子壇嶺城戦記



 長野県上田市に、神川(かんがわ)という所がある。
 国分寺史跡の西を流れる細い川の名であり、その周囲の地籍の名である。
 大久保忠教……講談で一心太助が「親分」と慕った、天下のご意見番こと大久保彦左衛門、と呼んだ方が通りがよいだろう……が、著書「三河物語」に以下のようなことを記している。
「当方ことごとく腰抜け果て、震え上がり返答する者なし。その様、下戸に酒を強いたるごとし。この様な者どもに領地を与えるなどもったいない」
 時に天正十三年(1585)。
 忠教が「味方の死者三百五十余名」と記し、真田方の史官が「敵方千三百余を討ち、味方四十余死す」と数えた徳川大敗の地、それが、神川なのである。


 さて。
 その合戦の直前、奇妙なことが起きていた。
 上田の南東に、青木という村がある。その地の、子壇嶺(こまゆみ)という山に、杉原四郎兵衛と名乗る地侍に率いられた、数十の徒党が登っていたのだ。
 標高は千二百二十三メートルと言うが、上田盆地自体が海抜三.四百メートルであるから、差し引いて九百メートル強の山である。
 その子壇嶺岳の山頂に、古い山城の跡があった。
 うち捨てられた城である。もちろん、城郭はない。礎やら、堀跡やらがわずかに残っているだけだ。
 息を切らし、ようよう山頂にたどり着いた彼らは、そこに砦を建てた。
 できあがったのは、羽柴秀吉の「一夜城」などとは比べるべきもない、粗末な掘っ建て小屋。
 そうして、
「我らは徳川に味方せん。逆賊・真田を討ち滅ぼさんがため!」
 などと近郷集落に向かい声高に触れ回り、兵糧と称して、米・味噌、そして酒を徴収した。
 
 蒸し暑い夜だった。
「四郎!」
 垢の染み着いた頬のあたりをこすりながら、従兄の次郎太が呼んだ。杉原四郎兵衛は不機嫌そうな目をやった。
「総大将は俺だぞ」
「なにが」
 次郎太は腹を抱えて笑った。
「なにが総大将だ。二十やそこらの食い詰め百姓の頭になったのが、そんなにうれしいのか?」
「百姓じゃねぇ。俺達は武士だ!」
 四郎兵衛は怒鳴った。
 この「城」ができる前であったなら、その辺で雑魚寝している連中が驚いて跳ね起きたろうが、今では皆、四郎兵衛の大声に慣れきって、寝返りの一つも打たない。
「あの真田の連中と俺達のどこが違うと言うんだ!? 連中は、落ちてきた源氏の傍流の滋野氏の、そのまた傍流の海野氏の、そのまたまた傍流じゃないか!」
「俺達にはたどる本流すらねぇ。先祖が解るだけ、格が違うんじゃねぇか。……大体よぉ」
 宍鍋を掛けた炉の煙が、急ごしらえの屋根から抜けてゆく。
「お前、本気で真田に楯突く気かよ? それもこの人数で」
「これだけ居れば十分だ」
「真田昌幸ってのは武田信玄入道の直弟子だ。戦上手だって言うぜ」
「戦は、やらん」
 にやり。
「な?」
「やらんでも済む」
「どういうこった?」
 次郎太はしかめっ面で聞き返した。
「徳川の本隊が来てるンだぜ。あの小城に、万の軍勢が来る。……なにが信玄の直弟子だ、戦上手が聞いて呆れる。あんな真っ平らな場所にあんなちっぽけな城を建てて。ちょいと揺すれば簡単に落ちる」
 四郎兵衛は子供じみた笑顔を、次郎太に突き付けた。
「だからよ、真田が負ける前に、徳川方に付くのさ。俺は真田の仲間じゃねぇ、って最初に触れ回っておけば、真田が負けた後に徳川が目を付けてくれる。負けてとっ捕まった奴は出世できねぇだろうが、最初から味方なら……」
「小賢しい野郎だぜ」
 次郎太は吐くように言った。
「次郎哥(あに)ぃ、その小賢しいのに、何でわざわざくっついてきた? 哥ぃも真田は負けるとふんでるンだろう?」
 四郎兵衛の酒臭い息が、熱を帯びていた。
 次郎太はかすかに笑いながら、屋根の隙間から空を見上げた。
 満天に、星が瞬いている。

>>次葉
真武外伝<<時代小説分室
ネット小説ランキングに投票