四頭身〜三頭身弱にデフォルメした真田信繁公(幸村)の詰め合わせ。信幸兄上を添えて。
ここ数年で書いた源二郎くんをちょっと集めて詰め込んでみました。
若干兄上も混じってます。
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真田 信繁
永禄10年(1567年)or元亀元年2月2日(1570年3月8日)-慶長20年5月7日(1615年6月3日)
安土桃山時代〜江戸時代初期の武将、大名(豊臣政権下で1万9000石の知行を得ていた)。
真田昌幸の次男。
同母姉に村松殿、同母兄に信幸(信之)。
幼名は弁丸。通称は左衛門佐、輩行名は源二郎(源次郎)。
父の死後、出家して好白(好白斎)と号する。
また、大坂の陣に際しては僧形をとり伝心月叟と名乗って入城したとも伝わる。
戒名は大光院殿月山傳心大居士。
一般に真田幸村の名で知られるが、現存する生前発行された確かな史料で、その名が使われている物はない。
よって(少なくとも大坂の陣で大坂城に入るまでの)諱は「信繁」が正しいとされる。
真田家の男衆に共通する癖で「花押に自分の名前の下の文字を重ねちゃう」というのがある。
信繁公も「繁」の下の方の「糸」辺りの上に花押を重ねて書く癖があり、このため書状の写しを作る時などに「信仍」「信妙」と書き間違えられることがある。
水戸のご老公(徳川光圀)も見事に間違えて、
「幸村というのは間違い。本当は信仍」
と書き残している。
ともかく、あまりに幸村名義が有名になってしまい、大坂夏の陣から200年近く後の文化6年(1809年)に徳川幕府の大目付が本家の松代真田家に問い合わせをしたくらい。
そのときは、
「当家では『信繁』と把握。幸村名義は大坂入城後の名乗りじゃないのか」
と返事をした本家なれど、さらに時代が下ると、もう否定するのも疲れたのか、藩の記録や家系図なんかに「幸村」名義を載せちゃったりもしている。
なお次男・大八(片倉久米之介守信)の家系である仙台真田家の史料では、最初から幸村名義である。
ただし、仙台藩が幕府にした弁明では
「いやいや、ウチの守信は同じ真田でも旗本の信尹さん(真田昌幸の弟。信繁の叔父)とこの次男の政信さんの子供ですから。ほら、大八丸くんは小さい時に京都で印字打(石合戦。端午の節句の行事の一つ。一種の模擬戦闘だが、マジで石つぶてを投げ合う)に参加して亡くなったって、高野山蓮華定院さんの記録にも書いてありますよ」
ってことになっている。
ちなみに、信尹叔父上に政信という息子さんはいない。
真田信繁は大坂冬の陣で討ち死にしたことになっているが、
- 鹿児島に逃げた(大坂の陣の後で、『花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きものいたり退いたり加護島へ』という俗謡が流行った)
- 鹿児島に逃げたあと長崎の島原に落ち延びた(島原の乱の指導者天草四郎は実は秀頼の息子。バックに信繁の息子の大助が軍師として付いていた――という伝承がある)
- 豊臣秀頼とともに琉球へ渡った(あるいは、大助幸昌が琉球へ逃れた)
- 四国讃岐に逃げて細川氏に保護された(子孫は細川氏の婿となり石田姓を称したが、幕末明治期に真田姓に復した、と伝わる)
- 鹿児島に逃げたけど危うくなったので、あちこち放浪して、最終的に四女なほ姫(御田の方)の嫁ぎ先の佐竹家に保護されて、秋田県大館に落ち着いた。
などという、生存伝説がある。
前出の通り、生年には諸説がある。
通説の永禄10年(1567年)生まれは、没年を49歳として逆算した物。
元亀元年(1570年)説は、仙台真田家(次男・大八の系統)の『仙台真田系譜』と松代真田家の『真田家御事跡稿』による物で、こちらは享年を46としている。
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