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三頭身〜二頭身強にデフォルメした真田昌幸公の詰め合わせ。信尹公を添えて。

真田昌幸[?]
ちまちま真田昌幸さん

慶長16年6月4日(西暦に換算すると1611年7月13日)は真田安房守昌幸公のご命日です。

というわけで、ここ数年で書いた昌幸パッパをちょっと集めて詰め込んでみました。
信尹叔父上も混じってますが、どちらかというと武藤喜兵衛と加津野市右衛門成分が多いのかも知れません。


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真田 昌幸

天文16年(1547年) - 慶長16年6月4日(1611年7月13日)

安土桃山時代〜江戸時代初期の武将、大名。
真田幸隆(幸綱)の三男。 母は恭雲院(河原隆正の妹)
兄に信綱、昌輝、弟に信尹、信春(金井高勝)
輩行名は源五郎。
通称名は喜兵衛(喜兵衛尉)。後に安房守(官名)
戒名は長谷寺殿一翁千雪大居士、または、一翁閑雪大居士。

出生時点で同母兄が二人いたため、当初は家督相続権がなかったものと思われる。

天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として甲斐国へ下り、武田晴信(後の信玄)の奥近習衆に加わる。当時7才。

永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である「武藤家」の養子となり、武藤喜兵衛昌幸と称する。
この頃、足軽大将に任じられ、軍役は騎馬15騎、足軽30人。

初陣は永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦い(当時15歳)と言われているが、これは甲陽軍鑑意外に記述がなく、定かではない。

永禄7年(1564年)頃、山手殿(山之手殿)を妻に迎える。山手殿との間に於国(村松殿)、信之、信繁をもうける。

武田信玄に「信玄の両眼の如き者たち」と称され、(バージョンによっては、だが)父・幸隆、長兄・信綱、次兄・昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる。

信玄亡き後はその子・勝頼に仕える。

天正2年(1574年)に実父・幸隆が死亡。真田家の家督は長兄の信綱が継ぐ。
しかし、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死。
信綱に男子はあったものの、これは若年であるとして、勝頼の命により真田家に復して家督を相続する。

天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が本格化すると、勝頼に対しては「甲斐を捨てて上野の吾妻地方(岩櫃城)に退避」することを進言しつつ、同時に信長や北条家、家康、越後上杉家などと接触を図ったりしている。

このお手紙&プレゼント作戦が功を奏して、武田氏滅亡後の天正10年4月8日、昌幸は織田信長から旧領(の一部)を安堵をされ、織田政権に組み込まれて、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きると、旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げる。所謂「天正壬午の乱」の勃発である。
昌幸は混乱に乗じて旧武田家臣の取り込みを図り、信濃小県郡や佐久郡の諸将を家臣団に取り込む。

滝川一益が北条氏直に破れると、叔父の矢沢頼綱を沼田城に送り込んで、これを奪還。
一方で嫡男の信幸を岩櫃城に派遣して上野方面の守りを固める。

その後、上杉景勝に臣従したり、北条氏直に降ったり、徳川家康方についたりして、諸侯を翻弄する。

その家康に「対上杉防衛のためのお城を作った方が良いんじゃないかな。お金出してくれたら、ウチが普請を担当するよ」と願い出て、千曲川北岸に上田城を建設。実質的な城主に収まる。
さらに周辺の国衆・豪族である、禰津氏、屋代氏、室賀氏、丸子氏などを調略して、小県を掌握。

こうして勢力を得た昌幸は、元々そりが合わなかったらしい家康と手切れをするために、次男・信繁を人質に出して上杉景勝に従属。

怒った徳川家康と北条氏直は、上田を徳川勢が、沼田は北条勢が攻撃する二面作戦をしかける。
こうして「第一次上田合戦」の端緒が開かれる。

詳しい状況は割愛するが、上田では地の利を十二分に活用したゲリラ作戦が繰り広げられ、徳川勢は7000の兵力で1200ほどの上田勢に敗走させられた。(背後で上杉勢が動いたことを恐れた、という事情もある)
また沼田では城代の矢沢頼綱が北条氏邦の攻撃をほぼ完璧に防いでいる。

この合戦を契機に、昌幸は「武田の旧臣/陪臣」ではなく「信濃の独立勢力/大名」として、豊臣陣営に認知されることとなった。

天正13年(1585年)冬、上杉景勝に人質として差し出していた次男・信繁を、その盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕させ、昌幸自身も豊臣家に臣従する。

天正18年(1590年)、真田家と北条家(と、間に入った徳川家)との間に残っていた沼田領割譲問題が原因となり、豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。

これも詳しい状況は割愛させて頂くとして、北条家が討伐されると、昌幸は旧領を安堵され、関東を支配することとなった徳川家康の「与力大名」とされたが、これは秀吉が家康を牽制するための処置で有り、実際は独立大名扱いであった模様。

所領の内の沼田領は長男・信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した形となる。

文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵に際しては渡海せず、伏見城の普請役の負担を命じられる。


文禄3年(1594年)4月、自称だった「安房守」に正式に任官される。また、時期は不明だが、秀吉から羽柴姓を与えられた模様。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉死去。昌幸は表向き家康に従う形を取り、慶長5年(1600年)7月の上杉討伐に従軍する。
家康が京都を発した隙に、石田三成が諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始め、昌幸もこの書状を下野国犬伏で受け取る。
昌幸・信幸・信繁による協議が行われ、昌幸・信繁は石田方に、信幸は徳川方に付くことが決まる。(犬伏の別れ)

昌幸・信繁は上田城へ引き返し籠城。信幸は中山道を下る徳川秀忠の本隊に加えられる。
9月5日、秀忠軍が上田城に接近。真田勢約3,000。秀忠勢3万8000人。
またしても詳細は省くが、昌幸はのらりくらりと秀忠をはぐらかして対峙を長引かせ、小規模な戦闘が発生しても城方が良く守ったため、秀忠は上田城を抜くことが出来なかった。

9月8日に秀忠の元に家康からの上洛命令の書状が届いたため、徳川方は撤退。

しかし、関ヶ原の戦いは西軍の敗北。(慶長5年9月15日。西暦1600年10月21日)
西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、一命を助けられてはじめ高野山、のち九度山に流罪となった。

昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。
次男の信繁とその妻子、16人の家臣が従った。
出立前、長男信幸と対面した昌幸は、恐ろしげな目つきをしつつも涙をハラハラと流し、
「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに。(なんと悔しいことだろう。俺の方こそが家康を追放してやろうと思っていたのに)」
と語ったという逸話が伝わる。

上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。

流配先での生活は10年余り続き、その間、長男や親族他が赦免運動を展開したが、昌幸は許されることなく、慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死した。享年65。

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