2日ほど後の夕方のことです。
 魔王の森の森番の小屋に、立派な身なりの将軍様が、二頭立ての馬車を一台引き連れて、早馬を飛ばしてやってきました。
「おや、カイトス将軍。なにやらお顔の色がお悪いようですが?」
「ミーミル殿、シグルト殿、是非に今すぐ御登城願いたい」
 カイトス将軍は言うなり、二人の賢者の手を引き、ぐいぐいと番小屋のそとへ連れ出して、あっという間に馬車の中に押し込んでしまいました。
 そうして自分はまた馬に乗り、馬車を先導して駆け出しました。
 ですから賢者達は一体何が起き、何のためにお城へ行かなければならないのかまるきり解らぬまま、天井に頭をぶつけたり、互いにおでこをぶつけ合ったりしながら、馬車に揺られることとなったのです。
 やがて馬車はお城に着きましたが、それでもカイトス将軍は何の説明もしてくれないまま、ただただ賢者達の手を引いて、お城の奥へ奥へと歩いてゆきます。
 そして……賢者達がたどり着いたのは、お城の中で一番立派な、来賓のための寝室でした。
 部屋の中には、とても立派なベッドがありました。あまりに立派が過ぎて、部屋の内装にはまるで調和していないこの寝台は、そこに寝ている人がご自分の家から運んできたものです。
 寝ているのは……アナ姫様でした。
 真っ赤な顔をしておいでます。
 そのなかで、唇と目の下だけが青黒く、おでこからは汗が噴き出しています。
 どうやらひどいお風邪を召しておられる様子です。鼻をむずむずズルズルすすり上げ、ケンケンゴホゴホ咳き込みながら、ときおり大きくくしゃみをなさっています。
 傍らに、王様がおられました。大変困った顔をなさっています。
 そのさらに傍らに、王子様がおられました。
 3つの顔を順繰りに見た後、二人の賢者は口をそろえて言いました。
「一体何事でございますか?」
「今朝早く、アナ殿が散歩に出かけられてな」
 王様がもそもそと口を動かされました。
 王様は聡明なお方ですが、あまり饒舌な方ではありません。
 所々回り道したり、あるいは近道し過ぎたお言葉を、筋道立ててまとめますと、このようになります。

 その朝、アナ姫様は毎朝日課のお散歩に出かけられました。普段はお城の中庭をふらっと歩くだけなのですが、今朝に限って何故かお堀の方に行ってみたくなったとのこと。
 山城のお堀は、なみなみと湧き水を湛えておりました。
 ちょうど水面の睡蓮が見頃。朝露に濡れた花弁がキラキラと輝いております。
 キラキラ、キラキラ。
 まるで宝石を散りばめたような輝きに、どうしてもその一輪が欲しくなった姫様は水面に手を伸ばされました。
 ところが後一息というのに、花は指先に触れるばかりで、それを摘むことができません。
 届かないとなるとますます欲しくなります。
 アナ姫様は辺りを見渡しました。
 その目の端、お城の壁と掘り割りの間の所に、人の背丈ほどの木の板がいくつか置いてあるのが見えました。
 お付きの侍女が止めるのも聞かず、姫様はその木切れを一つ取ると、水面に浮かべ、そこにおみ足を乗せました………………。

「ですから、船には乗られないようにと申し上げましたのに……」
 ミーミルが申し上げますと、アナ姫様は
「ハックシュ!」
と、大きくくしゃみをなさった後、
「船ではなく、板だったわ!」
かすれた声で言いました。
 思いの外お元気そうな声でした。ミーミルはふわりと笑って答えます。
「その板は、堀割を掃除する役目の者が、手の届かないところのゴミを拾うために、その上に腹這いになって乗るものです。……掃除役はその道具を『板船』と呼び慣わしております」
「しらないわよ、そんなこと!」
 アナ姫様は子供のように泣き出されました。
 泣いて、咳き込んで、叫いて、くしゃみをして……王様がなだめ、ようやくしゃくり上げを止めた後、姫様は真っ赤な目をミーミルに向け、仰いました。
「夢判断をなさい!」
「それは、また新しい夢ですか?」
 ミーミルが訊きますと、アナ姫様はフン、と鼻先で笑いました。
「人形のでてくる夢! 白い、紙を切っただけの! 誰にも読めない字が書いてあるわ!」
 この言葉を聞いて、さすがに怒ったのは……シグルトでした。
「3度も同じ夢を見ただと!?」
 眉をつり上げて、眉間にしわを寄せ、言い放ったその声は、愛らしい少年のものとは思われぬ、低い、険しい声音でした。
「最初に話を聞いたときからおかしいとは思っていたのだ。始めからそのような夢など見ていなかったに違いない! この嘘吐きめ!」
 シグルトのつり上がった瞳の間、丸い額に飾られた赤い石がほんのり光を発しております。
「帰ろう、ミーミル! この様な愚か者と言葉を交わしても、何の得もない!」
「愚か者ですって?」
 今度はアナ姫様が怒り出しました。
 アナ姫様はバッタが跳ねるようにベッドから飛び起き、立ちはだかるシグルトの小さな身体を押しのけて、ミーミルの鼻先に噛み付きます。
「答えに窮したから逃げるのね? ならば質問に答えられないあなた方こそ愚か者ではなくて?」
 びっくりしたミーミルですが、それでも落ち着いた口振りで申します。
「答えられぬとは、申しておりません」
「その口の利き方は何!」
 熱のせいでしょうか。アナ姫様は頭から湯気を立てています。
「気に入らないったらないわ! 高々、森の番人のくせに、王様に気に入られているからって、偉そうにしゃべる、その口振りが気に入らない!
 センスのかけらもないその衣装も、そのくせ豪奢なその額の飾り物も! 何もかも気に入らないのよ!」
 キィ! と、悲鳴のような息を吐き出しますと、アナ姫様はやおらミーミルの頭に手を伸ばし、額の真ん中に光っている青い石の付いた飾り物をガシっと掴みました。
 ぴったりと張り付いたものを無理矢理矧がしたときのような、痛々しい音がしました。
「あっ!」
 ミーミルは小さく悲鳴を上げ、両の手で顔を覆い、床に膝を落としました。
 アナ姫様はミーミルの背を見下ろしながら、手の中の青い石を床に投げつけ、素足のつま先で蹴飛ばしました。
「さあ、言ってご覧なさい! 私が見た夢は、一体何を暗示しているのか!!」
 ミーミルはしばらく顔を覆ったままうつむいていましたが、やがてゆっくり顔を上げました。額から赤い滴がしたたっております。
 悲しそうな瞳でアナ姫様を見上げ、ミーミルは静かに言いました。
「お気を付けなさいませ。火難の兆しがあります。その身に降りかかるのは火の粉ではなく、炎そのものでしょう」
 すとん、と身体の力が抜けるのを感じ、アナ姫様はその場にしゃがみ込みました。頭がくらくらして、目の前が真っ暗になり、手足がまるで動かなくなったのです。

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