質素な夕餉の席に、浮かれた領主の鼻歌が響き渡る。
 席に着いているのはポルトス伯と二人の旅人のみ。伯爵の左右にはマルカスとビロトーがしかめ面で突っ立っており、さらに食卓の周囲をぐるりと兵士達が取り囲んでいた。
 レオン=クミンとガイア・ファテッド=クミンは、突き刺すような視線を四方から受けながら、無言で食物を口に運んでいた。
「デートリッヒが帰ってくる、帰ってくる。デートリッヒがぁ帰ってくるぅ」
 ポルトス伯は出鱈目な節を付けたその言葉だけを繰り返している。
 居心地の悪い食卓と言うほかない。
 早いところ退席したいのだが、どうやらそうもゆきそうにない雲行きだ。
 ドアが小さく開き、小吏が一人入ってきた。こそこそと壁沿いを歩いたそいつは、ビロトーの足下にしゃがみ、顔だけぐいと上に向けて、なにやら口元を動かした。
 ビロトーのしかめ面が、さらに渋くなった。
「伯爵」
「んーんんー?」
 ポルトス伯は鼻歌を止めずにいるが、一応は「聞く姿勢」ではあるようだ。ビロトーの方へほんの少し身体を傾けた。
「デートリッヒ様が、森の入り口までお着きになったと」
「おお、おおお!」
 陽気な伯爵はいきなり立ち上がって椅子を蹴倒すと、猛然とドアへ向かって駆け出した。
 慌てたのはビロトーとマルカスだ。
「伯爵!」
「我が君!」
 口々に言いながら、ポルトス伯に追いすがり、彼の手がドアノブに届く寸前に、その前に立ちふさがった。
「出迎えねばならんだろう。デートリッヒはあの森の暗闇が、小ぃぃさい頃から大嫌いだったのだぞ。昼間でも暗いから、怖い怖いとよく泣いていた」
 泳ぐ眼差しの先には、おそらく甥の幼い頃の姿が浮かんでいるのだろう。
「デートリッヒ様は、もう赤子ではあられませんぞ」
「それを子供扱いなさっては、むしろユリアン卿に笑われまする」
「んんーんー?」
 ポルトス伯は不服そうに突っ立っている。
 二人の家臣は、なだめすかし、どうにか主を席に連れ戻した。
 座りはしたものの、伯爵殿はホークの先でスープの浮き実をつついてみたり、ナプキンを丸めてみたり、とまるきり落ち着きがない。
 来客があきれ果て、形ばかりの挨拶を残して退室したのにも、まるで気付かない。……いや、客と食卓を共にしていた事そのものを、忘れきっているのだろう。
「申し訳ありません」
 食堂のドアを背に、マルカスが今日何度目になるか知れない謝罪をした。
「お気になさらずに」
 レオンも今日何度目かの「営業用スマイル」で応じた……後、
「残念でなりません。ぜひユリアン卿にお話を伺いたかったのに……」
「話……とは?」
「ミッドの姫君の事ですよ。ミッドが火山……魔物に襲われたという噂もありますが……ともかく、あの国が壊滅して、もう四年以上経っている。姫君が無事ならば、それは奇跡以外のなにものでもない」
 マルカスはレオンの言葉を一通り聞き終わって、さらに二呼吸ほどした後でようやく、彼が相当に不穏な発言をしたのだということに気付いた。
「ミッド公国が魔物に襲われた?」
「どのような武具を持ってしても決して『死ぬ』という事のない魔物の群が現れて、あらかた国を破壊尽くした後に山が火を噴いたのだと……」
 相変わらずの笑顔でいうレオンに、ガイアがそっとすがりついた。
「……レオン殿、滅多なことは……」
 妻の忠告を受け、彼は最後に一言付け足した。
「あくまで噂ですが」
「噂……死なない魔物……」
 マルカスの額に、ぬるりとした汗が湧いた。指先が白くなるほど拳を握り、その拳を小刻みに震わせている。
「どうか、なさいましたか?」
 レオンがうつむき加減の彼の顔をのぞき込んだ時だった。
 廊下の奥がざわめいた。
 雑吏が一人、駆けてくる。その後ろにもう一人、こちらは悠然と歩いている。
「ユリアン卿がお戻りです! ユリアン卿が、お戻りになられました!」
 雑吏は叫きながら食堂に駆け込み、その背後の人物は、廊下の端にいる「見知った顔」にゆっくりと近寄った。
「アンドレイ」
 中年男の逞しげな名前が、どろりとした響きを持ってその人物の口から出た。呼ばれたマルカスが慌てて振り返ると、その人物の視線は彼を通り越して二人の旅人を眺めていた。
「ユリアン卿……お早いお着きで……」
 マルカスは生唾で乾ききった喉を濡らし、それでも嗄れた声で言った。
「アンドレイ、相変わらず他人行儀な物言いだな……」
 そのからみつくぞんざいな言葉遣いの人物は、どう見ても三十前の若輩だった。
 青白い顔で、骨張った体つきをし、猫背に曲がった背中が高くない背丈をより低く見せている。
「私は貴君をめのと(教育係)というより友とも思っているというのに」
 マルカスに語りかけながら、視線は見慣れない二人連れに注がれ続けている。
「そちらは……?」
「お客人です。国土を旅して回っておられ、このカイトスにお寄りになられた……」
 マルカスが言うのに合わせ、レオンとガイアは型どおりの礼をした。
「国土を……。ではいろいろなことを知っていらっしゃる?」
「知らぬことのほうが多うございます」
 レオンが答える。
「ご謙遜を」
 デートリッヒ=ユリアンは、生白い頬の薄い肉をぴくりと動かした。……それが彼の笑顔であるらしい。
「領国の中に閉じこもって外を見ようとしない多くの者達よりも、そこもとらのごとき行動派の方が……世界が広い」
 筋張ったユリアンの指が、食堂のドアを示した。
「一緒に食事をしませんか? あるいは美酒などを傾けながら、旅の話を語っていただきたい」
 レオンは彼の指先をちらと見、
「しかし、御貴殿とポルトス伯の水入らずを邪魔する訳にはまいりませぬゆえ」
 頭を下げた。
 ドアの向こうに、確かに人の気配がする。おそらく、ビロトーに羽交い締めにされたポルトス伯爵のものだろう。
「食事は大勢で摂った方が楽しいもの……。で、あろう、マルカス?」
 矛先を向けられたマルカスは、眉間に深くしわをよせ、上目でクミン夫妻を見た。
 レオンとガイアは、肩を数ミリ上下させて表現し……彼ら以外にはその呆れと諦めは伝わらなかったようだが……ユリアンの招きに従った。
 中では、案の定ポルトス伯が狂喜乱舞し、案の定ビロトー将軍が大汗をかいていた。
「ユリアン、ユリアン」
 ポルトス伯爵は白髪交じりの髪を振り乱して甥に抱きついた。ユリアンが困惑の目をマルカスとビロトーに向ける。
 両将軍は互いの顔を見、次いで二人の旅人の顔を見、再び互いの顔を見た。ため息が二つ漏れた後、口を開いたのはビロトーだった。
「得体の知れぬ物がカイトスを壊滅させたのです。伯爵は心痛のあまり心を乱されまして、この様な有様……」
「得体の、知れぬ……?」
 ユリアンは針のような視線をビロトーへ向けた。
「そのような物言いでは理解ができぬ」
「それ以外には申し上げようがありません。形だけならば、首のない死体と表現できましょうが……」
 ビロトーは唇をかみしめた。
 ユリアンの視線はマルカスに移った。マルカスも唇を閉ざしている。
「貴君らがこれほど無能だとは思わなかった。折角お前達を見込んで、私が【皇帝】に言上し、直臣に迎えるとの確約を得たというのに。これでは私が恥をかく」
 ユリアンは吐き捨てるように言った。二将軍の目に驚愕の光が浮かんだ。
 ユリアンは続ける。
「今帝国がどのような危機に瀕しているか、この様な僻地にあっては知り得ぬであろう。【皇帝】は憂いておられる。勅命に従わぬ者が多すぎると。それ故、優秀な人材を募り、無能な者達を排除しておるのだ」
「初耳ですね」
 ぽつりと、レオンがつぶやいた。その幽かな声にユリアンは振り向いた。上得意な笑みを顔に満たしている。
「【皇帝】近くに仕えている者しか知り得ぬこと故、そこもとらの類が耳にしたことがないのは当然のこと」
 無数の棘が聞く者の神経を逆なでする、荊のような言葉だ。
「デートリッヒ様」
 ビロトーが声を震わせた。
「我々が、皇帝陛下の直臣と成れるのですか?」
「貴君らはこのような田舎に埋もれるべき人材ではないからな」
「では、帝都に迎えられると!?」
「当然だ」
 ビロトーは頬を上気させた。一方、マルカスの顔からは血の気が引いてゆく。
「では、このカイトスの地は……ポルトス伯爵の御身は、いかが相成りますか?」
 ユリアンは己にすがって、調子外れの歌を唱っている伯父をちらと見た。
「それは貴君らの出方による」
 ニッと笑い、ユリアンはなにやら取り出し、二将軍の前に差し出した。
「【皇帝】よりの下賜の品だが……貴君らがこの品にふさわしくなければ、直臣の話は無かったことになる」
 ユリアンの手の中から、二人の将軍の手に渡ったのは、紅い珠だった。
 それは赤子の拳ほどの大きさで、ぬるりとした光を放っている。
 二人がその珠を握るか握らないかの瞬間、
「それを受け入れてはいけません!」
 叫んだのは、レオン=クミンだった。

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