっちりと鞘に収まっており、地面に突き刺さるようなことはなかった。
「御身らの御忘れ物を御返納したってぇのに、何もそんなに怖がる事はないだろうよ」
不機嫌そうな声で言ったのは、ブライト・ソードマンである。未練がましい眼差しを、自身が高く投げ上げ、落ちて地面に突き刺さった鋼の板に向けている。
「御貴殿方がこちらにお越しになるとは思わなかった。見上げた面の皮の厚さをお持ちと見ゆる。感服仕る」
武人然とした、丁寧な言葉遣いではあったが、どう聞いたところで嫌味と蔑みの色がありありと感じ取れる声音である。
豪奢な軍服に身を包んだ軍人達は、しかし、鉄塊に行く手を阻まれ、民衆に取り囲まれ、行くことも退くことも出来無かった。
人の波はかき分けようにもかき分けられず、むしろ押し戻されてしまう。
額に脂汗が滲み、顔色は紙か火鉢の灰のように失せ、全身を振るわせ、手足をばたつかせる。
そこへ、エル=クレールがすっと近づいた。
「それをお持ちになって部隊へご帰還なさってはいかがでしょうか? それが一番良いと、私は思うのですけれども」
にこりと笑いかけた。
軍人達は一瞬安堵したが、直後、優しげな若い貴族の笑顔の後ろから、恐ろしげな大男の不機嫌面が、ぬっと突き出たのを見て、断末魔のような悲鳴を上げた。
一人の将校の腰が――昨日山道でそうであったのと同様に――、彼自身の身体を支えることを放棄した。
ブライトは大柄を縮めて、必死の形相で失禁を堪えているらしい尻餅将校の耳元に口を近づける。
人々の嘲りが混じったざわめきの中でも、どうにか聞こえる程度の小さな声が、将校の耳に聞こえた。
「お戻りが嫌だと言うのなら、ちょいと時間を割いて頂いて、俺様と予選をしてくれた相手として、俺様の予選突破を証言して宣誓してくれると嬉しいンだがね」
それはつまり、自分たちが軍の装備品を勝手に持ち出して宿営を抜け出し、民間人に暴力を振るった挙げ句、惨めに負けたということを、万人の前で認める、という意味である。
彼らは自分たちが名も知らぬ旅人に負けたことを黙し通すつもりでいた。幸いにも山道の中で目撃者はいない。
その上で、仲間内の誰かに敗者の役を振って口裏を合わせ、予選を突破した旨のニセの宣誓をして本戦に出ようと企んでた。
その彼らに、自分の恥を晒す勇気がある筈がない。
「いや、吾々は、祭りを見物に来ただけなのだ。すぐに戻る。戻る」
失禁将校がわざとらしい大声で言うと、軍人たちの中で一番の大柄が、地面に突き刺さった両手持長剣に飛びついて、それを必死の形相で抜きにかかった。
他の軍人達も震えながらうなずきを返す。
ほとんど十人がかりで両手持長剣を引き抜き、喧嘩段平を拾い上げると、彼らは、
「では、御免」
などと無様な作り笑いを浮かべて、頭を下げて見せた。
群衆の中から嘲笑が漏れる。彼らは軍人達に道をあけようとしなかった。
先ほどは幾分か彼らに敬意を示した様子であった人々も、軍人達の脅すような視線をみじんも恐れない。負け犬に媚びる必要はないというのが、治外法権都市の常識なのである。
困惑する彼らの前に立ったのは、無問題亭のジダヌである。
「はい、お客様方。お帰り口はこちらでござまいます」
自分の宿屋の客を案内するのと変わらぬ態度と口振りで、軍人達を誘導する。
「はい、ごめんなさいよ。はい、通りますよ」
にこやかに笑い、臆面もなく頭を下げる、この引退した剣術使いにこそ、野次馬達の敬意が向けられた。人一人が真っ当に通り抜けられるほどの細い道が再び空いた。
ぞろぞろと一列に去って行く軍人達と、先導の背中を見つめて、エル=クレールが、
「たいした人物ですね」
本心から感心し、嘆息すると、ブライトは、彼には珍しい困惑顔で、
「とっつぁんが行っちまったら、俺様の宣誓の立会人がいなくなるんだが」
小さく息を吐いた。途端、エル=クレールの顔が輝いた。
「出場なさらなければ良いのですよ」
少年とも乙女とも付かぬみずみずしい顔の表が、嬉しげで悪戯な笑みで満たされている。
ブライトは一瞬その笑顔に見惚れ、直後にその照れを隠すつもりもあって、顔を背けた。
目の端に、イジュラエル神殿出張所の重厚な扉が入り込んだ。
「そうも行かないらしい……」
喜びと諦めの混じった声で言う彼の視線を、エル=クレールは追った。
翼と目玉を持った書物が浮き彫りにされた扉が、ゆっくりと大きく開いて行く。傍らに、神官らしき大柄な人物と、数名の修行僧らしい者達が立ち、こちらをじっと見つめている。
その眼差しは厳格であり、喜ばしげであった。
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